中国の「改革開放政策」を主導したトウ小平氏は、力による「覇権」反対を唱えました。トウ氏の“遺訓”は今の指導部にどう響いているのでしょうか。
中国が改革開放路線にかじを切ったのは四十年前の一九七八年でした。毛沢東時代の社会主義的な計画経済の仕組みを打ち破り、市場経済への転換を実現しました。
その影響は経済だけにとどまらず、政治や社会の分野にも自由な風を吹き込み、中国は国際社会に目を向け始めました。
◆「政治改革」語られず
改革開放は確かに目覚ましい成果を上げたと言えます。七八年に三千六百七十八億元(約六兆一千四百億円)だった中国の国内総生産(GDP)は四十年間で二百倍余に膨れ上がり、二〇一〇年にはGDPで日本を抜き去り、世界第二位の経済大国に躍り出ました。
しかし、よく目を凝らすと、胡錦濤前国家主席の時代に兆しのあった「政治改革」を語る社会の雰囲気が、今はすっかり影を潜めてしまっています。
それどころか、中国全土を覆いつくすのは、習近平国家主席(党総書記)の、国内での「強権路線」と対外的な「強国路線」です。
習氏は「共産党中央は大脳、中枢である。最高の権威を持たなくてはならない」と述べ、一党支配に異議をさしはさむことなど論外という姿勢です。
十一月には重慶市の新政策が市民に衝撃を与えました。同市が来年の大学入試から「政治審査」に不合格の受験生は入試を受けられないとの方針を決めたと、地元紙が報道しました。
「政治審査」は毛沢東が一九六六年に発動した権力闘争の「文化大革命」のさなか、政敵の「右派分子」をあぶり出すため、共産党の指導に忠実かどうかなどを職場や学校で調査したものです。
上海の大学教授は「こんな政策が打ち出されるのは文革時代への逆行だ」と強く批判します。ネット上にも市民の不満があふれ、市当局は「誤解を生んだ」と謝罪に追い込まれました。
新方針が市の勇み足なのか不十分な報道だったのか不明ですが、「強い共産党統治」を訴える習氏の政治姿勢に地方幹部が戦々恐々とし、忠誠を尽くすよう忖度が働いているように映ります。
対外的には、南シナ海での一方的な実効支配強化など、中国の力による「覇権主義」的なふるまいが気がかりです。
◆40年前の予言的反対論
改革開放を主導したトウ氏が一方で、「覇権」については四十年前に予言的な反対論を展開していることに注目したいと思います。
七八年夏に日中平和友好条約締結のために訪中した園田直外相とトウ氏は北京で会談し、当時はソ連を念頭に置いた「覇権反対」について意見を交わしました。
園田氏は「中国も近代化を進め繁栄して強国になっても、覇権を求めないことを実証してほしい」と要求。トウ氏は「中国は再三覇権を求めないことを表明している。(中略)この考えが変わるようなことがあれば、すべての国が中国に反対しても構わない」と応じたのです。
経済発展して大国となっても「覇権」を求めないというのは、トウ氏の遺訓であったとも言えそうです。その考えの延長線上に、能力を隠し力を蓄える「韜光養晦(とうこうようかい)」の外交路線があったのでしょう。
米中貿易摩擦が激化したのは、中国がサイバー(電脳)攻撃や技術移転の強要などで知的財産を不正に得て、軍事や技術面での覇権を奪おうとしているとの米国の懸念がその根底にあるでしょう。
伝統的な軍事面でのあつれきより、先進的な分野での覇権争いに焦点が移りつつあります。確かに、軍事に直結する人工知能(AI)や次世代通信規格「5G」などの先端技術で中国の進歩は目覚ましく、焦る米国の要請でカナダが「華為(ファーウェイ)技術」最高財務責任者の逮捕に踏み切ったといえます。
ただ、一党支配で人権保護の意識が薄い中国だからこそ、個人情報収集が容易で、民間企業が集積したデータであっても、政府や党の手に渡るとみるのは国際社会の共通した認識でしょう。
◆「強権」と「強国」戒めよ
トウ氏の「韜光養晦」も「反覇権」も貧しい中国が豊かになるまでの一時的な低姿勢戦略だったと深読みもできます。それでも、各国がルールを守る国際秩序と地域の安定が、中国発展の支えになったことは否定できません。
今や、中国は世界の大国になりました。「韜光養晦」をかなぐり捨てたかのように「中国モデル」を求める習政権ですが、トウ氏の「遺訓」をしっかり胸に刻み、自国本位の「強権」「強国」路線を戒めてほしいものです。
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