●社会学者の一般的な研究方法
●お気楽社会学研究の問題点このような適当極まりない研究がまかり通る原因の根は、社会学という学問がカバーする領域がめちゃくちゃ広いことにあります。政治、経済、家族、労働、教育、統計、余暇、健康、なんでもアリ、なのです。毎年、新たな専攻分野が登場し、百花繚乱の趣です。「教育経済社会学」とか「テレビゲーム社会学」とか。自分で名乗りをあげれば、またたく間にその分野で第一人者になれるのが、なによりの魅力です。そう、社会学は学問のデパートなのです。しかし賢い消費者のみなさんならご承知のとおり、デパートには、なんでもあるけど、欲しいものはなんにもないというのが実態です。 領域が広すぎるため、だれも社会学の全体像を把握するものはいません。それに、膨大な量に及ぶ他人の研究を、いちいち検証することも不可能です。社会学者同士の結束は非常に固いので、他人の研究はとりあえず全部肯定しとくのです。ですから、社会学者による社会学関連書籍の批評は、「若手社会学者の成果が注目を集めた」などと誉めちぎるものになります。スティーブン・キングの若手作家絶賛コメントといい勝負です。 そういうわけで、社会学の研究成果に対する反論は、文学、哲学、文化人類学、理系の学者など、常に外部から起こります。ただし、社会学の中でもフェミニズム関係の人たちは、例外的に仲が悪いことで知られています。 もうひとつ、決定的な問題点。先ほど紹介した研究方法からもおわかりだと思いますが、社会学は非科学的な学問なのです。学者個人の倫理道徳による偏見が、あまりにも強く研究結果を左右しているという事実は、かなり危険な段階まできています。彼らの個人的感情を、いかにもの一般論にでっち上げるやり方は、犯罪とさえいえます。 80年以上も前に社会学者のジンメルはこう記しています。社会学は川の流れを見る学問であり、水滴はどうでもいい、と。彼らは、集合的現象のみを扱うのです。個人の事情など、おかまいなしです。「フリーターが150万人いる。パラサイトシングルが1000万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる」。すべてがこういった調子です。人間をある一面的な特徴で分類して批判するのが、社会学おとくいの手口です。「ユダヤ人があまりにも多すぎて、このままでは社会は悪くなる」という社会学的結論をもとに、ヒトラーは500万人以上のユダヤ人を虐殺しました。生きていればヒトラーは優秀な社会学者として第二の人生を歩んでいたことでしょう。 理系の学生になぜ文系でなく理系を志望したの、と質問すると、しばしば以下のような答が返ってきます。「国語は先生の気分によって正解が変わるから信用できない」。社会学がまさにこれなのです。例えば、日本に生息する蝶は260種だ、という研究結果があるとします。これは科学的です。そこには妙な偏見の介入する余地はないからです。 ところが社会学ではどうでしょう。調査結果をもとに、フリーターが150万人いる、という事実をはじき出すところまでは、たしかに科学的です。が、問題はそのあと。なぜか社会学者はその事実にゆがんだ視線を送るのです。社会学者の手に掛かれば、どんなささいなことでも国家を滅ぼす社会問題と化します。 社会に問題がないと、社会学は存在価値を失います。ですから社会学者は自分で問題を捏造し、それを分析、処方箋まで書いてしまいます。古株の新聞記者ならこれを、マッチポンプと呼ぶでしょう。自らマッチで火をつけて、自らポンプで水をかけて消すことをいいます。死語になってしまった言葉ですが、これに代わる適当な表現が見当たりません。火のないところに煙を立てる、というのもちょっと古い表現ですし。 個人的な価値観や倫理道徳を主張することが優先され、論理は二の次。これこそが、現状の社会学の大きな問題点なのです。労働観や家族のスタイル、人生設計などは百人いれば百通りの考え方があり、異なる理想像が存在します。人間の生き方に「標準値」や「偏差値」などは存在しないのです。それなのに、勝手にアンケート調査を行い、無理矢理データ処理にかけ、人生の正解を決め、そこからはずれたものを批判し、社会問題に仕立て上げる。こんな適当でお気楽な学問を、科学的だと主張し給料をもらっている社会学者が何万人もいます。 国立大学の教授の給料は、国民の税金です。私立大学は助成金という形で国からお金をもらっていますから、私立大学の教授の給料も、一部は国民の税金です。財政危機が叫ばれる折り、無用な社会学者がこれ以上増えることこそ、社会問題なのです。 今回のまとめ
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