“小さいお帽子”に込められた美智子さまの思い 両陛下の心温まる触れ合いの記録
- 「相手に寄り添いながら…」願いが込められた”小さいお帽子”
- 除染作業現場でハプニング!陛下がとられた驚きの行動
- 難病の子らに贈った美智子さまのやさしさ溢れるこもり唄
間もなく終わろうとしている平成の30年間。
残り少ない時間を惜しむかのように、沖縄、福島、北海道など全国各地を訪問されている天皇皇后両陛下。
11月29日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系列)では、30年に及ぶ天皇皇后両陛下と国民の心温まる触れ合いの記録を振り返った。
だんだん小さくなる!美智子さまの帽子に込められた思い
オードリー・ヘップバーン、ダイアナ元皇太子妃、美智子さま。
この3人に共通しているのが、国際ベストドレッサー賞を受賞したこと。中でも美智子さまは、1985年、88年、90年と合計3度も受賞されている。
そんな美智子さまに、60年前のあの日からみんな虜になった。
ご婚約の朝、ご両親に挨拶をされる姿はため息が出るほど清楚。一転、ティアラを付け、馬車に揺られる姿は、まるでおとぎ話に出てくるプリンセスのよう。
美智子さまの装いは、時にカジュアル、時にフォーマルで常に、新しい時代のファッションリーダーでいらした。
1950年代後半、そんな”ミッチー・スタイル”は大ブームとなり、60年代に日本中でミニスカートが大流行した際には、美智子さま流の上品で控えめなミニスカート姿も披露されている。
このような美智子さまの装いの中で、美智子さまが身に着けられる「帽子」が大きく変わってきた。
皇太子妃時代には、つばの広い帽子もよく被られていたが、時と共にその大きさはどんどん小さくなっていった。
フジテレビ宮内庁記者・宮﨑千歳記者は「お帽子が大きいと、相手の方との距離が必要になり、限られた時間でいろいろな方と心の通い合いをなさりたい、というお気持ちがおありだと思うので、お帽子が邪魔にならないように、あと相手や周りの方からお顔が見えやすいように、そういうご配慮もおありなんだと思います」と話した。
ご高齢の方に耳を傾けられるとき、相手の耳元で話をされたいとき。
美智子さまの小さなお帽子には、相手に寄り添いながら話を聞きたい、できるだけ近くから言葉を伝えたいという切なる願いが込められていた。
除染作業中にハプニング!陛下がとられた驚きの行動
東日本大震災から1年半が経った、平成24年(2012年)10月。
両陛下のお姿は、原発事故後の影響に苦しむ福島第一原発から約22キロの福島県川内村に。
「帰村宣言」が出たとはいえ、除染作業も始まったばかりで、住民には不安の色が色濃く残っていた。そんな中、陛下は住宅で行われていた除染作業をご覧になった。
ハプニングが起きたのはその時。陛下を除染現場へ案内した、川内村・遠藤雄幸村長は「除染作業は高圧洗浄で水をかけています。それが霧状になっていて、その時に風向きが両陛下の方に向きまして。その霧が、両陛下にかかったんです」と当時を振り返った。
除染とは、放射性物質を洗い流す作業で、その時水しぶきが陛下に降りかかったという。
近づける範囲を事前に定めていたが、陛下はなんの躊躇もなく、その奥の除染現場へと近づいて行かれた。
そして、作業員に歩み寄られた陛下は「ご苦労様です…。こういった作業は大変でしょう」と作業員を労われた。
遠藤村長は「作業車まで行く、そして作業車は高いですからね。作業員に声かけるときは、陛下が上を見て声をかける。そして作業員は見下ろすような形です。そういったシチュエーションが、良いのかなと思いました。陛下は、全くそういうことを気にかけず、作業員に労いの言葉を掛けられていました」と話した。
さらに、放射性物質と向き合う高所作業車の作業員にも声を掛けられていた。
そのお姿は、不安な住民たちをどれほど勇気づけたのか。
遠藤村長は「いつも除染や復興、気持ちが不安の中で、先行きが見えない中でストレスを感じていました。そういった中で、両陛下のご訪問でしたので、住民の人たちも安堵されるというか、落ち着いたような気持ちになれたんじゃないでしょうか」と語った。
被災地を勇気づけた陛下のご訪問
フジテレビにだけ保存されているある写真。そこには、陛下と被災地のある物語が隠されていた。
平成23年(2013年)7月23日に、陛下が訪れた福島県桑折町。
全国でも屈指の桃の産地として知られるこの街は、原発事故以来、風評被害に悩まされいてた。
陛下は生産者を励ましたいと、翌日果樹園を訪れる予定だったが、夜半から降り出した雨は福島県内に甚大な被害をもたらし、陛下は果樹園訪問の中止を決断された。
街に無念の色が滲む中、どうしても生産者と会い、直接励ましたいと思われた陛下は、お泊りの宿「吉川屋」の会議室で、撮影も録音も禁止の懇談をされた。
それがこの時の一枚。
テーブルにはその日の朝、獲れたての桃が並べられた。
生産者は緊張のあまり、ほとんど桃を口にできなかったが、両陛下は風評被害に臆することなくすべてを召し上がった。
お心遣いはお泊りになった旅館にも及んだ。
宿をお立ちになるとき、美智子さまは「吉川屋」の女将さんに「頑張るのよ、頑張って」と言葉を掛けられたという。
さらに、旅館を後にされた両陛下は、南の福島駅へと向かわず、東へと進み桑折町へと立ち寄られた。
多くの町民が待っているとお聞きになった両陛下は、少しでも姿を見せたいとわざわざ遠回りをして、訪問がかなわなかった桑折町を通り、福島駅へと向かわれたという。
難病の子らに贈った美智子さまのこもり唄
これまでに両陛下が訪問された国々は、皇太子時代も含めて58か国。
どこへ行かれても、美智子さまは子どもたちに大人気だった。
昭和55年(1980年)、皇太子妃時代にフィンランドを訪れた際には、会話中に突然子どもからサインをせがまれた美智子さまが、とっさのご対応で周囲を和ませる場面も見受けられた。
平成21年(2009年)、カナダ・トロントで、難病と闘う子どもたちが入院する小児病院を訪問された両陛下。
これまでも外国に出かけると、子どもたちと過ごす時間を大切にされてきたが、この日のプレゼントは特別だった。
待ちわびていた子どもたちに見つめられた美智子さまは、英語で「日本を発つ前から、この度伺う、こちらの読書室で私も皆さまに何かお話を読んで差し上げられないだろうかと、お勧めを頂いておりました。
限られた時間内で読める短いお話を探すことが出来ず、かわりに小さな日本の唄『ゆりかごの唄』を歌うことにいたします。歌手のようによい声で歌うことはできませんが、3人の子どもたちによくこもり唄を歌った経験だけを頼りに、歌ってみます」と語られた。
我が子のために何度も歌ったこもり唄「ゆりかごの唄」を披露された美智子さま。
言葉の壁を超えて、子供たちの心に響いた美智子さまの唄声。歌い終えた美智子さまは「どうか今夜ぐっすりとお眠りになりますように、陛下とともに皆様のお幸せを祈っております…」と子どもたちに向けてメッセージを添えられた。
また、カナダ訪問中に両陛下が残された貴重なものも。
毛筆で書かれたお二人の署名。ページの右上には陛下のお名前、そして美智子さまはそっと一段下にご自分のお名前を。
まるで、お二人の姿そのもののような署名がカナダに残されていた。
1992年(平成4年)に、山形国体で陛下へ向けて発煙筒が向けられたとき、とっさに陛下を守ろうとされたのは、美智子さまだった。
そして、東日本大震災で被害に遭った被災者と床に膝を付き、お話になられる姿が強く印象に残っている。
平成が終わるのも、あとわずか。
この30年間、お二人の、互いを慈しみ、支えあう姿に、日本人としての誇りとたくさんの勇気を頂いている。
「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54