靖国神社

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靖国神社で抗議活動

 靖国神社の門の前で紙に火をつけた中国人男女が12日、逮捕された。「南京事件」への抗議が目的て、「南京事件を忘れるな」といった横断幕を掲げていたという。その抗議の熱量は相当なものであるが、彼らが日本政府の見解を知っているのかははなはだ怪しい。
 こうした中国人をはじめとする日本に対して批判的な人たちは、「日本は南京事件を認めていない」と主張しがちだが、これは完全な間違い。
 外務省のホームページには、次のような正式見解が記されている。

「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が、一貫して持ち続けてきたものです。そうした気持ちが、戦後50年に当たり、村山談話で表明され、さらに、戦後60年を機に出された小泉談話においても、そのお詫びの気持ちは、引き継がれてきました」

靖国神社

 この見解は、彼らが勝手に極右扱いする現政権でも引き継がれている。誰も「忘れ」てはいないのである。もちろん日本国民の中にはそもそも知らない、興味がない、忘れたい、という人もいることだろうが、中国と異なり、個々の国民の思想を縛ることはできないから、文句を言われても仕方がない。

日本は「無条件降伏」していない。南京事件は「中国」のプロパガンダ。真珠湾攻撃は「騙し討ち」ではない。第一次資料で明かす現代史の真実『歴史問題の正解』有馬哲夫[著]新潮社

客観的資料はない

 見解からもわかるように、多くの場合、争点となっているのは「殺害や略奪行為」の「有無」ではなく、人数や程度である。これを中国側は少なくとも30万人は虐殺された、と主張し続けているのだ。
 しかし、実際には「30万人」を裏付ける客観的資料は存在していない、と公文書研究の第一人者である有馬哲夫・早稲田大学教授は指摘している。当の中国は南京事件の関連資料を「世界記憶遺産」に登録させるなどの活動を行なっているが、その資料にすら「30万人」を示す根拠はないのだというのだ。以下、有馬氏の『歴史問題の正解』から、「南京事件」の実態を見てみよう(以下、引用は同書より)

「よく引用され、今回の(世界)記憶遺産にも指定されている南京安全区にいた欧米人の日記や記録でも、少人数の虐殺や暴行については目撃証言があるが、数百とか数千とかの単位のことになると伝聞ばかりになっている。
 ただし、これらの欧米人は、安全区に流入した避難民に食糧を提供していた関係で、南京市内に残った中国人の人口に関しては、日本軍や現地の中国人よりも正確に把握していた。筆者もイギリス公文書館(ロンドン)で外務省の公文書『南京の残虐事件』を見つけたが、これによれば、当時南京の安全区の人口はおよそ25万人だった。

 この手記は、当時安全区にいた一人のキリスト教宣教師(氏名は記されていない)が南京からビルマに移ったときにイギリス貴族院議員ジョセフ・モンテーギュ・ケンワージーに手渡したものだ。ケンワージーは南京の情勢についての重要な情報としてこれを当時の外務大臣エドワード・ウッドに転送したので、これが外務省の文書として残ることになった。
 世界記憶遺産に指定されなかったこの手記も、南京陥落前後の『日本軍の残虐行為』について詳細に記述している。だが、登録された他の欧米人の手記と同じく、犠牲者がおよそ30万人だということを証明してはいない。むしろ、その逆である。

 手記に書かれているような残虐行為があったのだから、中国人は安全区に逃げ込むか、さもなければ市外に逃れるかしかない。だが、手記の中では、安全区の外へ出て様子を見た他の欧米人の一人が、市内には人がまったくいなかったと証言している。とすれば、この25万人を上回る数の中国人は南京城内にいなかったと考えるのが妥当だろう。つまり、30万人もの人々を虐殺することは不可能なのだ。

 また、この記録によれば、南京に安全区が設けられたのは、日本軍が南京に迫っていた11月中旬であり、すでに避難民の流入が始まっていて、安全区内の人口はこの時点でおよそ25万人に達していた。周辺地域からの南京城内への流入が始まったあとで、10万単位の避難民の減少(つまり「大虐殺」)があったならば、そのことに言及しそうなものだが、そのような記述はない。
 あるのは、日本軍による100人単位(累計で数千人単位)での国民党便衣兵(中国の庶民の服である便衣を来た兵士)の処刑があったようだという伝聞情報と、ほぼ毎日のように行われる安全区にいた少人数の中国人に対する暴行(特に女性に対する性的暴行)の目撃情報だ。
 仮に数百、数千の便衣に着替えた国民党軍兵士の処刑が継続してなされたとしても、数万にしかならない。(当時の)朝日新聞も国民党軍の戦死者(虐殺犠牲者ではないことに注意)は8万人前後で、捕虜の数も1万500人とされている。安全区にいた他の欧米人のなかにも、死傷者の数が、万単位だったと証言するものはいない。

『南京事件』についての客観的資料の少なさは、私たちが歴史的事実とプロパガンダを峻別しなければならないということを改めて教えている。実際、どのくらいの数だったのか、日本側も中国側も、客観的資料に基づいて明らかにすることができない。中国はこの実証不可能性を逆手にとってプロパガンダとして使い続けているのだといえる」

間違いはどこにあるのか

 もちろん30万人ではなく数万人、数百人であっても一般人の殺害は許されるものではないだろう。人数で言い争っても、「30万よりも少ないから見逃せというのか」という批判を招いてしまう。
 だから「南京事件」で争うべきは、数ではなく、誰がどんな間違いをしたのか、という点である、と有馬氏は説く。

「まず、問わなければならないのは、なぜ『南京の大勝利』ではなく『南京事件』になったのかということだ。つまり、通常の戦闘ならば、何万人戦死しようと、当時の朝日新聞でも報じられたように、それは軍事的大勝利であってなんら問題はない。通常の戦闘以外の死者がきわめて多く出たので『南京事件』と呼ばれることになったのだ。

 では、なぜ通常の戦闘にならなかったのだろうか。端的にいうと国民党政府軍事委員長・蒋介石が戦いの途中で麾下(きか)の数万の兵士を置き去りにして南京から逃げたからだ。(略)

 日本軍に包囲され、指揮官を失い、逃げ道を失った彼らは、投降するより軍服を脱ぎ捨てて便衣(中国の庶民の服)を着て民間人になりすますことを選択した。だから、南京入りした日本軍は、脱ぎ捨てられたおびただしい数の国民党軍の軍服を発見した。
 日本軍は当惑した。南京市内には一般市民がいる。彼らと便衣服を着て一般市民になりすました国民党軍兵士(以下、便衣兵)とを見分けるのは難しい。

 もっと問題なのは、この2者を足すと日本軍よりはるかに数的優位になるということだ。安全区国際委員会の報告書でも南京陥落前後に安全区にいた中国人は前述のようにおよそ25万人だった。
 何も手を打たなければ、疲れ切っていて、そのうえ緊張の糸が切れかかっている日本兵は、便衣を着た国民党軍兵士のゲリラ攻撃の絶好の的となる。下手をすると大打撃を蒙って南京から撤退しなければならなくなるかもしれない。
 そこで、『掃蕩』が行われることになった」

 当時の中支那方面軍司令官の松井石根大将は、青壮年は便衣兵と見なして逮捕監禁せよ、と命じた。しかし、ここでいうところの「掃蕩」は、本来、その場から「取り除くこと」であって、「処刑すること」ではなかった。が、実際には処刑されるものも相当数出てしまう。

「日本軍は逮捕監禁した『青壮年』中国人を国民党軍兵士と民間人とに選り分けようと努めた。実際それを実現できた日本軍の部隊長たちもいる。だが、数があまりにも膨大で、収容施も不足していて、まだ何が起こるかわからない状況では、現実的に対処せざるをえない。

 また、国際法上の問題もあった。当時南京安全区にいて、日本軍の行動を見ていた欧米人は、逮捕監禁された人々を『捕虜』として人道的に扱うように外交ルートを通じて日本軍に求めた。(略)

 ハーグ陸戦法規では、戦闘で敗北した兵は、降伏して『捕虜』となれば人道的扱いを保障されることになっている。日本はこの法規を批准していたので、彼らが『捕虜』ならば、そのように扱わなければならなかった。

 ところが、この段階では、日本も国民党も宣戦布告をしておらず、日中間の戦いは正式の戦争ではなく『事変』という扱いになっていた。日本側も中国側も、正式の戦争とすると国際法規にしばられるので戦いにくくなり、かつアメリカの『中立法』に引っかかり、戦略物資を調達できなくなるというのが理由だった。
 したがって、日本軍が『掃蕩』した『青壮年』中国人のなかの便衣兵に関しては、ハーグ陸戦法規の埒外で、『捕虜』ではないということになる。
『南京事件』に関して、外国人居留区にいた西欧人の証言がよく引用されるが、彼らが現地中国人から聞いた『虐殺』のほとんどは、便衣兵の処刑だとみられる(伝聞で知った未確認情報なのでこういうしかない)。

 しかし、日本軍がこの法規にしたがったとしても、戦闘員が民間人になりすますこと自体が違反なので、非は便衣を着て民間人に化けた国民党軍兵士にあったことになる。
 実際、安全区に逃げ込んだ便衣兵が避難民を人間の盾にして、隠し持った武器を使用して日本軍と戦闘に及んだという例さえある。これが大規模に、しかも多発すれば、どういう事態になるか容易に想像がつく。こういったことを未然に防ぐためにも、便衣兵に関しては処刑もやむなしということになる。たとえ便衣兵がハーグ陸戦法規を知らなかったとしても、戦闘員は民間人を巻き込むような行為をしてはならない(略)。

 はるかに大きな責任と罪があるのは、我身のことしか考えず、組織的に南京から撤退するということをしないどころか、逆に督戦隊を置いて兵士が城外に逃れられないようにし、便衣兵にならざるをえない状況をつくり、南京市民もそのまま置き去りにした蒋ら国民党軍幹部だということを改めて確認しておこう。

 その一方、日本軍による一般市民への残虐行為と暴行の事実も決して見過ごすことはできない。欧米人による目撃証言は、便衣兵に対するものほど規模は大きくないものの、老若男女を問わない一般市民への残虐行為と暴行が行われたことも明らかにしている。また、日本軍自体がそれを認めている。とくに女性に対する性的暴行が目立っていて、安全区にいた欧米人もしきりにこのことを日記や手紙に書いている。
 これらの残虐行為と暴行は戦闘行為とはいえず、いかなる弁解の余地もない。この点は重く受け止め、日本軍の非を認めるべきだろう。この部分までも否定すると、かえって誠実さを疑われ、再三いうが、国際世論を敵に回すことになる」

 こうした事実を踏まえたうえで、再度、日本側の公式見解を見ると、実は過不足なく「南京事件」について反省すべき点は反省し、お詫びの気持ちを示していることがよくわかるだろう。
 それにもかかわらず、わざわざ靖国神社で抗議活動を行うというのは、ピントの外れた単なる犯罪だと言われても仕方がないのではないか。

デイリー新潮編集部

2018年12月19日 掲載