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今日は、その赤穂浪士討ち入りの日です。
そこで毎年恒例となりました、赤穂浪士外伝「紅扇に乗せた梅の花〜矢頭右衛門七(やとうえもしち)」をお届けしたいと思います。
泣けるお話です。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)せんだって、赤穂浪士討入の理由について、このブログに書かせていただきました。
要約すると、江戸時代の日本では権力を行使する者は、同時にそれに等しい責任を必ず負担していた。
浪士の討ち入りについていえば、その責任者は将軍となり、その将軍への責任を回避するために知恵者の柳沢吉保が知恵を絞って行ったのが、討ち入りを義挙とすることであった、というものです。
ちなみにこのとき、コメント欄で「(将軍と勅使の席次が変更になったのは)十四代将軍家茂の将軍の時代であった」というコメントをいただきました。
要するに赤穂浪士討ち入りから200年近く経ってから制度が改められたわけで、その意味ではご指摘の通り赤穂浪士討ち入りとは、直接の因果関係はないともいえます。
けれど、多くの人々が赤穂浪士討ち入りの真実を知り、また光格天皇によって京都学習院が開設されてあらためて皇室の重要性が世間の常識となり、ようやく長年の伝統に変更が施されたわけです。
そこから私達は、たとえどんなに正論であったとしても、ひとたび定められた伝統を変えるのは、それだけ大変な歳月がかかることだということを學ぶ必要があるように思います。
さて、今日は、その赤穂浪士討ち入りの日です。
そこで毎年恒例となりました、赤穂浪士外伝「紅扇に乗せた梅の花〜矢頭右衛門七(やとうえもしち)」をお届けしたいと思います。
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赤穂浪士外伝
紅扇に乗せた梅の花
矢頭右衛門七(やとうえもしち)
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▼ 矢頭右衛門七の恋
12月14日といえば、赤穂浪士討ち入りの日です。
赤穂浪士の物語というのは、本編(浅野内匠頭と吉良上野介の確執、切腹から討ち入りまで)のお話だけではなくて、四十七士のその他の登場人物のひとりひとりに、それぞれの細かなエピソードがたくさん残されています。
ここまでくると、もうどれが実話で、どれが脚色なのか、さっぱり分かりません。
それらのエピソードの中でも、私が特に好きなのが「矢頭右衛門七」のお話です。
矢頭右衛門七は、討ち入りのときわずか17歳でした。
大石主税(おおいしちから、内蔵助(くらのすけ)の息子)につぐ若さです。
当時は「数え年」ですから、いまでいったら16歳。
それも栄養事情がいまよりはるかに悪かった時代ですから、見た目はいまの13、4歳くらいだったかもしれません。それでもやはり武士は武士です。
はじめ大石内蔵助は、右衛門七を同志に加えることを、あまりに若いからと許さなかったそうです。
しかし同志に加えなければ切腹もしかねないという右衛門七の真剣な姿に内蔵助もついに折れ、父、矢頭長助の代わりとして同志に加えています。
右衛門七は、討ち入り後に「赤穂浪士には女が交じっている」と噂されたほどの美男子であったといわれています。
さて、時は元禄15(1702)年の秋のこと。
上京した右衛門七は、大石瀬左衛門とともに浅草の花川戸の裏店に住んでいました。
近くには、浅草山の聖天宮があり、そこは紅葉の名所でした。
まだまだ隅田川の水も、透明できれいだった頃のことです。
透き通った青空に、ぽっかり浮かんだ白雲、隅田の川面には、浅草山の真っ赤に燃えた紅葉が見事に映(は)えていました。
そんなある日、右衛門七(えもしち)が、ひとり紅葉見物に歩いていると、浅草山の崖の上から紅色の扇子が落ちてきました。
「ハテ、紅葉のように美しい扇子だが、
誰が落としたものか・・・・」
右衛門七は落ちてきた扇子を拾い、持ち主に届けようと坂道を登りました。
するとそこに同じくらいの年頃の美しい少女がいました。
時は元禄の世、まさに日本中が好景気にわいた頃です。
少女は実に美しい着物を着ています。
右衛門七が、
「もしやこの扇子は、あなたのものでは?」と声をかけました。
少女は、顔を真っ赤にして、
「よけいなことをしないで!」と、走り去ってしまいました。
近くにいた町方のおじさんが、右衛門七に声をかけます。
「そこなお武家さん、
野暮なことをしちゃぁいけません。
これは紅葉供養っていってね、
年頃の娘さんが、
良い夫が見つかりますようにって願いをこめて、
ここから下の紅葉の中に紅扇を捨てるんでさあ。
それを拾うってなぁ、
雰囲気ぶちこわしってことですよ」
知らなかったとはいえ、ささやかな乙女の願いを邪魔してしまったことを深く恥じた右衛門七は、こんど少女を見かけたら、ひとこと謝ろうと、何日か浅草山に出向きました。
二、三日たったある日、右衛門七は、ようやく少女を見つけました。
少女は、紅葉の枝を取ろうと、背伸びをして手を伸ばしていました。
「おどきなさい。私がとってあげよう」
抜く手も見せぬ早業で剣を抜き、一瞬で枝を切り落として剣をパチリと鞘におさめた右衛門七に、少女は目をまるくして言いました。
「まぁ、なんということをっ!
私は願い事を書いた短冊を、
枝に結び付けようとしていたのです!
それを切り落とすなんて!」
田舎から出てきたばかりの武骨者の右衛門七には、花のお江戸の若い女性の習慣など、知るよしもありません。
親切にと思ったことが、またまた裏目に出てしまいました。
よかれと思って女性にしたことが、かえってひんしゅくとなってしまって、「あなたにはデリカシーがない!」と叱られてしまう。
こういうの、なんだかすごくよく分かる気がします。
▼捨てた命と恋心
それから何日かたったある日、右衛門七が川べりを歩いていると、そこにあの少女がたたずんでいました。
見ると川面には、なにやら荷物のようなものがプカリプカリと浮いています。
『こんどは間違っちゃイケナイ』と思った右衛門七。
行動を起こす前に、ちょっと慎重になって、先に声をかけました。
「何を流しておいでなのですか?
これも何かの風習でしょうか?」
「ちがうのよ。大事なお届けもののお荷物を
川に落としてしまったの。
お願い、拾って!」
「ええ〜〜!」
驚いた右衛門七は、おもわず初冬の隅田川に飛び込んでしまいました。
荷物は無事に拾い上げたけれど、全身、水浸しです。
「さ、寒い!」
こうなったら、もはや走るしか体を温める方法はないとばかり、右衛門七は近くにあったゴザで身を覆うと、後ろで何か叫んでいる少女を差し置いて、いちもくさんに家に向かって駆けだしました。
少女は、浅草駒形の茶問屋、喜千屋嘉兵衛(きせんやかへい)の娘で、お千(せん)という名でした。
茶問屋さんというのは、江戸時代はどこも大店(おおだな、大金持ち)です。
いくら若い男女のこととはいえ、娘がお武家さまを冬の川に飛び込ませたとあっては一大事です。
親御(おやご)さんは、とにかくお礼をしなくてはと、家にあった反物(たんもの)を使って、お千にお侍さんの着物(きもの)を縫(ぬ)わせました。
何日もかけて、ようやく右衛門七の住まいを見つけた家の者は、右衛門七をお千の家に招待しました。
そしてお千が縫った着物を右衛門七に渡そうとしました。
ところが右衛門七は、
「そのようなお気づかいは、ご無用に」と、受け取りません。
「せっかく心をこめて縫ったのに、受け取らないなんて!」
お千は泣いて、奥に引っ込んでしまいます。
そこに、ばあやが出てきます。
聞けば、お千は不治の病(ふじのやまい)で、もういくばくの命もないそうです。
そして、お千の家の茶問屋では、宇治茶を「吉良家(きらけ)」にしばしば届けているといいます。
「これは!」
吉良家の動静を知るうえで、重要な手掛かりになるかもしれません。
右衛門七は、お千の縫った着物を受け取り、またの来訪を約束しました。
若い二人です。
美しい大店の娘と、女と見まごうほどの色男の右衛門七です。
二人には恋心が芽生えました。
しかし右衛門七は、討ち入りしたら死ぬ身です。
「いくらお千さんのことが好きでも、
私は彼女を幸せにすることはできない。
そうと分かっていながら、
お千さんの家が吉良家に出入りしていると知って、
私はお千さんに近づいている。
それは、お千さんを利用しようとしていることになるのではないか。
そのようなことをしていて良いのだろうか・・・・」
しかしお千の命はあと半年です。
「お千さんも私も長くはない命。
せめてその短い間だけでも・・・・
いや、しかし・・・・」
右衛門七の心は、千々に乱れました。
「それでも、会いたい。無性に・・・・」
▼無言の再会と永遠の別れ
12月14日、朝からしんしんと雪が降る日、屋敷にいた右衛門七のもとに、お千がやって来きました。
お千は、ひどい高熱でした。
お千は右衛門七に告げました。
「今夜、吉良家で茶会が開かれます。
吉良様もご在宅です」
右衛門七は高熱に冒されているお千を、籠屋(かごや)を呼んで家に帰すと、すぐさま討ち入りの仲間に、「今夜」と報告をしました。
もともと体の弱かったお千は、雪の中を無理をして走ったことがたたって、床に伏せてしまいます。
そして、討ち入り。
翌朝、お千のばあやが血相を変えて、お千の部屋に飛び込んできました。
「今朝早くに深川へお茶を届けに行くと、
たいへんな騒ぎで、
なんでも赤穂の浪士が吉良邸に討ち入ったとか!」
そこへ引き揚げの赤穂の浪士がやって来たというのです。
「右衛門七さまも、いましたか?」
「ああ、いましたとも!いましたとも!」
ばあやを見つけた右衛門七は、隊列を抜け、ひとこと告げました。
「ばあやどの、
昨夜はお千さんのもとにお見舞いに行けませんでした。
お千さんに、すまぬと、お詫びしてください。
すまぬとひとこと」
討ち入りのあと、赤穂の浪士たちは、細川、松平、毛利、水野の四家に、別々に預けられました。
矢頭右衛門七は、水野家にお預けです。
年が明け、梅の花が咲く季節となりました。
ようやく床から起き上がれるようになったお千は、水野家を訪ねました。
けれど右衛門七は罪人です。面会謝絶です。
水野家では門前でお千を追い返そうとするのだけれど、見ればお千は、病いで苦しそうな様子です。
その様子をたまたま水野のお殿様が目にしました。そしてお千に、
「梅が見たいのなら、
小庭をまわって見られたらよかろう」と言いました。
「えっ!?」
「ただし、けっしてお声をお出しなさるな。
梅を見るだけじゃ」
(きっとそうだわ。右衛門七さまに会わせてくださるのだわ)
お千は涙を流しました。
一緒にいたばあやは、あの勝気だったお千が、こんなにもいじらしくと、これまた涙を流します。
水野のお殿様は、その足で浪士たちがいる部屋に向かうと、右衛門七を見つけ、
「矢頭殿、庭に梅が咲いております。
庭へ下りてご覧になったら、いかがかと」
「はて?ここからでも梅は見えますが・・・・」
「そういわずと、さぁさぁ、庭にお出なされ。
ただし、どんなに美しくても、
決して声は出してはなりませぬぞ」
おかしなことを言う老人だと思いながら右衛門七は、水野の殿様の勧めにしたがって、庭に出ました。
すると庭の境の垣根の向こうにお千の姿が。
二人は互いの目と目をじっと見つめ合いました。
声を出すことは禁じられています。
(右衛門七さま、たったひとことでいい。
いつわりの恋ではなかったとお聞きしたかった)
(お千さん、あなたへの気持ちは真実だと伝えたかった)
二人は声に出さずに目だけで、そう会話しました。
右衛門七は、懐(ふところ)から紅扇を取り出しました。
そうです。
それは最初に二人が出会ったときに、お千が投げた、あの扇子でした。
右衛門七は梅の小枝を一枝手折り、小枝を紅扇に乗せて庭の小川に流しました。
扇子はゆっくりと、お千のもとへと流れつきました。
ひとことも語ることは許されませんでした。
けれど何も語る必要はありませんでした。
二人の目と目が、心と心が、百万の言葉を費やすより雄弁に強く互いの心を知りあてていたのです。
そして紅扇に乗せた梅の花が、すべてを伝えてくれました。
間もなく右衛門七は水野の家人から、お千の死を知らされました。
「お千殿は、
おそらく右衛門七殿の心を知りたくて、
弱り切った体で無理をしてやって来られたのであろう」ということでした。
元禄16(1703)年2月4日、赤穂四十七士に切腹のお沙汰が下りました。
水野邸においては、右衛門七が先んじて短い命を絶ちました。
矢頭右衛門七切腹。
介錯人杉源助。
享年十八。
▼物語から学ぶ日本人の美徳
矢頭右衛門七というのは、母と三人の妹の世話で苦労したことでも有名です。
父は赤穂藩勘定方の矢頭長助。
母は姫路松平家の家臣の娘です。
元禄14(1701)年3月の浅野内匠頭の殿中松の廊下での刃傷のあと、4月19日には、早々と赤穂城が開城されて引き渡しになっていますが、このとき大石内蔵助のもとで、藩の財務の残務処理を最後まで行ったのが、右衛門七の父の長助でした。
心労がたたった長助は、その後寝たきりとなり、元禄15年8月15日に病死しています。
右衛門七は義挙に加わるため、母の実家の松平家の奥州白河藩に、母と妹たちを預けようとしました。
しかし旅慣れていないせいか静岡の新居関所で女手形がないため通ることができず、やむなく大阪へ引き返しています。
そして同年9月に討ち入りのために江戸に向かい、翌元禄16年に切腹しています。
母と妹三人は、浪士らの義挙の後、その苦労が世間の知るところとなり、奥州白河藩へ行くことを許されました。
そして妹三人は、それぞれ松平家の家臣の家に嫁ぎ、母もその地で暮らしています。
お千という女性は創作で、水野家にやって来て対面したのは右衛門七の妹であり、母の縫った襦袢を持ってきたときのエピソードだという話もあります。
どれが本当の話かは分かりません。
けれど恋に不器用な男子が、忠義と恋の板挟みで悩み、見事、討ち入りを果たして恋の一念をも貫き、また水野のお殿様の配慮で、再会したときも、ちゃんと約束事を守って言葉を交わさなかった。
そういうルールを遵守する日本人の気質など、さまざまな要素が右衛門七とお千の物語には入っているように思います。
ちなみに、右衛門七は、『東海道四谷怪談』にも登場します。
お岩さんにひどいことをした民谷伊右衛門(たみやいえもん)を、ラストシーンでバッサリ斬って一件落着させるお岩さんの妹の旦那、佐藤与茂七が、矢頭右衛門七をモデルにしたキャラクターです。
この物語は、いわゆる「歴史」ではありません。
しかし、とても大切なことを教えてくれていると思います。
吉野山で義経が女人禁制を守って静御前と別れたり、右衛門七が約束を守ってお千と言葉を交わさなかったりするのは、「お天道様が見ている」からです。
誰もいないところでも、ちゃんと約束を守る・・・そういう社会が、あるいはそういう気質が、日本人の原点にあります。
騙す人と騙される人がいたとき、「騙すほうが悪い」と考えるのが私たち日本人です。
けれど世界は「騙されるほうが悪い」。
騙されるのは馬鹿だからだと考える国や民族のほうが、むしろ多いものです。
ただ思うに、「騙すほうが悪い」とする文化こそ、世界の多くの民衆が切望する世の中といえるのではないでしょうか。
私たち日本人は、古い昔から、約束事や決まりを大切にし、それをキチンと守る文化を育んできました。
それはとても大切な、守っていくべき日本の美徳ではないかと思います。
そして、私たちがそういう文化性を持った民族であり国民であるということは、世界に向けて堂々と発言すべきものであると思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
※このお話は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人 第二巻』からお届けしています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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