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読めないニックネーム(再開版)

世の中の不正に憤る私が、善良かもしれない皆様に、有益な情報をお届けします。単に自分が備忘録代わりに使う場合も御座いますが、何卒、ご容赦下さいませ。閲覧多謝。https://twitter.com/kitsuchitsuchi

11 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 01

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』があまり良くないので中村元訳などとの比較。バラモンは7と300が好き疑惑。パーリ仏典の十無記で霊肉二元論を否定。 

生まれると 口の中には 斧生じ 悪口言うと 己を切り裂く<657>
https://76263383.at.webry.info/201410/article_27.html
”○中村元先生訳
657
人が生まれたときには、
実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、
その斧によって自分を斬り割くのである。


○正田大観先生訳
663.(657) 
まさに、人が生まれたなら、
口には斧が生え、
それによって、愚者は、自己を断つ
――悪語(悪口)を話しながら。(1)


○パーリ語原文
662.
プリッサッサ    ヒ   ジャータッサ
Purisassa      hi    jātassa,
人が        実に  生まれる時

クターリー    ジャーヤテー    ムケー
kuṭhārī      jāyate         mukhe;
斧が       生まれる       口の中に

ヤーヤ      チンダティ   アッターナン
Yāya        chindati     attānaṃ,
それによって  切る       自分を

バーロー   ドゥッバースィタン    バナン
bālo       dubbhāsitaṃ       bhaṇaṃ.
愚か者は   悪口を          言って”




今回は
講談社学術文庫の「スッタニパータ〔釈尊のことば〕全現代語訳」。

のメモだが
こちら


のほうがオススメ。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 についての記事はすでにある。
中村元訳『ブッダのことば』では
「パーリー語で書かれた最古の仏典『スッタニパータ』にはいわゆる仏教らしさが無く、
だから本書はなるべく既成の仏教用語を用いずに翻訳した」らしいが
この翻訳では最古の個所も普通に仏教用語を使っているのが気になった。


先に中村元先生の翻訳のほうの過去記事を引用しておく。
昔は原典と自分の補足などを現在ほど厳密に分けてなかったので注意。

原始仏教はカウンセリング術。現世利益を言わない宗教が多いのは、現世利益で幸せになると儲からないから。
『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 』・『原始仏典』・『ブッダの真理のことば・感興のことば』。
あと、生き残るために他の宗教に偽装した宗教や、
キリスト教が作った「ユダヤという身代わりの生贄」やズルワーンについてなど。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
”ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村 元 (1958/1)

・スッタ=たていと=経    ニパータ=集成
は今のところ一番古い仏典。
特にスッタニパータの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)は最も古く成立したと考えられ、初めは独立していたと考えられる。

スッタニパータの
詩…紀元前268年以前(アショーカ王以前) 特に4と5章は古い。
散文…紀元前250~150年ごろ

p.20 五五
“相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。”
(議論超え 真理極めた 辟支仏(ビャクシブツ) 指導されずに 一人で歩く<55>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_25.html)

p.29 九四
「悪い人々を愛し、善い人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破滅への門である。」

p.76 三六〇
“師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。”

p.135 六〇七
“これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異っているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異っているということはない。”

※人類と言う人間と人間以外とをはっきりと分けて強調するのはインド思想では珍しい。

p.135~p.136 六一一
“身を稟(う)けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。”

p.153 七〇六
“凡夫は欲望と貪りとに執著(しゅうじゃく)しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。”

第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”

 p.186 八三七“師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

宗教否定。~という説を説くときいた相手がそれに執著してしまうことを危惧しているのかもしれない。どのような生存状態に生まれかわるかについて答えていない。わかりっこないからだろうか。

p.188 八四六
“ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。”

p.189“両舌(かげぐち)”って秀逸ですな。二枚舌。


p.191
“ 八六六
「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〈道の人〉(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
 八六七
「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
 八六八
 怒りと虚言と疑惑、――これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」“


p.193 八七六
“「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧みに語っている。”

p.194 八八四
“真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。”

p.200 九一八
“これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。”

p.201 九二七
“わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行なったりしてはならぬ。”

当時の医術は今とは違い、単なる祈祷とかインチキだらけでそれを利用して騙す輩が横行していたらしい。占いもね。
呪法の禁止はジャイナ教でも同様。
『アタルヴァ・ヴェーダ』では、主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されている。


第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)

p.226 一〇七六
師は答えた。「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。 かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」“

p.226-227 一〇七八
“(ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、――かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」

聖者とは何かを、スッタニパータの最古級とされる第五章で明確に記されている。
原始仏教の 聖者=煩悩がない・苦悩がない・(欲)望なく行動する人々(複数いる!)



ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) 中村 元 (1978/1/16)


『真理のことば(ダンマパダ)』
輪廻や来世という言葉が出ている。
地獄という言葉も出ている。
悪いところ(=地獄)や、善いところ(=天上)という訳もある。
当時の宗教を超えた共通了解なのかもしれない。
無記に反するように思える。


p.10 五
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。”

p.39 二一〇
“愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。”

p.40 二一一
“それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。”

p.42 二二七
“アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。”

p.42 二二八
“ただ誹(そし)られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。”


p.44 二四一
“読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(いえ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎む人が汚れる。”


文字が書いているものを読んでいるのではないことに注意。暗唱をやめて忘れてしまうと聖典は消え失せてしまう。文字で書かれた聖典の読誦は紀元後に一般に行われるようになった。


『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』
p.202 一一
“実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真理である。””

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』(荒牧典俊, 本庄良文, 榎本文雄):講談社学術文庫

スッタニパータ
第一章 蛇
第二経 富裕なるダニヤ

”二一
世尊が説かれる。
「坐具を敷きひろげて『筏』を組んで、
完全に出来上がったところで、
輪廻の洪水からどんどん離脱して自由になり、
渡りきって彼岸に達したのであれば、
もはや坐具の『筏』に用はない。
もしもそうしたいのであれば、神よ、
いくらでも雨降るがよいぞ」”
p.19

(筏のたとえのおそらく最古の個所。
涅槃の達成後は釈迦の教えにこだわる必要はない。

宗教には必ず譲れない教義があるが、
スッタニパータではそれに執着することすら禁ずる節がある衝撃。
イスラームで例えるなら
信仰告白文の最後に
「でも全部頭が変になったおっさんの妄想かもしれないから
完全な嘘である可能性も忘れてはいけない」と加えるようなもの。
原始仏教は宗教と呼んでいいのだろうか?
哲学と呼ぶ人もいるが
アンチ既存の宗教という教えの宗教ともとれる。
当時の宗教といえばバラモン教であり
仏教やジャイナ教などはあくまでマイナーな新興宗教。

仏教は明確に有神論。

(筏(イカダ)さえ もはや捨てさり 釈尊は 神望むなら 雨を降らせと<21>
https://76263383.at.webry.info/201304/article_21.html
”○毎田周一先生訳
筏はしつかりと組まれた
        と世尊いはれた
激流は渡ってすでに彼岸に達してゐる
筏の必要はもはやない
さあ若しも降らさうと思ふなら 神よ雨をふらせるがよい


○中村元先生訳
師は答えた、
「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。
もはや筏の必要はない。
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」


○正田大観先生訳
世尊は〔答えた〕
「まさに、筏[いかだ]は、結び縛られ、頑丈に作られました。
彼岸に至った超渡者は、激流(渇愛の思い)を取り除くでしょう。
〔もはや〕筏に、義(意味)は見い出されません。
しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。


○パーリ語原文
 バッダースィ  ビスィー  スサンカター
‘‘Baddhāsi    bhisī    susaṅkhatā,
 よく組まれ   筏は    よく作られていました。

イティ  バガワー
(iti    bhagavā)
と    世尊は

ティンノー  パーラガトー  ウィネッヤア  オーガン
Tiṇṇo     pāragato     vineyya     oghaṃ;
渡った    彼岸に至った   克服して   激流を

アットー  ビスィヤー  ナ  ウィッジャティ 
Attho    bhisiyā    na   vijjati,
意義は   筏の     ない  見出せ

アタ  チェー  パッタヤスィー  パワッサ   デーワ
atha   ce  patthayasī pavassa   deva’’.
また  もし    望むならば    降らせよ  神よ    


○一口メモ
昨日の偈ではダニヤは、自分の牧場には虻や蚊もいない、草も伸びて牛を飼うのに適していると自慢していました。

それに対して、世尊は次のように述べます。「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。」

ここで、なぜ筏の話しが出てくるのでしょうか? これには説明が必要です。ダニヤにとって牧場は富を生み出す大切な生産手段なのです。世尊にとってそのようなものは何でしょか? 修行方法です。修行方法を筏に例えたのです。河を渡ってしまえば、筏は必要なくなります。世尊は煩悩の激流を渡り、彼岸(涅槃)に達しましたから、もはや筏は必要なくなっているのです。そこで世尊は今回の偈で「激流は渡ってすでに彼岸に達してゐる。筏の必要はもはやない。」と述べたのです。

筏の例えに関する教えが「中部経典第22蛇喩経」にありますので引用します。

「比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。
かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。
すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。
さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、
なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。
悪しきものならばなおさらのことである。」(以上引用終わり)”

このサイトが凄い。
複数のスッタニパータとダンマパダの翻訳を一節ごとに併記して
パーリ語とその直訳まで載せている。
つまり訳者がどれだけ意訳しているかと直訳しているかがわかるのが凄い。
なお特定の節だけ読みたい場合、検索はしづらい。)


第三章 大いなる章

”六二〇
ただ、バラモンの母胎から生まれただけであり、
自分の所有物に執着するようなものを、
わたくしは真のバラモンと呼ばない。
かれは、『きみと呼びかける人』と名づけるべきである。
何ものも所有せず、
何ものも取り込まない人こそ真のバラモンとわたくしは呼ぶ。”
p.161

註釈
六二〇
バラモンは「きみ(~君)」(原語はbho)という呼び掛けを用い、
それは、ブッダに帰依した後でも変わらない。
これに対し、例えば、
ブッダを最初は侮って「ゴータマ君」と呼びかけていたコーサラ国王でさえ、
ブッダに帰依した後は、「先生(bhante)」と呼び変えている。

第四章 八詩頌の経
解説
第四章「八詩頌の経」が原始仏教聖典全体の中でも
最古層韻文経典群
であることは、
中村元博士の御指摘以来、
とくに日本の学者の間でひろく承認されるようになっていると思う。
わたくし荒牧も第四章の中のいくつかの韻文経典
(とくに第一五経
「他のひとびとや生き物たちに暴力をふるうことについて」)
は釈尊の「金口(こんく)の言葉」であることを論証し得るであろうと考える。

第四章の最古層経典群にみられる釈尊の根本思想を、
ひとまずつぎの四項に要約しておこう。

(a)「いかにして輪廻業的存在から解脱して自由になるか」が主題

(b)輪廻業的存在の最古層の根拠は、
来世もしくは現世における善なる世間的存在を求め
悪なる世間的存在を避けようとする深層の欲望、
すなわち
「くり返し再生してこのまま生きていく世間的存在であろうとする深層の欲望」
であると考えられている。
いつまでも世間的存在でありつづけようとする深い欲望が
無意識の深層においてもはたらいている。

(c)その最古層の根拠は、
そのような深層の欲望とともにはたらく自我意識の対象となり、
自我意識によって所有される「個体存在」であるとも考えられている。
あらゆる他我と自我を概念構想する自我意識は
「わたくしは……」と主張し
「わたくしの……」と所有するときに「個体存在」を対象としている。
しかしこれら深層の根拠としての「深層の欲望」も
「個体存在」も、
禅定の修行によってさとりの智慧が照明するとき、消滅する。
そのときに「この世の存在でありながら年老いることもない」、
もしくは「この世に身体がいるあいだに」解脱の自由を証得することとなる。

(d)そのような輪廻的存在の最深層の根拠を消滅させる禅定の修行は、
無限の過去以来漏水してきた輪廻的存在の汚水を干上がらせ、
未来の輪廻的存在を欲望することなく、
現在の輪廻的存在に執着することのないまま
深く集中していって、時的な輪廻的存在を超克するのである。


(要約ではなく作者の解釈を勝手に混ぜていないか?
当時なかった仏教用語を使ってはいけないでしょ)


第四章 八詩頌の経

”七六九
田畑であれ宅地であれ黄金であれ、
あるいは牛馬であれ奴隷や召使いであれ、
婦女であれ親族であれ、
種々さまざまな欲望の対象に対し、
ひとがいつまでも、
むやみやたらに貪欲であるならば、

七七〇
さまざまな死神の眷属がそのようなひとを打ち負かしてしまい、
輪廻の洪水の荒波が四方八方より流れ込もうとして、
そのひとを圧しつぶしてしまう。
そうすると苦悩がそのようなひとに侵入してくる。
あたかも舟が難破したときに海水が侵入してくるように。

七七一
それゆえにひとは、
つねに瞬時もおかずあるがままに
いまここの存在を自覚しつづけて、
さまざまな欲望の対象をうまく回避しきってしまうがよい。
さまざまな欲望の対象を放捨してしまうこと、
あたかも舟に漏れ込んだ濁水を汲み出してしまうごとくであるならば、
輪廻の洪水を渡っていくであろう、
かくして彼岸に到るひととなるであろう。”
p.204

(つねに瞬時もおかず
あるがままに
いまここの存在を
自覚しつづけて、
さまざまな欲望の対象をうまく回避
する修行法の一つがヴィパッサナー瞑想。

最古の経典の最古の個所がすでに輪廻が大前提となっている。

この翻訳はおそらく釈迦が仏教と考えていないだろう時期のものなのに
仏教用語入れて翻訳するなど私は問題が多いと考えている。
この節の翻訳では
念を
「あるがままに
いまここの存在を
自覚しつづけ」と
かなり内容が限定されているのに違和感を覚える。


欲望を よく気をつけて 回避せよ 船に入った 水出すように<771>
https://76263383.at.webry.info/201501/article_22.html
”○中村元先生訳
771
それ故に、人は常によく気をつけていて、
諸々の欲望を回避せよ。
船のたまり水を汲み出すように、
それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。


○正田大観先生訳
778.(771) 
それゆえに、人は、常に気づきある者となり、
諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるがよい。
それら(欲望の対象)を捨棄して、〔貪欲の〕激流を超え渡るがよい。
舟〔に浸み入る水〕を汲み出してこそ、彼岸に至る者となる。ということで――(6)


にある
他の人の翻訳だと
sato(サトー。念をもち)は
気づくとか気をつけるとなっている。
サティ(念))



第九経 マーガンディヤ

”八三五
〔世尊が説かれる。〕
「かつて、
”深層の欲望”と
”〔修行をよろこばない〕厭悪(えんお)”と
”貪欲”という魔王の三姫が媚態を示してきたときにも、
性の歓びにひかれる魅力を感ずることすらなかったのだ。
このような大小便のいっぱいつまった肉体など、
まったくけがわらしい。
そんなものには、足ででも触りたいと思うことはない」”
p.224

(彼女らは 渇愛・不満 貪欲だ 糞尿のように 触れたくはない<835>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_27.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<835>
・・・
男は女が好きだが
人間を超越したブッダは
女を好きでも嫌いでもない。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 1.

○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」


○中村元先生訳
835
(師((ブッダ))は語った)、
「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。
わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」


○正田大観先生訳
842.(835) 
〔世尊は言った〕
「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、
〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。
この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。
足でさえも、それに触れることを求めません」〔と〕。(1)


今日から始まる「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。その時の対話がこの経です。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったということです。その内容は十三偈で構成されています。

では今回の偈について説明します。マーガンディヤがブッダに自分の娘を嫁として勧めますが、それに対してブッダは次のように語ったのです。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。この回答が今回の偈の内容です。このブッダの回答に対して、マーガンディヤの問が明日の偈で述べられます。

尚、ブッダの成道における悪魔の襲来については、スッタニパータ第3章2.精勤経(425偈から449偈)で述べられています。”

男尊女卑ガーと発狂する人に言っても仕方ない気がするが
仏教の目的は社会的に「いい人」になるのが目的ではない。
仏教の目的はあらゆる欲望の滅尽なので性欲の原因となりうる存在からできる限り離れて当然。
女性出家者にとっては当然、上記の節の「女」は「魅力的な素敵な男」となる。
性欲に囚われてはいけないから同性での性行為もダメ。
つまり上記の節は女性出家者にも当てはまる。
男女差別も執着だから捨て去らねばならない



「↓スッタニパータの文脈では糞袋(汚物に満ちたもの)は女性に擬人化された
渇愛、不満、貪欲のことであり
それらの欲望が起こらないし、触れないと言っているので
渇愛に囚われているとは言えないのでは?
単なる個人の女性だけの意味ではないのでは?」




基本、おねしょたとエロとイスラームらしきものと要らん塵が一秒でも早く絶滅することを祈って生きておるが
コレってある種の完璧なのよ
何で完璧かというと
精神の捉われとしてのおねショタと
肉体として捉えわれてるエロと
目的としてのイスラームらしきものに恨みと憎しみである要らん塵と完璧なの

よーはおいさんの渇愛したいものが見えているのと分かっているので
対処並びに対症が出来るのよ
例えば、要らん塵という最も不浄な物を対症する際は
何もかも連絡を断つや関わりを徹底的に減らす等の対症が取れるわけ
渇愛ゆうたって所詮は生まれながら持っている病気だから、付き合っていくしかないの

(上記の「」内へのエアリプかもしれない↓
釈迦が経典を自分で書かなかったのは書く行為も、
書かれた物理的な本も執着だからかも。
それだと教えを説くのもアウトにならないか?
最初は説くこと自体をしようとしなかった話は
最初は悟って誰にも伝えず死ぬという”自分が”執着を広げないと言う意味では
おそらく最良のことをしていたが
梵天に請われ、
自分一人が完璧に執着を広げないようにするよりも
より多くの”他者が”執着を広げないようにする方が
より執着を広げないことが達成されると結論したのかも)



例えば、知恵というのは「煙がでていたらどこかで火が起きている」と頭の中での想像を過去の知識と想像を参照して答えを出す事
本能というのは「顔が赤かったら風邪を引いてる」と動物として己の欲求等と無関係に起こる自然なもの
性質というのは根本的にその言葉のあやから導かれるもの

例えば、「本」といってもいろんな本があるわけで「あの本を取って」と指差した時に一つの本なら単数
「おねショタについての本」と言ったらそれはおねショタという部分についての本
で、ただ本と言った場合は紙が何かでくくらてて一つになったものという全体になる
これが「本」の性質となる

なので人間がدال و مدلول 表現したもの表現を受け取ったものである限りは解脱や悟りというのは全くを持って不能である
だから、修行僧が「まだ女性が糞袋に見えます!」と言っている時点で修行が圧倒的に足りなく、
悟りというのは表現したもの・されたものの関係から離れる事…これが「佛」教なのよ

それに強弁や強調句を用いてしまう言葉はتصدیق タスディーグ信用・正直に言う事にはならなく、
あくまでもتصور タサッボル 想像・願望の範疇でしかない
なのでこう言ってしまっている以上は
欲望の触れ幅が一般人かそれ以上に強い状態になっているので「典型的な修行していない修行僧」である

ぐださんが仰られたように
「インド人は変態」なので表現をする・される・送信する・受信する事自体が苦しみだと見切ったわけで
仏陀と言われた存在はその悟りを得た瞬間に全ての表現をやめてそのまま入滅したのは
表現自体が渇愛・不満・貪欲の全てを想起させるからなんよ
で、そんなの無理やん

そんなの全ての動物や植物ですらする事を表現塗れの現代でその縁起が切れるわけがないわけよ
なので、おいさんはコレは諸物諸相の本性であるからに持病みたいなものだから
何を執着したいのか、何に不満を思うか、何を貪りたいのかわかって付き合ていけばいいでしょと言う訳
簡単でしょ

単純な論理学さえ理解していれば、それはどこでも使えるので論理的に考えれば後は前提条件と症例をあわせて行くだけなんよ
それさえ理解して使えればどこでも大きな間違いを起こす事は減るのよ
まー…といっても人間の言葉なんて鳴き声でしかないので論理的では無いのが問題と言えるけどね…。

つーか、根も葉もないことを言えば…
不満でもなく、不安でもなく、貪るわけでもなく、
何か執着したいものがあるわけでもない人間がそういったものを探す旅をしている人間にしか
悟りの一端を見る事は叶わないので現代の貧乏人には無理です
当時と現代ではその量と質が遥かに多く、悪質ですからねぇ

例えば、冷暖房が効いた部屋に居ること自体が贅沢であるのに
それを当然と思っているという事が貧乏の起因なわけで
当時の貧しいと現代の貧しいは別な上に比較対象が様々な形で輝いているので
貧しさというものは絶対貧困ではなく、
比較貧困を貧しいと思っているのが不幸の始まりなわけです)



”八六〇
あくことなく貪欲であるということはすっかりなくなってしまい、
我利我利亡者(がりがりもうじゃ)でもなくなって、
沈黙の聖者は、自らが優越していることを言葉にすることもなければ、
対等であるとか、
劣等であるとかとも言葉にすることがない。
ああだ、こうだと構想することがなくなっていることによって、
ああだ、こうだと構想してしまうことがないのである。”
p.231

(我利我利亡者(がりがりもうじゃ)響きが凄い。
原文が知りたいと思ったので引用。

聖者らは 貪り離れ ケチでなく 勝・等・劣を言わないで 妄想しない<860>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_21.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<860>
・・・
人間はほんらい平等・対等です。
それなのに勝れているとか
等しいとか劣っていると言うのは
事実に反する妄想です。


第3 八つの詩句の章 10.死前経 13.

○毎田周一先生訳
860.
静かな人は貪らず 利己心がなく
自分が勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで
時の流れに流されず 却って時を超えている


○中村元先生訳
860
聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、
『自分は勝れたものである』とも『自分は等しいものである』とも
『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。
かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。


○正田大観先生訳
867.(860) 
貪求〔の思い〕を離れ、物惜しみ〔の思い〕なく、
牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。
等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。(13)



○パーリ語原文
866.(860)
ウィータゲードー     アマッチャリー
‘‘Vītagedho        amaccharī,
貪りを離れ        物惜しみせず

ナ   ウッセース    ワダテー    ムニ
na   ussesu       vadate      muni;
ない 勝れている    言わ(ない)  聖者は

ナ    サメース    ナ    オメース
Na    samesu     na    omesu,
ない  等しい     ない   劣っている

カッパン     ネーティ   アカッピヨー
kappaṃ      neti      akappiyo.
分別を      しない    分別しない人は


○一口メモ
貪りを離れることと慳(物惜しみ)がないことは、この死前経の五偈目(852偈)でも述べられました。これらは聖者にとって繰り返し述べられるべき重要な徳目なのです。毎田先生は「慳(物惜しみ)」がない」ことを「利己心がなく」と訳されました。852偈では「人のために尽くし」と訳されています。もの惜しみの意味を深く考えてのことだと思います。

また次の二行目、三行目の「自分が勝れているとも また等しいとも 劣っているともいわないで」についてはこの「死前経」の八偈目(855偈)でも述べられました。これらの境地は有身見(自分がいると言う感覚)のない聖者にとっては当然のことでしょう。すなわち、聖者は勝れているとか等しいとか劣っていることは単なる妄想であると実感しているのです。

四行目は、三人の先生方の訳は表現がかなり異なります。これは既に問題したことがあるkappaの意味の取り方がいろいろあるからです。kappaはスッタニパータの373偈、517偈に出てきました。517偈の「一口メモ」でその意味を次のように列挙しました。

kappaの意味を列挙してみましょう。
① 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
② 教令、法則
③ 分別、妄想、はからい、想念、概念
④ カッパ樹、如意樹

毎田先生はkappaの意味を「時間」と取って、「時の流れに流されず 却って時を超えている」と意訳されました。

中村先生は「分別、妄想」と取って、「かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」と訳されました。

正田先生は「時間」と取って「〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。」と訳され、カッコで説明されています。

851偈の「一口メモ」で述べましたように、仏教の時間論では過去・未来はなく、有るのは現在(今)のみです。今しかないのですから、時間はないとも言えるのです。無時間です。ですから、時間に関する概念や思考はすべて妄想であるのです。その意味では時間=妄想と言っていいのです。

そのような考え方に立てば、時間で訳しても、妄想(分別)訳しても同じことになります。毎田先生の四行目の意訳を解説します。「時の流れに流されず 却って時を超えている」とは「妄想の流れに流されず、かえって妄想を超えている」となります。”

我利我利亡者という単語を使ってはいけないのでは?

涅槃に至った人が翻訳したらどんな訳になるのだろう。
原文でよみなさいと言われるかもしれないが)


第五章 彼岸への超脱

第一経
説法の因縁となる仏殿の出来事を述べる詩頌

九三八で
バラモンに謝礼を払わないなら
七日たつとおまえの頭が七つに分裂するようにしてやるぞ
とバーヴァリは呪詛される。

(バラモンが7を強調する個所はスッタニパータの
しかも最古層の一つとされる五章にも登場。
ウパニシャッドに7をやたらと強調する個所がある)

一〇二六で
釈尊が
頭=無知、

頭が分裂して落ちる
=信心あり、あるがままにいまここの存在を自覚し、
 三昧に定在し、意欲をもって努力することと一体になって
 〔仏教の心理を〕明知すること

だと説明。

(七日たつと頭が七つに分裂.する呪詛では死なない(つまりバラモンの呪いは無効)どころか
(単なる脅しで言う側も本当に分裂すると思っていないかもしれないが)

涅槃に到るきっかけであり喜ばしいものに転換している。
遠まわしなバラモン教の否定。

五百金を 与えなければ その頭 七つに割れると 呪いの言葉<983>及び<984>
https://76263383.at.webry.info/201508/article_20.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<983><984>
・・・
やくざのようなバラモンは
「金をくれなければ、
お前の頭は七つに割れる」と
呪いの言葉をうそぶいた。
・・・
バーヴァリさんは悩み苦しんだ。


第5 彼岸に到る道の章 1.序偈 8.9.

○中村元先生訳
983
「わたくしが乞うているのに、
あなたが施してくださらないならば、
いまから七日の後に、
あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」


984
詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、
恐ろしいことを告げた。
かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、
バーヴァリは苦しみ悩んだ。


○正田大観先生訳
990.(983) 
〔婆羅門が言った〕
「それで、もし、わたしが乞うているのに、
貴様が施さないなら、
〔今から〕第七の日には、
おまえの頭は、七様に裂けてしまえ」〔と〕。(8)


991.(984)
虚言者のその〔婆羅門〕は、
〔呪いの〕準備をして、〔このような〕恐ろしい〔言葉〕を述べ伝えた。
彼の、その言葉を聞いて、
バーヴァリは、苦しみの者と成った。(9)

○一口メモ
注釈書によると「(呪う)用意をしてから」とは、牛糞・森の花・クサ草などを取って、大急ぎでバーヴァリ・バラモンの庵の戸口に行き、牛糞を地面になすりつけ、花をまき散らし、草を敷き拡げ、左足を長口のある水瓶の水で洗って、七歩ほど行って、自分の足裏をこすって、このような欺瞞を行って」ということです。

このような何か意味がありそうな欺瞞でバーヴァリ・バラモンを嚇したのですね。バーヴァリさんにとってはとんだ災難ですが、このおかげでバーヴァリさんはブッダに会う切掛けになったのですから、よかったのかもしれません。


五百金を 与えなければ その頭 七つに割れると 呪いの言葉<983>

恐ろしい 呪いの言葉 聞いたので バーヴァリ・バラモン 苦しみ悩む<984>”

頭とは 頭落ちとは 何ですか バーヴァリ師匠は 尋ねています<1025>及び<1026>
https://76263383.at.webry.info/201509/article_11.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<1025><1026>
・・・
危険な蛇をつかまえるには
頭をつかまえること。
輪廻の苦しみをなくすには
その頭である無明をつかまえること。


第5 彼岸に到る道の章 1.序偈 50.51.

○中村元先生訳
1025
(アジタがいった)、
「バーヴァリは頭のことについて、
また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! 
それを説明してください。
仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026
(ゴータマ・ブッタは答えた)、
「無明が頭であると知れ。
明知が信仰と念いと精神統一と
意欲と努力とに結びついて、
頭を裂け落とさせるものである。」


○正田大観先生訳
1032.(1025) 
〔アジタが尋ねた〕
「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭のことを、
さらには、頭が落ちることを、遍く尋ねます。
世尊よ、それを説き示してください。
聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。(50)


1033.(1026) 
〔世尊は答えた〕
「『無明が、頭である』と知りなさい。
明知が、頭(無明)を落とします。
諸々の信と気づき(念)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)に、
〔涅槃の境処への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進に、〔明知は〕結び付いています」〔と〕。(51)

○少年少女のためのスッタニパータ<1025><1026>
・・・
危険な蛇をつかまえるには
頭をつかまえること。
輪廻の苦しみをなくすには
その頭である無明をつかまえること。


第5 彼岸に到る道の章 1.序偈 50.51.

○中村元先生訳
1025
(アジタがいった)、
「バーヴァリは頭のことについて、
また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! 
それを説明してください。
仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026
(ゴータマ・ブッタは答えた)、
「無明が頭であると知れ。
明知が信仰と念いと精神統一と
意欲と努力とに結びついて、
頭を裂け落とさせるものである。」


○正田大観先生訳
1032.(1025) 
〔アジタが尋ねた〕
「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭のことを、
さらには、頭が落ちることを、遍く尋ねます。
世尊よ、それを説き示してください。
聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。(50)


1033.(1026) 
〔世尊は答えた〕
「『無明が、頭である』と知りなさい。
明知が、頭(無明)を落とします。
諸々の信と気づき(念)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)に、
〔涅槃の境処への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進に、〔明知は〕結び付いています」〔と〕。(51) ”)



学術文庫版あとがき 荒牧

本書は1986年出版の「原始仏典」第7巻『ブッダの詩 Ⅰ』より
スッタニパータの部分を抜き出したもの。
『スッタニパータ』は現在のスリランカやミャンマー、タイに伝えられた
パーリ語聖典(南伝大蔵経)に収録された経典の一つ。
パーリ語で
スッタ=経
ニパータ=集。
つまり経集。

諸説あるが
釈尊の生年を
紀元前463年
入寂を紀元前383年とすると
およそ2400年ほど昔。
その頃は、
ウパニシャッド哲学発達の末期であり
ジャイナ教苦行主義の勃興期であって
釈尊はそれら二つの思想運動を革命、根本転回して
仏教の中道の教えを説き始められたであろう。
釈尊入寂後、
弟子たちは師の言葉を伝承させながら発展させて、
つぎつぎに原始仏教経典を生み出していったと考えられる。
それらの「釈尊のことば」以来の原始仏教経典が紀元前1世紀頃に
西方方言であるパーリ語で記されてパーリ語経典になったとされるが、
『スッタニパータ』の第四章、第五章には釈尊自身の話した古い東方方言のマガダ語
とみられる要素が含まれており、
その点からも、
より釈尊の時代に近い最古層経典と位置づけられる。
釈迦の生の声、本来のおしえを現在に伝える貴重な経典が
『スッタニパータ』であるといってもいいだろう。
個々の経典の正確な年代を確定することは困難だが、
詩の部分はアショーカ王時代
(在位・紀元前268~232年)には成立していたと解釈できることから、
釈尊の時代から百数十年以内のことと考えられる。

註釈
二二四
真実の言葉
古代インド人は
宗教的な真実の言葉には霊力がこもっていて
その言葉を発する者の望みをかなえ
超自然現象をひきおこすと信じていた。

参考資料


スッタニパータにも地獄の様子は描写されているから
釈迦も地獄の存在は認めている。




姓は太陽 種族はシャーキヤ そこから出家 欲は求めぬ<423>
https://76263383.at.webry.info/201404/article_16.html


一切の 罪と悪とを 流し去り 妄想しない 沐浴者とは<521> ワン爺の ...
https://76263383.at.webry.info/201407/article_9.html

束縛の 結び目切って 解脱した このような人 竜と呼ばれる<522><後の散文>
https://76263383.at.webry.info/201407/article_10.html

釈迦を龍や象と呼ぶことがある
ゾロアスターの子孫のヤソが竜が大嫌いな理由の一つだろう。
ライオンや蓮や牛に喩えられることもある。
太陽の末裔と呼ばれることもある。

一切の 悪から離れ 苦を超えて 精進努力 する彼は慧者<531>
https://76263383.at.webry.info/201407/article_17.html

釈尊が 覚っているか どうなのか 三十二相 見つけましたが<548の前の序>
https://76263383.at.webry.info/201408/article_3.html

32相を備えている云々って生まれによる差別にあたらないの?
外見で悟っているかどうか判断するの?
誰が言ったかではなく内容で判断せよって釈迦は言っているんだけど?
32相を備えている肉体って人間ではないのでは?
もしかしてオーラの形とかか?

他にも7推しの個所がある。
セーラ・バラモンの弟子が300人の少年という300推しの個所もある。
300人委員会の元ネタの一つ?




後に円内に横線か点。フェニキア文字Taw「×」はヒエログリフのmarkを意味する字が元。
この×が後にギリシア文字のタウで数価300。
タウは生命や復活の象徴。
対してシータは死の象徴。
タナトス=死の頭文字がθ。

テュロスのポルピュリオス(※)によるとエジプト人は○内に×を魂の意味で使っていた。

”アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、
彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。”(創世記14:14 )

の318をイエスの磔を知らせるものだという解釈がある。
バルナバ書には創世記14:14と318を結び付け、
318が300+18であり、
18がイエスの頭文字を意味
し300(タウ)を十字架の予型(予兆、前兆)とする解釈がある。

2世紀のギリシア教父アレクサンドリアのクレメンスも300を十字架、18を主の名前と解釈…
666=18=イエス。
318=太陽でもあるので
太陽神ミトラがモデルの一つのイエスは318。

三百人員会=タウ十字信者委員会。
ヤソの古代宗教肯定派(エキュメニカル)じゃねーか!
18や666より318が本命の数字っぽいな。

300が十字架で
18がイエスだとアレクサンドリアのギリシア教父が解釈していることは完全に日本のコピペ陰謀論では隠されているな。
300人委員会と、666=18を連呼するが具体的意味に踏み込めない理由がよくわかる。
十字架委員会

と獣の数字=人間=イエス…
しかも「死の象徴であるギリシア文字θ」の完全な綴りの数価が318で
ヘリオス=太陽の数価が318!
十字架300+イエス18
=(死+太陽)318

ゲマトリアでは数価が同じなら意味も同じか関連ありと考える。
十字架は処刑器具なので死の象徴で
イエスの元ネタが太陽神ミトラだから

ぐだトマト
‏ @pteras14
12月3日
ぐだトマトさんは、ねここねこさんの
イエス
= 318
= 300(最終文字τを表す。中東系では十字印の形)
+ 18(イエスのゲマトリア、つまり666)
って解釈が好き。

調べてないんで分からないけど、
ブログ記事では教父時代の
アレクサンドリアのクレメンスの
解釈だとか何とか。


300は、ほら!300人委員会とか
昔陰謀論でよく流行ってたじゃん?
懐かしいね!

生まれると 口の中には 斧生じ 悪口言うと 己を切り裂く<657>
https://76263383.at.webry.info/201410/article_27.html


バラモン教は七世代も重視。
バラモンは 生まれによるのか 行いか その真実を ブッダに聞こう<ヴァーセッタ経の序>
https://76263383.at.webry.info/201409/article_8.html


儀式殺人どころか儀式で人間以外の動物を殺すのもダメ。

生きものに 暴力振るわず 殺さない 殺させもしない 彼はバラモン<629>
https://76263383.at.webry.info/201409/article_29.html


天界と地獄の実在を認めている。

生前と 天界地獄を見て 生滅尽 証智完成 彼はバラモン<647>
https://76263383.at.webry.info/201410/article_17.html

地獄の詳細な描写あり。

コーカーリヤは 舎利弗・目連を 誹った 紅蓮(地獄に 堕ちたと言われる<657の前の序>
https://76263383.at.webry.info/201410/article_26.html


生まれると 口の中には 斧生じ 悪口言うと 己を切り裂く<657>
https://76263383.at.webry.info/201410/article_27.html

アシタ仙人の、自分は釈迦の説法を聞く前に死ぬと嘆く話

仙人は 余命少ない 死ぬ前に ブッダの説法 聞けないと嘆く<694>
https://76263383.at.webry.info/201412/article_1.html

他の人も 私と同じと 考えて 殺さぬように 殺させないように<705>
https://76263383.at.webry.info/201412/article_12.html


欲求と 貪り捨てて 眼(め)ある人は この世の地獄 超え渡るべき<706>
https://76263383.at.webry.info/201412/article_13.html

色界に 生まれた者と 無色界に 生まれた者も この世に戻る<754>及び<755>
https://76263383.at.webry.info/201501/article_13.html


スッタニパータでもすでに釈迦は神格化されている。







梵天が何度も登場する。

”○中村元先生訳
835
(師((ブッダ))は語った)、
「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。
わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」”
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_27.html

ここから
”第四章(アッタカ・ヴァッガ)
p.186 八三六
“(マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、
あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、
またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」”

 p.186 八三七“師は答えた、
「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、
諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」”
(以上中村元訳)
に続く。
このあたりはマーガンディヤの発言も大事なので連続して引用する。

王たちが 求めるような 美女なのに 拒絶するとは 何を説くのか<836>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_28.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<836>
・・・
男は女を求めるが、
それをいらないと言うならば
何を求めているのかな。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 2.

○毎田周一先生訳
836.
「もしあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められてた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生まれかわることとを 説こうとされるのですか」


○中村元先生訳
836
(マーガンディヤがいった)、
「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、
このような宝、が欲しくないならば、
あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、
またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」


○正田大観先生訳
843.(836) 
〔マーガンディヤが尋ねた〕
「もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、
〔すなわち〕人のインダたる者(国王)の多くに切望された女性〔という宝〕を
〔求めないなら〕、悪しき見解、戒や掟、生〔のあり方〕、
さらには、〔迷いの〕生存への再生を、〔あなたは〕どのようなものと説くのですか」〔と〕。(2)

○一口メモ
マーガンディヤさんは、多くの王たちに求められている自分の美しい娘を、ブッダに拒否されたことを理解できなかったのです。男ならば美しい女を求め、自分の愛欲を充足しようするものであると考えていたからです。しかし、ブッダはそれとは違いました。そこでブッダは愛欲を超越して欲望から離れた出家者だと考えました。

それならば、どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのかを聞きたくなったのです。そのために、この偈の後半で述べられているように、ブッダの見解、道徳、生活の仕方、生存の再生(輪廻)について質問したのです。それに対するブッダの回答は明日の偈です。”

私には これだと説くことは ありません 執着排して 寂静を見た<837>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_29.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<837>
・・・
このようにしなさいではなく、
このようにしないようにと
ブッダは教えています。
この違いを知って下さい。



第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 3.

○毎田周一先生訳
837.
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
                   マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取上げないことにした
こうして初めて私は自分の中に平安を見出したのである」


○中村元先生訳
837
師が答えた、
「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、
諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、
省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」


○正田大観先生訳
844.(837) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「マーガンディヤさん、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。
諸々の法(見解)について、〔執着の対象として〕執持されたものを、〔執着の対象と〕判別して、
さらには、諸々の見解について、〔あるがままに〕見ながら、〔それらに〕執持せずして、
〔常に正しく〕弁別している者として、〔わたしは〕内なる寂静を見たのです」〔と〕。(3)

○一口メモ
今回の偈で述べられたブッダの答えは、マーガンディヤさんの期待していたものと大きく異なっていました。おそらく昨日の偈を読んだ皆さんが予想していた答えとも違っていたと思います。

どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか? 
また、善い所に生まれ変わるにはどのようにしたらよいかなど答えてくれると思っていたのです。それは世俗の人間の発想なのです。

ブッダの答えはそのような処にはありません。ブッダの答えは出世間のものです。解脱するための答えです。それには特定な方法はないのです。ですから、ブッダは「わたくしはこのことを説く」ということがないのですと答えられました。

ただ、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」と答えられました。ここで「安らぎ」は涅槃を意味していますが、執着に固執しないことによって涅槃を体験したと述べられているのです。


マーガンディヤ ブッダの言葉 理解せず 他の賢者達も それを説くかと<838>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_30.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<838>
・・・
聖者は何かを説くものだと
思いこんでいると
「私はこれを説くということがない」と
言われても
何かを説いていると思ってしまう。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 4.

○毎田周一先生訳
838.
「よく考えて確かめられた そのような見解に
          とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか


○中村元先生訳
838
マーガンディヤがいった、
「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、
<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、
そのことわりを諸々の賢人は
どのように説いておられるのでしょうか?」


○正田大観先生訳
845.(838) 
かくのごとく、マーガンディヤが〔尋ねた〕
「それらの〔前もって『こうである』と〕想い描かれたものがあり、
〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕判断があります。
牟尼よ、まさに、それら〔の断定的判断〕に執持しないで、〔あなたは〕説きます。
『内なる寂静』という、〔まさに〕その、この義(意味)を。
それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」〔と〕。(4)

○一口メモ
今回の偈は、よく頭を切り替えて読まなければ、マーガンディヤさんが誤解して頓珍漢(とんちんかん)な愚問をしたことに気づけないと思います。

ブッダは前回の偈で「私はこのことを説く」ということがないと言われているのに、
マーガンディヤさんはブッダが何かを説いていて、
そのような事柄を他の賢者達も説いておられているのかと質問しているのです。
ブッダにしてみればこのマーガンディヤさんは何を聞いているのかという気持ちになったのだと思いますが、
ブッダは明日の偈で彼の質問に答えるのではなく、自分の意図を説明しています。


見解や 学問・知識 道徳が 有ってもなくても 清らかにならぬ<839>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201503/article_31.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<839>
・・・
善いことをしても覚れない。
もちろん悪いことをしても覚れない。
ではどうするの?
それらを超越することです。

第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 5.

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
      マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」

○中村元先生訳
839
師は答えた、「マーガンディヤよ。
『教義によって、学問によって、
戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、
戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、
平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

○正田大観先生訳
846.(839) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、
〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、
戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、
戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。
しかして、これらを放棄して、執持せずして、
〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」〔と〕。(5) ”

○一口メモ
前回の偈でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問でした。そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べました。

今回の偈を繰り返し述べることになりますが、「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べたのです。

簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられたことになります。これを聞くとマーガンディヤさんでなくても、では一体どうすればよいのだと思うでしょう。後の世の禅の公案のように思うでしょう。

ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、
平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」と述べたのですが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまったのです。

見解や 学問・知識 道徳の 有無でないとは 愚かなことだ<840>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_1.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<840>
・・・
思いこんでいることは
否定されても
否定されているとは
思えない人が多い。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 6.

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
            とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」


○中村元先生訳
840
マーガンディヤがいった、
「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても
清らかになることがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」


○正田大観先生訳
847.(840) 
かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕
「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、
わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。
或る者たちは、見解によって清浄を信受します」〔と〕。(6)

○一口メモ
マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっているのです。
それ以外の考え方があるとは思いもよらないことなのです。ですからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまうのです。

そのため、
そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまうのです。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるものなのですね。
その点を明日の偈でブッダに指摘されます。

ブッダとマーガンディヤさんとやり取りを読んで理解しにくいとお考えの方は、自分がマーガンディヤさんと同じようにある固定観念(先入観)に陥っていないかよく考えて下さい。それに気が付けば固定観念(先入観)を克服したことになります。


偏見で もの聞き見れば ゆがみあり その発言は 真理に反す<841>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_2.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<841>
・・・
赤いレンズのメガネで空見れば、
青い空も赤くなる。
自分の思い込みでブッダの言葉を聞けば
ばかばかしい教えと思う。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 7.

○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
       マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている


○中村元先生訳
841
師は答えた、
「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、
執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。


○正田大観先生訳
848.(841) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「マーガンディヤさん、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して問い尋ねているのです。
諸々の執持されたものにたいする迷妄に陥り、しかして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕表象(想:概念・心象)を、微塵でさえも見なかったのです。
それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。(7)

○一口メモ
ブッダはマーガンディヤさんに教えます。毎田先生の訳が分かりやすいと思いますので、その訳で示します。「「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから、執著を離れられず、あなたは世迷言を言っている。」そして「あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか。」つまり、自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれています。

そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということでした。しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待したのです。

マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということであります。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないものなのです。たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなものなのです。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないからです。”

答えても執着を悪化させるなら答えない(無記)が最上の答え。


比較して 優劣思う人 論争する 思わぬ人は 論争しない<842>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_3.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<842>
・・・
清らかになること、
内心の平安をえることは
自分の中でも外でも
論争のないことです。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 8.

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである


○中村元先生訳
842
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。


○正田大観先生訳
849.(842)
『等しい』『勝る』、あるいは、また、『劣る』〔と〕、
彼が、〔種々に〕思いなすなら、彼は、その〔思い〕によって、〔他者と〕論争するでしょう。
〔しかしながら、これらの〕三つの種類について〔心が〕動かずにいるなら、
彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません。(8)

○一口メモ
ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えました。比較するということについて話します。二つのものを比較すると違いがあることが解ります。その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思います。或は等しいと判断する場合もあります。しかし、この判断は人によって異なるのです。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断するのです。
このために論争が起こるのです。

論争をしない人がいます。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっていますが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しないのです。何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前であります。また違いがあるのは片方の存在があるからです。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえないのです。たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげなのです。ですから勝れていることに価値を置くことは出来ないのです。

比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはありません。等しいと、自分の都合で妄想しているだけなのです。という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いています。繰り返しますが、世の中のものは違ってあたりまえなのです。それに対して論争することがあるでしょうか。”

等しいか 等しくないか 問わぬ人 一体誰と 論争するか<843>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_4.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<843>
・・・
物事の優劣を問わない人は
論争しないので
心は平安で安定している


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 9.

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか


○中村元先生訳
843
そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?
『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、
誰に論争を挑むであろうか。


○正田大観先生訳
850.(843) 
〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそ〕真理である』と、何を説くというのでしょう。
あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって、〔誰と〕論争するというのでしょう。
あるいは、また、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、
彼は、何によって、論に関わるというのでしょう。(9)

○一口メモ
この偈の毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、前偈842偈で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指しています。

そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないとこの偈でも述べられているのです。優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっています。そのため内心の平安という状態になっているのです。

ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くのですが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではありません。見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。マーガンディヤさんも少し気が付いたのではないでしょうか。”

家を捨て 在家の人と 親交せず 遍歴する人は 論争しない<844>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_5.html
"○少年少女のためのスッタニパータ<844>
・・・
家に対する愛着が少なくなったので
家を捨て遍歴します。
家を捨てなければならないから
捨てるわけではありません。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 10.

○毎田周一先生訳
844.
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない


○中村元先生訳
844
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、
村の中で親交を結ぶことのない聖者は、
諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、
人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。


○正田大観先生訳
851.(844) 
家を捨棄して、家なくして行く者――牟尼は、
村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為さずにいるのです。
諸々の欲望〔の対象〕から遠ざかった者は、〔何ものも〕偏重せずにいるのです。
〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言説を為すことはないのです。(10)

○一口メモ
優劣の思いない道に達した人、バラモンは今回の偈で述べられているように、家庭生活を捨てて、定住しないで遍歴するのです。在家の人々と親交を深めるということはありません。このような生活法をしなければならないと考えて、このようにしているわけではないのです。

道に達した人はいろいろな欲望から離れているので、世間のいろいろな事柄に期待、希望を持たないから、自然にそのような生活態度になるのです。世間の事柄に目もくれず、関心がないので、それに対して何か特別な見解を持って論争をすることもありません。

昨日の偈に対するkempsfordさんのコメント「『優劣の思いのなくなった人』。悪は無論のこと、善さえも超越し、徳行さえもない次元。ここを目指すべきであっても、今の自分には想像もできません。道のりの遠さを痛感致します。」はその通りということもありますが、あまり難しく考えない方がよいと思います。といいますのはこのような境地はどのようなものかという問題意識を持っていれば、ある因縁があるとき理解できるものだと思うからです。もう少し説明すれば、ヴィパッサナー瞑想で身受心法を観察している時は、思考していませんから優劣の思いはないのです。その時の状態を感じ、洞察すれば「善さえも超越し、徳行さえもない次元」が体得できるのではないでしょうか。"

自説を 持たない聖者 蓮のよう 欲や世間に 汚れることない<845>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_6.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<845>
・・・
泥沼から生えるハスの花は
なぜあんなに美しいのだろうか?
欲や怒りの世間のなかにいて
なぜ聖者は清らかなのか?


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 11.

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない


○中村元先生訳
845
竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、
それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、
水にも泥にも汚されないように、
そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、
欲望にも世間にも汚されることがない。


○正田大観先生訳
852.(845) 
それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、
龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。
たとえば、汚水に生える、荊ある水蓮が、
水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように、
このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、
欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです。(11)

○一口メモ
今回の偈は六行でできています。四行では表現しきれなかったのでしょうか。始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はありません。また論争すべきではないと強調しています。

次の二行はそのような聖者を蓮に譬えているのです。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出します。その時、葉や花は水や泥で汚れないのです。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されないと言うのです。

その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられています。そろそろこの経の佳境に達しました。これは解脱した聖者の境地ですが、その過程について、私は昨日の一口メモでkempsfordさんのコメントに対する答えの形で述べましたが不完全なものでした。しかしSRKWブッダさんがそれを捕捉するようなコメントを述べてくれましたので、ここに引用させて頂きます。SRKWブッダさんありがとうございました。

(以下引用)「もろもろの如来は、無思考によって覚ることが出来るとは説かない。また、思考によって覚ることが出来るとも説かない。

もし無思考によって覚ることが出来るとするならば、いわゆる空住によって覚りに達するということになるが、それによって得られるのは極めたとしても無所有処や非想非非想処に過ぎず、覚り(=解脱)ではない。

また、思考によって覚ることが出来るとするならば、それでは覚りは段階的に達することが出来るということになるが、覚りの実際は漸悟では無く頓悟である。

では、無思考も思考も修行とは無関係なのであるかと言えば、決してそんなことはない。正しくある無思考と正しく為される思考は、道の歩みの一つの糧となるからである。たとえば、字が上達する人はあるときは字について無思考であり、あるときには字について思考するであろう。

世間のあらゆることがらにこだわることなく、こだわりを離れるということについてもこだわりを離れ、真実の真相を追求するとき、人は次第次第に真実に近づく。そうしてついに解脱が起こる。

***SRKWブッダ」(以上引用)



聖者らは 慢心しない どのような 行為や学にも 固執はしない<846>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_7.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<846>
・・・
聖者の境地は
聖者しか分からない
ブッダの言葉は
覚らなければ分からない


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 12.

○毎田周一先生訳
846.
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上りはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない


○中村元先生訳
846
ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、
慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。
かれらは宗教的行為によっても導かれないし、
また伝統的な学問によっても導かれない。


○正田大観先生訳
853.(846) 
〔真の〕知に至る者は、見解に至る者ではありません。彼は、思想によって〔我想の〕思量に至ることがありません。
なぜなら、彼は、それに関わらないからです。
〔特定の宗教〕行為(業)によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません。
彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです。(12)

○一口メモ
この偈のパーリ語原文の vedagūは三人の先生の訳は次の通りです。「至上の智慧に到った人」、「ヴェーダの達人」、「〔真の〕知に至る者」、これらを三通り読んでみるとこの語のイメージが解ってきます。しかし訳は全然異なる言葉です。

それに続く訳も三人の先生の訳は同じようですが、細かいところでかなり異なります。これはブッダの言葉に対する三先生の理解が異なるからでしょう。この問題はどのように考えたらよいでしょうか。パーリ語からそれぞれの先生の訳が考えられるのです。ですから訳が間違えというわけではないと思いますが、理解は異なるということだと思います。

では読者はどのように考えたらいいのでしょうか。この場合は三つの訳をよく読んで自分が一番納得できる訳を採用してください。後日、再読すると異なる見解に到るかもしれません。覚ったら正解が解るでしょう。現代段階では私もこれが正しいとは言えません。”

無思想で 慧解脱した人 迷いなし 頑固な人は 右往左往する<847>
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201504/article_8.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<847>
・・・
頑固な人は周りの人々と対立します。
智慧ある人は対立しません。
頑固な人は智慧がないと言うことです。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 13.

○毎田周一先生訳
847.
思想を持たないものは自由を束縛されない
智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を掴んでいる人達は
ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する


○中村元先生訳
847
想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
想いと偏見とに固執した人々は、
互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」


○正田大観先生訳
854.(847) 
〔誤った〕表象が離貪した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。
知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。
彼ら、〔特定の〕表象やら見解やらを収め取った者たち
――彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」〔と〕。ということで――(13)

○一口メモ
今回の偈はパーリ語もその訳も分かりやすいので、三人の先生方の訳の趣旨は同じです。ブッダのマーガンディヤさんへの説法は、想を離れて、慧で解脱した人は自由で迷いがなく、想いと偏見を固執している頑固の人は人々と衝突しながら生きているとまとめられたのです。この偈で「マーガンディヤ経」は終わります。

以上の説明で終わらせれば簡単だったのですが、この偈の一行目の「想を離れた人」と「智慧で解脱した人」を別の人と考えると前者は心解脱した人、後者は慧解脱した人になります。そうすると心解脱と慧解脱について語らなければなりません。テーラーワーダ仏教では心解脱の人は不還果で慧解脱の人は阿羅漢です。両者もう輪廻することはありませんが、不還果の人はまだ完全には無明が除かれていないのです。心解脱及び慧解脱については「二種観察経」の727偈で述べられています。本ブログの次のブログ記事で解説してありますから参照して下さい。ただし、727偈の解説では貪欲を滅したとき心解脱と説明しましたが、ここでは想を離れたとき心解脱したということになります。慧解脱は想受滅ということになります。
心解脱 さらに慧解脱 具わって 輪廻転生 消滅させる<727>
http://76263383.at.webry.info/201412/article_31.html

尚、この経の注釈書ではマーガンディヤさんとその妻はこのブッダの説法を聞いて、出家し、阿羅漢になったということです。皆さんも解脱すべきだなと思ったでしょう。

明日からは「死前経」(死ぬよりも前に)が始まります。”







(おそらく第五章 第四経のこの個所。
生贄を 供する人は 生と老い 超えていないと 我は説くなり<1046>
https://76263383.at.webry.info/201509/article_28.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<1046>
・・・
生贄を捧げて供養する人々は
生存を求めているので
生と老いとを超えていない。


第5 彼岸に到る道の章 3.プンナカ経(プンナカ学生の問い)4.

○中村元先生訳
1046
師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。
利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」


○正田大観先生訳
1053.(1046) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「プンナカさん、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。
〔しかしながら、実のところは〕利得〔という目的〕を縁として、欲望〔の対象〕を渇望します。
彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存(有)にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、
『生と老を超えてはいない』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。(4)

○一口メモ
プンナカ学生の次の質問「祭祀によって、彼らは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」に対するブッダの解答は「彼らは生と老衰を乗り超えていない。」ということです。

その理由は、彼らの祭祀は、利得を得ることによって欲望を達成することを望んでいるからです。すなわちこの世の生存を貪っているからなのです。

この理由を納得するためには、「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておかなければなりません。

「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念なのです。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」というのです。この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪るのです。

別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続きます。そして新たな「生と老衰」があります。これは輪廻を意味しているのです。「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味なのです。欲望を欲求し、生存を貪る人は輪廻を解脱できませんから、生と老衰をのり超えられないのです。”)

ニー仏@neetbuddhist
2013年9月4日
手塚ブッダとか、仏伝として考えた場合は正確でもなんでもない作品だけど、
普通に大学の先生も薦めてるしな。漫画としては非常に優れた作品だし、
色々な基本的エピソードも断片的に含まれてるから、
それがちょっとでも興味をもつきっかけになってくれたらそれでいいのだ。

中村先生の本はわかりやすくていいですね。
岩波文庫で先生による『ダンマパダ』、
『スッタニパータ』などの翻訳も出ておりますので、
そのあたりを読まれると当時の仏教の雰囲気がつかめるかもしれません。もうお読みになってるかもしれませんが…。

(部派仏教
=釈迦および直弟子時代の初期仏教(原始仏教)を継承し
 大乗仏教と併存や拮抗してインドに栄えた伝統的学派の仏教。
 
インド部派仏教時代の形態を強く留めている、
現存する唯一の仏典がパーリ仏典。

パーリ仏典には現存経典のうち最古の経典といわれている
スッタニパータとダンマパダも含まれる。
原始仏典って言われたりする。

つまり、この仏典に反するなら原始仏教に反していることになる。

『小マールキヤ経』というパーリ仏典
に十無記というのがあり、
その中に

生命と身体は同一か(霊肉一致)
生命と身体は別個か(霊肉は別。あるいは霊肉二元論)

があり、
それに釈迦があえて答えないという答え(断定しない、言及しない)をした。

霊肉二元論のスピを否定。)

解脱者は 計る基準が 無存在 ああだこうだと 論じられない<1076>
https://76263383.at.webry.info/201510/article_28.html
”○少年少女のためのスッタニパータ<1076>
・・・
有るものにつては
議論できますが、
無いものについて
議論できないと思います。


第5 彼岸に到る道の章 7.ウパシーヴァ経(ウパシーヴァ学生の問い)8.

○中村元先生訳
1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。
かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、
あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」


○正田大観先生訳
1083.(1076) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、
滅却に至った者(解脱者)には、量るもの(認識根拠)が存在しないのです。
それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るもの〕が存在しないのです。
一切の諸法(事象)が完破されたとき、
一切の論の道もまた、完破されたのです」〔と〕。ということで――(8)

1074偈で、ブッダは既に解脱者の名称と身体について、火炎に例えて説かれました。その消えてしまった火炎については論じられないのです。滅びてしまった者には、それを論じる基準がないのです。

例えはあまり適切ではないかもしれませんが、死んだらどうなるかは実際のところは分かりません。死んでみれば分かるとも言えません。しかし、解脱の場合は、ああだこうだと論じられませんが、自分が解脱すれば、ウパシーヴァさんの質問について、言葉でなく分かると思います。ですから、自分が解脱をすることが一番です。ここにはそのようなブッダの言葉はありませんが、ブッダの仰りたいことはそのことだと思います。”

「ブッダは輪廻転生について無記の態度をとった」説は本当か?
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2016/11/08/214212
”七、学生ウバシーヴァの質問

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」”


スッタニパータ( सुत्तनिपातपाळि Sutta-Nipāta)「ブッダのことば」岩波文庫 中村 元 訳
https://wmghz.blogspot.com/2017/05/sutta-nipata.html
”七、学生ウバシーヴァの質問


1069 ウバシーヴァさんがたずねた、

「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」


1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」


1071 ウバシーヴァさんがいった、

「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」


1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」


1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」


1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」


1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」


1076 師は答えた、

「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」”


『小マールキヤ経』(巴: Cūḷamālukya-sutta, チューラマールキヤ・スッタ)は
パーリ仏典経蔵中部に収録されている第63経。
『摩羅迦小経』(まらかしょうきょう)『箭喩経』(せんゆきょう)とも。
日本語訳
『南伝大蔵経・経蔵・中部経典2』(第10巻) 大蔵出版
『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇I』 片山一良訳 大蔵出版
『原始仏典 中部経典2』(第5巻) 中村元監修 春秋社

無記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98

The unanswered questions
https://en.wikipedia.org/wiki/The_unanswered_questions

十無記と毒矢の比喩:ブッダが説かなかったこと
http://esdiscovery.jp/vision/es003/buddha2/buddhistic005.html


『法句経』(ほっくきょう)、または『ダンマパダ』(巴: Dhammapada)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8F%A5%E7%B5%8C
”Sri Lanka Tripitaka Projectによる。

第20章 - 道(Magga-vaggo)

Sabbe baṅkhārā aniccā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.
Sabbe baṅkhārā dukkhā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.
Sabbe dhammā anattā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.

(参考現代語訳)
「一切の形成されたもの(行,サンスカーラ)は無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧(パンニャー)をもって観るときに、ひとは苦(ドゥッカ)から厭い離れる。これが清浄への道である。
「一切の形成されたもの(行)は苦(ドゥッカ)である」(一切皆空)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
「一切の事物(ダーマ)は無我(アナッタ)である」(諸法非我)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。



『義釈』(ぎしゃく、巴: Niddesa、ニッデーサ)とは、パーリ仏典経蔵小部の第14経で
『スッタニパータ』に対する注釈という体裁。
伝承では『無礙解道』と共にサーリプッタ(舎利弗)の作とされる。
日本語訳
『南伝大蔵経』 大蔵出版
『小部経典』 第8巻(大義釈)-第9巻(小義釈)、正田大観、Kindle 2015年


お読みくださり感謝(合掌)
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