↑↑↑クリック↑↑↑《最新動画》大人のための修身入門 第13回「信義とは何か?」
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いまの学校の先生たちが、お亡くなりになったあと、生徒たちから遺徳を偲んで筆子塚を建立されるようになるでしょうか。
逆に教育者の立場からしたら、自分の死後、教え子たちから筆子塚を建ててもらえるなんて、もったいないほどありがたく、また嬉しく、そして名誉なことなのではないかと思います。
そういう教育が、昔の日本にあったということ、そしてその理由を、私たちはいまいちど思い返してみる必要があるのではないでしょうか。
上の図は何かというと、川崎喜久男さんという方が、昭和47(1972)年から平成4(1992)年まで、20年かけて調べた千葉県下の筆子塚(ふでこづか)の分布図です。
川崎さんは、これをご自身のバイクに乗って、県内の村落をくまなく調査し、なんと全部で3350基の筆子塚(上の図の点)を確認されたのだそうです。
筆子塚は、筆塚、筆子塔、筆子碑、あるいは師匠塚などともいい、多くが筆の形をした石で建てられています。
主に神社やお寺の境内などにありますが、古い旧家などでは、自宅の敷地内や門前に塚を置いているケースもあります。
筆子塚というのは、寺子屋のお師匠さんを讃えた石碑のことです。
地元の人たちを幼少期から面倒見て世話をしてくれた寺子屋のお師匠さんがお亡くなりになったとき、教え子たちが自分たちで費用を出し合って供養塔とした建てた石碑が筆子塚なのです。
富津市新井の了専寺にある筆子塚
(下の部分に筆子中とある)

寺子屋というと、時代劇などのイメージで、なにやら書道とむつかしくてわけのわからない漢文の素読ばかりやらされていた、といったイメージを持つ方がおいでになりますが、実態は違います。
子供達は5~6歳になると、寺子屋に通うようになるのですが、寺子屋によって多少の違いはあるものの、最初に教えられるのは、行儀作法と、数字です。
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https://www.mag2.com/m/0001335031.html 入学した子供達は、はじめに師匠を敬うこと、先輩を尊敬すること、朝の挨拶、夕べの挨拶、食事時の作法など、基本的な行儀作法を教わります。
そのうえで筆を持り、「いろは」ではなく、数字から習いはじめます。
これは理にかなっていて、数字なら「一、二、三」の横棒の書き方から、「四」になると「止め」が出てきて、「五」は縦の線引き方、「八」で払いも学べるわけです。
「九(く)」になると、横縦、払いの組み合わせになって、なかなか字の形を取るのに難儀しますから、九=苦で、これをマスターすると、完成形としての「十」を学びます。
「十」と書いて「じゅう」と読みますが、「じゅう」は「充」であり、「十九」と書いて「とく」と読みます。
つまり九(く・苦)を通り越すと、充足して「とく(徳)」が生まれる。
徳というのは、美しい心で、だから何事においても苦しみや大変なこと(九)はあるけれど、それを乗り越えることで充足(十)し、十九(徳)が生まれるのだと教わります。
数字を習ったら、次は計算です。
足し算、引き算だけでなく、八算(掛け算のこと)、見一(けんいち=割り算のこと)も習います。
学年が進むとそろばんも教わる。
続いて習うのが「名頭(ながしら)」です。
同じ寺子屋に通う子供達や師匠などが持つ、それぞれの名字について、互いにその名字を覚えたり読み書きできるようになるだけでなく、それぞれの名字ごとの家系のいわれを学びました。
戦後の一時期には「江戸時代の農民は百姓と呼ばれ、姓を持たなかった」などと教科書に書かれたりもしたものですが、日本全国、誰にも名字(姓氏)はありました。
「苗字帯刀を許さなかった」とも言いますが、いまの住民登録に該当するお寺などの宗旨人別帳(檀家帳)への記述には「○○村 戸主・嘉兵衛、妻・とよ」のように記載されましたが、だからといって姓がなくなったわけではなく、どの家もご先祖から続く姓を持っていました。
また、百姓という用語も、昨今では差別用語であるような言い方がされますが、これまた全然違っていて、百というのは文武百官という言うように「たくさん」という意味です。
つまり百姓というのは、「たくさん(百)の姓」を意味する単語ですから、姓がなければ「たくさん(百)の姓」を意味する「百姓」という言葉はないわけで、その意味からも「百姓は姓を持たなかった」というのは、それ自体が矛盾した説ということができます。
さて、次に学ぶのが「方角」です。
これは後に「地理」と名を変えますが、寺子屋を中心にして、その周囲にある町名や橋や道路が書いてある地図を使って、方位や、それぞれの地名や橋、道路などにまつわる沿革や由来(歴史)を学びます。
どんな地名にも、橋や道路にも、それぞれに由来があります。
人は知れば知るほど、その対象を好きになりますから、それぞれの名称の由来を知ることで、地域社会への愛を育んだわけです。
さらに学年が進むと、手紙などの書き方や書き方の作法を通じて季節を学び、さらにビジネス文書の書き方や、仕事や商売をするうえでの心構えも教わりました。
また、学年が進むと男女の教室が別になり、女子には口上文、文の書き方、仮名交じり文、女江戸方角、女消息往来、女商売往来などの講義が行われました。
平仮名は漢字の草書体から生まれた字で、漢字との相性も良く、書き上がった文書も、女性らしい柔らかな見栄えの良い文章になります。
そうした文を使って、女性らしさや、行儀作法、和歌などが教えられました。
男子は漢文で、カナはカタカナです。
漢字はもともと神代文字が組み合わさって出来た文字(これを会意文字といいます)です。
神代文字は、一字一音で、一音ごとに意味があり、霊性があるとされていました。
ですから男子は霊統を守るという意味から、神代文字であるカナ文字を用いて文を読み書きするものとされていたわけです。
ちなみにカタカナは、戦後教育の中にあって漢字から派生した文字とされましたが、カナと漢字の対比表をみても、どうみてもこじつけでしかありません。
そもそも漢字からカナが生まれたというけれど、漢字の音は、母音子音合わせて36音しかありません。
これに対し日本語は50音あります。
そういえばまたまた脱線ですが、ハヒフヘホは、江戸時代には唇音(しんおん)といって、『唇を近づけて「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と発音されていたようです。つまり、腹が減った」は「ファラガフェッタ」となるわけで、昔の人が話す日本語を現代の人が聞いたら、とても奇妙に感じるかもしれませんね。』(*1)
(*1)『』内は、http://worldsecrets.webcrow.jp/column21.html からの引用です。
話を戻します。
寺子屋では、こうした基礎教育を教えると同時に、入学早々から実語教(じつごきょう)、童子教(どうじきょう)を口誦しました。
また学年が進むと、三字経、四書五経なども用いられました。
なかでも江戸時代に広く用いられた童子教では、その冒頭で、
1 夫貴人前居 夫(そ)れ貴人の前に居ては
2 顕露不得立 顕露に立つことを得ざれ
3 遇道路跪過 道路に遇ふては跪(ひざまづ)いて過ぎよ
4 有召事敬承 召す事有らば敬つて承れ
5 両手当胸向 両手を胸に当てて向へ
6 慎不顧左右 慎みて左右を顧みざれ
7 不問者不答 問はずんば答へず
8 有仰者謹聞 仰せ有らば謹しんで聞け
と教わり、その少し後には、
111 畜悪弟子者 悪しき弟子を畜(やしな)へば
112 師弟堕地獄 師弟地獄に堕(を)ち
113 養善弟子者 善き弟子を養へば
114 師弟到仏果 師弟仏果に到る
115 不順教弟子 教へに順(したが)はざる弟子は
116 早可返父母 早く父母に返すべし
117 不和者擬冤 不和なる者を冤(なだ)めんと擬(ぎ)すれば
118 成怨敵加害 怨敵(おんてき)と成つて害を加ふ
119 順悪人不避 悪人に順(したが)ひて避(さ)けざれば
120 緤犬如廻柱 緤(つな)げる犬の柱を廻(めぐ)るが如し
と教わりました。
要するに、いきなり師匠を敬うことを、原点として教わり、その師匠の言うことを聞かないような弟子(昔は生徒のことを弟子(でし)といいました)は、さっさと父母のもとに返してしまえ、と繰り返し何度も教えられてきたわけです。
そうしなければ「師弟ともに地獄に堕ちる」というのですからたいへんです。
戦後日本の教育は「義務教育」とされて、全児童が小学校で学ぶことが国民の義務とされるようになりましたが、実は教育の荒廃はここから始まっているともいえます。
なぜなら、生徒には、飛び切り優秀な生徒もいれば、残念な生徒もいるものです。
ろくでなしの首は、早く切らなければ、全体が足を引っ張られます。
いまの学校では、そうしたろくでなしにあまにりも手を取られすぎて、普通の子や優秀な子にはモノ足らず、ろくでなしにとっては邪魔くさいだけの学校に成り下がってしまっています。
個人的な所感ですが、江戸時代の初等中等教育が、すべて民間の寺子屋マターとなっていた最大の理由がここにあるのではないでしょうか。
公的教育機関では、生徒をなかなか首にできないのです。
けれど民営なら、「当校の学風に合わない」という理由で、いつにても生徒を放校できる。
その緊張感が、学びの場には絶対に必要なのです。
ちなみに、では放校となったろくでなしはどのように教育するのかと言うと、それらの面倒を見たのが、地元の親分さんや、ろくでなしばかりを集めた私塾がありました。
地廻りの親分さんのところでは、徹底的なシゴキがありましたし、親分さんのところで三下(さんした)になれば、生死の保証はありません。
私塾の方はというと、その伝統を受け継いだ明治の有名校に「にんじん畑」と呼ばれた「興志塾」があります。
ここは頭山満翁などを生んだ私塾で、全寮制で全国から、普通の寺子屋でははみ出してしまうろくでなしを集めて、徹底した男子教育を行った、まさに「男塾」です。
そしてここから、むしろ多くの名士と呼ばれる大人物が多数排出されています。
興志塾もそうですが、すべての寺子屋は官製学校ではなく、私塾です。
そして私塾であることで、塾として生き残れるかどうかは、そこの卒業生が、どのような人物に育ったのかに集約されます。
上司の言うことを聞かない、仕事をさぼってばかりいる等々、そのような生徒しか輩出できない寺子屋は、早晩、つぶれて失くなってしまうのです。
逆に長く続いている寺子屋は、生徒たちにとって、先生は単に寺子屋の師匠というだけでなく、生涯の師匠となりました。
なぜそうなるのかといえば、寺子屋教育で男女とも共通しているのは、単に知識偏重の教育がされるのではなく、人としての在り方や生き方、道徳などが教育の要をなしていたからです。
また、いまの教育制度との大きな違いのひとつに、ひとつの教室に、上級生と下級生が同居していたということも挙げられます。
小学校のうちに、すでに先輩として下級生を教える役目を経験するのです。
そして人は、教わるより教えるときの方が、多くの学びを得るものです。
寺子屋において重要視されたもののひとつに、素読があります。
素読というと、なんだか難解なお経のような漢文を、ただひたすらに声を揃えて音読させられるものだといったイメージがありますが、特に小学校の低学年のうちは、物覚えが良いものです。
その物覚えが良いときに、一生の宝となる良い文を、音読して丸暗記してしまう。
そのときには意味がわからなくても、一生をかけて、その意味を問い続けることによって、人はより人間らしく生きれるようになるのではないかと思います。
小学1年生で、
「さいた、さいた、さくらがさいた」
という文を暗唱して一生の記憶にすることと、
山高故不貴 (山高きが故に貴(たつと)からず)
以有樹為貴 (樹(き)有るを以て貴しとす)
人肥故不貴 (人肥へたるが故に貴からず)
以有智為貴 (智有るを以て貴しとす)
と暗唱して生涯の宝とすることと、どちらが人生の役に立つのか。
そういう意味において、江戸時代の教育は、実に的を得た教育であったように思えます。
こうした童子教、実語教、三字経、四書五経などの教科書についても、ひとこと添えておきます。
教科書は、全生徒に配布されましたが、その教科書は印刷物ではなく、全部、上級生の先輩が筆写したものであったのだそうです。
筆写して、和綴じして製本して、後輩に分ける。
その筆写ですが、とてもいまでいう小中学生が書いたとは思えないほど、実に上手な立派な字で書かれています。
特攻隊の皆様の遺書なども、実に見事な字で書かれていますが、江戸時代には、もっとすごかった・・・といえるのかもしれません。
いまの自分が恥ずかしい限りです。
また、素読に際して常に要求されたことが、「常に姿勢を正すこと」でした。
正座をして、背筋を伸ばしたとき、天の気と自分の気が、首の付根から背筋にかけての筋で一直線につながるのだそうです。
そういうことの大切さは、歳を重ねると自然と理解できるようになるものです。
寺子屋で教える教師(師匠)については、明治初期に東京府が小学校整備のため実施した寺子屋の調査書があります。
そこに寺子屋の教師(師匠)726名分の旧身分が記録されているのですが、ほぼすべてが平民(町人)の出身です。
これは別段驚くことではなくて、東京府の人口構成は、町民が93%を占めていましたから当然の結果です。
そして女性の師匠も86名記載されています。
寺子屋の学費ですが、これはいまどきの学習塾や学校のように、定額のお金を納付するというものではなく、多くの場合、生徒の親たちが、米や野菜、ときたまお金などで納付していました。
最低基準はありましたが、定額でいくら、といったものではなくて、たくさん払える人はたくさんに、そうでない人はそれなりに、といったものでした。
これには理由があって、江戸時代の人々の普通の考え方として、人にモノを施せば、それは必ず自分に返ってくると考えられていたことによります。
お金も富も、お風呂のお湯と同じで、ジャブジャブと自分の方に掛け入れようとしても、お湯は逃げていってしまう。
反対に、向こうに押しやっても、ちゃんと自分のところに戻ってくる。
この教育のために、徳のある師匠に施行(せぎょう)すれば、その分、徳となって自分に返ってくると考えられていたのです。
これは「とく」についての考え方の違いで、現代社会では、世界中どこでも「とく」は損得の「得」ですが、日本人にとっての「とく」は「徳」で、「徳」とはひとことで言い換えれば「美しさ」のことを言いました。
つまり美徳を施行すれば、それはそのまま自分の美徳となって還ってくるというわけです。
考えてみれば、そうした徳のある師匠のもとに、そうして資金が集まれば、寺子屋は発展してもっと大きな私塾になる。
するとその私塾からの徳のある卒業生が増える。
増えた徳のある卒業生が世の中の中心となれば、世の中そのものが住みやすい徳のある世の中になる。
まさにそのような社会が営まれたのが、江戸時代であったし、日本社会の源流であったわけです。
こうして育てられ、教わった様々なことを、社会人として活かして生きた卒業生の大人たちが、その師匠がお亡くなりになったときに、師匠への感謝を込めて建てたのが「筆子塚」であったわけです。
そうした塚が、千葉県だけで3350基、全国でいったら、どれほどの数があるのかしれない。
おかげで日本人の教育レベルは、極端に高く、たとえば江戸時代の識字率は一説によれば97%です。
この数字は、同時代の世界を見渡しても類例がないほど格段に高いものです。
また当時は活字ではなく、崩した筆字の時代です。
江戸時代の識字率でいえば、現代日本人の識字率は限りなくゼロに近いものです。
幕末に黒船でやってきたペリーは「日本遠征記」の中で、次のように書いています。
「(日本では)読み書きが普及していて、
見聞を得ることに熱心である」
そしてペリーは、日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いたと書いています。
また、万延元(1860)年に来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)も「航海記」で、
「子供の就学年齢はおそく7歳か8歳だが、
彼らはそれだけますます迅速に学習する。
民衆の学校教育は中国よりも普及している。
中国では民衆の中でほとんどの場合
男子だけが就学しているのと違い、
日本ではたしかに学校といっても
中国同様私立校しかないものの、
女子も学んでいる。
日本では、召使い女がたがいに親しい友達に
手紙を書くために余暇を利用し、
ボロをまとった肉体労働者でも
読み書きができることで、
われわれを驚かす。
民衆教育について
われわれが観察したところによれば、
読み書きが全然できない文盲は、
全体の1%にすぎない。
世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」と書いています。
文久元(1861)年に函館のロシア領事館付主任司祭として来日したロシア正教会の宣教師ニコライは、日本に8年間滞在し、帰国後、日本について雑誌「ロシア報知」に次のように寄稿しました。
「(日本では)国民の全階層に
ほとんど同程度に
むらなく教育がゆきわたっている。
この国では孔子が学問知識の
アルファかオメガであるということになっている。
だがその孔子は、学問のある日本人は
一字一句まで暗記しているものなのであり、
最も身分の低い庶民でさえ、
かなりよく知っているのである。
(中略)
どんな辺鄙な寒村へ行っても、
頼朝、義経、楠正成等々の
歴史上の人物を知らなかったり、
江戸や都その他のおもだった土地が
自分の村の北の方角にあるのか
西の方角にあるのか知らないような、
それほどの無知な者に出会うことはない。
(中略)
読み書きができて
本を読む人間の数においては、
日本はヨーロッパ西部諸国の
どの国にもひけをとらない。
日本人は文字を習うに真に熱心である」
ついでにもうひとつ。
慶応元(1865)年に来日したドイツのシュリーマン(トロイアの遺跡発掘で有名)は、日本の印象として、
「教育はヨーロッパの
文明国家以上に行き渡っている。
Chinaを含めてアジアの他の国では
女たちが完全な無知の中に
放置されているのに対して、
日本では、
男も女もみな仮名と漢字で
読み書きができる」
寺子屋の実力たるや恐るべしです。
明治41(1908)年に、日本人781人が初のブラジル移民をしたのだけれど、同年6月25日のコレイオ・パウリスターノというブラジルの新聞は、日本人の識字率の高さについて、次のように書き記しています。
「移民781名中、
読み書きできる者532名あり。
総数の6割8分を示し、
249名は無学だと称するが、
全く文字を解せぬというのではなく、
多少の読書力を持っているので、
結局真の文盲者は1割にも達していない」
そして、なにやら読み書き識字のことばかりが評価されていますが、江戸から明治、大正、昭和初期までの日本人の暗算能力は、世界でみてもずば抜けて高かったそうです。
そしていちばん大きいのは、さきほどのブラジルの新聞のコレイオ・パウリスターノの記載ですが、そこには「日本人の驚くべき清潔さと、規律正しさ、物を盗まないこと」などが、実に驚くべきこととして書かれています。
古来、日本の教育は、単に知識を詰め込むのではなく、知識を経由して「人格教育」が行われていきたのです。
だからこそ、寺子屋の教師は、先生ではなく「師匠」でした。
戦後の教育は、日本人の精神性の破壊を企図したGHQと、その影響下でできあがった日教組教育によって、教育といえば知識偏重教育に偏り、いまでは道徳などは劣後的な扱いになっています。
けれど、知識人というのは、本来は人の模範となる人のことを言うのだと思います。
いまユネスコが世界寺子屋運動をいう活動をしています。
現代社会においても、いま、世界で、学校に通えない子供が約6700万人、読み書きのできない大人が、約8億人います。
そうした人々に、寺子屋を作り、教育の場を提供しようという運動です。
発展途上国においては、読み書きや計算ができない、注意事項やマニュアルが読めないということは、日雇いなど過酷な労働条件の仕事にしかありつけないということを意味します。
けれどそうした仕事は、季節や天候、雇用者側の都合で左右され、安定した収入がありません。
基礎的な教育がなければ、労働者としての権利や、賃金や労働条件もわからないし、わからないから騙されるし、収入も安定しないのです。
だから、貧困が国を覆い、結果、社会風土が殺伐となり、内乱や戦乱が相次ぎます。
そうした現状をなんとかしようと、開始されたのがこの寺子屋運動です。
このことについて、ユネスコのホームページに、次の記載がありました。
~~~~~~~~~~~
【世界が抱える教育問題】
http://www.unesco.or.jp/terakoya/issue/
ネパールに住むタラマティ・ハリジャンは46歳。
たった12歳で結婚し、わずか16歳で出産した。
学校にも通えず、ただ家事をこなすだけだった。
寺子屋に通い、
41歳ではじめて
文字の読み書きができるようになると、
彼女は女性の権利を守る活動に参加するようになる。
自分と同じような境遇の女性を
ひとりでも救いたい、
そんな想いで。
寺子屋が変えた人生が、
他の誰かの人生を変えて行く。
ネパールでは、
いまだ44%の女性が非識字者である。
~~~~~~~~~~~
読み書きができる、ということは、とても大切なことだと思います。
社会が成長するためには、その基礎として、人々が読み書き、計算がちゃんとできることが必要だからです。
けれど、それだけでは画竜点青を欠くのです。
人の道があって、はじめて社会は高度に成長するのです。
戦後の日本がいい例です。
戦前の徳育教育を受けた世代が社会の中核をなしている間、まるで焼け野原だった日本は、あれよあれよと言う間に、ぐんぐんと成長し、ついには世界第二位の経済大国にまでなりました。
ところが、戦後世代が社会の中核をなすようになった昭和60年代以降(終戦から35年が経過し、社会が戦後世代に完全に受け継がれた)、日本の成長はまるで急ブレーキをかけたかのように止まり、いまでは、日本はどんどんと貧しい国になっていこうとしています。
そればかりか、子供達の教育レベルの低さは、いまや目を覆わんばかりです。
日本では、すでに平安時代中期には「村邑小学」という名の民間教育機関の記録が残っています。
律令国家の形成にあたっても、やはり中核をなしたのは、国民の教育だったのです。
万葉集にも、一般庶民の和歌がたくさん掲載されています。
思うのですが、いまの学校の先生たちが、お亡くなりになったあと、生徒たちから遺徳を偲んで筆子塚を建立されるようになるでしょうか。
逆に教育者の立場からしたら、自分の死後、教え子たちから筆子塚を建ててもらえるなんて、もったいないほどありがたく、また嬉しく、そして名誉なことなのではないかと思います。
そういう教育が、昔の日本にあったということ、そしてその理由を、私たちはいまいちど思い返してみる必要があるのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。※この記事は2011年12月の記事を大幅にリニューアルしたものです。

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l ホーム l 常在戦場と米百俵 小林虎三郎 »
生前退位についてはいろいろ議論があったが、陛下の年齢を考えれば喜ばしいことではないかと思っています。
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昭和64年が平成元年になったのです。
同じ年に元号が二つあると頭が混乱します。
貴方の誕生はいつですかと問われ、昭和64年と答える人もいれば平成元年と答える人もいるかも知れません。
コンピューターが普及していなかった昔なら元号の変更は暦を変えれば済み、公文書も手書きだったから即応できました。
しかし、コンピューターや電子技術が発達した今日では元号の変更は容易ではありません。拙速な対応はトラブルが発生し、混乱を招きかねません。
皇室典範は法律ではないのだから、新しい元号は新天皇誕生後に発表し、実施日は翌年の1月1日にすれば混乱を招くことがなく、国民生活に影響を与えることが少ないのではないかと考えます。
12月31日に崩御したらどうするのかといった臍曲がりがいるかもしれないが、その時はまた、臨機応変で良いのではないでしょうか。