雪桜

決断…と言っても大した事ではない。
脱サラ、つまりそれまでいたH製作所を辞め、現在の医療の道に進むべく、学校に通い始めたのだ。
確かに、H製作所と言えば世界のトップ3%に入る一流企業であり、企業の中の公務員と言われる程の安定した会社だと言う人もいた。定年までいさえすれば老後まで保証されたようなものだ…でも、それでも…。
他にも、東大や京大卒のエリートに比べれば明らかに低学歴の私を拾ってくれた、学生実習からお世話下さった方々や先輩方の恩を考えると、とてもではないが離れるに忍びないのは山々だったのだが…。
ある時、先輩から、桜井、お前、逃げるのか？と言われた。それまでできるだけ波風が立たないようにしていたのだが、さすがに黙ってる訳にいかず、かなり激しく言い返したのだが…それが先輩の私への思いやりだった事に気がつくのに、あまり時間はかからなかった。
僅か6年の短い時間だったが、最初の2年はプロジェクトで飛ばされ、復帰してからはインテル対応の製品担当に大抜擢された…それまで数年単位でしていた製品立ち上げを1年で達成。職場の東大、京大卒の先輩を押し退け、まるでサラリーマン金太郎バリの働きをしてきた…途中3週間入院したこともあったっけ（笑）
それら全てをひっくるめて、これからの事を考えた時、このままで良いのだろうか？という事を悩み考える事が多くなった。
そんな時だった…秋津に通うようになったのは。私は今まで一度も市代さんに教わった事はない。奨励会の人達とVSをしている姿などは何度か拝見した事はあるのだが（笑）
席主のY先生から言われた事で今でもはっきり覚えている事がある。
一つは、目的と立場。
あなたがそれをする目的は何ですか？それをする時、あなたの立場を考えた事はありますか？
目的を達成する為に努力する事は最低限の事。それをするにあたってあなたは立場を考えて行動していますか？
もう一つは、直接指導を受ける事だけが上達の道じゃない。あなた位の実力の人なら、いっちゃんの姿勢を観るだけでも強くなれるよ。(勉強になるよ、だったかな？)
この時期、二カ所だけ市代さんのタイトル戦を観に行った。飛騨高山で行われた女流名人戦。もう一つは、白石城で行われた女流王将戦。白石城では初めて初手指しから数手を見学したのだが、初手よりも、入室〜初手までの間の市代さんの精神集中の姿を見た時、尋常ならざるものを感じた事を今でもはっきりと覚えている。
同時にその場所は、私なんぞが立ち入ってはならない、静謐な空間である事を理屈ではなく肌で感じとった。
某タイトル戦で、懸賞金を出す特典として、対局室に入って観戦できるというのがあるようだが、懸賞金という名の金の力で、対局場に入り込むのを良しとするのか甚だ疑問である。もちろん、入り込まなければ良いのだが、ピンハネされてまでする事ではないと私は思う。

話がそれたが…その影響を受けた訳ではないが、いつの間にか秋津の教室で指しながら、色々な事を考えるのが日常になっていた。
そして、あの決断に至った。秋津の空間がなければ、今の自分はなく、先輩の後押しの真意にも気がつかなかったかもしれない。

雪桜