糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
12月19日の「今日のダーリン」
・映画や舞台では、よく橋の上でなにかが起こる。
橋の上から、川を見おろしたりもよくしている。
橋の上でばったり出会うということもよくある。
橋から飛び降りるということもある。
橋が爆破されることも、それなりにけっこうある。
汽車の渡る線路を敷いた橋も、よく出てくる。
現代の場面ばかりでなく、時代劇でもよく登場する。
おそらく、これほど橋がよく出てくることについては、
さまざまな角度から、すでに知者識者たちが
さんざん語っていることだろう。
あちらとこちらをつなぐものであり、
下には渡ることのむつかしい川が流れていたりするから、
なんかそういうふうな構造を語ってみたら、
もっともらしいことも言えそうな気もする。
しかし、説明やら研究やらのことじゃなく、
ぼくが興味あるのは、映画や舞台をつくる制作者たちが、
橋をついつい描きたくなっちゃうということのほうだ。
あっちとこっちとか、出会いとか別れとか、
ついつい橋をつかって表現したくなっちゃうこと。
見え見えなのに、橋の上で出会わせたり別れさせたりが、
やめられないということのほうだ。
やっぱり、きっといいんだよ、橋は。
舞台の演出家も、映画の監督も、役者たちも、
みんな橋はいいなぁって思ってるんだろうな。
いや、演出に関わっている人たちばかりじゃないよ。
たぶん、人はだれでも橋を気にして生きているんだ。
大人がこどもに言う悪い冗談の典型が、
「おまえは、橋の下から拾ってきた子ども」だ。
ぼくの知っているかぎりではだけれど、
橋のたもとで、ほんとうに人は待ち合わせをしているよ。
大きな橋の開通式の日には、徹夜して並ぶ人びともいる。
人の一生をすごろくに喩えることが、よくあるけれど、
人生においての橋というのは、どういう状況なのだろう。
いま橋の上だな、と思うような時期はあるのだろうか。
時代の流れのなかで、橋というのはどういうものか。
ひまにまかせて、考えてみようかと思った。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
映画やドラマ、その目で見てたら、ほんとに橋は多いよー。
橋の上から、川を見おろしたりもよくしている。
橋の上でばったり出会うということもよくある。
橋から飛び降りるということもある。
橋が爆破されることも、それなりにけっこうある。
汽車の渡る線路を敷いた橋も、よく出てくる。
現代の場面ばかりでなく、時代劇でもよく登場する。
おそらく、これほど橋がよく出てくることについては、
さまざまな角度から、すでに知者識者たちが
さんざん語っていることだろう。
あちらとこちらをつなぐものであり、
下には渡ることのむつかしい川が流れていたりするから、
なんかそういうふうな構造を語ってみたら、
もっともらしいことも言えそうな気もする。
しかし、説明やら研究やらのことじゃなく、
ぼくが興味あるのは、映画や舞台をつくる制作者たちが、
橋をついつい描きたくなっちゃうということのほうだ。
あっちとこっちとか、出会いとか別れとか、
ついつい橋をつかって表現したくなっちゃうこと。
見え見えなのに、橋の上で出会わせたり別れさせたりが、
やめられないということのほうだ。
やっぱり、きっといいんだよ、橋は。
舞台の演出家も、映画の監督も、役者たちも、
みんな橋はいいなぁって思ってるんだろうな。
いや、演出に関わっている人たちばかりじゃないよ。
たぶん、人はだれでも橋を気にして生きているんだ。
大人がこどもに言う悪い冗談の典型が、
「おまえは、橋の下から拾ってきた子ども」だ。
ぼくの知っているかぎりではだけれど、
橋のたもとで、ほんとうに人は待ち合わせをしているよ。
大きな橋の開通式の日には、徹夜して並ぶ人びともいる。
人の一生をすごろくに喩えることが、よくあるけれど、
人生においての橋というのは、どういう状況なのだろう。
いま橋の上だな、と思うような時期はあるのだろうか。
時代の流れのなかで、橋というのはどういうものか。
ひまにまかせて、考えてみようかと思った。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
映画やドラマ、その目で見てたら、ほんとに橋は多いよー。