幕末の孝明天皇暗殺説を追う
前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。
「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。
http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html
もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。
孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。
孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。
嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。
第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。
第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。
上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。
しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。
たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。
通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。
中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。
孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。
ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。
専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。
疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。
「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。
しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。
孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。
いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。
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もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。
孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。
孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。
嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。
第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。
第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。
上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。
しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。
たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。
通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。
中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。
孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。
ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。
専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。
疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。
「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。
しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。
孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。
いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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