自分が一時期だが仲よく行き来していたタレント(というか俳優なのだが)で、ひとりだけ自殺してしまった人がいる。それが沖雅也さんだ。

これは本当に、オレの目から見てもビックリするようなハンサムだった。

 

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1970年のオレが芸能記者として仕事を始めた時期、グループサウンズのブームが終わり、藤圭子やクールファイブ(前川清)の人気もそれほどでなく、にしきのあきら、野村真樹がデビューしたばかりで、芸能界のその先の方向性がはっきりしない、アイドル歌手が誰もいない、空白の時期がしばらくあった。そのときに、人気者になったのが、「俺は男だ」(森田健作、石橋正次)、「柔道一直線」(桜木健一)、木下恵介劇場[「冬の旅」(あおい輝彦)や「冬の雲」(近藤正臣、仲雅美)]、「金メダルへのターン」(沖雅也)、「さぼてんとマシュマロ」(沖雅也)などに出演していた俳優たちで、特に、沖雅也は迫力のある美男子で、いっとき、すごい人気者になった、映画畑出身の俳優だった。

 

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沖雅也さんのことを書こうと思ったのは、実は、話の順序が違っていて、先日、8月11日に書いたラーメンの話のつづきを書こうと思って、いろいろと思い出していたのである。細かな前後の事情を忘れてしまっているのだが、昔、NHKが内幸町にあった時代があるのだが、そこで、初めて彼と会って取材をさせてもらい、もう深夜のことだったと思うが、NHKのあった建物の裏口のところに屋台のラーメン屋さんが店を出していて、そこのラーメンをふたりで食べた記憶があるのだ。これはたぶん、俺が彼に奢ってあげたのだと思う。正確な記憶ではないのだが、いま、とんこつラーメンで[ホ—プ軒]というのれんを出しているラーメン屋さんがあるが、そもそものそれの〝元祖〟のような存在ではなかったかと思う。

オレはそれまで、学生時代、鶏ガラ出汁の醤油ラーメンしか食べたことがなかったから、このとんこつ出汁のラーメンのおいしさにビックリした。それもあって、この夜のことを妙にはっきり覚えているのだ。

沖雅也さんは、そもそもの本名は楠城児といって、大分県出身の複雑な家庭で育った、中学生のときに家出して上京したという、苦労して大人になった人だったのだが、1952年生まれだから、オレが取材をしたとき(1970年)は、まだ18歳だった。別府で家族が経営していた病院が破産し、両親が離婚して、父親に引き取られたが、家出して上京。これが16歳のとき。様子がよく分からぬまま、新宿のホモ・バーでアルバイトしていて、お客さんで来た、後にマネジャーとなる人に声をかけられて、その人といっしょに暮らすようになる。それから、美丈夫に目を付けられて日活で俳優となり、映画の斜陽に合わせて、テレビの世界に進出した、というのがそれまでの経緯だった。

 

映画デビューした頃。まだ17歳だった。

 

この後、オレは正確におぼえていないが、沖雅也の生い立ち物語とか、自宅拝見とか、何号かにわたって、いろいろな企画の頁を作らせてもらった。自宅はいま思うと、そのころ、新宿だったと思うがかに料理を食べさせてくれるビル(かに谷?)の隣で、マンションだったが、壁が紫色で、床照明で、何だか〝おかまバー〟みたいな空間で、こんなところに住んでいるのかと驚いたのだが、これはマネジャーのHさんの趣味だったようだ。このHさんは、沖が人気者になって、超売れっ子になると、取材にギャラを要求するようになって、オレたちをビックリさせた。30分で1万円とかだったと思う。当時の1万円はいまの5万円くらいの価値だろうか。雑誌は取材した記事で金儲けしているのだから、出演料は当然のことだと考えたのだろうが、これまで、そういう発想をして、長く人気者としていつづけた人はいないのである。

これが1970年の後半ころの状況で、かたわらで、やがてフォーリーブスにすごい人気が出てトップアイドルに君臨する時代が来て、沢田研二がひとりアイドルとして人気を博したり、野口五郎が「青いリンゴ」をヒットさせ、西城秀樹が登場すると、芸能界のメインストリームは明らかに変わっていって、アイドル=歌手という時代がやってくる。

そのころになると、若手の俳優たちのブームも落ち着いて、それぞれ、自分の番組で腰を据えていい仕事をするようになる。沖雅也もこのあと、藤田まことらの出演していた「必殺仕置き人シリーズ」や石原裕次郎の「太陽に吠えろ!」で刑事役をやったり、それなりにいい仕事をするようになっていった。

 

「太陽に吠えろ!」。もう40年以上前の作品、スコッチ刑事、カッコいい。

 

オレは、この「太陽に吠えろ!」でスコッチの愛称をもらってバリバリの刑事として活躍していたころ、1976年ごろだと思うが、オレはそのころ、『スタア』という雑誌の編集記者をやっていたのだが、かなり精密に彼の生い立ちを聞いて、原稿を書かせてもらった記憶がある。このころの彼は、元気で、張り切って仕事をしていた。オレと彼とは年齢が5歳違いだから、オレは27歳で、沖は22歳のはずである。大人の俳優になったなと思ったものだ。

ただ、そのあと《正月にパリでHサンと腕を組んで歩いているのを見た》などといううわさ話を聞いて、大丈夫なんだろうかと思った記憶がある。

沖はこの後、長く躁鬱病に見舞われるようになり、1983年の6月に京王プラザホテルの最上階から飛び降りて自殺するのである。享年31歳だった。何もなければこれから大活躍するという年齢である。彼を自殺にまで追いつめたものはなんだったのだろうか。

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じつはこのころ、1983年の5月だから、彼が自殺するひと月前くらいだが、おれは会社から異動の辞令を受け取って、「平凡パンチの特集キャップを命ず」という話で、芸能記者から足を洗ったばかりだった。異動でゴタゴタしていた時期で、沖が自殺したことには驚いて、葬式(告別式)に行った記憶がある。当時のスケジュールノートを見ると、お葬式が行われたのは死の翌々日、6月30日のことで、場所は南青山となっている。建物名までは思い出せない。

知り合いも誰もいなくて、葬儀は寂寞としたものだった記憶がある。

いま、調べると、インターネットのなかに、彼の死について言及した頁がいくつかあり、それを読むと、死の周辺のだいたいの概要は分かるが、どうして死を選んだかという決定的なことについては、「病気がこうじて」と言うことになっている。死の直前に、なじみの風俗嬢を呼んで、彼女とひと遊びした後、身を投げて死んだというのである。

先日、「鬱病について」というブログを書いたばかりだが、症状は自殺願望と結びつくような、始末に負えないものなのだろうか。自殺なんて、そもそもどんな形で死を選んでも、生きている人間の共感をえられることは少ないものだ。三島由紀夫だってそうだし、先日、亡くなった西部邁さんだって、いくら死の事情を調べても、《そんなものなのか》というふうにしか思えない。

これはもしかしたら、生きて死を思うことの限界なのかも知れない。

沖雅也さんのことを思い出す度に、いろいろあったんだろうけど、それでも死ぬことはなかったじゃないかと、いつもそう思う。

 

この話はここまで。 Fin.

 

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