いよいよ、噂の転校生がクラスにやって来ました。
転校生は礼儀正しく自己紹介し、クラスに頑張って溶け込もうとしましたが、どうもクラスメイトも担任も妙な視線を自分に向けてくる感じがしてなりません。それもそのはず、「あいつ、ずいぶんネコかぶって普通を装ってるけど、今に正体を現すに違いない」と周囲は警戒して接していたからです。
そんな視線にさらされ、何を言っても皆が妙な反応しかしてくれないので、転校生は次第に気持ちがふさぎ、そのうち本当に屈折していきました。そしてある時、クラスメイトの不愉快な言動に反応して、ついに暴力沙汰を起こしてしまいました。
それを見て周囲は、「やっぱりあいつはそういう奴だったんだ。いよいよ正体を現したぞ」と思ったのです。
しかし、例の噂は、何の間違いか、まったく事実無根だったのです。
この喩え話において、「今度来る転校生は、かなりのワルらしい」という噂は、それが事実無根の誤りであったことは検証されずに、むしろ噂が二次的に生み出した暴力沙汰によって「やはり噂は真実だった」と追認されてしまっています。
人間についての性悪説も、これとまったく同じ構造によって、人々がその誤りに気づかないようになってしまっているのです。
ルソーの人間観
教育論の古典として有名なルソーの『エミール』は、次のような書き出しになっています。
万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(~中略~)すべてのものをひっくりかえし、すべてのものの形を変える。人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない。(今野一雄訳『エミール』岩波文庫)
18世紀に著されたこの重要な書は、残念ながら十分に人々に浸透することなく、「古典」という形で無毒化されてしまっています。
しかし、性悪説を基盤にした「自己コントロール」の病に取りつかれてしまった私たちにとって、このルソーの言葉は、今日でも大いに傾聴に値するものです。
実際の臨床において、「うつ」の無気力な状態に陥ったクライアントに対して、私は、逆説的に響くかもしれませんが「『うつ』に徹するように」というアドバイスを行ないます。それは、「うつ」の無気力状態を自己嫌悪し鞭打ち続ける「頭」の意志力を解除するためなのです。「頭」の意志力による過剰な「自己コントロール」が、内なる自然である「心」(=「身体」)のストライキをひき起したのが「うつ」なのですから。