本名=堀 辰雄(ほり・たつお) 明治37年12月28日—昭和28年5月28日 享年48歳 ❖辰雄忌 東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園12区1種3側29番 小説家。東京府生。東京帝国大学卒。芥川龍之介に師事。大正15年中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊。昭和5五年短編集『不器用な天使』を刊行、同年発表の『聖家族』で認められた。8年『美しい村』、13年『風立ちぬ』『かげろふの日記』、16年『菜穂子』などを発表。『ルウベンスの偽画』『幼年時代』などがある。 一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませてゐるのか、もう一度見て見ようとした。が、さうやって見ると、その明りは小屋のまはりにほんの僅かな光を投げてゐるに過ぎなかった。さうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになってゐた。 「なあんだ、あれ程たんと見えてゐた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたやうに一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめてゐるうちに、ふとこんな考えへが浮んで来た。 「……だが、この明りの影の工合いなんか、まるでおれの人生にそっくりぢゃあないか。おれは、おれの人生のまはりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思ってゐるが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思ってゐるよりかもっともっと沢山あるのだ。さうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、かうやって何気なくおれを生かして置いてくれてゐるのかも知れないのだ……」 そんな思ひがけない考へが、私をいつまでもその雪明りのしてゐる寒いヴェランダの上に立たせてゐた。 (風立ちぬ) 堀辰雄の出生から幼年育歴については、本人もよくわからないほど不明な点が多々あるようだ。妻のある広島藩士で裁判所監督書記をしていた堀浜之助と母との間に東京麹町平河町で生まれ、嫡男として届けられたのだが、母は堀家を去り、下町・向島の彫金師上條松吉の所へ嫁した。その母は関東大震災の時に隅田川で水死、辰雄は急死に一生を得た。 実父の死まで、養父を本当の父だと思っていた辰雄であったが、その作品は気品のある繊細な美しさに溢れ、下町の匂いはどこを探してもなかった。戦後まもなく、病に倒れ、以後7年に及ぶ病臥生活に入った。 昭和28年5月28日午前1時40分、多量の喀血により、辰雄の愛した軽井沢・追分の自宅で、病がちの一生に終止符をうった。 近くの駅を降りた時の空は非常に明るかったのだが、薄い雲がまんべんなく広がっていて、晴れそうで晴れない何ともじれったい空模様であった。それでも霊園に到着した頃にはようやく雲が切れて、秋本来の青空が見えてきた。 前田夕暮や向田邦子、田山花袋、森田草平などの墓がある多磨霊園の12区画、昨夜の大雨で泥濘になった枯れ草地の乾ききらない落ち葉が、その塋域に散り移っている。水たまりに映っている様々な遠い時間、落ち葉を抱き込んだ白と黒のモノトーンの玉砂利の上に、赤身を帯びた御影石で簡潔な構成の墓組があり、三回忌に納骨した「堀辰雄」墓は、その暗がりの中に一瞬のハイライトを演出していた。 〈風たちぬ、いざ生きめやも〉。 |