存在という認識について

目の前に、たしかに物理的に存在している、という言明の不確かさを、人間はもう知っている。
人間が持っている意識が認識している世界は、当然、人間が生まれ落ちた世界の、いわば風景によって著しく制限されたもので、例えば時間ひとつとっても人間が知っている時間は始点があって一直線に流れているという前提で出来ていて、例えば「宇宙の始まり」というが、もし自分達が住んでいる世界が3次元的な宇宙で、しかもそこに時間が始点から無限に遠い終点をめざしてリニアに流れているのならば、次元として時間がない宇宙が存在して、その宇宙では、そもそも過去を振り返ることができない。

実際、きみやぼくが住んでいる宇宙には奇妙なことが、たくさんある。
例えば天文学がすすめばすすむほど宇宙は見渡す限り同じような構成で、光の速度で一万年飛んでも二万年飛んでも、と吝嗇なことを言わずに、現実にあわせて900億年飛んでみたところで、どうやら、宇宙が構造的にまったく異なる部分を持っているようにはおもえなくなっている。

少しでも正気の人間ならば、そんなことがありうるだろうか?と思わないわけはない。
宇宙全体が同じような構成ならば、つまり、宇宙は時間の初めには極小の体積で、それが急速に膨張して拡散したことになるだろう。
しかも、初めは爆発的に急激に膨張して、やがてゆっくりと広がるという広がりかたをしたことになる。

ところで、そんな絶妙な加速度の調整が自然に行われたと考えることは、たいへんに不自然なのは、爆発エネルギーの代わりに、より人間にとっては直観的に判りやすい位置エネルギーを考えて、高いところにある物体が坂の上にあるところをおもいうかべて、そのあと宇宙が広がったように坂を転がるところを思い浮かべるだけで、「そんなことが自然に起きるわけはない」と笑いだしたくなるに決まっている。

もちろん、それだけではない。
冒頭に述べた「たしかに物理的に存在している」という言明は、自分の意識が、生まれてからいままで、ただひとつ知っている物質の存在の仕方によって存在している、と述べているだけで、ほんとうは、なにひとつ確定的なことを述べているわけではないのは、いまの世界は大学生はもちろん、少し自分で勉強する習慣がある若い人間ならば高校生でも常識として知っている。

量子論では測定されるまで、特定粒子の存在する場所は確定していない。
出かける前に財布をどこに置いたか忘れてしまった人は、昨夜の自分の行動を思い出していって、ああ、そうだ、昨日は酔っ払って、帰って来てラウンジのカウチでまず横になったのだと思い出して、カウチのクッションとクッションのあいだに挟まるように半分姿を隠していた財布を見つけ出す。

このとき、日常生活の感覚では、当然、財布はもとから、というのはつまり昨夜来そこにあったから、探すことによって見つかった、と考える。

ところが、量子論を学んだことのない人は自分で理屈を学ぶのが最も良いが、量子的な世界においては、探しはじめるまでは、財布は至るところに同時に存在していて、探すことによって、財布のありかが一箇所に定まる、と考えるのでないと理屈があわなくなってしまう。

そんなバカな、と考えるのは、人間が人間社会の大きさと行動の範囲という言わば特殊な空間と時間を生きてきたからで、仮に量子的世界を生きてきた意識というものが存在すれば、探す前から財布が一箇所に定まって鎮座している人間の世界のほうが、よほどヘンだとおもうだろう。

そういう、ハードコアな、最も基底的な問題に加えて、人間が思考に用いる言語からくる制約という問題がある。

あんまり手を広げると気が遠くなるだけなので、身近な太陽系に例をとる。
2006年に、かつては「太陽から最も遠い惑星」ということになっていた冥王星が、「あんなん、小さすぎて、惑星に分類しておくのは、あかんのちゃうの?」ということになって、準惑星ということになって、いわば惑星としてマイナーリーグ落ちになったことを憶えているひとは多いとおもう。
ところで、天体としてはごくごく内輪の親密なサークルである太陽系で、この太陽から、太陽のまわりを、長い時間をかけて、ぐるりいいいいいーんと一周してくる冥王星まで、どのくらいの距離があるかというと、よく使われる例でいえば、太陽が日本橋の欄干に載っている1メートルの球体だとして、冥王星は西ならば神戸を越えて加古川の向こう、北ならば盛岡市くらいにあることになる。
ついでにいうと太陽は直径で言って地球の100倍以上あるので、この欄干に載っている太陽の横に地球をもってくると、直径1cmもない飴っこのようなものになってしまう。

夜空に無数に見えている星の大半は恒星だが、地球から最も近いので有名な恒星のプロキシマは、地球を直径1mの球体と考えると、300万キロメートルほどの距離の向こうにあって、これがいわば太陽系にとっての「お隣り」です。

これ以上つづけていると、なんだか子供の夏休みの宿題向けのプラネタリウム解説のようになってしまうので、いいかげんに止すが、なにが言いたいのかというと、自然言語では「お隣り」を説明する時点で、すでに「300万キロメートル」という人間がもちうるイメージとして破綻した表現がでてきてしまうことで、実際、どんな言語でも人間がイメージをもちうるのは、せいぜい水平線や積雲くらいまでで、それ以上の距離があるものは、数学上の数式のほうが現実的なイメージをもちやすい。

人間がまがりなりにも宇宙について考えられる所以は数学という言語を獲得したからです。
おかげで、自然言語で、考えているうちに「神様」になって、もう少しいくと神さまも届かなくなって「むにゃむにゃ」になってしまうところが、なんとかイメージを維持できるようになった。
量子的な存在の仕方や、n次元(n>4)の空間のありかたがイメージできるのは、ひとえに数学という言語の能力によっている。

もっと簡単にいえば自然言語が「生活」という空間の内部だけを説明できる言語であるのに較べて、数学は「自然」空間の「生活」に較べれば遙かにおおきな空間や性質が異なる空間を説明できる。

ところが、嫌なことをいうと、数学にもイメージの限界があるのは、数学を多少でも勉強すれば直ぐにわかって、例えば世の中にはストリング理論という、なああああんだか世界の根源を説明してくれそうな顔つきの考えがあって、日本の人にも関係があるので余計なことを書いておくと、ノーベル賞をとった日系アメリカ人で、日本政府がいつものがめつさで日本人受賞者に数えようとして、あっさり「いえ、わたしはアメリカ人ですから」と言われてしまった南部陽一郎という人は、このストリング理論という、いやああな理論の大立て者です。

このストリング理論を勉強していて、たいていのひとに判ることがふたつあると言われていて、
ひとつは自分は頭があんまりよくないようだという厳粛な事実で、もうひとつは、
どうやら数学という言語の限界はこの辺りにあるようだ、ということだと申し伝えられている。

どうやら自然言語の外側には自然言語を使ってしか宇宙を考えられない人間存在にとっては神様が微笑んでいて、そのまわりを天使がラッパを吹き鳴らしながら飛び回っている「絶対」の世界があるように、ストリング理論の外側には、さらに巨大な理論が囲繞していて、それをM理論と名付けたりしているが、そのあたりにまで来ると、数学では思考がとどかなくなってしまうもののよーである。

人間は思考をつみかさねて、すすめて、だんだん自分の思考の欠陥を意識するに至って、さまざまな「わざ」を工夫していった。
たとえば芸術がそれで、プラトンはごく原始的なそれをイデアと呼んだりしたが、人間が音楽や絵画や幾何でなにごとかに夢中になっていると、ときどき、天上から降ってきたとしかおもわれない快感というか法悦に包まれることがあって、それを感覚するためには絵画ならば美術上の文学ならば言語上の訓練が必要だが、正しい訓練を重ねて、いわば正見や正語、正感覚を獲得して、おもいがけずたどりつく地点がある。

そんなおおげさなことでなくても、あるいは、なんだか急に矮小な「せこい」例を出して、ごめんね、だけど、4次元をイメージしにくい人が、n次元をn-1次元おとすという例の騙し手をおもいだして、宇宙がたくさんあるという仮定を考えるときに、宇宙と宇宙が衝突するモデルを考える代わりに、表面がちょっとボコボコした2次元の宇宙がぶつかって、その衝撃点をビッグバンとして推論をすすめる。

あるいは自分達が住む3次元的な広がりをもつ世界を考えるために、2次元人を考えて、世界観の矛盾を導き出す。

なにしろ語彙が500くらいしかない人が人間世界と地球上の自然を説明しようとしているようなものなので、不自由どころではなくて、神様からみると、ひっくり返って、長衣の裾をバタバタさせて、ちらっと足のあいだからヘンなものが見えそうなくらいジタバタして大笑いするような涙ぐましい努力で、人間はここまで自分の存在を懸命に説明しようとしてきた。

そう。
いまになってみれば、途中からは不可能だと知っていた努力を続けてきたのだと思います。

量子的世界から類推しても、どうやら無限にあるらしい存在の様式のうち、たったひとつしか十分に説明できない言語をつかって、数千年という(人間にとっては)長い時間を考え抜いて、つまりは、自分のことひとつ理解できない。

自分の目の前にある、この「現実」が、はたして伝統的に信じられてきた実質をもつ現実なのか、誰かが、あるいはなにかがプログラムした幻影なのかすら判然としてない。

もっとひどいことをいうと、実は、人間の立場から見える、たくさんの宇宙などというものはなくて、ほんとうは主幹の宇宙は虚数でできていて、なにかの間違いで実数側に、いってみれば「おでき」のように生じてしまった、ごくごく出来が悪くて普遍性のない特殊な宇宙に人間は生じてしまったのではないかと疑うと、どんどん、そうおもえてしまうたくさんの痕跡が数学という言語にはある。

孔子は、いかにも古代の人の気楽さで、

未知生、焉知死

未だに生を知らないのに、死が理解できるわけがない、と述べたが、
こちらは現代の人間なので、生ってなに? 死ってあるの?
そもそも生死といって、時間ってほんとに意識と無関係に流れてるの?

で、三流のコメディアンのような疑問の堂々巡りから抜け出られさえしない。

いったい、きみは、なにを言っているの?
クリスマスのチョコとケーキを、いっぺんに血糖値が上昇して、頭がおかしくなっちゃったんじゃない?
と、きみは言うかもしれないが、人間くらい本質的にバカで、使う言語もボロなら、頭蓋にしまわれている器官もボロで、最低限知性と呼びうるものから見れば、虫さんか、バクテイリアなみの知的能力で、それでも考える事をやめられないのだから、仕方がないではないか。

なんだか、がっかりして、椅子にこしかけてぼんやりしていると、モニさんが部屋にはいってきて、「ガメ、元気がないな。紅茶でも飲むか?」という。

それだけを頼りにいまを生きているのだなあ、とおもいます。
手のひらで、愛する人の頬にふれて、一生懸命感覚を集中して、そっと撫でると、
それだけが宇宙に拮抗する「たしからしさ」であるような気がするのは、きっと、ぼくだけではないはずで、人間は、けっきょく、そこに帰っていくしかないのかも知れません。

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