ネオキャリアの西沢亮一社長競争の激しい人材業界で外国人採用やIT(情報技術)活用にいち早く取り組み、急成長しているネオキャリア(東京・新宿)。西沢亮一社長(40)は就任したばかりの24歳で倒産の危機、さらにリーマン・ショックで人材サービス需要の急減という2つの危機を経験した。どん底からはい上がるなかで体得した経営の極意とは。
18年間、経営に携わってきた西沢氏は「外から見るとイケイケで順風満帆な会社と思われがちですが、最初は新卒社員9人で集まってつくった“おままごと”の会社だったんです。当然うまくいくはずもなく、苦労の連続でした」と振り返る。
■会社ではなく社会で価値を出したい
「実力があれば1年目から会社をつくらせてやる」
1999年、就職活動をしていた西沢氏はある投資会社の説明会で社長が放った一言にひかれた。もともと負けず嫌いで自分に自信もあり、企業のリクルーターに会うたびに「会社の中だけで働いているみたいな人ばかりでぱっとしない。社会でちゃんと価値を出して20代はとことん仕事にコミットしたい」という思いを強くしていた。
「ノミはジャンプ力がありますが、ハコの中に入れてふたをしてしばらく置いておくと、ハコの高さの分しか跳べなくなるという話があります。人間も同じで、環境に依存するんだろうなと感じていました」。若い人でも会社をつくれる、ジャンプできるという話は野心的な若者には魅力的に映り、複数の内々定を辞退して投資会社に飛び込んだ。
西沢氏が入社した00年前後はちょうどITバブル真っ盛り。社長は約束通り株主を見つけて3社から3000万円の資金を調達。新卒1年目の9人で会社がつくれるように取りはからってくれた。
株主の一社が人材派遣のフルキャストで、いわゆるホワイトカラーの人材ビジネスに乗り出したいという意向から、中途の求人広告や人材紹介などを手掛けるネオキャリアを設立したのが00年11月。22歳の西沢氏は、最初は社長ではなく取締役の一人として経営に参画した。
しかし事業開始から1年余りたった頃、ほころびが出始める。給与が遅延し始めたのだ。ふたを開けると約4000万円の最終赤字。当時の社長が初めて「実は自転車操業で、会社がつぶれそうになっている」と明かした。間もなくその社長が辞めることになった。
「正直、私は会社をつぶした方がいいと思っていました」と西沢氏。しかし他のメンバーに「もう少し頑張ろう。お前が代表になってくれないか」と社長就任を打診される。株主も営業成績で群を抜いていた西沢氏を推していたことから断り切れなくなり、02年、24歳で社長に就任した。
■創業メンバー全員の給料を凍結
24歳で赤字の会社の社長となり、立て直しに奔走した(左から3番目が西沢氏)=ネオキャリア提供オフィスの水道代も自腹で払うほどの窮状。創業メンバー全員の給与支払いを凍結し、出資者や取引先に頭を下げて回ると同時に、営業活動に奔走した。求人広告や人材紹介は大手もベンチャーも売るものは同じ。とにかく必死だった。
「今でも鮮明に覚えているんですが、ある夜、営業が終わって渋谷の事務所に戻るときにスクランブル交差点を眺めていました。これから遊びに行く人たちがわんさといるわけです。そんな人たちをかき分けて会社に戻る日々。『今に見てろよ』と思っていました」
赤字に陥った原因として「目標やビジョンがなかった」と振り返る。まずは1年半で4000万円の黒字をつくること、絶対に会社をつぶさないこと。そして「常に新しい価値を創造し続ける」という企業理念の原型と、07年までに売上高10億円を稼ぐという具体的な目標を設定した。
「西沢を社長と呼んで敬語を使おう」。社内の雰囲気も変わった。メンバーはみな同期だったが、西沢氏をトップとしてきちんとした組織にしようということを決めた。そして1年半後、すべての債務の返済を完了させ、黒字化を達成した。
この急回復の経験から、全員が同じ方向に向かうことの重要性を実感した。「基本的に衰退する事業分野ではないので、あとはどれだけ良いチームを作れるかどうかにかかっています。一人ひとりが腹落ちして理解し、共感を持って、自分ごととして行動できるかどうか。いかに一つの方向へ皆で向かっていけるかということを、今でも継続してやっています」
一難去ってまた一難。08年のリーマン・ショックの後は主力の中途採用事業の売り上げが半減する事態に見舞われた。「船を下りていく社員もたくさんいて、本当に苦しかった」
再び社員の結束を促す必要がある――。100人強の社員に会社のことを理解してもらうために、半年がかりで自分の考えや会社の歴史、ビジョンを書き出し、約400ページの本「ネオキャリアブック」としてまとめた。創業からこれまでの会社の歩みと苦労、それを通じて生まれた「理想は高く、現実は泥臭く」「知行合一」といった価値観・企業文化、「成長し続ける」という企業理念をつづった。
「成長し続ける」という理念は、大手がやらないことをやるというベンチャー精神の表れでもある。実際にこのタイミングで「危機だからこそチャンスがあるはず」と事業構造の転換を進めた。派遣業法改正で「派遣切り」が社会問題になった時期。大手が軒並み人材派遣事業を縮小したり、撤退したりするなかで、「大手がやめるなら当社は進出しよう」と人材派遣に乗り出した。
正社員の採用市場も縮小するなか、大阪や福岡など地方に拠点を展開して新卒採用分野も強化した。大きく落ち込んでいた中途市場に対し、新卒市場はそれほど減っていなかった。人材大手が弱っている間に、これまで新卒採用を積極的にやってこなかった中小・ベンチャー企業に目を付けて矢継ぎ早に開拓した。
■変わらぬベンチャー魂
売上高500億円だがベンチャー企業だと言い切る狙いはよくても、現場の社員が実行できなければ意味がない。「金曜日の夜に地方の拠点へ行って、日曜日の夜に帰ってきてまた月曜日に東京本社へ出社することもしばしばでした」と当時の激務を振り返る。
地方を回っていたのは、経験したことのない事業を担当する社員らを支えるためだった。提案書を一緒に作ったり、営業のロールプレイングをしたり、セールストークを一緒に読み返したり。不安を見せる社員に「ここが勝負どころだから、一緒に頑張ろう」と飲みながら激励した。
現場とのコミュニケーションを重視する西沢氏は12年前から今に至るまで、社員に対して「今日の一言」メールを送ることを続けている。
「社長が何を考えているのかわからない」「役員が何をしているのかわからない」。中途採用の営業を先頭切ってやっていた頃、クライアントからよく耳にした言葉が頭の中に残っている。経営がうまくいっていない会社からは概して、トップや経営陣に対する不満が聞かれた。「社長の頭の中、考えていることをトップ自身が伝えることが大事」という姿勢を貫いてきた。
現在は売上高約500億円、従業員約3千人の規模になったが、西沢氏は自社のことを人材会社ではなく「ベンチャー」だと言い続ける。「成長し続ける」という企業理念を体現するためだ。
最初は顧客に新しいサービスが喜ばれるということが単純にうれしかったが、「社会の課題を解決していけば、自分たちの会社が大きくなっていく。徐々に社会とリンクしていくようになりました」。「会社ではなく社会で価値を出していきたい」という学生時代の思いをまさに実現しようとしている。
(安田亜紀代)
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