ユートピアとディストピア

(1998年9月)

 ユートピアとはどんなところのことだろうか。人々が夢見る世界がユートピアだとすれば、それがどうして否定的な意味を持つディストピアという言葉を生んだのだろうか。それを考えるためには、まずユートピアという言葉の成立までさかのぼる必要がある。

1、ユートピアの起源

 トマス・モアが「ユートピア」という作品をイギリスで発表したのは1516年。ユートピアという言葉は、モアがギリシャ語から作った造語で「どこにもない国」を意味している。モアはこの作品で、矛盾のない合理的な国家の姿を、ヨーロッパから遠く離れた島を舞台に描いた。つまり、イギリスの現状に矛盾や不条理を感じたモアが、ユートピアというどこにあるのかすらわからない島の物語という形で、自分が理想とする国のあり方を体現したものなのだ。
 この作品以後、とくに十七、十八世紀のイギリスやフランスでは、さまざまな形でユートピアをテーマとした文学作品が生まれてきたが、基本的には皆、モアと同じように理想的な国家、社会のあり方を主張するのが目的だったといえる。これには、揺らぎ始めた国王、貴族たちの権威を守るため、言論統制が厳しくなっていたヨーロッパの時代背景が関係していた。フィクションという形で出版されたユートピア文学は、政治的主張や国王・教会批判の書のように厳しい検閲は受けなかったのだ。
 ユートピア文学にはこのように明確な目的を持った啓蒙文学という一面があった。だが、他方でユートピア文学は作者の想像力を最大限発揮できる自由奔放な文学という一面も合わせ持っていた。なぜならユートピアはここではないどこかにある場所であって、そこには未知の動物や植物が存在できたし、そこに住む人間たちにも身の回りの人々のように常識に縛られていない自由な考え方をさせることができたからである。いや、そこに住む人間はもはや普通の人間である必要すらない。そして普通の人間という肉体的制約を破れば、ユートピアの理想も実現しやすくなる。

2、人間でない者たち

 例えば、スウィフトの「ガリバー旅行記」(1726年、イギリス)には小人の国や巨人の国が出てくる。もっとも、そこの住人は体の大きさが違うだけで他はそれほど我々と変わらない。だが、この本にはストラルドブラグという不死の人間たちも出てくる。彼らは皮肉なことに死なないおかげで、老いの苦しみからいつまでたっても逃れられないという悲惨な運命を背負っている。(この不死人の話もそうだが、「ガリバー旅行記」のおもしろさは普通の人々の美的感覚や憧れを完全に打ち砕く意外な逆説から来ているようだ。)ただ、この物語で唯一美しく見える国が、人間でない馬形の生き物の国だというのも考えてみれば悲しい話ではある。
 「ガリバー旅行記」より前の作品にもおもしろい人間が住む国はたくさん出てくる。大鼻で有名なシラノ・ド・ベルジュラックの「月の諸国諸帝国」(1657年、フランス)という作品では、月の人間は四つんばいで歩いている。獣と同じく両手両足を自然から授かった人間が、四つ足で歩かないのは不自然だというのがその理由であるが、逆に二足歩行の主人公が、ペットとして扱われてしまう場面はなかなかおもしろい。
 さらに、注目すべき作品としてフランスのフォワニーの「アウステル大陸漂流記」(1676年)がある。この作品では両性具有の人々のユートピアが語られている。ここでは住人が両性具有であるおかげで、性による差別もなく、動物的な欲望ももたない理想的な社会が築かれている。逆に言えば、完全に平等な社会の達成は、普通の「性」を持つ人間ではできないという悲観的な考えのあらわれだととることもできるだろう。
 現代の作家では、アーシュラ・K・ル・グィンが「闇の左手」(1969年、アメリカ)という作品の中で、やはり両性具有人のユートピア的社会を描いている。この作品に出てくるゲセン人は両性具有で発情期があり、特定の時期以外は性欲に煩わされることはない。また男女の区別がないために、彼らにとっては友情と愛情は非常に似通ったものになっている。もちろん相手を法的に縛るような結婚制度は無いが、別にフリーセックスが奨められているわけではなく、一生同じパートナーと愛を分かち合う者も多い。縛られずとも長く続く愛というのが、作者の理想なのだろう。

3、捨てられた感覚

 さらに別の例として、H・G・ウェルズの「盲人の国」(1911年、イギリス)に見られるような盲人のユートピアというのもある。アンデス山脈の一画に外界から隔絶された谷間があり、そこの住人は原因不明の病気で皆失明しているのだが、それにもかかわらず彼らは平和で満ち足りた生活を送っている。むしろ偶然そこに迷い込んだ目のきく主人公のほうが不具者のようにふるまわなければならない程、その国の生活は完全なのだ。この物語の最後で主人公は盲人の国を去ることになるが、それはこの国の生活のせいではなく、視覚を捨てないかぎり理解することのできない彼らの世界観のせいだった。目の見える主人公は、空を理解せず外界の存在も信じない彼らの世界観に合わせることはできなかったのだ。

 「盲人の国」はユートピアではあっても、外から来た人間に視覚を捨てさせるほどの魅力を持ってはいなかった。だが、ジョン・ヴァーリイの「残像」(1978年、アメリカ)の主人公は盲聾者の共同体ケラーのために自分の目と耳を捨てる。それはここに出てくる共同体ケラーが本当の意味でのユートピアに限りなく近かったからに他ならない。ケラーはニューメキシコにあるコミューン(共同体)のひとつで、世間にどうしても溶け込むことのできなかった盲聾者たち(1964年にあった風疹の流行により生まれた目と耳の不自由な子供たちの一部と書かれている)が自分たち自身の社会を作ろうと計画したものだった。目も耳も使えない彼らにとって、唯一のコミュニケーション手段は身体の接触である。といっても、彼らが使う言語がハンド・トーク(国際手話アルファベット)に限られているわけではない。彼らは世界の他の言語のどれとも違う自分たち自身の言葉、ボディ・トークを作り出していたのだ。
 ボディ・トークは身体全体を使った身体言語である。この言語の重要な点は、普通の言語と違って嘘をつく事ができない、いやそれどころか自分の心の奥深くまで人に知られてしまうという点にある。字や声だけでは人の本心はそう伝わるものではないが、体を密着させて自分の思いを伝達するボディ・トークでは、熟練すると体の状態、動きから相手の感情を的確に判断できるようになってくる。ここケラーでは夕食時にみんなで集まってボディ・トークによる盛大な会話を行なう。そこでは一人一人の言葉は瞬く間にみんなに伝えられそれに対する反応もみんなから返ってくる。誰かが苦しみや悲しみを感じればみんながそれを癒す言葉を伝えてくる。まさしく身体全体で彼はみんなの言葉を受けとめることになるのだ。あたかもみんながひとつの生命体であるがごとく彼らの心はつながっている。だから憎悪もここではありえない。相手の心がみんな自分にわかっていて、自分の心も相手に包み隠さず伝わっている状態で、なお相手を憎む必要がどこにあるだろうか。
 外からやってきた主人公は、自分の心をここまで丸裸にしてしまうことに怯え、たとえそうしたとしても自分には最後まで人の心を完全に理解することはできないだろうという挫折感から、この共同体をいったん去る。しかしそれから何年かたったある日、彼は再びケラーに戻りユートピアの一員となる。目と耳という人と人の間を隔てていた唯一の障害を捨てて。

(もちろん現実にこういう共同体が理想的かどうかは、人によって意見が分かれるところだろう。なぜならこの架空の社会で暗示される究極のユートピアとは、A.C.クラークの「幼年期の終わり」に出てくる宇宙全体がひとつの生命体になるというアイデアにちかい、集団生命体だからである。最近の例で言えば、エヴァンゲリオンの結末に近い。もちろんこれはもう社会ではなくて、ひとつの進化である。だが、その進化に近い形の社会が可能になるための技術は実現しつつあるともいえる。それはコンピュータネットワークの発展である。最もどちらかといえばこれはディストピアを導く技術のような気もするが。)
 

4、ディストピア
 いくつか通常とは少し違う特徴を持った人々のユートピアを見てきた。これらのユートピアは、実現の可能性は薄いがその分想像力豊かで、何より現実に対するあきらめや妥協が入っていない分だけ、真のユートピアに近いといっていいと思う。だいたい現実の人間社会だけを生真面目に見ていると、あまりにもさまざまな問題が目についてきて、人間が人間であるかぎり永遠にユートピアの実現などありえないような気がしてくるものだ。
 ディストピアはそういう悲観的な人間観から出てきている。ジョージ・オーウェルの「1984年」(1949年、イギリス)やオルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」の中のユートピアがディストピアになってしまっているのはなぜなのか。それは、人間は放っておけば無秩序状態に陥るのだから、正しい規律や道徳によって管理されなければならない、という人間不信の考え方が前提にあるからに他ならない。
 オーウェルが社会主義の最終的な勝利を願いながらも、「1984年」において社会主義者がめざすようなユートピアがどんなにおぞましいものかを書かざるをえなかったのは、その頃イギリスにいた社会主義者が自分たちの信条に反するものはすべて異端として切り捨てる排他的な人間ばかりだったということが一因であるようだ。オーウェルのまわりにいた社会主義者は「何が正統的であるかを生活の隅々にまで徹底させた」人たちで飲み物にまで正統と異端の区別をつけるほどであったという(オーウェル「ウィガン波止場への道」P193)。
 では彼らはいったいどんな世界を望んでいたのだろうか。オーウェルはこう書いている。「多くの社会主義者の心の底に横たわっている動機は、単に秩序に対する異常なまでの願望ではないか、とわたしは思う。・・・彼らが根本的に望んでいることは、この世界をチェス盤のように単純に割り切ってしまうことだ。」(同書P194)「1984年」の中で絶対的な規律(いや、正確に言うと絶対的ではない。党の考え方は時間とともに変化し、その変化にはいかなる論理的な理由もない。)を押しつけている党は、おそらくこの完全な秩序への衝動につき動かされている。だが、すべての人間を完全な秩序のもとに位置付けるというのは、それ以前のユートピア文学でもしばしば見られたものだが、結局それは親が子供にやたらに気遣いをするのと同じことで、余計なお節介でしかない。結局人間は国家のためではなく、自分のために生きているのだから、仕事や生き方をみんなの必要に合わせたりはできないのだ。(もっとも、こういう社会への欲望は誰の中にでもあるものなのだが)

5、現代のユートピアは?

 では、現代においてはどんな世界がユートピアなのだろう。ヴァーリイの「残像」に出てくる共同体は本当の意味でのユートピアに近いのではないか、というのは前に書いた。なぜかといえば、すべての人間が互いに完全な意志疎通ができるようになれば、みんなの心一つ一つがすみずみまで理解できれば、その時我々は愛国心などという人為的に作られた連帯感を必要とせずに、共同体や国や世界のために自分もなにかをしようと本気で考えることができると思うからだ。
 もちろん、世界がこれだけ大きくなってしまったいまでは、これは実現不可能な夢物語だ。過去をふりかえっても、自分のまわりにいる人間たちだけが世界であった時代など大昔のことなのだから、いまさらこんなことを言っても手遅れだろう。だが、人の心によらずにどんなものにしたがって我々は世界を形作ればいいのだろう。どんな世界を夢見たところでそれは自分にとってはユートピアかもしれないが、別の人にとってはディストピアになってしまうのではないだろうか。
 現代はコンピュータネットワークによる情報化が進む時代だが、これが世界中の人々の意志疎通を活発にし、未来のユートピアへと続く道を開くかどうか。これも予測はできない。この先、さまざまな人間の意志がぶつかり合い、先の見えない完全な無秩序状態が出現するかもしれないし、逆に情報の鍵を独占する統制者達が管理するディストピアが現われるかもしれない。
 ところで、現在でもユートピア文学はまだ書かれているのだろうか。書かれているとすれば、それは今の世界からどんな夢を、またはどんな問題をすくいとって書かれているのだろうか。それを見つけたら、過去のユートピア文学と比較しながら、もう一度世界のあるべき姿についてじっくり考えてみたい思っている。

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