「どうぞ」
貧乏くじを引いた。銭形を先導する看守はそんな顔をしていた。文字通りくじ引きか担当日だったのか、どちらにせよ看守は最低限の職務と態度は保っていた。
一〇〇メートル四方を二〇メートルを超える塀で囲い、塀の上部にある有刺鉄線には高圧電流が常時流されている。一〇メートル毎に配置された中央制御されていない機関銃は、塀の内側を動く物体を無差別に攻撃するように作られている。
無駄な事だと思いながら銭形は塀の内側に唯一ある人工建造物に向かって一人で歩いて行く。銭形の背中には異常に大きな背負袋。
「では一時間後に」
看守は塀にただ一つだけある扉を閉めた。この扉は一時間後にただ一度だけ開く。その後は三ヶ月後まで決して開かない。そして機関銃は塀の内側で動く物体を無差別に攻撃する。
「大層なことだな」
銭形は人工建造物に向かって歩き始めた。一歩ごとに肩紐が体に食い込み、ギシギシと音を立てた。銭形の額から汗が流れ、鼻筋を伝って顎から流れ落ちた。それは荷を背負っているからではない。夏の暑さのせいだった。アブラゼミがシャワシャワと命を削りながら雌を呼んでいた。
国際S級犯罪者特別刑務所。
法務省がたった一人の犯罪者を収監するために建造した特別刑務所だ。塀の内側には厚さ三メートルを超える、鉄骨とコンニャクが埋め込まれたコンクリートで作られた建造物がただ一つあるだけ。
建造物の周囲には所々銃痕の跡があり、骨になった鳥の死骸が転がっている。敷地内には草一本生えてない。強力な枯葉剤で草は枯れ、地面が剥き出しになっている。この地面の下にも鉄骨とコンニャク入りのぶ厚いコンクリートが敷き詰められている。
周囲は地雷原だ。どこにいくつ埋められているか誰も知らない。設計図もルパン対策に既に破棄されている。
脱走を防ぐ為か侵入を防ぐ為か、或いは両方か。今となっても銭形にもその意図を確認する事が出来ない。
特別刑務所にインフラは整備されていない。上下水道、電気、ガス。全て存在しない。明かりは三ヶ月ごとに交換するバッテリー式のLEDライトのみ。水は独房に据え置かれたタンクから。地下一〇〇〇メールまでボーリングした穴で用を足す。水を利用して清拭は可能だが、使用済みの布を洗濯することは出来ない。
収監されている犯罪者を逮捕したのは銭形だ。ルパンと袂を分かち、紀伊山地の山奥で修行をしていたところを確保したのだ。この時銭形はまだ
収監されている犯罪者の名は、石川五ェ門。
伝説の大泥棒、石川五右衛門を祖にして、当代数えて一三代。仕込み刀の斬鉄剣で、ありとあらゆる物を切り裂き、これまで何度もルパンの大仕事を輔けている名実共にルパン一家の一人だ。
性格は冷静・実直。剣だけでなく空手も示刀流の免許皆伝で、忍者の訓練も受けているため銭形と同様に驚異的な身体能力を持っており、並の人間が数を頼んでも到底太刀打ち出来ない事はとっくの昔に証明されている。
銭形は過去に法務省と契約を結んでいた。三ヶ月に一度だけ、囚人に食料・物資を運ぶ契約だ。石川五ェ門の脱獄を恐れた法務省が
独房の中は意外と整理されていた。六畳程の独房の隅に飲料用の水タンク、食料・物資、布団一式が並べられていた。不思議な事に異臭はしない。ルパン一味のやる事だ。考えても仕方がない。ゴミは目立たない。持ち運ばれる食料に包装はない。剥き出しだ。僅かに出るゴミは排泄用にボーリングで開けられた部屋の隅の穴に入れてしまえば事足りる。
「これは儂からだ。検閲は済んでいる」
敷き詰められた畳は僅かばかりの温情なのだろうか、畳の上で座禅を組む五ェ門に銭形は剥き出しのそれを投げた。五ェ門は自らに向かって来るそれを一瞥し、片手で受け取ると懐からさらしを取り出し大事に包んだ。
沢庵だ。
検閲で端が削れているが食用にはなんら問題なかった。
「礼を言う」
「ふん。人権無視のこんなところでよく生きていられるな」
銭形は背負った資材を下ろした。下ろすだけだ。後は五ェ門が勝手にする。背負袋は首を吊るにも使えるが銭形が知ったことではない。それに五ェ門がこんなところで自死するはずがない。背負袋は首を吊らなければ自然に分解され早ければ一ヶ月で土に還る。
コンクリートに囲まれた独房は窓もなく光もない。バッテリー式のLEDライトがあるだけだ。外部からの音を一切遮断し内部は無音である。インフラは一切なく情報も入らない。並の人間なら即座に音を上げるだろう。
「銭形の好みではないな」
「儂ならこんなまどろっこしい事はせん。即縛り首だ」
銭形は首に縄を当てる仕草で五ェ門に当てつけた。銭形はルパン一味を一網打尽にして全員を縛り首にすることを目標にこれまで頑張ってきた。五ェ門も当然それを知っている。
よっこらせと銭形が畳に座った。約束の時間までまだある。外で機関銃に身を晒すのは銭形とて嫌だった。まだ独房の中の方がましだった。
独房の扉は開いたままだ。ここにお互いの共通認識があった。
五ェ門は逃げない。
長期の独房生活で五ェ門と言えども足腰は弱っている。斬鉄剣の有無に関わらず銭形がいる以上脱獄は不可能だ。そして脱獄する以上、銭形は容赦なく五ェ門を射殺する。
「五ェ門。何故逃げん?」
「……」
脱獄のことだ。五ェ門は過去に幾度となく脱獄に成功している。法務省もそれを警戒して人権無視の特別刑務所を作ったのだ。
「お前ならルパンに関係なくこの程度の施設なら逃げれるはずだ。ここには監視カメラの類はない。逃げたとしても発覚するのは三ヶ月後だ」
「……」
「ルパンを待っているのか?」
「……」
「これまでお前達を死刑には出来んかった。政府はルパンの報復を
「アルカトラズで収監されている次元も同じだ。アメリカ政府もルパンの報復を
「……」
次元大介。五ェ門と同じくルパン一味の一人だ。凄腕のガンマンで銃器全般に深く精通している。精密射撃と早打ちを両立させ、単純な銃での勝負なら銭形とて敵わない。銭形はその次元を五ェ門に先駆けて逮捕していた。現在はアメリカ、アルカトラズ島にある連邦刑務所に収監されている。
「……今は恐れていないと?」
「ルパンの評価は暴落した。盗みに失敗続きのルパンを怖がる者は
「そうか」
それはそのまま銭形の評価として帰ってくる。良くも悪くも二人は有名過ぎた。銭形は足を組んだまま両手を頭の後ろで組み、ごろんと畳の上に寝転がった。
「お前の命も保って一年って所だ。これまでの付き合いだ、花くらいは備えてやる。がっはははは」
背中側で寝転ぶ銭形の顔は五ェ門からは見えない。見えないがどんな顔をしているかは想像できた。五ェ門の口角が僅かだけ上がった。
「こんなところで時間を潰すよりルパンを追い掛けたらどうだ?」
五ェ門は銭形が息を飲む気配を感じた。
「……儂はもうお前たちを追わん……いや、追えん。警視庁に呼び戻された。今や儂の名は無能で役立たずの代名詞だ」
「……」
ルパンの失敗。銭形の落胆。それだけで五ェ門は事情を察した。
「時間か」
銭形は腕時計を見て起き上がり、五ェ門に何も言わず扉に向かった。
「ルパンはあれからどうなった?」
銭形は足を止めて振り返った。
「気になるのか? お前がここで待っている。それが答えだ」
「……!」
がちゃりと音を立てて扉の鍵が閉められた。独房に静寂が戻った。LEDライトが薄暗く周囲を灯ているだけだ。忍者の訓練も受けた五ェ門は自らの身体から出る音を難なく消す事が出来る。
無音。
独房を完全な無音が支配した。常人なら発狂必至の独房で五ェ門は六ヶ月に渡り耐えている。語る者は誰もおらず、前回話をしたのは、三ヶ月前に物資を運んできた銭形だ。
筋力が落ちぬよう日々訓練をしているが限界はあった。銭形は五ェ門が脱獄出来ると言っていたが、買いかぶりだ。事前に入念な準備をしていればそれも可能だっただろう。斬鉄剣もない。そして心のどこかに甘えがあったのかもしれない。ルパンが助けに来てくれると。誰もに頼れず独房の中からでは今から準備していては、脱獄は優に半年はかかるだろう。
精神も少し参っていた。焦燥だ。薄暗い独房に一人でいる事は精神収容の修行だと思えばなんでもない。焦燥の原因は情報だ。一切情報が入らなかったからだ。これまで投獄されてもルパンとは何らかの手段で連絡は取れていた。しかしこの六ヶ月、ルパンとは一切連絡が取れない。
ルパンと袂を分かったとは言え、過去に何度もあることだった。人誑しのルパンにいつの間にか有耶無耶にされ、共に仕事をこなしている内にわだかまりは無くなる。これまでそれの繰り返しだ。六ヶ月に渡り連絡一つ付かなかった事など、これまでに一度たりともない。
銭形は僅かなりとも情報を持ち込んだ。銭形に五ェ門を気遣う義理などない。五ェ門も探りを入れられていたのだ。ルパンとの繋がりが切れた事は完全に悟られてしまった。それはルパンが狂ってしまったあの日から変わらず狂ったままだと言うことだ。次元も五ェ門も必要とせず、犯罪美学すらかなぐり捨てて。
銭形に覇気はなかった。警視庁への呼び戻しは事実上、ルパンを追えなくなった事と同義だ。ルパン逮捕の天下御免の免罪符が消失するからだ。さぞや落ち込んでいる事だろう……
五ェ門はあり得ない過程を否定する。
そんなはずはない。法の番人が法の目を掻い潜り、五ェ門をして卑怯と思える手段を使い、時には法すら犯して何度も追い詰められた。執念と言っていいだろう。銭形のルパン逮捕の情熱は簡単に消えるものではない。文字通り人生を掛けていたのだ。銭形と敵対し、追い詰められ、出し抜き、逃げてきた五ェ門だからこそ思う。天下御免の免罪符がなくなった程度でルパン逮捕を諦める銭形ではないと。ルパンが狂ってしまった程度で投げ出す銭形ではないと。
「まずは食事か」
収監され、脱獄の目処が絶たない五ェ門に当面の出番などないだろう。しかし何が起こるか分からないのが人生だ。波乱万丈はルパンと銭形だけの専売特許ではない。常在戦場で有り続けるため腹ごしらえは急務だ。
五ェ門は沢庵を懐から取り出すと、ぽりぽりと久しぶりの心地よい音を楽しみながらゆっくりと食べ始めた。
■
銭形は帰路についていた。時刻は夕刻だ。今までなら考えられない時間だった。世界を転々としてルパンを追いかけていた。それが今では定刻で帰宅だ。
日中の内に太陽の恵みを溜め込んだアスファルトが容赦なく熱を放出し、道行く人々を不快にさせる。砂漠の暑さに強い銭形も日本の湿気を含む暑さには閉口する。額から流れる汗を拭いながら、歩いていた。
木造文化アパート二階の一室。二DK風呂なし。それが銭形の住処だ。
所々錆びた金属のステップを音を立てずに登った。突き当りの一室。ドアノブに触れ、直ぐに離した。上着の懐に手を入れ、小さく舌打ちをした。そこには銃のホルスターはなかった。日本の警官は常時銃を所持しない。銭形には超法規特権は無くなっていた。
室内に誰かがいる気配がした。銭形は一人住まいだ。命を狙われる覚えは山ほどあった。罪状は不法侵入の現行犯。しょっ引いてから洗いざらい白状させてやる。銭形の口角が吊り上がった。
静かに解錠し、一気にドアノブを開いた。
「動くな! 警察だ!」
「コーイチー!」
見覚えがある明るい亜麻色の髪が銭形の頬を撫でた。次いで首に腕を回され頬と頬が触れ合った。鼻孔をくすぐる仄かに甘い香り。
至近で抱きつかれ顔は見えない。だが銭形は扉を開いた瞬間に相手が誰かを理解した。
自称『未来予知』の超能力者。自らを傍観者と位置づける、ロシアからICPOに出向した捜査官。銭形の元相棒。
アナスタシーヤ・ミハイロヴナ。
銭形の頬に小さな水音を立てて唇が触れた。