こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。ツイッターにも書きましたけど、14日の朝日新聞読書欄で『みんなの道徳解体新書』が紹介されました。
てなことを宣伝すると、朝日を目の敵にしてる人たちがすぐにいきり立って批判してきたりしますけど、先日、その手のかたが喜びそうな『ニュース女子』というテレビ番組でも、私の『「昔はよかった」病』を紹介していたそうですよ。番組サイドからはなんの連絡もなかったんで、著者の私もネットの情報で知ったんですけども。
右からも左からも一目置かれるのは、私の本がいつも、事実にもとづく貴重な情報をたくさん提供しているからです。
発売から半年経ってますので、ネットにたまってた『みんなの道徳解体新書』の評にまとめて目を通してみました。おおむね好意的に受け取られていてうれしいのですが、もちろんなかには否定的な評もあります。
とても残念だったのは、否定的な評のなかに、具体的に本の内容に反論しているものがひとつもなかったことです。
この本を書くにあたって、私は時間をかけて日本の道徳教育の歴史を勉強し、明治以来の教科書、副読本も読みました。必要に応じてエピソードの背景や歴史まで調べました。
本書で私は根拠と論理を明確に、ひとつ、またひとつと道徳テキストの内容を否定・批判していきます。
自分が信じていた道徳観が次々と否定されていくことにショックを受けるも、なにひとつとして私に反論できない。そういう人たちは、くやしまぎれに、内容がスカスカだ、これまでの著書より内容が薄い、などとケチをつけるのが精一杯なのでしょう。
内容が薄いのなら、反論するのも簡単なはずじゃないですか。だれひとりとしてそれができてないのは、文体の軽さに反して、内容が深いからなんですよ。
本でも指摘したとおり、これが道徳のヘンなところなんです。みなさん、道徳のことなんてなにひとつ勉強していない、なんの知識もないくせに、あたかも自分は道徳をわかっている、自分の道徳観は正しいという前提のもとに他人の道徳観を否定・批判しています。その根拠のない自信はどこから来るの? オレは正しい、オマエはまちがってる、説明は不要だ、オレに従え、という俺様道徳がまかり通ってしまってます。
「手品師」というエピソードに対する私の解釈に不満を表明してる教師のかたがいました。調べてみると、これに関しては、教師や教育学者のあいだでも否定と肯定で割れてるようなんです。知らないこどもとの気まぐれな約束を守るために、自分の大事なキャリアを捨てるなんて、現実には絶対ありえないと思いますけどね。いかなる事情があろうとも約束は絶対守らねばならない、って道徳律は人間を冷酷に縛りつけますが、それを望むの?
教師のみなさんからは、現場感覚と異なるという批判もいくつか。その現場感覚とやらが具体的になにを示してるのかわかりませんので、それはおいときます。ただ、私は学校にはいませんが、みなさんとはちがう現場で道徳の実践をしてきました。近所の知らないよその子に注意したり、電車のなかでイヤホンの音漏れなどを注意したりといった活動を何十回もしています。その実践から学んだノウハウを、『日本人のための怒りかた講座』という著書にまとめてますので、こちらもご参照ください。
私の場合、道徳の実践が先にあり、理論はあとから学んだことになります。実践してきたからこそ、私は口先だけの道徳論を信じないんです。道徳教育や愛国教育を強化しろと強気の発言をするくせに、目の前の他人のマナー違反をじかに注意することもできない腰抜け保守オヤジみたいな連中が大嫌いなんです。
毎度のことで慣れっこですが、私に批判的な人の意見は具体性のない感情論ばかりでなんの参考にもなりません。私が反論するまでもなく、自爆してるようなのばっかり。
私の本を好意的に評価してくれる人のほうが、批判するにしても論点が具体的だし、参考になる情報を教えてくれることが多いです。
なぜ人を殺してはいけないのかという話に関して、あるレビュアーが指摘してました。これまで自分が人を殺してないのは偶然であって、いつかは殺すかもしれないという考えかたは、親鸞の教えにあるそうなんです。えーっ、そうなんですか。要は、おのれの正義を過信しておごり高ぶるなという教えなのでしょう。親鸞についてはだいぶ前に本で読んで、おもしろいけどよくわからんなと思ってそれきりだったのですが、案外、影響を受けてたのかもしれませんね。
[ 2017/05/18 09:45 ]
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