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世界遺産の隠れキリシタンと部落差別の相克

2018年07月01日 | 社会・歴史
分断差別の歴史を超えて和解へ 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』2016年5月12日Christian Today

本書のあとがきで著者高山文彦氏はこう書いている。「キリシタンと被差別民の相克、すべてを焼き払う原爆の悲惨、そうした辛苦の運命を生きてきた長崎という特異な都市の歴史において、静かな祈りのように重ねられてきた『その日』を願う人びとの粘りづよい生きかたを私は記録しておきたかった」
長崎県の浦上が4度の弾圧と原爆の被害を受けながらも、キリスト教信仰の受け継がれてきた土地であることはよく知られている。しかし、キリシタンが近年まで差別されてきた歴史は、あまり知られていない。
さらに、キリシタンを監視するため、浦上に被差別部落がつくられ、弾圧の役割を担わされ、両者の間に根深い対立と怨念の歴史があったということは、ほとんど知られていないのではないだろうか。
月刊「部落解放」での5年間の連載をまとめた本書は、被差別部落とキリシタンの膨大な資料を元に、見過ごされていた歴史を丹念に掘り起こした優れたノンフィクションだ。
かつて長崎に住み、それがきっかけでクリスチャンとなり、今もあの土地を愛してやまない1人の人間として、このような力作が出版されたことに、深く感謝したい。
個人的なことに少し触れさせていただきたい。私がキリスト教と初めて出会ったのは長崎、浦上だった。私は15年前、新卒で入局したNHKで長崎に転勤となり、新社会人として働き始めた。
職場の5階建てのビルは26聖人殉教の地、西坂公園に接しており、よく5階の裏口からつながっている公園の隅でこっそりタバコを吸っていたものだ。当時住んでいたアパートは、浦上天主堂のすぐ裏にあり、日曜日にはアンジェラスの鐘がいつも聞こえてきた。
地元のお年寄りにあいさつしたときに言われたことがある。「あそこはクロが住むとこですよ。なんで東京からわざわざ来た若い人があんなとこ住むとね。物好きやね」
それが「クロス(十字架)」に由来するキリシタンを指す蔑称であると、後になって知った。それまでキリスト教と全く縁がなかった若造には、その意味も、そこに込められた意図も分からなかったのだが。

それからキリシタン史の本を読むうちに、浦上という土地が、江戸時代3度の弾圧があり、明治には四番崩れという大弾圧で3千人が全国に配流され、600人以上の犠牲者を出し、さらに原爆で1万2千人中8千人が亡くなる(長崎五番崩れともいわれる)という“5回”もの弾圧と虐殺を超えて400年間、信仰が生きている土地であることを初めて知った。
なぜ世界史的にもまれなほどの苦難の歴史を背負いながら、彼らは神様なんぞというものを信じるのだろう? どうしても分からなかった。(それからまわりまわって10年たって洗礼を受けることになった。なぜかプロテスタントの)
当時、何かの本でこんな記述を目にし、ずっと気になっていた。「かつて浦上の周りには、キリシタンを監視するための被差別部落があったが、原爆のため散り散りになり、今は残っていない」
しかし、このテーマは浦上キリシタン史の研究書にわずかに記載されている程度で、それ以上の詳細が書かれている本はほとんどなかった。私が知る限り、長崎で執筆活動を続けた作家、井上光晴の小説『地の群れ』(映画化もされた)で、わずかに描写しているぐらいだ。
本書を読み、あの時目にした、キリシタンと被差別部落という“差別された者同士”を対立させる「分断統治の歴史」という、語られることがまれだった歴史を初めて理解することができ、感慨深い。

浦上のキリシタンと被差別部落

長崎県は日本で最もキリスト教信仰が盛んな土地だ。人口約150万人中、カトリック信徒が6・4万人(人口比約4・3パーセント)を占め、その中心が浦上だ。住んでいたので分かるが、山の間のわずかな平野に住居が密集し、田畑はほとんどない。
戦前ここには「浦上キリシタン」と呼ばれた人々が1万人以上暮らしていた。また浦上には、長崎県最大の被差別部落があり、千人以上の人々が住み、ほとんどが靴や下駄や皮革製品を作り、生計を立てていたという。
彼らは、江戸時代のキリシタン弾圧には捕り手として駆り出され、捕縛や過酷な取り調べ、拷問の任務を負わされてきた。そのため、両者には根深い対立の歴史があったという。
キリスト教の側から見た浦上の原爆の被害については『長崎の鐘』『この子を残して』などを書いた永井隆の著作によって比較的知られているが、同じく甚大な被害を受けた被差別部落の実態は、戦後長らく調査すらされていなかったという。 
ようやく1980年に作成された「原爆被災復元調査事業報告書」によると、浦上の被差別部落1034人のうち155人が即死、1945年内にさらに140人が亡くなるなど人口の32パーセントが死亡、70年までに原爆症を原因として436人が死亡し、293人が行方不明となったという。

浦上の被差別部落の歴史

浦上では1928年に差別解消を目指す水平社が結成されたが、行政や政治と一体になり人並みの生活を目指す融和派との対立の中で、2年ほどで消滅してしまった。原爆で壊滅的な被害を受けた後、49年には県の復興計画の下、焼け残った宅地は区画整理と新たな道路設置のために安値で買い上げられた。
地主たちは、立ち入り禁止の札や針金を立て、土地を行政に買い上げてもらい大もうけをした。もともといた住民は代替地すら与えられず、離散を強いられた。「この事業によって、浦上部落は事実上、この世から消滅した」という。
長崎県ではその後、被差別部落の人々は、名乗り出ることで差別が表沙汰になることを恐れ、差別解消運動も進まなかった。69年に国会で同和対策事業特別措置法が成立した際、長崎県当局は“県内に被差別部落はない”とする報告を国に上げていたという。
戦後、浦上のキリシタンの歴史は、観光イメージのために大いに取り上げられたが、それにまつわる被差別の歴史は“なかった”ことにされていった

被差別部落に生まれた2人の青年

そのような背景の下、本書では、浦上に生まれた中尾貫と磯本恒信という2人の人物が主人公として描かれる。中尾貫は、差別の中で苦労して育ち、終戦を経て苦学しながら教師となり、51年から五島列島の中学校に赴任する。
『五島キリシタン史』によると、五島でもキリシタンは差別され、卑しい者・全く別の生きものとされ、海に出ることも許されず、山に隠れて農業で生計を立てて生きていたという。1868(明治元)年には「五島崩れ」という弾圧が行われ、久賀島では200人の信徒が6坪の牢に8カ月間閉じ込められ、40人以上が死亡した。
学校でも、漁で潤う町の子が良い服を着ているのに比べ、隠れキリシタンの家の子どもはつぎはぎだらけのモンペを着て、わら草履で通っていた。「この子らは、あのころの自分たちのように差別を受けているのかもしれない。いや、もっとひどい差別を受けているのかもしれない」と思った中尾は、隠れキリシタンの里に住みつく。
そこは、電気も水道もない、山の薪を燃料に使う自給自足の村だった。子どもたちと学校に通い、夜には自分の家に子どもを集め、勉強を教えた。勉強の傍ら、子どもたちはぼろぼろになった聖書を読み、祈りをささげることもあった。その姿に打たれ、中尾も聖書を読むようになった。

そして中尾は、被差別部落とキリシタンの対立の歴史を知る。同僚のカトリック信徒の教師が語ったという言葉は象徴的だ。
「僕たちは“クロシュウ”と呼ばれとったんですよ。先生たちは“エタ”と呼ばれたかもしれんばってん、僕たちは“クロシュウ”と呼ばれて、すさまじい差別をうけとりました」。
「僕は小さいころ、浦上町の近くの農家で育ったんですが、古い人から、浦上のエタの人たちからだいぶいじめられたと聞いて育ったもので、どうしても浦上の人たちに心を許せないところがあるんです」。

もう1人の磯本恒信もまた、部落解放の運動に携わる中、自分たちの先祖がキリシタン弾圧の手先として使われてきたという歴史に向き合うことになる。
ある記録では、浦上四番崩れの際、キリシタン信者68人が捕らえられると、血気盛んなキリシタンの若者数百人と部落側の若者が、竹やりやこん棒で武装し殺し合うという事件も起きたという。
磯本はこんな言葉を語っている。
「キリシタンにたいして自分たちの先祖がしてきたことを考えたら、被害者づらばかりしてはおられんとばい。権力の手先になって、キリシタンを捕まえて、拷問にかけたり、殺したりしてきた。そりゃあ、自分たちの先祖は権力側にいいように使われて、やりたくもないことをさせられてきたという点で被害者ではあるかもしれんばってん、キリシタンには、そういう理屈は通らん。キリシタンとの歴史的問題をなんとか解決していく方法はなかもんかのう」。

歴史の理解と和解、結城了悟(ディエゴ・パチェコ)神父

この相互対立の歴史の和解に大きな役割を果たすことになるのが、本書のもう1人の主人公、スペイン出身で日本人国籍を取り、結城了悟という日本人となったイエズス会のディエゴ・パチェコ神父だ。
結城神父は39歳で長崎に移ってから、86歳で亡くなるまで、戦国時代以来の日本に来た宣教師たちの手紙など膨大なキリシタン資料を集め、解読、翻訳し、世に紹介することに生涯をささげた。その中で、部落解放運動に関わることになっていった。それは、宗教と差別をめぐるある事件がきっかけだったという。

差別と宗教

1979年に米国で開催された第3回世界宗教者平和会議で、全日本仏教会理事長で曹洞宗宗務総長の町田宗夫氏が「日本には部落差別はない。それは100年ほど昔の話であり、今はありません」「部落解放を理由に何かさわごうとしている者がいるだけで、政府も自治体も誰も差別はしていない」と発言し、部落問題に関する記録を報告書から削除させるという事件が起き、大きな批判を受けることになった。
部落解放同盟は強く抗議し、検証が行われる中で、仏教の過去帳や墓石に付けられた「差別戒名」「差別儀礼」に関する古文書が存在することが分かり、曹洞宗は全国約1万4700の寺を対象に「同和問題に関する寺院調査」を実施、143の寺に「差別戒名」が存在することが確認されたという。
これがきっかけで、全国各地で宗教や教派を超えた取り組みが始まり、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」が結成された。長崎でも「部落解放にとりくむ長崎宗教教団連帯会議」が結成され、浄土真宗本願寺派、真言宗各派、真宗大谷派、真宗各派、曹洞宗、天台宗、天理教に加え、カトリック教会、日本基督教団、日本聖公会、日本ナザレン教団など11の教団が参加し活動を始めた。
浦上天主堂の隣のカトリックセンターでも、毎月宗教者による研究会が始まり、長崎の解放運動の中心として活動していた中尾と磯本と結城神父が出会い、部落史研究と、キリシタン史研究の中で、対立してきた両者をつなぐ歴史の事実が掘り起こされていった。

弾圧を拒んだ人々

結城神父が紹介した、バチカンのローマ法王庁に残る資料によると、江戸時代の禁教下、部落民の祖先の町民たちの中で、キリシタンの弾圧を拒否してキリシタンをかくまった人々がおり、彼らの多くもまたキリシタンで、殉教を遂げた人々もいたということも明らかになっていった。
〔1619年11月17日の〕殉教の時に見られたもう一つの手柄は、皮屋たちによるものでした。彼らは動物の皮を剥ぎ取る人たちで、牢屋まで呼ばれて受刑者たちを縛ったり、刑場まで綱を引いて行きます。二年前に十二人の聖なる殉教者が火炙りになった時と同じように、それをするのは罪だと知っていたので行くのを拒みました。
以前キリシタンであった奉行〔代官のこと〕平蔵は、彼らの三人を呼びつけ、自分たちの勤めであるにも関わらずに行かなかったので厳しく叱責しましたが、彼らは、それをすることは絶対にできないし、そのように神父から教えられていると言いました。
平蔵は「気をつけよ。申しつけに叛(そむ)くようであれば殺されるであろう。注意しておくので、後日私に文句を言わないように」と申しました。
彼らは、文句を言わないし、そのようなことをするよりも死ぬ覚悟ができていると答えました。
(バチカンに所蔵されていたドミニコ会宣教師からの手紙より)
このような歴史を振り返り、ある研究者はこう語っている。

おそらく(幕府側の)弾圧に屈し、(皮屋町)住民は仏教徒に転じたと思われます。同じように、浦上の潜伏キリシタンは、仏教徒に転じながらも、しかしその後ひそかに信仰を伝えたことに両者の違いがあったわけです。・・・同じくキリシタンとして宗教弾圧を闘った皮屋町住民が、こんどは弾圧する側に位置づけられ、刑吏として迫害の尖兵を担いました。そのことが、現在に至るまで両者の間に禍根を残したのであれば、それは直ちに解決されるべき問題です。・・・一つひとつの事実を積み上げることによって、「禍」が「幸いな出会い」へと導かれるよう祈念したいと思います。
顔を合わせ、研究と学びの場が続く中で、少しずつ「和解」の場が築かれていった。
2000年には、島原の乱の舞台となった原城跡で犠牲者を慰霊する式典が行われ、現地の仏教僧侶と島原教会の神父が双方の過去の歴史の過ちを認めるメッセージを読み上げ、和解の握手をし、アッシジの聖フランチェスコの「平和を求める祈り」を共に唱え、土地の人々、仏教信徒、カトリック信徒に大きな感動をもたらしたという。
キリシタン史研究に生涯をささげ、長崎二十六聖人の列福に最大の貢献をなした結城神父は08年、列福式の一週間前に亡くなったという。彼はこんな言葉を語っている。

秀吉も徳川も直接手を下したのではなく、キリシタンと部落民の双方を利用して圧迫した。これを忘れてはいけません。浦上村の信者と被差別部落とのケンカも、大きく見るとケンカではない。ケンカさせられていたのです。現代はもう一歩すすめて、一緒にできる。圧迫された人間が一緒になるのです。
(中略)
差別をなくすために、子どものときから『みんな兄弟姉妹』として教え、キリスト信者として、みんなに仕える者になりますように。これはキリシタン時代から私が受けた教えです。
和解のための学びは現在も続けられ、部落史とキリシタン史をつなぐ研究と学びの場は、長崎を超えて全国に広がっている。
この長大な物語を終えて、著者はこう記している。

長崎の教会群を世界遺産にしようとの動きがある。私は弾圧の歴史でさえ美しく物語化して呑み込もうとする奔流のような流れにたいして、どうか弾圧の手先となった被差別民のなかにもそれを町ぐるみで拒否し、刑死していった人びとがいたということを忘れずに語り継いでほしいと願う。
傍観者側も、傍観してきたというその一点において、加害の側に立っている。長崎全体で歴史的和解に向けた努力を惜しまずにしていくことが、世界遺産というものにさらなる輝きをもたらすだろうと信じて疑わない。

(「あとがき」より)
かつて長崎に住み、離れた今も長崎を愛し、いつも気になっている1人のクリスチャンとして、本当に深く同感する。そして、この対立の歴史と和解、未来への希望を丹念に取材し、記してくれたことに、今一度深く感謝したい。
『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』(2016年4月、解放出版社)

『廃仏毀釈で仏教を破壊した明治新政府は同じ時期にキリシタンも大弾圧していた』

学校の歴史教科書で必ず習う『王政復古』(明治維新は後から呼ばれるようになる名称で当時は王政復古とか回天)では新政府によって1868年4月5日(慶応4年3月13日)の神仏分離令(太政官布告)やその2年後の1870年2月3日(明治3年1月3日)の大教宣布(明治天皇の詔書)によって大規模な仏教弾圧が国学者の主導で行われたが、神仏習合の古くからの伝統的な既存の『神道』も大打撃を受けて衰退し、『国家神道』が日本を覆い尽くすことになる。(梅原 猛は廃仏毀釈を仏教弾圧ではなくて、『日本の神殺し』だと表現している)
廃仏毀釈の仏教弾圧と同じ時期に日本ではキリシタンに対しても大弾圧が同時進行していたのである。
★注、
アメリカやイギリス、ロシアなど欧米列強との外交交渉に腐心していた徳川幕府は、今までのようなキリシタン禁制が軍事力に勝る列強諸国による軍事介入の口実になることを恐れ事実上黙認する。ところが、キリスト教を黙認した幕府とは対照的に、『王政復古』後の明治新政府は既存の仏教や神道を破壊しただけでは無くキリシタンも大弾圧していた。
新政府は日本の伝統や文化の根本を引っくり返して、まっしぐらに新しい靖国神社などの『国家神道』(破壊的カルト宗教)による国家統合(とその結果としての爆発的破滅)に向かって暴走していった。




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常にその視点を忘れてはならぬ (海坊主)
2018-07-01 21:36:29
 今回の記事、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の世界遺産登録に合わせたものと思いますが、宗純様としては、かなり前から温めていた話題と私は感じました。キリシタン弾圧の苛烈な歴史はいくら無知な私でも読んで聞いて知っているつもりでした。でも、私の捉え方にはこの記事が提示した視点がすっぽりと欠落していました。

 民衆を支配する手段として権力者・支配者たちが穢多・非人という被差別民を身分制度の外部において完成した封建社会のなかで、その被差別民は自らの手を直接汚さない武士階級の汚れ役として都合よく扱われてきました。そんな彼らの元締めに良い暮らしを与えて全国の被差別民を支配させるという構造を塩見鮮一郎氏の著書『江戸の貧民』に記されています。身分制度の埒外に置かれた被差別民もまた、彼らの中で封建的な社会を形成させられていたのです。元締めに逆らうという自由はなく、あるのは隷従か報いとしての死でした。大きなピラミッドのすぐ横に小さなピラミッドが建っていたのです。

 さて、キリシタンの弾圧・差別に被差別民を利用するその卑劣さは、宗純様が指摘する「分断統治」そのものです。キリシタンを蔑視することで自らの尊厳を辛うじて保とうとした被差別民達。表の権力者から指示と褒美を受け取った被差別民の元締めはその指示を現場の被差別民に押し付けます。元締め達は決して自らの手を汚さないのです。ここに、表と下層の権力者同士の共犯関係が出来上がります。実際に過酷な弾圧に手を汚すのは他でもない現場の者達。差別を受ける弱き者がさらに弱き者を叩くという構図、まさに「分断統治」そのものです。そこには、憎しみと悲しみの連鎖しか残りません。何百年もの間、決して風化も解消もされない負の感情がそこに留まるのです。

 さらに、浦上のキリシタンと被差別民達には原爆というもう一つの悲劇が頭上に落とされました。いわゆるグランドゼロです。壊滅的に破壊された彼の地は「キリスト教徒受難の地」として再建されました。ただし、被差別民部落が存在した事実を伏せて。観光イメージというやつです。貧しき黒人とジャズの街だったニューオーリンズがハリケーンカトリーナで甚大な被害を受けると「起業のまち」のイメージと引き換えに被災者たる貧しき黒人たちが追い出されたように。

 都合よく歴史を改変する人たちの頭の中は損得勘定で占められているのでしょう。もし、後ろめたい過去の歴史を正視せず、それを無かったこととするのであれば、その者は必ず同じ過ちを繰り返し、それがバレれば初めてだ、と偽るでしょう。何度も同じ過ちを繰り返している人々は歴史から学んでいないのです。
否、そうした方が効率的で得するからそうしたいのです。
Unknown (たけ)
2018-07-01 22:54:52
管理人様こんばんは。
私の宗教観は
励みとかそういうもので 違っていたとしても信仰の自由も保障されているし
常識とかも踏まえて それぞれ 他人や社会に迷惑かけなければいいのでは ぐらいです。
変な話 全く宗教的にも 金銭的とか社会価値とか のないものでも
その人には遺品とか 大事なもので 家宝として とかもあるでしょうし。
分断 
ありますよね。小学校でももっていないとか何か違うだけでも いろいろありました。
ふとみれば
福島県でも 安全派と危険派 が対立して
しかも危険派でも 自己責任 と 政府とか東電の当然の義務 とか
意見が分かれていますし(これも分断でしょうか)
そういうときに大局的にとか 過去の判例や前例 等判断して 政策をするのが政府とかのはずなんですが
分断狙っているのが 政府自体のような気がして、というか。


連投すみません (たけ)
2018-07-01 23:08:24
豊岳正彦さんコメント拝見して
なるほど と思いました。
確かに剣道とかでも3本勝負 価値が決まったときとか相手の面子を立てて1本譲るとか聞いたことがあります。
そうすると
西野監督を安倍総理及び政権は個人的に見習って欲しいですね。
窮鳥 である学園の夫妻を親しいのにも関わらず法的に違反して留置場にとか。
それどころか窮鳥でない家族のようなものに
あなたたちには負けるわけにはいかない
とか。
情とかあるとは。。。
他にも弱者に厳しい
法案を 野党のせいで国会は停滞 といいながら次ぎ次と進めて0いてとか。

靖国神社で 是非
大声で
「英霊の皆様 本当にありがとうにございました。私たちがしっかりと意志を引き継ぎます。
二度とこんな悲劇は起こしません。改憲しても国民主権は死守し 一部の暴走で強制的に国民を死地に追い込むことは致しません。
同じ悲劇は決して繰返しませんのでご安心ください」
とどこかの右翼の方でも言って欲しいなあ、と 妄想ですけど。
Unknown (なか)
2018-07-02 20:50:32
ザビエルは日本を支配するための情報集めの為に宣教師をうたい来日した!それを手助けしたのが鮫島姓の僧侶だそうです。
皮屋が問いかけるもの (私は黙らない)
2018-07-03 03:39:14
自らの命を賭してまで弾圧を拒んだ皮屋が問いかけるもの。人間とは一体何か。弾圧を指示した大権力や、その下部組織小権力と魂の決断をした皮屋は同じ人間か。
長崎の被差別部落の歴史は、全く知りませんでした。
大変感銘を受けました。

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