当たり前ですが大成する人は、それなりの才能(gift)が備わっているものです。そもそも我々が産まれてから、その国の言葉を難なく喋れるようになるのも、頭の中にその原型がプリセットされているから可能なのです。
ところが多くの日本人は、自分の中にあるセンスや才能や良識を信じて頼ることができず、すべて他人から教わるものだと思っているのです。だから自分で新しいことを発見したり、独自のものを生み出すことが出来ずに、猿真似ばかりしています。
他人から学ぶものだと信じているから、ただの凡庸な人間を、「先生」や「師匠」と言ってあがめたりします。彼らの言うことを鵜呑みにして信じ込み、シゴキやイジメにも耐えているのです。メディアは、成功したアスリートなどに「努力をしたからここまで来れた」と言わせ、努力すれば夢は叶うものだという儚い幻想を庶民に与えています。
このような日本人は、才能ある人物を認めることができません。その代わりに、どこの学校を出たかとか、誰に師事したかということで評価するのです。
日本人は人を「行動」ではなく、その人の「属性」によって判断します。言い換えると、いま、その人が何の価値を生み出しているか、ではなく、どういう立場の存在であるかが重要だということです。価値を生み出している人間は、日本ではただの搾取される労働者であり、属性を備えた人間は偉そうな事を喋るだけで、あがめられる存在です。
日本で誰かを社会的に抹殺したいと思ったならば、問題となった「行動」を否定するだけでなく、メディアを使った徹底的な人格攻撃キャンペーンを繰り広げます。こうして、その人の「属性」を無価値にするのです。
こういった「属性」を身に着けそこなった人、失った人は、もはや日本では挽回のチャンスはなく、底辺を這い回る人生を送らないといけないのです。