「警部、コーヒー入りましたよ」
後藤が両手に湯気の上がる紙コップを持っていた。銭形はデスクに両足を投げ出し、頭にアイマスク代わりに新聞紙を被っていた。
後藤はキャリア組だ。現在は警部補だが、数ヶ月の後に銭形と同じ警部に昇進することが決まっている。銭形は新聞紙を頭から取り除くと後藤を一睨みした。
「ふん」
「熱い内にどうぞ」
デスクに上げた足を下ろし銭形は紙コップを受け取った。
後藤は銭形を尊敬していると常日頃から周囲に公言している。数年前、世間の話題をさらったカリオストロ公国に於いて、国際的な偽造紙幣、ゴート札の秘密を暴いた銭形の活躍をテレビにかぶりついて見ていた。当時は世間知らずで何も事情をしらない学生だったが、情報を集める過程で、当時の銭形がどれほど危ない橋を綱渡りしていたか知ったのだ。インターネットや伝聞で知る情報が殆どだったが、様々な伝を使い情報の検証をしたところ、嘘やデマ、大げさに伝えるものも多かったが、むしろ控えめに伝えられている事が殆どだった。
放送当時、モニターの向こうで、
『ルパンを追っててとんでもないものを見つけてしまった。どうしよう?』
と困り顔をしていたのは印象的だった。まだ銭形との付き合いは短いが、今なら分かる。あれは演技だった。ルパン三世の逮捕を生きがいとして、複数回に渡り捕縛。何度も出し抜き、一時はルパンをして好敵手とまで言わしめたとかいないとか。時に法の目を掻い潜り、命の危険を犯してまでルパンを何度も追い詰め、犯罪を未然に防いだこと多数。あのルパン相手に一歩も引かない姿勢は、優秀な銭形でなければ不可能だっただろう。
後藤は銭形と初めて顔合わせした時に、マシンガンの様に銭形を褒め称えた。どれだけ憧れていたか、会えて光栄ですと。
後藤の態度は、
「そっちは砂糖入りか?」
「そうですよ」
「そっちをくれ。たまには甘いコーヒーを飲みたい」
「珍しいですね。いつもはブラックなのに。どうぞ」
後藤は銭形と紙コップを取り替えた。銭形は「甘い」と文句を言いながらコーヒーを啜った。
「その新聞、今日のですよね」
銭形は新聞を軽く畳み後藤に投げた。後藤は投げられた新聞を難なく掴むと広げて記事を読んだ。
「『ルパン予告犯行にまたもや失敗。警視庁は犯行を連続阻止』。ルパンはここの所、いいところないですね」
「犯罪者にいい所もなにもない」
「そりゃそうですが」
コーヒーの甘さに苦虫を噛み潰したように表情を歪める銭形に、後藤は苦笑いした。
「生涯をかけて追っていたルパンがこれじゃあ、警部も面白くないでしょう?」
「ふん……」
紙コップを丸めた銭形が頭の後ろで手を組み、デスクに足を乗せて天井を見た。
「あらら」
ルパン逮捕を生き甲斐としていた銭形はここにはいない。いるのは抜け殻の如く、日々資料を整理するだけの窓際族だ。
「で? 何しに来た?」
「何って、ここは僕の職場ですよ。資料整理は楽しくはないですが」
ぼんやりと天井を見上げる銭形に覇気はない。
「質問を変えるぞ。後藤はどこだ?」
「何言ってるんですか? 目の前にいますよ?」
的を得ない銭形の質問は後藤を困惑させるばかりだ。
「ルパンの変装ってのはな、そりゃ見事なもんだ。日進月歩の技術もあって、儂でも途中から直接触れんと見破るのは不可能だった」
「有名な話ですよね。本人より本人らしいって聞きました」
「ルパンは一度見破られた変装技術は二度と使わん」
後藤は涼しい顔だ。額には汗一つ浮いていない。無言で銭形を見ていた。
「空調の無い部屋で涼しそうだな。それは儂が過去に見破った変装だ」
「へぇ、噂って当てにならないもんだな」
ぼんやりと天井を見つめる銭形の視界の隅に不敵な笑みを浮かべる後藤が映っていた。変装を見破った事は自慢にもならなかった。後藤に変装している男が使っている変装術はルパンが比較的早い時期に使っていたものだ。表情は豊かに変えられるが汗も出ず、見破るのは容易い。
「あんた、世間では無能だって言われてるぜ」
「実際そうだからな」
後藤の口調が変わり、銭形を舐めているのが一目瞭然だった。
世間の、そして警察内での銭形の評価は低い。理由が明かされぬまま、有無を言わさず
残された資料から未解決事件の真犯人を特定しても、逮捕令状は取れなかった。何故事件が未解決に至ったのか。銭形が理解するのは早かった。特殊な階級の住人には警察の捜査権は及ばない。その中には前警視総監の親族も含まれていた。銭形が第十二資料室で出来る事は殆どなくなった。
失意の日々の中、ルパンの動向だけは調べていた。新聞、ニュース、信頼できる古い友人。ありとあらゆるソースを利用した。
『ルパン予告犯行失敗』
『
『ルパン捨て台詞、銭形なら成功してたのに』
『世界三位の富豪一家惨殺。犯人は不明』
『警視庁お手柄。ルパンまたもや失敗』
『ウルドリヒ捜査官へのインタビュー。我々はルパンを過大評価していた』
銭形がルパンの担当から外された瞬間からルパンは犯行に次々と失敗した。いくつか成功しているが、それはルパンの名を騙った小物の仕業だと銭形は見ている。
銭形は有名だ。カリオストロ公国ゴート札事件で、一躍全世界に名と顔が知られたのだ。銭形がルパンの捜査権を一手に握っている事も同時に知られている。各国の報道機関がニュース配信し、世界中が銭形とルパンの対決を手に汗を握り見守っていた。
時に犯行を未然に防ぎ、時には出し抜かれ、逮捕に至る事もあった。脱獄され、ルパンを追う銭形。正に一進一退の攻防。銭形でも全ての犯行は防げなかった。
銭形だから。銭形をして。世間の目はそういったものだった。しかし一転、世間の評価は裏返った。
突然の
銭形が警察の足を引っ張っていたのではないか?
世間が銭形を酷評し始めた。売名行為。詐欺師。三流。
カリオストロ公国での活躍はたまたまの偶然だったのだ。私たちはルパンを過大評価していた。そのルパンを相手に銭形は苦戦をしていた。私たちは騙されていたのだ。現に各国の警察は銭形抜きでルパンを尽く撃退しているではないか。銭形など最初から不要だったのだ。
一度張られたレッテルを剥がすのは難しい。今の銭形にルパンを追う事は不可能だ。銭形は天下御免のルパンの捜査権限を既に失ってしまったのだから。
「後藤って奴、影であんたの事笑ってるぜ」
「だろうな」
「知ってたのかよ」
「そこまで腑抜けておらんわ。儂の監視役だ」
「へぇ。そこまで無能って訳じゃなかったんだな」
後藤に変装した男は感心する風でもなくへらへらと笑っていた。
「ルパンの手下か。何しに来た?」
銭形は煙草を取り出して、口に咥えた。しかし火は点けない。昨今の事情から全館禁煙となっている。後藤に変装した男が懐から煙草を取り出して火を点けた。紫煙がゆらりと揺れた。
「何ってあんたの顔を見に来たんだよ。ボスがあんたの動きを気にしてたみたいだからよ」
「ルパンが儂をか……」
「何を気にしてるか知らねぇが、しょぼくれたおっさんがいただけだ。来るんじゃ無かったぜ」
銭形は煙草を咥えたまま天井を見つめていた。何か思案をしているようだが、後藤に変装した男にはその心の内まで読めなかった。
「帰ってルパンに伝えろ。今の儂はお前を追わん。追わんからから安心しろとな」
しばらくして口を開いた銭形の言葉に男はふんっと鼻を慣らした。
「その言い方じゃあ、ボスがあんたを警戒しているみたいじゃねぇか。ま、伝えといてやるよ。あんたの腑抜けた無様な姿をな」
じゃいくわ、と言い残して後藤に変装した男は、一度も口をつけなかった紙コップをテーブルの上に置き部屋を出ていった。
「……ルパンめ」
安物の椅子をぎしりと慣らして呟いた銭形の言葉は虚空に消えた。
銭形はルパンを追う権限を失った。いや、失わされた。生き甲斐とも言って良かったルパン逮捕の機会は失わされてしまったのだ。
「警部! 只今戻りました! あー! 警部! 煙草吸ったでしょ! 全館禁煙ですよ!」
扉ががちゃりと開き、後藤警部補が入室してきた。銭形は後藤を一瞥したけで直ぐに興味を失った。そんな銭形の様子をいつもの事だと一切気にせず後藤が言葉を並べた。
「いやぁ駄目でした。捜査令状一つも下りませんでした。これじゃ未解決事件はずっと未解決のままですよね」
「いつもの事だ」
「書類整理だけなんて僕も飽き飽きなんですから。あれ? このコーヒー、手をつけてませんね? 誰か来たんですか?」
「あぁ。直ぐに帰ったがな」
「もったいないなぁ。飲んでいいですか?」
「……好きにしろ」
「じゃありがたく」
後藤がコーヒーを飲むのを横目に銭形は椅子から立ち上がった。
「あれ? 警部何処行くんですか?」
「約束がある。後は好きにしろ」
「あ、はい。定時に上がりますね。今日デートなんですよ」
銭形は返答を返さず部屋を出た。扉を閉めた瞬間に室内からギュルギュルと異常な音が鳴り、後藤の切羽詰まったうめき声が聞こえた。
■
警視庁の屋上にその男性はいた。歳は五〇を超え疲れた様子をみせていた。
「総監」
屋上の扉を開けた銭形はその男性に声をかけた。
警視総監。所属する警察官が四〇〇〇〇人を超える日本最大の職員数を誇る警察組織のトップに君臨する男性だ。
「銭形君……」
警視総監は煙草を取り出し銭形に向けた。銭形は何も言わず煙草を受取り火を点けた。
銭形が煙草を飲み終わるまで二人は無言だった。
「銭形君……済まないことをした……」
「……」
警視総監は銭形の能力の詳細を知る数少ない人間だ。素手での格闘術は複数を相手に引けを取らず、生け捕り術や射撃は警視総監が知る限り銭形を上回る者は存在しない。身体能力もずば抜けており人間離れしたものを持っている。明晰な頭脳を併せ持ち正義感も人一倍。
そんな銭形を
「……済んだことです」
「銭形君……」
「総監にも色々と事情がおありでしょう。今まで過分に配慮頂いた事、感謝しております」
「……済まない……本当に済まない……」
「……」
銭形は
銭形は警視総監を責めることなど出来なかった。
「一つだけ宜しいでしょうか?」
「何でも聞いてくれ」
「『L資金』は実在しておるのでしょうか?」
「……っ!! どうしてそれを知っているんだ? いや! ないのだ! そんなものは無い!」
警視総監の態度が一変した。表情は強張り口調が強くなる。信じられないものを見たかのように目を見開き銭形を見ていた。銭形は理解した。警視総監の態度が全てを物語っていた。
「……ありがとうございます……」
「……ッ! 銭形君!!」
『L資金』。銭形がルパンの動向を調べている内にたどり着いた謎の資金だ。世界中でばらまかれ、日本円にして三〇〇兆を超える巨額のマネー。政界、財界、マスコミ、芸能界……あらゆる業界を巻き込む闇のマネーは世界に小さなうねりを生み出していた。
「……私でもどうしようもないのだ……警視総監と呼ばれても……何の力もない……」
「総監、ルパンが形振り構わず本気を出したのです。総監が悪い訳ではありません」
それは言外に警視庁が個人の犯罪者に膝を屈した事を表している。警視総監はその事実を理解し力なく肩を落とした。
「ルパンは……ルパンは今まで本気ではなかったのか?」
「本気でした。奴なりの犯罪美学に則ってですが」
「犯罪美学……い、今は……」
「箍が外れました。奴は必要なら核ミサイルすら躊躇なく何発でも発射することでしょう」
銭形は煙草を取り出して火を点けた。
「どうして……何故そんなことが分かるんだ!」
銭形は大きく紫煙を吐き出した。屋上の風に吹かれて紫煙はあっという間に消えた。
「本官はルパンのスペシャリストです。それは今でも変わりません。奴の事ならわかります」
そうだった。銭形のルパン逮捕に対する情熱。それは警視総監をして常軌を逸していたと思わざるを得ないと感じた事が何度もあった。常にルパンの事を考え、時にルパンに成り切った事もある男なのだ。
「……銭形君……君ならルパンが変わってしまった理由を知っているのではないか?」
「……」
銭形は煙草を咥えたまま何も答えない。
「銭形君!」
「総監。今日はありがとうございました。失礼します」
銭形は敬礼をすると有無を言わさず踵を返して背中を見せた。
「銭形君! 待ってくれ!」
警視総監が銭形に声をかけるが銭形の足は止まらない。
「……総監。本官は何も知りません」
銭形は振り返らず、足を止めず、それだけを言うと屋上の扉を開き姿を消した。
嘘だった。銭形は知っていた。ルパンが変質してしまった訳を。ルパンが変質してしまったたった一つの理由を。
何故なら。
何故なら銭形は決定なその場にいたのだから。
記録的な猛暑の夏が始まろうとしていた。