フォーリーブスとは本当にいろいろなことがあった。
右から江木俊夫、青山孝、北公次、おりも政夫の4人組
フォーリーブスのことを書くのは駆け出し、新米の編集記者だったころ、未熟だったころの自分を思い出す作業でもあり、ちょっと恐いのだが、あの時代を語るのであれば、どうしても彼らのことを書いておかなければならないと思う。
フォーリーブスこそ、じつは、オレにとっての雑誌の芸能記者としての出発点だったのだ。大学を卒業して、平凡出版(現・マガジンハウス)に入社して月刊平凡で編集部員として仕事をし始めたとき「今月から担当するように」といわれて、初めてタレントの担当記者的な役割を持たされたのがフォーリーブスだった。フォーリーブスのほかにピーター、森田健作をあてがわれたが、それは別の話、ここでは書かない。
フォーリーブスを担当することになって、前任の担当者だったIさんにジャニー喜多川氏と引き合わせてもらって、当時、渋谷の宮益坂を登り切ったところに左に公園通りの方にいく***という坂道があるのだが、ここの途中に木下ビル、という名前だったと思うが、そこにマンションを借りていて、そこがジャニーズ事務所の、いわゆるタレントの合宿所で、フォーリーブスはそこを拠点にして活動していた。まず最初にそこを訪ねて、メンバーに紹介してもらった。
手元の資料で、メンバーの生年月日を調べると、以下の通りだ。
北公次が1951年1月生まれ(ホントは1949年生まれ)、
青山孝が1951年8月生まれ、
江木俊夫が1952年の6月生まれ、
おりも政夫が1953年7月生まれ。
オレが彼ら初めて出会った1970年の4月には、北公次が誕生日が来ていて20歳、青山が19歳、江木18歳、おりも政夫が17歳だったことになる。あやふやな記憶で恐縮だが、おりもはまだ高校生で、堀越学園(だったと思う)に通っていたと思う。
年齢のことでは、これはもう昔からのファンだったら誰でも知っていることだと思うから書くのだが、青山、江木、おりもの生年は正確なのだが、北公次だけはじつは1949年の生まれで2歳年齢を詐称していた。だから、このとき、彼は21歳とオレより一つ年下だったことになる。オレは大学を出たばかりで、22歳だった。
なにから書けばいいか迷うが、オレがフォーリーブスといっしょに仕事をし始めて、彼らがオレに対する信頼を厚くしていってくれたのは、たぶん、いろんな雑誌の人に同じ話をしても、オレの書く原稿が面白かったことが大きな原因だと思う。それは、ジャニー喜多川も同じで「シオザワさんは筆が立つよね」と褒められた記憶がある。
オレは最初、活版の(読みものページの)担当記者だったからとにかく毎月、いわれたところ、どこでも訪ねていって、話を聞いて原稿を書いた。どんな原稿を書いたか、調べればわかるが当時の月刊の平凡のなかにある読みものページ(途中からグラビアページもつくれといわれてグラビアも担当するようになった。つまり、郷ひろみもジャニーズJr.も含めて当時のジャニーズ事務所に関係した月刊平凡の記事は全部オレが作ったものである)を片っ端から書き散らした。これは編集長たちもジャニーたちも「原稿が面白い」といって褒めてくれるのだから、単純にうれしくてしょうがなかった。
オレがフォーリーブスの四人に信頼され、信用されるようになったのは、もちろん書いた原稿のせいだと思うが、時系列がどうなっていたか忘れてしまったのだが、公ちゃんのお兄さんが亡くなったときに本人に話を聞いて書いた死亡記事とター坊のお母さんが亡くなったときの葬式の模様を描いたルポルタージュが、いい線いっていて感動的だったからではないかと思う。これも「シオザワさん、ありがとうございました」と本人たちからお礼を言われた記憶がある。
それと、フォーリーブスとはかなりいろいろな形で仕事をしたのだが、いまでもはっきり覚えていることでは、1970年の11月25日のことなのだが、オレはこの日の午後、フォーリーブスのみんなとTBSのGスタジオにいた。Gスタジオというのは、ベストテンなどの歌番組を作っていた広いスタジオである。それで、番組取りの合間に突然、ニュースが流れて、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入して、アジ演説をしたあと、司令官室に閉じこもって割腹自殺したのである。それの生中継だった。オレはこれを、北公次と並んで観た記憶がある。オレが「三島由紀夫が死んじゃったよ」というと、コーちゃんも少し興奮気味に「すごいですね、死んじゃいましたね」と感に堪えたような声で言った。この場面をオレは長い間忘れられずにいたのだが、思えば、そういってオレと並んでそのテレビを観た北公次も先日、ガンで亡くなっている。その前に青山孝も死亡していて、フォーリーブスは生き残りが江木俊夫とおりも政夫だけになってしまった。北、青山ともに肝臓ガンだったというのだが、これは偶然なのだろうか。
そして、これもよく知られていることだが、四人ともがそれぞれかわいい顔をしていて、北公次=コーちゃん、青山孝=ター坊、江木俊夫=トシ坊、おりも政夫=マー坊というのが愛称で、四人のチームのなかにはそれぞれなんとなく分担のようなものがあり、コーちゃんがダンス、ター坊が歌、トシ坊がしゃべりと進行を担当し、ちょうどニュートラルな感じで受け役をマー坊が担当するという、大雑把に分けるとそういう機能があった。
キャラクターのバランス的には、コーちゃんがちょっと陰気で影のある物静かな少年、ター坊は品行方正で、優等生ないい子、トシ坊は陽気で賑やかな、女の子への興味をかくさない、ちょっと不良っぽいところもある男の子、マー坊は一番年下で、お兄さんたちみんなを尊敬したり、冷静に観察していたりする頭のいい、年下の少年、全体のバランスをいったら、ジャニーの計算だったのだろうが、よくできていたと思う。
フォーリーブスのデビューはオレが彼らを担当するより二年も三年も前で、1967年からのことだったという。何度も書いてきているが、当時はグループサウンズの全盛時代で、GS(グループサウンズ)の基本構造というのは、歌謡コーラスグループと同じで、メンバーがだいたい四人、五人いて、それぞれが楽器を演奏し、そのなかの誰かひとりが飛び抜けた人気者で、その人がグループを引っぱる、というような、大まかにいうとそういう構造になっていた。これはタイガースの場合は、加橋かつみと沢田研二のダブルヴォーカル、テンプターズは萩原健一、スパイダースは堺正章と井上順というようなことである。これはビートルズとか、ビーチボーイズとかそういうバンド系の成立の仕方だった。ところがフォーリーブスの場合は、まず、演奏はやらない、メンバーそれぞれがフューチャーされるような演出というか構成で,歌って踊る、しゃべりも面白いという、基本は歌手だが、踊れて演技も出来る万能タレントグループを目指したものだった。これは、ジャニー喜多川が一番最初に手がけたジャニーズがそうだったし、スリーファンキーズなどもこの形態だった。アメリカではフォーシーズンズとか、フォートップス、スリーディグリーズ、ザ・ロネッツなどがそうだった。
フォーリーブスを担当するようになって、ジャニー喜多川氏とも親しくなり、彼の芸能マネージメントの話をいろいろに聞いた。そのことは5月9日のブログでも書いたが、彼はアメリカのショービジネスに詳しく、アメリカではこのころ既に、劇場でミュージカルが演劇としてロングラン上演され、ビジネスとして成立していて、「ボクはアメリカに負けないミュージカルを作りたいんだ」というのが彼の大目標だった。彼にとってフォーリーブスは、その夢のための第一歩となるタレントだったのである。
オレはそのころのことをあまり知らないのだが、グループサウンズが大繁盛していたころ、どちらかというとフォーリーブスはまだ子供で、一部の年少のファンにかわいい顔で受けている、というようなところがあった。つまり、人気が特定ウケだったのである。それが、タイガースを初めとするGSが軒並み人気凋落していって、真空地帯のような時期が現出するのである。それが1969年から70年にかけてで、その間に、怨歌の藤圭子とか、LGBT美少年のピーターとか、『人形の家』〝美女〟の弘田三枝子とか、それまでいなかったような変わり玉のタレントが出現するのである。そういう状態から1970年代の芸能界は始まって、焼け野原のようなところで5月ににしきのあきらが、6月に野村昌樹、そのあとも続々と新しい少年アイドルがデビューするのだが、その波にまじって、フォーリーブスは四人まとめて一つみたいなところがあった。これは有利な条件で、問題の設定が例えばソロの歌手だったら「この子を好きか嫌いか」というような諾否を問うような選択問題になるのだが、フォーリーブスの場合はそうではなく、もう最初から「この子たちのなかで誰が一番好きか」と問いかける非常に巧妙な問題設定で、最終誰かのファンになってしまうという仕掛けで、たちまち人気者にのし上がっていくのである。四人ともかなりのイケメン美少年で女の子たちには「この人たちは全員嫌い」というような選択はほとんどなかったのである。
1970年12月号。岡崎友紀といっしょの表紙。このころ、人気絶頂。
1970年、71年とぞくぞくと若いアイドルたちが連続的にデビューして、芸能界が賑やかになったトタンに、それまでジャリタレ扱いされていたフォーリーブスはいきなり元気づいて、人気第一位のトップタレントになっていった。とにかく四人でワッと出てくると賑やかで華やかなのである。このころはまだ、人気投票というのをやっていなくて、誰が一番人気があるかの見定めはむずかしかったが、編集部に送られてくる、誰を取材してほしいかというリクエストのハガキはフォーリーブスがダントツで、あとからデビューしたにしきのあきらや野村真樹ほかの若い男の子たちを寄せ付けなかった。
この牙城を崩すのが、1972年にフォーリーブスの引き立てで恵まれたデビューを果たす郷ひろみなのである。郷ひろみはそれまで群雄割拠状態だったアイドル歌手の戦国時代から、それぞれ他を頭一つリードしていた西城秀樹と野口五郎を同盟相手に選んで、三国同盟ならぬ、新御三家を結成するのである。郷本人は後から回顧して「新御三家なんてぼくにとっては迷惑な話だった」というようなことをいっているが、三人で組んだことで、それぞれのタレントとしてのこの時代のいしずえを強固にした。この新御三家結成は誰が言い出しっぺか不明だが、最終的な仕上げの部分に平凡編集部が一枚かんだことはまちがいない。
雑誌はこういうことをするのが大好きで、このときは新三人娘というのも作っている。これも覚えているのでは、最初、小柳ルミ子がデビューし、南沙織がデビューし、その前後に平山美紀という歌手が「真夏の出来事」という歌をヒットさせて、これで三人娘を作ろうと考えたのだが、三人並べてみると、平山美紀だけなんか違う、それで首をひねって考えていたところに天地真理がデビューし、あっというまに人気者になって、あっというまに正調の新三人娘が成立するのである。これが1972年のことだった。
オレの記憶では新三人娘の方が新御三家より先に出来上がったのだ。(つづく)
今日はここまで。また、明日。
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