日本語廃止論

1946年に志賀直哉が雑誌「改造」誌上で「日本語を廃止してフランス語にすればどうか」と提案したことは日本の、特に文学者におおきな衝撃を与えた。
1980年代になると、この発言は「志賀直哉の醜態」であり、「志賀直哉にときどき見られた機会主義的な発言」ということになって、「なかったこと」にされたが、当時の人の日記を読むと、日本一の日本語の書き手であることが周知で、おおげさに言えば、作家の誰もが志賀直哉の日本語の標準に達することを目指していた当人が「不完全な日本語ではダメだ」と言い出したことへの衝撃がどれほどおおきかったか判る。

考えの底が浅いことで終始一貫している丸谷才一は1970年代に書いた雑文のなかで志賀直哉の考えの浅さを笑っているが、言いようによっては丸谷才一自身と同じく深くものごとを考えることをしなかった志賀直哉には、その代わり、自分自身ですら何を感じているのか判らないでいるような、ほとんど自己の自意識とは独立した深い直観の力があった。
小林秀雄は電車で偶然乗り合わせた志賀直哉の「なにも見ていないようでいて、なにもかも見透している眼」の怖さについて述べている。

いまから考えると志賀直哉の意見を頭から「たわごと」と決めてかかった人たちは同じ文章のなかの「フランス語に移行することなど簡単だろう」のほうに「この意見はダメだな」と考える根拠を見いだしていたので、半藤一利の敗戦直後の見聞を記した文章を読んでも、「不完全な日本語ではダメだ」のほうは、なにをっ、という反発は感じても、どうも本当なのではないか、と感じていたのがありありと判る。

面白いことに、志賀直哉が激しい反発を受けて、「日本語廃止論」が志賀直哉の一生の汚点と決めつけられたあと、最も真剣に「日本語で世界を表現できるか」議論することになったのは、ロックミュージシャンたちで、日本語でロックがやれるかよ、という内田裕也やジョー・山中の「Flower Travellin’ Band」に対して日本のロックは日本語でなければオリジナリティをもちえないと考えた細野晴臣や大瀧詠一の「はっぴいえんど」が対立の軸であったように見える。

大勢の外国人たちで賑わっていた赤坂の「ビブロス」や六本木の「JAJU」に入り浸っていた内田裕也やジョー・山中に対して炬燵に入って「プレスリー、いいよね」などと述べあっていた大瀧詠一たちとでは拠ってくるところ、立っているところが全然別で、「日本語で自分たちの世界観が述べられるかどうか」という対立が並行したまま終わってしまったことには、ライフスタイルの違いもあったようです。

「見るまえに跳べ」という「フォークの神様」岡林信康のアルバムを見ると、あとで「ティン・パン・アレー」や「イエロー・マジック・オーケストラ」につながってゆく、この「はっぴいえんど」が、バックバンドとしてクレジットされている。
1970年には一緒にツアーにも参加している。

吉田日出子によれば、それまでの、岡林信康自身を含むベタベタした情緒で恨み辛みを述べるタイプの音楽に嫌気がさしていたらしいフォーク歌手と日本語でも乾いた音が出せるはずだと信じたはっぴいえんどのあいだに諒解点があったのでしょう。

一方、内田裕也のほうは逆に、日本語世界から剥離して、疎外され、人物的印象として、怒れる右翼のおじーちゃんみたいな人になっていった。

前に「日本語は言語としての役割が果たせなくなって地方語の位置に転落するだろう」と書いたら、「無知なようなので教えてやるが志賀直哉の発言も知らないくせに、くだらないことを書きやがって」と書いてきた人が何人かいたが、
志賀直哉、桑原武雄、山本有三たちの「国語改造論」が冷笑された過去を前提としての記事であることは、このブログ記事のずっと前のほうに何度か書いてあるはずで、見当が外れている。

積極的に日本語をやめるかどうかは、どうでもいいことで、記事の論旨は「日本語で世界が説明できなくなっているのではないか」ということと
「日本語は真実性を失って『空洞言語』(mannequin language)化しているのではないか」というふたつのことだった。
日本語全体が言語として死語になるのは、その当然の結果にしかすぎない。
どういう理由によるのか、日本にいるときには研究者の友達が多かったが、最も年長の50代のMさんですら医学生当時使っていた生化学の教科書(多分、コーンスタンプだろう)が、英語が第五版だったときに日本語は価格は数倍であるのに第二版で、到底つかいものにならなかったと述べていたのをおぼろげに憶えているから、医化学の世界では学部生レベルでも、日本語は英語世界に追いついていけなくなっていた。
同じことが戦前では技術・物理の世界で起きていて、いまはビジネスの世界や金融理論の世界で起きている。
さらに最も致命的に思えるのは、たとえば20代の人間には自分の生活感覚や上の世代とは明らかに異なる感情のリズムが日本語では表現できないことであるように見えます。

インターネットの根源的な役割は、もちろん世界の破壊にある。
もう少し詳細に述べれば人類の歴史を通じて何千年と続いたスタティックな世界の破壊者がインターネットで、定型に対して不定型、固定的に対して流動的、静的に対して動的、すべてのものが混沌として渦を巻きながら高速で変容しつづける世界のエンジンがインターネットだが、一方ではインターネットには「大数の動的な知性の集合体」という側面も持っている。
そのインターネットの性格が最も活かされているのは北海文明由来の「シェアリング」の堅固な思想をもった知性の持ち主がもともとたくさんいた英語世界で、英語の外側から英語によって参加する人間が素晴らしい速度で増加することによって、当面ゆるぎそうもない言語的優越を獲得した。
簡単に言ってしまえば、「英語で考えることが出来ない人間は世界に参加できない」図式ができあがって、ネガティブな効果のほうを知りたければ、日本も典型だが、イタリアやスペインの田舎を旅行して地元のひとびととイタリア語やスペイン語で話してみれば判る。
「世界から取り残されたひとびと」で、それがための良さとそれがための悲惨とを、両方、判然と見てとれる。

最も興味があるのはインドで、映画、たとえばEnglish Vinglish
English Janglish
を観ても、The Lunchbox
Taking the wrong train
を観ても、中層家庭の家庭内の会話が半分英語、半分インド諸語になっている。

インド版「X Factor」が好きなので、よく観るが、スター志望のパフォーマーたちに対して述べられる講評は、ひとつの対話のなかで、たとえばヒンディ語で話し始めて、英語に変わり、またヒンディ語に戻ったりする。
話したり聞いたりするのに都合がよい言語を選んで、ひとつの発言のなかでさえ言語が混在する。

あるいは、クルマを運転しているときに聴いているのは、たいていローカルのインド人コミュニティFM局だが、ひとつの番組のなかでも英語とヒンディやベンガル語、タミル語が混ざっている。

インドの中等教育の教師には全国的にベンガル人が多くいるが、ベンガル人はベンガル語に高い誇りをもっているので、たいていの場合、ヒンディ語を話さない。
良い学校にいれると、そういう事情が働いて、父兄懇談のような機会には自然、教師に失礼がないように会話はすべて英語になる。

BBCのドキュメンタリを観ていると、火葬を受け持つ不可触賤民の若い男が「私たちは、カーストの最下層だといっても、私たちなしではどんな高貴な人間も死ぬことさえできない」と誇らしげに述べている。
ところで、見終わってから気がついたが、この若い男の人は、流暢な英語で話していたのだった。

人間の最も根底的な情緒の場である家庭で英語が話されるのは「母語」というものへの強い思い入れがあった人間としては驚きだったが、しかし、インドに限らず、考えてみれば、たとえば海外に移住した香港人/広東人のあいだでは以前から普通のことだったのである。

本来の自分達の言語から英語への移行は、おもしろいことに民族や文化によって特徴的なパターンがある。
欧州人は「移行」であるよりも多言語型で、ただ、このやりかたは異言語の人間が大量に往来する欧州の特殊な事情に基づいている。
連合王国を例にとると、ロンドンの小学校でホッケーのクラブに所属している子供は、一年に数回はフランスに遠征する。
中学校になれば、フランスだけでなく、スペイン、オランダ、ベルギー、…と遠征して練習試合を繰り返すだろう。

日本では、どんなふうに言語の移行が起きるか判らないが、いまのような教室での学習のベースでは日本語世界の部屋に自分で鍵をかけてしまう結果にしかならないのは自明であると思う。
翻訳や通訳のような職分が10年後にもあるとすれば、それは日本が閉鎖的な一地方国家になることを意味している。

最もよろしくないのは「仕事のため」に英語能力を獲得しようとするバターンで、第一、そういう姿勢では英語そのものが身につくわけはない。
いまのところ、日本の人で英語が「出来る」人には自らにスパルタンな習慣を課して「歯を食いしばって頑張る」タイプの人が多いように見えるが、傍からみると、そういうひとの英語には名状しがたい「浅さ」があって、本人は得意でも、英語が母語の人間からすると、なんだか聴いていていやになってくる英語であると思う。

鍵は「自然と学習する」方法をみいだすことだろう。
考えてみれば、言語というものの性質から言ってあたりまえだが、言語の習得は個人によって異なる。
誰にも教えてもらえないもので、教師に教わって効果があるのは発音とアクセントくらいのものではあるまいか。

ヒントらしいことを述べると、昔から、社会的競争が発達した国の国民は、多言語を身につけにくい。
試験の選別が厳しいばかりで個人主義を「利己主義」「わがまま」と考えて忌む社会では、なんちゃら方式の能書きばかりが多くて現実に臨むと唖然とするくらい話せないし書けない。
「英語は読めるが話せない」は、自分が秀才であると思いたいロシア人の、昔から有名な言い訳である。
聴いている英語人のほうは、「話せなくて聴けないのなら、それは訳しているだけで読めていないのだとおもうぞ」と思って聴いているが、気の毒なので、なるほど、という顔をつくってみせて、困惑を隠蔽するために微笑んでいる。

新刊やインターネット上の日本語表現の貧しさをみると、日本語の崩壊は当初の予想よりもずっと早く起きて、簡潔にいえば、いま眼の前にある。
もっかは、大多数の日本人は「言語を失った国民」なのであると思う。

おおきな言語集団が言語を失いかけたのは近代中国以来で、その中国は詩人で虐殺者でもあった毛沢東が「中国文明をいったん廃止する」ことで建て直してしまったが、日本は、どんな方法をとるだろう?

楽しみな気がします。

03/November/2014

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ブルースを聴いてみるかい?

詩が、たくさんの人に読まれるのが難しいのは、そこで表現されている言語の美、あるいは「高み」に届くためには読み手の側に訓練が必要だからである。
その観念が励起した場所にある「高み」のなかで表現の絶対性を獲得した言葉(詩句)を田村隆一は「定型」という言葉で呼んだ。
詩は、そのひとそれぞれの解釈があるから、というのは単に「私には詩が読めません」と告白していることに他ならない。
詩はまさに「ひとそれぞれの解釈」を許さないことが特徴だからです。

あざやかなるかな武蔵野、朝鮮、オルペウス

という吉増剛造の詩句を考えると、古い意味の音韻の定型は存在しないが、
あざやかなるかな、と故意にひらがなで書かれた言葉のなかに含有された「鮮」という漢字の形と朝鮮、表音から形象に言葉が転移したことによって逆に「朝鮮」からは朝の鮮やかさが呼び起こされて、武蔵野とオルペウスの呼応を支えている。
吉増剛造は、たとえばその詩のなかで「高麗川」という単語を同じような言葉の冒険のなかで使う事によって、日本人が半島人に対してもっている(日本人が意識することすらなしに言語を通じて表明している)歴史的な敬意を表現することに成功している。
書かれたもののなかではいちども述べられないが、背景には吉増剛造という人が日本人の美意識そのものが半島人の文化に由来していることを熟知している、ということがある。
そうして、詩句全体の定型を強固にしているのは、武蔵野、朝鮮、オルペウスというみっつの「遠く隔たったもの」を邂逅させた詩句の構造である。
詩人が発想したのではなくて言葉同士がよりあって詩人の手をとって詩句を書かせたのは助走や跳躍の試みがあますことなく描かれている詩の前後を見れば事情は明瞭にわかる。
余計なことを書くと吉増剛造の詩の特徴にひとつは詩人がどうにかして言葉と言葉をお互いに呼び合うようにさせようとする、まるで言霊を召喚しようとする巫女の儀式のような過程が詩のなかに詳細に描き込まれていることであると思う。

読み手の側ですぐれた詩のもつ絶対性に呼応できるだけの「観念の高み」をもつには、それぞれの言語における口承古典文学から始めて、その言語のもつ情緒の形や歴史性を理解することがもっとも近道だが、読書によっても、才能がある人間ならば表現の絶対性がもつさまざまな「定型」、もっと平たい言葉で言えば「あたりの感覚」をもつに至ることはできる。

現代世界では詩自体が死滅してしまっているが、まったく存在しないということではなくて、ちょうど恐竜の絶滅の原因について天井まで届く本棚のあるライブリで議論しているふたりの生物学者たちが、部屋の片隅の鳥かごのなかで自分達を不思議そうな顔でみつめてクビを傾げているインコ自体が恐竜の子孫であることに長い間気づかなかったように、かつての詩は「歌」に姿を変えて生きているのであると考えるのがもっとも適切であると思う。

歌詞のある音楽は、詩と解釈に相対性を許さないチューンとの相互補完でできている。「定型の高み」を言語が内包する歴史的な情緒の組み合わせによらず音楽というより普遍性が高い「定型」に聴き手への正確な伝達は任せて、解釈にゆらぎの余地がおおきな言葉を使っても、送り手が身をおく精神世界の全体が聴き手に届くという仕組みをもっている。

ジャズとブルースのおおきな違いはジャズが言語との補完をめざさずに音楽のみで「定型の高み」を精確な形のまま聴き手に届けようとするのに対してブルースは言葉と音楽が寄り添って、相手に自分の魂が置かれている場所そのものを投げてよこそうとする点にある。
音楽の側からみればジャズのほうが本道であるのはあたりまえだが、重要なことは、ブルースのようなやりかたでは、相手に向かって投げて、寸分の変わりもない形で受け取らせる「自分の魂の形」が「高み」でなくてもいいことで、ブルースや、ブルースに由来するブリティッシュ・ブルース、アフリカン・ブルース、というようなものはみな、ブルースがもつその機能に依存して広汎なひとびとの心に訴えていった。

2003年、ニューヨークの名物男 Jack Beers 
http://nymag.com/daily/intelligencer/2009/12/jack_beers_94-year-old_strongm.html
が建設に参加したRADIO CITYで行われたブルースの祭典「Lightning in a Bottle」
http://www.imdb.com/title/tt0396705/
は素晴らしいコンサートだった。
登場した歌手たちの顔ぶれだけを見ても、
David Honey Boy Edwards, Keb’Mo, Odetta, Ruth Brown, Buddy Guy, Larry Johnson, Clarence Gatemouth Brown, Solomon Burke, B.B.Kingというシブすぎてひきつけを起こしそうな顔ぶれで、まだデビューしたばかりの自信のかけらもないような、それでいて、歌い始めるとまったく別の人格になって無茶苦茶クールなMacy Grayの姿もある。
Hound Dogを歌っている。

「You told me you was high class
But I could see through that
Yes, you told me you was high class
But I could see through that
And daddy I know
You ain’t no real cool cat」

 ブルースの歌詞は聴いていると唖然とするほど単純な感情を歌ったもので、大好きなHoney Boy Edwardsの「Gambin’ man」の歌詞は、

I’m a gambling man’
gamblin’… all night long
well, I’m a gambling man’
gamble… all night long

I’m gonna gamble this time, baby
bring my good gal home

gamblin’ down in new orleans
gamblin’ down on rampart street
well, I gamble in new orleans
gamble down on rampart street
I fell in love with a little ol’ girl
and her name was peggy dee

I’m a gamblin’ man
gamble from door to door
I’m a gamblin’ man
gamble from door to door

yes, I’m gonna keep on gamblin’
my little girl don’t love me no more

I’m a gambling man’
gamble from town to town
I’m a gambling man’
gamble from town to town

yes, ain’t gonna stop my ways, baby
’til I bring my bull calf home

gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
gamblin’ down in loosianna
gamblin’ down on old man needle’s sugar farm
you know I can’t never get lucky
to win my train fare home

で、ただそれだけ(^^)

皮肉な人間はブルースを「バカっぽい男の気持ちを歌った詩」と言ったが、それは実はその通りで、しかし、ブルースが歌ってきた、ガールフレンドにふられて、
「おまえ、いまにみてろ、おれがビッグになったときには、おまえはおれを捨てたことを後悔するだろう。そのときになって、おれを惜しんでも、ベイビイ、もう遅いのさ」というようなブルースではお決まりのチョーバカタレな「捨てられた男の叫び」は、それがちゃんと哀切に聞こえることによって、ブルースの偉大さのひとつである。

ニューヨークにいた初めのころ、わしは夜のハーレムを歩いてよくApollo Theatre
http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/04/10/1976/
に行った。
音響効果がどうにもならないくらいだめなその劇場は、建物全体がブルースで出来ているような劇場で、わしが好きだった二階への急な階段をあがる途中で、もう心はどんどんブルースになってゆく、というヘンな劇場だった(^^)

毎週素人が歌う夜があって、ど音痴なブルースを聴きながら、なぜ「低い」情緒を現代の人間が交換しなければならないか、理由を考えてみたりした。
考えているうちに人間のほんとうの価値は「愚かさ」にあるのだと気が付いたのもアポロシアターでのことだった

「Lightning in a Bottle」のDVDにはいくつかのインタビューがふくまれていて、B.B.Kingが「メリーランドのボルティモアのコンサートで、おれがでていくと、若い奴らがブーイングするのさ。あれはこたえたな。みんなロックが聴きたかった。おれが拒絶されたんじゃなくてブルースが拒絶されたんだよ。すごいショックだった」
と述べている。

80年代を通じてブルースは「くさい」音楽だった。
おっさんくさい音楽で、若い人間は聴かなくなっていた。
それは同時に古い世代のアフリカンアメリカンのもつ「黒人的感情世界」に対する白人やアフリカンアメリカン自身の若い世代の拒否の表明でもあった。

……日本語でブルースのことを書いておこうとおもうが、(いつものことだが)少し長くなりすぎた。
次にこの題でもどってくるときにはKar Karや他の第一世代から始めて、「アフリカ大陸のブルース」について話したいと思う。
金銭講座や、なんだっけ? 戸籍の話や日本の女性差別のときと同じで、ヘンなひとびとがいっぱい登場した場合には、第二回目はないっす。
日本語でなにか書くと「ぼくが読んだエライ人が書いた本にはアポロシアターはブルースではなくてジャズの殿堂だ、と書いてある。ブルースの殿堂だというならそうあんたが考える根拠になる出典を示してみろ」という人が必ず現れること玄妙なほどである(^^;)

ついでだから書いておくと、日本語世界で「常識」が消滅してしまったのは、日本語世界の往還になぜか跋扈している、そういう「わしかしこい族」が鬱陶しくて、めんどくさくなって常識がある人間のほうが沈黙してしまったからである。
あげくのはては、普通に話している時には温和で他人を笑わせてハッピーな気持ちにさせるのが上手な「トーダイおじさん」たちまで「一般の日本人」という項目を頭につくって「ああいうひとたちは、タダのバカだから」と吐き捨てるように述べるという悲惨な事態になっている。
日本のひと、そういう事態を改善するのに、もうちょっとそーゆー問題から正面から向き合えばいいのになあー、と思います。

25/February/2013

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流砂の上に立つひと

島田雅彦という1961年に生まれた作家について1924年生まれの吉行淳之介が、この人には珍しく嫌悪感を剥き出しにした調子で、「この作家はどこに立ってものを言っているのか皆目わからない。無責任であると思う」と述べている。
日本語をうぬぼれでは日本人なみになったと思う程度に学習してからは、ときどき吉行淳之介の「どこに立って意見を言っているのか」という言葉の意味を考える。

吉行淳之介という作家は鋭敏な日本語への感受性を持っていたので、現実には島田雅彦という人の「優しいサヨクのための嬉遊曲」という小説の題名に対してカタカナで「サヨク」とは、どういうつもりだ、と気色ばむ気持ちがあったのかも知れません。
想像力を働かせると、いまで言えば50代くらい以上の日本のひとびとのなかに「w」に対する嫌悪を表明する人が多いのと似た事情なのではないだろーか。

たとえば日本の新聞社が自社を説明したものを読むと「公正中立・不偏不党の立場から社会に警鐘を鳴らす」というようなことが書いてあって、ピンと来ないので英語に訳してみて、そのあまりの幼稚さに気持ちがつんのめってしまうことがある。
人間の語彙がとどくかぎりの世界で「公正中立」でありうるためには「なにが公正か」を認識できる必要があり、それが認識できるのは神様以外にはない、というのが英語世界で育った者が馴染んだ教えで、それゆえに神は傍観者であり、神が傍観者であることの意味は、神のみが傍観者として存在することを許されていることによって保障されている。
ところが日本の新聞社の立場は「私は神である」と宣言しているのと等価で、その知的傲慢さに、へろへろとした気持ちになってしまう。

なぜ「自分が傍観者である」と述べるようなあからさまな傲慢が日本では大手を振ってまかりとおるのか、ということを考えると、もともと西洋社会にもひとつだけ「仮定として中立公正であるふりをする」役割が是認されている職業があることに気が付く。
学校の教師がそれで、英語の世界で(多分、日本語世界でも同じなのではないかと想像するが)よく教師が独善的で自画自賛ばかりしている権威主義的な「裸の王様」にたとえられるのは、生身の人間が公正中立であると思い込めるマヌケさ、と言ってひどければ知的能力の低さにおかしみを感じるからだと思われる。

40代くらいから上の日本の人は、就職面接のときに「普段講読している新聞はなんですか?」と質問されたほどだというので、「言論が中立でなければならない」という、言論においては常識においてまったく無効なスタンスを、これほど広汎な日本人が、床屋政談から知識人の文章まで、信奉しているということには、「新聞の影響」ということがあるのでしょう。

嫌ないいかたをすると、神のみが公正でありうる以上、公正な意見を求めることには「自分が神になった気持ちになりたい」という自己満足以外にありえないが、福島第一発電所事故以来、特に東京オリンピック誘致を契機に、少しずつ洩れ伝わってくる「日本人がなぜ放射能を怖がる能力をもたないか」ということへの理由がわかってくると、英語人の目には、一個の「巨大自己満足社会」とでもいうべき日本社会の印象が出来てきたのだと思う。

「えー、わたしたちは燃料棒の移動を危ないとは思っておりません」と、さしたる根拠もなく「ダイジョブ・ロボット」のような無表情で述べるTEPCOのエンジニアや、インターネットで発言の中心をなしているらしい人たち、テレビで盛んに発言している人達、どの人も「傍観者」としての発言が多いように見えて、傍観者として座る外野席には「科学者」「知識人」「タレント」「インターネット賢人」というペンキの塗り分けがあるだけで、みなが実際の作業に携わる作業員や子供を守る為に投げつけられる罵倒や冷笑を腕をかざして避けている母親たちを眺め、いまのよけ方は案外よかった、
作業員の給料はいくらなんだ?というようなことを「評価」している。
誰もゲームに参加したがらないので、ゲームに参加するのは権力の側にある人間だけである。

傍観者であることが返って賢げに見える、という社会を畸形である、と思うのは、かつて60年代には散々に世界中で論じられたことだが、また元の黙阿弥に戻ってしまった。

高校の時の英語(つまり国語)の教師が、公正中立は右と左のまんなかにあるわけではない、と述べたことがある。
公正中立な観点は天上にしかありえない。
だから、きみたちは自分が公正な立場をめざしている人間であるとか、知的な傍観者であるというような傲慢なことを述べてはならない、と述べた事があって、そりゃまあそうだろう、と考えたが、いま考えてみるとあの教師は研究者として外国人のための英語を勉強したこともあるひとで、英語世界以外の国では「公正な視点」を持っている人間が存在することにショックをうけたことがあるのかもしれない(^^;)

日本語ならば「吉本隆明」というような作家の書いたものを読めばわかるが、真理にたどりつくためには行動と結びついた思想において「過激」の極みに赴く以外にはない。
吉本隆明が街頭に立って投石することすらなく「政治」や「思想」を述べる人間を不必要なほど軽蔑し毛嫌いしたのは、宗教への感覚をもっていた作家が、人間が神の役割を演ずることのインチキさを強く憎んだからだろう。

「訳知りの傍観者」が大量に発生した結果、日本の社会、とりわけ言論社会というようなものは、はてしなく痴愚の群れに似てきてしまったが、なにしろ人間にとって最も尊敬しやすいのは「なにもしないナマケモノ」なので、こういうことをいうと嫌がられるが、もう取り返しがつかなくなってしまった。

言論の自由など行政の胸先三寸で簡単に剥ぎ取ってしまえる社会になっても、「無知なあなたの杞憂にすぎない。法案をよく読め」と言い、吉松育美と言う人が信じがたい勇気をもって、日本の金融から道路上の屋台に至るまで、文字通り「あますところなく」支配しているやくざという巨大な力(やくざは政治の世界にも力があるのですか?という質問に答えて、「中曽根までは首相がやくざを呼びつけたが中曽根以降は首相のほうからやくざの親分のほうに行くようになった」と述べた元警察官僚のおっちゃんがいた)に立ち向かおうとしたひとりの若い女びとに対して、「(余計な世話を焼く)ガイジン対やくざ」のゲームになった、と観客席で述べる国では、ただのひとうけのする知的意匠こそが「叡知」なのである。

遠くから見ていると、たとえば、「右と左のまんなか」にあるはずのものが、「あいだがら」という相対座標のせいで、最も左側のはしっこでもイギリスでは右のまんなかにしか見えない程度にずれてしまっていて、極右的思考の仕草がどんどん社会の中心に堆積しだしているのが手に取るように見える。

「賢い傍観者」という立場をクールな知的スタンスと誤解した社会が堕ちていってしまった先を見て、「なぜ日本の『インテリ』は何度も何度も何度も同じ謬りを無反省に繰り返すのか」と考えてみるが、もういまさら考えても仕方がない、というふてくされた気持ちもあるのか、そんなこと考えても意味ないわい、と午後のあいだじゅう考えていたのでした。

21/December/2013

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いつかどこかで

その「種族」は国籍を超え、言語を超え、人種も性別も超えて、世界中に分布している。
特別な名前は付いていないが、お互いにそれと知っている。

きみには「現実を忘れてしまう」という愉快な癖がある。
今日こそははやくベッドに行くぞ、と決意して机の前に座ったのに、またいつのまにか午前3時になっている。
明日は7時に出かけなければならないのに、どうすればいいか、悩み始める。
いっそ眠らないででかければどうか。
それとも、さぼっちゃえば。

そうやって世間のほうの時間を考えるのが面倒くさくなって、きみは机の上に広がった、ノートブックや本や、いくつもウインドウが開いているコンピュータの画面に帰ってゆく。
よく考えてみれば、そんなことばかりやっているのは「破滅型」の人間というべきで、実際きみは社会的には不適格者だと思うが、それでもきみが檻のなかで過ごさないですんでいるのは、抜群の知能と、パズルみたいなものなら熟練の鍵職人のように、あっというまに解いてしまう不思議な能力のせいである。
子供の時から自然と身についた「処世の知恵」は、試験という試験、選別という選別には嫌がらずつきあって、そこで楽勝してみせることだった。

試験の回数がつみあがってゆくことによって、きみに判ってきたのは、あのくだらない選別にも良いところがあって、まず多少とも調子っぱずれのきみに対して世の中のひとはあんまり文句を言わなくなる。
もうひとつは、学校が上の段階に至るに順って、似たもの同士、というかきみと同じように頭がいかれたやつが同じ教室のなかに増えて行く。

70年代を通じて、アメリカ合衆国の学校でのイジメの理由の1位は「脇の下が臭いこと」で、次が「数学ができること」だった。
なんだか冗談みたいだが、数学ができるせいで自殺しなければならなくなった高校生もいた。
その頃のアメリカでは公立高校みたいなところで数学が出来るのは「せこいやつ」でクールでない、ということだった。
きみの種族の一部には、数学が(大きい声では言わないにしても)レモンメレンゲよりずっと好きだという訳のわからない人間がいる。
当時は、そういう人間は息を殺すようにして、ボストン郊外のケンブリッジという町にあるMITという巨大なキチガイ部落をめざしてベンキョーした。
そこにさえ辿り着けば、フットボールと女の子たちを「やって」しまう以外に才能なんてなにもないバカタレに胸ぐらをつかまれてネットにおしつけられたり、悪罵に我慢できなくなって立ち向かったあげく、校庭の砂をかんで、「クールガイ」たちの嘲笑を聞いたりしなくてもいいと誰かが言っていたからである。

はいってみれば、実際そこは天国で、きみはすっかりコーフンしてしまい、大学に近い橋が「なんひきずり」であるか実地に検証するために、級友をひきずって「ひきずり」の数を橋に刻みつけたり、やたらとモンティパイソンのセリフがはいる土曜の夜のバカ騒ぎに熱中して、テーブルの上にとびのってビーチボーイズのカラオケを熱唱したりした。

あるいは80年代の東京のきみの種族は、そもそも「制服」というものが嫌なのではいった6年制の中学から、やってるんだかやってないんだかいかにも判然としない学校にのらくらと通いながら、物理部無線班の正しい伝統に順って、ハンダゴテをにぎりしめ、昨日京橋フィルムセンターで見た小津安二郎の映画や、「博士の奇妙な愛情」について、友達ときゃあきゃあ言いながら冗談に打ち興じた。
東京大学に行ったのは、要するに「バカと会いたくない」というきみのだいぶん尖った、社会の大半をなしている人間への敵意のせいで、しかし、問わず語らず、きみの友達の大半も同じ理由で他の大学には行きたくなかった。

いざ大学にはいると、今度は同じ高校の友人たちもだんだんに色あせてみえて、ひとりでいることが多くなった。
お茶の水から坂を降りて、神保町の町へでて、一誠堂や東京書店を巡って歩くのがきみの習慣になった。
夕方には、井の頭線に乗って家に帰る。
急行がとまらない小さな駅で降りて、
今日こそは熱力学に決着をつけてくれるわ、と考える。

大学に行ったのが就職のためなんかでなかった証拠には、きみは修士課程を終えると社会に背を向けるようにプーになってしまった。
友達が嫌らしい笑顔で「将来どうするんだい?」と訊くと、興味すらなさそうに「飢え死にするから良い」と答えた。

90年代の後半にイギリスという国で人になりつつあったきみの種族は論外で、ゆるやかにひろがった広大な芝生がある家で、のんびり寝転がって青空をみている。
ときどき芝の上をころころ転がったり、何をおもったか「でんぐり返し」をしたりしている。
やっていることだけ見ているとバカみたいで、実際にもバカなのかも知れないが、本人の頭のなかは割と真剣で、「自分がなにをしたら世の中がよくなるだろーか」と考えている。
結果としては役に立たなくてもいいから、なんとか世の中の役に立ちたいという気持ちを忘れずに生きていかれる方法はないものか、と考えている。
そーゆーことを考えて煩悶して、思わずでんぐり返しをしているだけでも立派にバカである。

2011年の3月11日に、そうやって世界中に散らばって、いつも、ろくでもないことばかり考えていた「種族」のひとびとがとっさに考えたことのひとつは、日本という遙かに遠い国にいる自分の種族の人間がどうしているか、ということだった。
くっっさあああーい言い方をすると、世代が違い言語が違い住んでいる国が違い貧富が違い社会的地位や肌の色が違っても、この種族のひとびとはあまりに数が少ないので、お互いを血縁に近い存在とみなしている。
この種族の特徴であるタイプの頭の良さは、生存には通常マイナスにしか働かない。
フクシマのようなことがあれば真っ先に滅びてしまいそうに思えたからです。

幸いいまはインターネットが存在して、このひとびとのうち英語が出来るものは、数学やゲーム、アニメやマンガのフォーラムを通じて知り合った同族人と直截やりとりをして、自分が置かれている状況が刻々と把握されていたもののよーである。
しかし、日本という国はどこまでも風変わりな国で、この種族にあってすら、英語なんてハロー以外に興味ないわい、というヘンな亜種が厳然として存在する。
多分、だから、こうやって奇妙な文章を書いているのだと思います。

日本では放射性物質を巡る議論はつくされて、いままでの世界の通念とは異なっていまばらまかれている程度の放射性物質の量ならば安全だということになっている。
日本政府が決めたガイドラインなので日本の旅券をもっているひとにとっては、それはもう「生きていくための諸条件および前提」として組み込まれたのと同じことであると思う。
日本人に生まれるということは、そのまま放射性物質による汚染を人生の条件として受け容れて汚染された肉体とともに生きることだと国策して決定されている。
仮に日本人科学者や政府の役人が改変して決定した「新基準」が誤っていて、いままでの「旧基準」が妥当なものだとすると、十何年かの後に、大変な、というよりも歴史的な大惨事が始まることになる。いまの日本政府のやりかただと、4年もすれば沖縄にいようが東京にいようが北海道に住んでいようが同じことで、みな等しく危険な領域にはいってゆくことになる。
こういう場合、国民がとれる選択肢はふたつで、良い国民として国と社会の決めた方針に殉じて(なにしろ政府という権威も科学者という知性もそう言っているのだから)放射性物質を怖れずに雄々しく生活するか、自己中心的な非国民になって、「それでも、わし、怖いもん」と述べて、もうぼくは勝手に生きていきますから、と内心で宣言するか、どちらかであると思う。

国の方針が誤っていると理解しながら、なおかつ国にしたがって従容として放射性物質の蔓延のなかで生きていく、というのはなかなかカッコイイ考えであって、子供のとき宇宙戦艦ヤマトにカンドーできた程度の知性なら、なかなか良い選択であると思う。
少なくとも田舎者じみて斜に構えて、「けっ」なんちゃいながら、現実にはずぶずぶと東京にいて死んで..じゃない、間違えた、生きていくよりはまともな行き方であると思われる。

でもね。
もちろん、4年もしたら戻ると決めてでよいから、自分の種族が屯っている大学なり研究所なり、キチガイ部落なり、なんでもいいから同種族の人間に会いに行こう、と思って決心するには、良い機会ではないだろーか。
自分の国にいても、同じ種族の人間に言われなければピンと来ない、という特徴をきみが属する種族は有している。
そこに行けば、一瞬でわかるよ。
正しいかどうかは別にして、きみの言葉が通じる人間たちは、きみが「放射性物質の害とゆっても確定した知見はなくて…」と言いかけた途端に、みなで、どひゃっひゃっひゃひゃ、と大笑いしだして、dude、おまえさん、頭がいっちゃってるよ。
まあ、ビールでも飲みたまえ、悪い語彙が頭から逃げてゆくから、頭でっかちのドイツ人の宰相も「ビールはぼくらを楽します」とゆっておる、と言い出すに決まっている。

終わりのない議論は、たいていの場合、終わりのない議論の場にひとびとを閉じ込めて疲れ果てさせるために誰かが「場」をしつらえた結果おきる。
その議論の場にいるかぎり、なぜ自分がこれほど消耗な議論に力を奪われなければならないかわからないが、実は議論による消耗そのものが議論の目的なのだと思う。

きみは同族に面会することによって、ようやくそのことを悟るだろう。
自分がフクシマを巡る思考と信じてきたものが、ほんとうは全力で車輪をまわしているのに同じところにいるだけのハツカネズミと同じ行為だったと気がつくのに違いない。
そうして、そういう仕組みを巧妙に用意するだけの緻密で隠秘な能力を社会というものはどんな社会でも潜在的にもっているものです。

他のひとには他のひとの方法があるが、きみが属している種族の人間にとっては、異なる社会の同種族の人間に出会うのが最も近道だと思う。

いーじゃない、英語くらい出来なくたって。
そんなもん、ねーちんやにーちゃんと親密にしているうちには、あっというまになんとかなるであろう。
ならなかったら相手に日本語をおしえればよい。

きみとは初対面だが、もし会えなかったらどうしようかと、
そればかり考えていたよ、と岩田宏も述べておる。
行っちゃいなよ、海外。
類は友を溺愛するという。

きっと、会えると思う。
きみが強く望みさえすれば。
いつか、どこかで。

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痛み

沖縄のひとは、「魂を落とす」という。
落とすと、わるいことが起きる。
気持ちが落ち着かなくなったり、ぼんやりしていたり、体調が悪くなったりする。
落としてしまったら、魂を落とした場所へ行って
「まぶやー、まぶやー、うーてぃくよおー」
とゆって魂を呼び戻すそーです。

現代では心へのアクセスを失ってしまうひとが多い。
自分の心や感情がどこか遠くにあって、ときどき帰りつこうとしても、もう自分の魂の住所がわからなくなっている。
他人の苦しみは文字通り「他人事(ひとごと)」で、なんとも思わない、というよりも、どうにも思えない。
他人の苦しみを思って泣く、などという人間は偽善者に違いない、と思い込んでいるひとまでいる。
もっと酷くなれば、実際に、自分の苦しみでさえ「他人事」になってしまうひともいるよーである。

人間にとっての最大の不幸は自分自身にアクセスできなくなってしまうことであると思う。
ヘンな例を挙げるなら、ちょうど自分のオンラインの銀行アカウントにアクセスできなくなったひとと同じで、パスワードもIDもちゃんとおぼえているのに、いざやってみると自分に見慣れた心象はあらわれないで、なんだかのっぺらした、自分のまわりにいくらでもある表情と顔にでくわしてしまう。
自分はいったいどんな人間だったかが思い出せなくなる。

シリアルキラー(連続殺人犯)に同じ問題を抱えたひとが多いのはよく知られている。
ベトナム以来、戦場で苛酷な戦いに曝されると、やはり同じ問題を引き起こすことも知られるようになった。
実際、海兵隊で、気の良い、やや単純な若者を殺人機械に変えるための訓練は、言葉を言い換えると自分の心に鍵をかけて自分自身から隔離するための訓練そのものです。
そういう眼で見直すと旧日本陸軍の習慣と訓練もやはり自分の心を虐殺することに特化されていた。
集団強姦や無抵抗な民間人を射殺するのが通常の軍隊生活の一部であった日本陸軍の軍紀の弛緩は、ようするに最低限の人間性まで兵士達から奪い取ったことの結果であるように思える。

中世の武士はびっくりするほどよく泣いたという。
感激してはおいおい泣き、友達が喧嘩して去ると悔しがって号泣した。
いまの日本人からは想像もつかないひとたちであったよーです。

わしがもつ、自由闊達で自分の心が自分自身に向かっていつもドアを開けっ放しであるような日本人のイメージは、どうやら俊頼髄脳と並んでわしが大好きな古典である「平家物語」から来ているらしい。何でも書いて自分でも飽きたが生田神社で箙に花の枝をさして戦場にかけもどる景季の後ろ姿は、わしが歴史のなかでなんども見送った日本人そのものの姿でもある。

日本は、空恐ろしいほど貧しい国だった。
豊かな濃尾平野で国をなした織田信長でさえ、多分、(印象では)軍事費が国費の半分をかるくこえていて、農民や商人は、くうやくわずに近い状態だったと思われる。
卓越したデザインセンスに彩られた鎧甲や兵器の美しさは別にして、戦国時代の争闘などは庶人の目からはいまのアフリカの内戦と同じようなものだったのかも知れません。
その程度の生産性しかなかったはずである。

江戸時代になっても貧しさが変わらなかったのは、一般に印象される中期までというようなことではなくて、現代の感覚からすると「ボロをまとっている」としか形容できない幕末の写真に残っている庶人の姿をみれば、文字通り一目瞭然、江戸時代もまたいまの常識では理解できないほどの貧しい時代だったでしょう。
明治時代にやってきたフランス人は、日本という国の貧しさに息をのんで、「この国には、しかも資源と呼べるものがなにもない。人糞だけがゆいいつの資源で、日本人という民族は人糞を畑にまいて食べた結果の人糞を畑に戻す、ただ人糞の循環だけで生きながらえている」と書いている。

周りからは海で隔てられ、十分な資源といえば石灰岩くらいしかなく少しの鉄と質の悪い石炭が採れるくらいの農業国に温暖なモンスーン気候が災いして人口ばかりが巨大に膨れあがった近代日本は、世界のなかでは、町外れによそ者として住み着いた貧乏な大家族に似ていた。
最も近い半島人から見れば文明の最低の基礎である礼儀すらわからない最低の隣人であり、中国にとっては、ほんとうに国として扱ったほうがいいのかどうかも判然としない島の集合にしかすぎなかった。

日本に個人主義が育たなかった理由を訝る本はたくさんあるよーだが、あんなに貧しい土地にあんなに人間がたくさんいて個人主義が発達したら、それこそ怪奇というべきで、日本が取りえた道はふたつで、強固な階級社会を形成して頂点の階級において個人主義らしいものを形成するか、乏しい富をわけあって、一種の情緒的な全体主義社会を形成するか、どちらかしかなかったでしょう。

近代日本は、革命の原動力が底辺の武士であった、という特徴をもつ。
後に支配層になったひとびとも、いまで言えばテロリストの、乱暴なだけで他に取り柄がないようなひとびとです。
いまの日本は江戸時代の薩摩藩にありようが似ていると思う事があるが、
人間性を弱さの証拠として否定し集団によるイジメが社会のなかで慣習化されていた薩摩藩の社会を、高度成長期からバブル時代の拝金主義に対するアンチテーゼのようにして徹底的に讃美したのは司馬遼太郎というひとでした。
大阪のひとだったので、ちょうど正反対と言えなくもない薩摩の「議を言うな」文化がひどく好もしいものに見えたのかもしれません。

薩摩は極端な全体主義国家だった。
軍事に特化したような「戦士の国」で、明治時代の最大の幸運はこの「戦士の国」の最後の戦士達が生きているときにロシアが侵略を決心したことだったでしょう。
他のタイミングならひとたまりもなかった。
薩摩人たちは日本という国の守護神のように戦って、勝ったとは到底言えないが玄関からクビを突っ込んできた巨大な熊の鼻面におもいきりかみついて、這々の体で逃げ帰させることに成功した。

この日露戦争はしかしふたつの大厄災を日本にもたらしたように見えます。
ひとつは会戦主義だった当時では常識として「戦争に勝つ」ということは勝ったほうの文明度のほうが高い、ということをあらわしていた。
その結果、日本は国民レベルで「ロシア=欧州」と肩をならべたという実感をもった。
日本がたとえばせめてトルコの位置にあれば、比較する気にもならないほど富も文明の成熟度も違う当時の欧州と同等の「列強」になったとは思おうにも思えなかったでしょうが、日本は遙かに遠い国で、「日本は一流国になった」というメディアと政府の宣伝を信じないというほうが不思議だった。
よく考えてみれば、つい昨日まで白米が食べられれば大贅沢で、つぎだらけの粗末な衣服を着て、隙間だらけの西洋の基準では建物とさえ呼べないほどの貧しいつくりの家に住んで、今日は突然文明国になるわけはないが、とにもかくにも、日本のひとは自分達が世界の帝王のひとりになったつもりで国家的な傲慢という悪い病気を育てていった。

もうひとつは、日露戦争後の講和条約を日本が大勝した結果のロシアの命乞い条約だとメディアや帝国大学の教授たちを始めとする知識人たちの演説で思い込まされていた国民が、条約の何もぶったくれなかった内容に憤激して、巨大な暴動を起こしたことで、この暴動は日本政府のトラウマになったよーでした。
燃えさかる建物を見ながら、日本の支配層は「主張する民衆」というものの暴力性を見て戦慄したに違いない。
これでは自分達がつくったちっぽけな出来たての「近代国家」などひとたまりもない、と考えただろうと思います。

歴史を眺めると、それ以来、日本の政府がやってきたことは同じことの繰り返しだった。
臆面もない嘘をつき、マスメディアを通じて、それを正当化してきた。
日本のマスメディアは記者クラブという管制装置をもっており、そこに詰める記者達は長いあいだ政治家や官僚と同じ階層から出て、トップは同じトーダイの顔見知りである、という不思議な状態だった。

国の体面が民主主義でも全体主義でも、そんなものはただの意匠で、シャツを着替える気楽さで着替えるだけの、機能自体はどっちの場合でも精確に同じ、という日本式に巧妙な中枢装置は、いまは日本だけ出なくて半島や中国、香港、シンガポールというような国にも受け継がれているが、この支配層からみればものすごくよく出来た社会の管制装置はしかし、一方ではどれほど権力の内部で腐敗を亢進させるものであるかは、いまのいま、日本のひとが自分自身の身で首相が言うようには決して分かち合えたりはしない、個々別々の強烈な痛みとして経験していることで、外国人であるわしが、云々するに忍びない。

サバイバルのために始まった日本社会の特殊な試みは、しかし、もっと意外なところで個々人に深刻な影響を与えた。

自分の心にアクセスできなくなった大量のひとびとの存在がそれで、日本語ウィキペディアを見ると日本語では性的な嗜好の意味でしか使わないようなので語彙として使うのが難しいが、社会の明瞭な傾向としてサディズムが蔓延していることのおおきな理由もそれであると、わしには思われる。
西洋語のアパシーとは決定的に異なる、自分と自分の魂との乖離は日本人を徹底的に苦しめている。
自分の心や情緒と乖離してアクセスを失ってしまうことは、そのまま他者に対していくらでも残虐になれる、ということに他ならないからです。
おもいつきの整合性があるように見える理屈さえたてば、狂った獣の群れのように集団で個人を攻撃する攻撃的な狂気は直截にはそこから来ているように見えました。

痛みをわかちあう、という野田首相の言葉を聞いたときに、その語彙の選択の、いかにも心根の貧しい品の悪さとともに、わしは、なんという皮肉な標語だろう、と考えた。
「痛み」こそは日本人から奪われた感覚の代表で、他人の痛みを感じられないばかりか、自分の痛みさえ見失って自殺におもむく、自国の人間たちから自分達支配層が歴史を通じて奪い続けてきたものを、いまは分かちあえという。
しばらく呆気にとられてしまったが、そうか、このひとも「痛み」というものをもてない、自分の心から締め出されてしまった人のひとりなのだと考えて、納得とはいわないが、そーゆーこともあるのか、と不思議の感覚に打たれたりしたものでした。

31/March/2012

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多文化社会

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秋になって、庭から蝉の声が聞こえている。
ニュージーランドの蝉は、身体が小さい、声も日本の猛々しく巨大な音響を響かせる蝉に較べると、小さくてやさしげな蝉です。
夏のあいだじゅう咲き誇っていたブーゲンビリアの花も散って、もう数えるほどしか残っていない。
いつもなら、この気候に変われば、どおりゃそろそろマンハッタンに移動すべか、と考えるところだが、今年はオークランドにずっといる。
なんだかヘンな感じがします。

マクドナルドとタイムアウトの店の数を基準に文明度を定義していたガキわしの頃は、
一度かーちゃんに内緒でこっそりやってでかけてビッグマックを頼んだら出てくるのに15分もかかったオークランドなど、文明というものが理解できないチョー田舎であって、ケーベツの対象であった。
まさか、こんなところに縁が出来るとは思わなかった。

ニュージーランドが多文化社会に舵をきったのは、結局よいことだった。
クライストチャーチという、ニュージーランドのなかでさえ、日本人である義理叔父によれば、おまえたちは鈴木その子か、というほど白い顔ばかりが好きなので有名で、マオリ人も少ない白人町に毎年ニュージーランドの夏をすごしたせいもあるが、ガキなりにわしはオークランドが中心になって始めた「マルチカルチュラルソサエティ」への実験を、うまくいかないのではないかと考えていた。
案の定、1995年という頃のオークランドは、訪れるたびにどんどんバラバラになっていく印象で、そこここに虫が食ったように漢字やハングルの看板が並び、英語人のニュージーランド人からすると、外から見ただけではいったい何を商っているのかもわからない店がクイーン通りの片側にずらっと並んで、銀行のロビーでは接客用のカウチでキスどころか、お互いの身体をまさぐりあうアジア人の高校生カップルがねそべっていたり、
パジャマ姿の中国人ばーちゃんが大通りで声高な中国語で何事か話し合っていたりして、
これでは国がなくなってしまうと考えた首の後ろが赤いおっさんやおばさんたちが集団で立ち上がって、一足先に暴れ出していたクイーンズランドのオーストラリア人たちに呼応して、
すさまじい反アジア人運動を起こしたりしていた。

オークランドは都会なので、それでも表面で目につくほどではなかったが、ネルソンやオタゴの小さな町では、首を切った鶏をさかさまに中国系移民のドアに釘付けしたり、
韓国移民の農場の家の庭に羊のくびを放り込んだり、現に、わしが「牧場の家」と呼んでいた農場のある町は、中国人家族や日本人家族が4家族引っ越してきたが、嫌がらせに耐えかねて、何れも3ヶ月もしないで引越して出ていった。

わしはニュージーランドでは一年のうち短いあいだしか学校に行く必要が無かったが、わしが大好きだった先生が、ある日、校庭で遊んでいたわしに向かって歩いてきて、仲がよかったアジア人の友達Kについて話しておきたいことがある、と言った午後のことをおぼえている。
「仲が良いのはいいことだけど、あんまり仲が良くなりすぎてはいけませんよ」という。
わしが、どういう意味だろう、と考えていると、
先生は物事を理解するのが遅い、わしの頭のはたらきの遅さにしびれを切らしたのか、
今度はごくはっきりと、「アジア人の子と、お友達になるのは感心しないわね」と微笑みながら言う。
いま考えてみると、その同じ学校に次の年にやってくる父親が日本人の従兄弟の影響だけではなくて、そのときの先生のひと言が、日本への興味を後押ししたのかもしれません。

夕方、どういう理由だったかおぼえていないが、その日は午後にテレビを観ていて、トロントの特集をやっていた。
トロントは当時でもすでに成熟した多文化社会で、街を楽しげに闊歩しているインド人たちや、中国人たちの姿を観て、どうしてカナダではニュージーランドでうまくいかないことがうまく行くのだろう、と訝しんだ。
アメリカのマンハッタンのような都会よりも、1990年代のその頃はカナダのトロントのほうが多文化社会化が進んでいたと思います。
きゅうりのサンドイッチを食べながら、どーしよーかなー、と考えたがおもいきって、かーちゃんに
「トロントではみんなが仲良くやれるのに、ニュージーランドではうまくいかないのは、なぜですか? 国の大きさが違うからでしょうか?」
と訊いてみた。
かーちゃんが、にっこり笑って、
「時間が必要なだけですよ、ガメ」という。
でも、お隣のボブさんは、自分はロスアンジェルスに去年までいたが、ニュージーランドがロスアンジェルスのようになったら大変だ、と言ってました。
「それはお隣のボブおじさんが頭が悪い人だからですよ、ガメ。内緒だけど」
とかーちゃんが、ゆったのをありありと表情付きでおぼえている。
母親ながら、いたずらっ子のような顔で、シィーと人差し指を唇にあてて、くすくす笑っている。
「ロスアンジェルスになって、いろいろな文化の人が増えて、悪い事はひとつもないじゃないの。
素晴らしいことです」
わしは、ついでにディズニーランドもできるといいなあ、と間抜けなことを言いながら、
でも今度ばかりは、かーちゃんも間違えていて、どうもオークランドは滅茶苦茶になりそーだ、とクイーン通りのアジア語の看板の列を思い出していた。

かーちゃんは正しかった。
混沌のるつぼに見えたオークランドは、落ち着いてみると、多文化かどうか、というようなこととは関係なく、住みやすい、素晴らしい街になった。
多文化ということで言えば、ひとつの街がたとえば人種的偏見が少ないかどうかは、異性間のいわゆる「カップル」の数よりも、仕事帰りに職場の同僚同士でパブのテーブルを囲んで居る女同士、男同士の友達、あるいは学校の帰りに連れ立って帰る高校生たちがどんな組み合わせがあるか観察していたほうがはっきり判る。
アメリカの大きな都市で、普段はもちろん皮膚の色で嫌な思いをすることはなくても、
comfortableに感じるかどうかで、どうしても同じ文化グループで「下校友達」になることが多いようだ。
オークランドでは、インド人の女の子と赤毛の、みるからにアイルランド系の女の子が仲良く家に帰ってゆく。すれちがうときにインド人の女の子が「あんたって、ばっかよねえー。ドジ」と笑っていうのが聞こえる。

ポンソンビーのカフェで、ふと気が付くと、中東人と中国人の夫婦が赤ん坊をあやしていたり、ジャマイカ人の父親とオタゴ訛りのイギリス系のニュージーランド人の母親がベビーカーを覗きこんで笑っている。
インドの人、韓国のひと、たまたまだが、ちょうどテーブルが全部mixed coupleで、
あたりまえだが、ふつーにリラックスして日曜のブランチを楽しんでいて、オークランドはいい街になったなあー、と思う。

わしは、おいしいものが好きなので、その点でも多文化社会になって、ニュージーランドは激しく向上した(^^)

ガキわしの頃、クライストチャーチの「町の家」と呼んだ家はフェンダルトンというクライストチャーチでは名前がよいということになっているところにあるが、家の近くで繁盛していた中華のテイクアウエイ屋の春巻は水筒くらいの大きさがある巨大なもので、煮染めたというか、濃い褐色の油がしみこんでいて、その上にその油が機械油みたいな微妙ですらない臭いがするものであって、それを新聞紙に包んで、台の上にどんっと置く。
上から、最近はケチャップというひともいるが、もともとは日本のひとの「トマト」に近い発音で「トマトソース」と呼ぶウォッティーズ
http://www.watties.co.nz/
のハインツよりはやや甘味が少ないトマトソースをどちゃっとかけて食べます。
ガキわしの頃はロンドンも昼ご飯に食べる食べ物に関してはろくでもない街だったので、
そーゆー、馬のチ○チンを切断してフライにしたみたいな訳のわからない食べ物をへーきで、なんとも思わずに食べていた。
フィッシュアンドチップスの店は隆盛をきわめていたが、鮫の肉で、イモはいま考えてもうまかったが、鮫はおもいだしても腐った魚の肉をおしっこに漬けたようなヘンテコな味がしたりした。

その頃は、ふつーなニュージーランド人の夕食は大半の家庭で定食化していて、ひとつの皿の上に野菜と肉とイモがのっている。
野菜が温野菜であったりサラダであったりグリルした野菜であったりして、肉も、ステーキであったりラムであったりチキンであったり、ビンボな家ならばハンバーグやミートローフ、あるいはコーンドビーフであったりする。
変化はただそれだけで、来る日も来る日も、その「三色定食」を食べていた。

おととい、わしは、フランス人たちのチョーおしゃべりな大晩餐会に飽きて、後半だけの参加を企図し、ひとりだけこっそりテイクアウエィを食べることにして、中東人が多い店のラムチョップのトマト煮を買ってきたが、ラムはもちろん、カシューナッツがはいったサフランライスも、なんだか非現実的なくらいおいしかった。
巨大ポーションなのに、700円である。

アメリカ人や日本人は味覚のほかの部分は発達していても、文化的に「スパイス音痴」であるという。
スパイスの新鮮さや、微妙な香りの違いがわからない。
そーゆー通説はほんとうであるかもしれなくて、レジの綺麗なねーちゃんたちがビニル袋を鼻の前に持ち上げて、くんくんして判別しながらチェックアウトしてくれるスパイススーパーマーケットのスパイスは、本国人の厳しい評価をくぐっているので、新鮮で、すげーカッチョイイスパイスです。
当然、スパイスのものは、断然世界水準をうわまわっていて中東料理の水準に達している。
中近東の、たとえばレバノン料理などは、トルコ料理と並んで、世界の食べ物のうちの白眉で、中東人が西欧人を文明論的に憐憫するときにはだいたい食べ物が基準になっている。

モニとふたりで銀座でふらふらいちゃいちゃして遊んでいた頃は、中華料理というと交詢社ビルの上だとか、ペニンシャラホテルの二階だとか、そーゆーレストランにでかけてもいまいちで、残念であった。
中華料理はパリのほうがおいしーよなあー、
マンハッタンのChinatown Brasserie
http://www.chinatownbrasserie.com/

がなつかしい、グラミー賞をひとりでいっぱい取ったアデルの実物を初めて見たのもあの店だった、と考えるが、

オークランドには同じくらいdecentな味の中華料理屋もちゃんとある。

連合王国の唯一の紐帯、イギリス人の国民食であるインド料理に至っては、さまざまな料理屋が大量にあって、ブリヤニでもインドチャイニーズでもなんでも無茶苦茶においしい店がある。

しみじみ、えがった、と思います。

他にも香港人達が最新コンピュータパーツを持ち込み、インド人たちが知的職業の質を向上させ、というふうにオークランドは都市として世界中から学習している。

移民というひとびとの一般的な傾向はエスニックグループを問わず、遠く離れてしまっているからでしょう、自分達の祖国への愛情がほぼ異常なほど強く、一方では自分の一生と自分自身を向上させることに熱心で、「前向き」という日本語があるが、前向きどころか後進装置が壊れてるんちゃうか、というくらい驀進するひとびとで、とにかく懸命、頑張れば必ずなんとかなるであろー、と固く信じている点で楽観的で、もうダメだあー、どーせ、もうダメだあー、が大好きだったイギリス系ニュージーランド人たちも、主にアジア系移民達に背中を押されるように楽観的になっていった。

わしの部屋には、ひーひーじーちゃんが世界一周旅行の途中で撮った1915年のクライストチャーチの写真が壁にかけてある。
通りには自動車が犇めいていて、たくさんの人が歩いている。
第一、街並みからして現在(つまり、地震直前)より立派である(^^)

ニュージーランドは、いまはビンボ人の環境保護キチガイの国だが、もともとは富裕な国だったのが写真を見てもすぐ見てとれます。
歴史を眺めていると、それが、なにしろアングロサクソンばっかしの国で、欧州人よりも先に北半球から手こぎボートでニュージーランドに植民していたポリネシア人たちとも隔離しあっていて、いわば原理主義化したアングロサクソン文化のせいで、社会全体が硬直してしまった。
打つ手打つ手が裏目に出て、だんだんおちぶれていった。
安全で居心地がよく、みなが礼儀正しくて、清潔、正直ベースですべてがまかなえる国で、ガキわしの頃はまだ、何千ドルという小切手が誰でももっていける郵便箱に放り込んであり、ATMカードも同じならクレジットカードも同じ、家に鍵をかける人も少ない、という「同質社会」の特徴を全部もっていた。

移民をうけいれたのは、経済的な理由だったが、ニュージーランド人たちがみなでぶっくらこいたのは、経済であるよりも、生活が楽しいものに変わったことだった。
インド人たちは、とんでもない豊穣な文化の持ち主で、オークランドのあちこちのホールで年中コンサートや舞踊やビッグバンドのインド音楽をやっている。
他の国での迫害がひどくなるにつれていまは優秀な中東人たちがニュージーランドめざしてやってくる。

新しい移民達にとっても無論よいことはあって、たとえば、さっき挙げたスパイスだけのスーパーマーケットにはブルカの女びとの店員もいるが、わしがニッカリ笑って「だいさんきゅ」というと、覘いている目がきらきら光るようにして、にっこり笑って、ありがとう、という。
他人に言われて気が付いたが、そうやって見知らぬ男に笑いかけることは、あの女びとがやってきた国では極端に不道徳な犯罪とみなされる。
ニュージーランドでは、なんだったら髪を見せて微笑んでも犯罪にはならん。
それは、どうしても、あの女びとにとっては「よいこと」であると思う。

さんざんバカにされた態度をとられたアフリカ人たちが頭に来て、槍で中国人達を襲ったり、ポリネシア人たちが偏見に悩んでアルコールに溺れたりする問題は、もちろん、いまでもいくらでもあるが、ガキわしの頃から眺めていて、かーちゃんの言うとおり、
ニュージーランドは、切羽つまって、乾坤一擲キチガイじみて打った賭博に勝ったよーだ。

やっと、ここまで来た。
はっはっは、勝った、と思います。

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個人のための後退戦マニュアル・その5

あれから、ちょうど、1年になる。
あのときモニとぼくは、カウチに腰掛けて、あの奇妙なほど現実感のない水の広がりをじっと観ていた。
最も残酷な破壊は、いつも、奇妙なほど現実感がない。
911のときも、初めぼくは、それを映画のトレーラーだと思っていた。
何回も何回も繰り返すので、いったいこんな非現実的なストーリーの映画のために、こんなに巨額な広告費を使うなんて、なんていまいましいことだろう、と思った。

津波は、まるで凍った表面を広がってゆく水か、誰かが厨房の床にオリーブオイルの缶をひっくり返した、とでもいうように、するすると、やすやすと広がって、その不思議な感じは、ふたつの違う次元のものが折り重なったような奇妙な感覚でずっと頭のなかに残っていた。

福島第一原子力発電所の事故は、津波の巨大な破壊よりも、ぼくにとっては、もっと現実感のあることだった。
どこまでもぼんやりなぼくは、アメリカの友人たちに「あそこには2つ旧式な原子炉の原子力発電所があるはずだ。両方とも、あの津波ではひとたまりもないだろう」とeメールで告げられるまで、原子炉事故に考えが及ばなかった。
日本での原子力発電所事故の可能性と言えば、もんじゅ、と決めてかかっていたからです。

それから、どんなことが起こっていったか、きみもぼくも、もう、すっかり知っている。
放射性物質という、視覚にも嗅覚にも聴覚にも訴えず、数年という単位では疾病も見えない厄介な影は、終わりのない議論、結末のない憂鬱、どれほど注意していても生活のあちこちから忍び込んでくる脅迫になって、いまでも日本を苦しめている。

事故で明らかになった日本の科学者の信じがたいほどの社会に対する無責任と、こっちはどんな政府でも似たようなものであるに違いない、救いがたい、しかも十分予期できるほど退屈で予測通りの日本政府の不誠実と欺瞞、なんとか放射能が安全であることの論理的依拠をみいだして、生活を立て直す端緒にしたいと願う、「この程度の放射性物質は安全だ」という個々の日本人の国論形成への懸命な努力、… 絶対に起きてはいけない事故が起きてしまったのだから、当然すぎるほどのことで、社会に隠されていた問題までもがいっぺんに噴き出してきたが、そちらは日本のひとたち自身にまかせることにして、ぼくは、きみに話しかけたかった。
「個人」という立場に限定して、この敗退の局面でどうすれば生き残ってゆけるかを考えようとした。
「 個人のための後退戦マニュアル」というブログ記事がそれです。

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その2/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/22/個人のための後退戦マニュアル・その3/

http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/17/個人のための後退戦マニュアル・その4/

きみとぼくの現実離れした願いは、政府が率直に「避難してもらいたいが、政府にはそれを補償するオカネはない」と述べるということだったが、もちろん、そんなことは起こらなかった。
嘘に嘘をかさね、非望に非望を積み重ねて、日本の社会は一種の架空な事故の終熄をつくりあげた。
炉心をくいやぶってどこかにいってしまった核燃料は、存在の確認をする方法がないので、なかったことになり、わずかにいくつか残った、まともに作動しているかどうかも判らない炉内の温度計で一喜一憂することに関心の対象を切り替えた。
漏出する放射性物質の濃度の絶対値を考えるのは気が滅入るので、「先週と較べて濃度が高いかどうか」を報告して、「一定だ」という表現を使うことにした。

もっとも決定的だったのは「痛みをわかちあう」という、愚にもつかない、浪花節、という古い言葉を思い出させる薄気味のわるい言語感覚の命名で、放射能物質を積極的に全国にばらまくことにしたことで、原子力発電所の安全管理は杜撰をきわめるのに、そういうことには周到な役人頭をフルに発揮して、思慮深くまえもって、おもいきって引き上げてあった「安全基準」より下回るという数値を玉条に、日本全国、みなで放射能汚染をひきうけることになった。

たとえば産地を偽装しようとする中間業者は、「おかみの姿勢」に敏感である。
おかみにやる気があるとみれば、入れ替えたかった米袋もいったん倉庫にしまって、様子をみる。
おかみにほんとうには取り締まる気がなさそうだ、と考えれば、どんどんやってしまえと号令をかけて、法外な稼ぎめざして夢中で違法な労働に熱中する。

まして政府が公式に「痛みを分かち合う」などという姿勢を示してしまえば、要するに違法な行為を後ろから背中を押して督励されているようなもので、歓び勇んで本来は市場に漏出させてはならない汚染も、「消費の海」に向かってはき出し続けるだろう。

ぼくは、あとでひとが福島第一事故をふりかえってみたときに、「あれが分岐点だった。岐れ道であった」と思うのは原子炉を被覆する建物の爆発ではなくて、「全国民で福島の痛みをわかちあう」という言葉が政府自身の口から発っせられたときであると思う。
日本は、「放射能が安全なら勝ち、安全でなければ負け」という、外国人たちからみれば勝てるはずのない狂気の賭け、日本人だけが賭けてみて五分五分と感じている賭けの賭け金をおおきくして、ほとんど国民を挙げて全財産を賭けてしまったことになる。

ぼくは、きみに、どうするのがいいと思うか、ぼくはもうちょっと日本に残ってみようと思うが、と訊かれたとき、残ってみるのでもいいのではないか、と答えた。
日本のひとはバカではないから、しばらくすれば真相に思い当たるに違いない。
必要なのは、2年か3年という時間で、そのあいだ、自分のフォックスホールにこもって、個人個人の後退戦を辛抱づよく戦うことだけと思う。

移民、というのは、まず第一にひとに勝る能力がいる。
自分がうまれついた社会のなかでさえ、見知らぬ町に行けば、友達もなく、気楽にすごして店の主人と軽口を利くレストランもなければ、誰にベビーシッターを頼めばいいのか、セキュリティカンパニーと契約したとして、非常のときの連絡先は同じ町のひとでなければならないが誰にするのか。
仕事のリファレンスは誰が書いてくれるのか。
初めて直面する問題が山のようになって、その段階で、疲れ果てて動けなくなってしまうひとがたくさんいる。

ぼくは義理叔父の知り合いでニュージーランドに引っ越してきたひとの世話を引き受けたことがあったが、銀行と取引履歴がないので、先ずクレジットカードがつくれない。
家を借りるのにテナントとしての履歴がないので、良い家を借りられない。
話を聴いていて、たいへんなんだなあ、と改めて考えた。

まして日本のひととなれば、おきまりの「言葉」の問題がある。
インド人を例外として、アジアのひとは、みなこの壁に苦しむ。
ちょっとアクセントを間違えただけで、英語人には、「えっ? いま、なんと言った? 判らなかったんだが」と聞き返す癖がある。
単純に相手が言ったことをわかならいまま放っておくのが失礼なことだからで、周りを落ち着いて見渡せるようになれば、英語人同士でも、年中聞き返している。
普通の習慣なのだが、気後れを感じるもとになる、とアジアのひとはみな言う。

言葉ができない、と言っても「通じない」という意味ではない、と言い直したほうがいいかもしれない。
英語が日本では「大得意」だったひとで、英語人の国にやってきて鬱病になってしまうひとはいくらもいる。
気楽に話して、気楽に聞いていられないからで、言葉にはスモールトークでお互いにのんびりした気持ちになる、という重大な機能があるが、それがやれやしない。
なんだか、いつも全力で話しいるようで、実をいうと、聞いているほうも疲れてしまう。

他人事(ひとごと)の気楽さで、きみまでが「そろそろ他国へ移住しないとダメかもしれない」と言い出したときには、寂しい気持ちがした。
買ってきた食べ物をひとつづつチェックして、「安全な食品リスト」を作ったり、ぼくが送った各国大使館のメールを読んで、感想を述べていたりした頃のきみは、言い方が悪いかもしれないが、放射能の蔓延と、それに続く放射性物質の環境化のなかで生き延びてゆくのを楽しんでいるようなところすらあった。
「安全な中国食品」と言ってしまってから、自分で可笑しさに気づいて大笑いしたり、「安全なヴァージョンの久保田」を何ダーズも買い置きしたりして、活き活きとしていた。
だから、きみの「日本人全体がこうなってしまっては、もう、どうにもならない」という文言をみつめて、考え込んでしまいました。

仮に移住をするとして、きみの場合は、英語力もなにも、条件をみたすプログラムはたくさんあるのは、もう手紙にも書いた。
そういう意味では問題はないわけです。
ぼくの助けなどいらないだろう。

どこかの国に移住したときの根源的な問題は、やはり言葉で、ぼくが日本で感じた「目の前のものが目の前にあるような気がしない」感じ、なんとなくすべてがぼんやりしていて、しっかり現実になってくれない感じは、言葉がわかるかどうか、というようなことよりも、むしろ、おおげさにいうと、魂そのものが、その言葉で出来ているかどうか、のほうにかかっているように思える。

現実の問題として、たまたまなのかも知れないが、おとなになってから移住してきて、すっかりその社会になじんでいるのは、その社会のひとと結婚して、子供をつくった女のひとに限られるようにも見える。
ここで面白いのは、たとえば中国語しか出来なくて英語がカタコトというひとでも、子供が英語人になってしまえば、自分も(多分、子供を通して)社会に根をおろす人がいることです。

ぼく自身が5年間11回の日本遠征の最後の年に感じた「ホームシック」は、ほんとうはホームシックではなくて、退屈であったようだ。
モニのフラストレーションが伝染ったのだろう、と当のモニがいうが、案外、そういうところもあるかもしれません。
でも、その「退屈」がどこから来たかというと、やはり日本のものに「馴染めなかったから」かもしれない。
ぼくは、日本のいいところをたくさん知っていると思うが、日本のひとが問題にしない細かいところで、親しみをもてないことがたくさんあった。

フランス人よりもひどいのではないか(^^)と思うほどの立ち小便の癖もそうだが、清潔だが醜い街並み。
通りを歩くひとの表情の乏しさ。
抜け目がなく、せかせかした調子や、不思議な歩き方。
奇妙で、背中がけいれんを起こしそうな音を立てるものを食べるときの習慣。
そういうものには最後まで馴染めなかった。

具体的には、どういうことに違和感を感じるのかは、義理叔父にでも訊かないと判らないが、だとすれば当然、日本の人が英語人の世界に来てもやはりそう思うはずで、英語人、とテキトーなことを書いたが、同じ英語世界のなかでもイギリス人やニュージーランド人で、アメリカに行って住んでみて、あまりの違いにびっくりして帰って来てしまうひとなど、ざらにいます。

いま、こうやって、きみの顔を思う浮かべながら書いていて、日本のひとは日本をもっと大事にすればいいのになあ、とあらためておもう。
ロシア人にとってロシアがかけがえのない土地であるのと同じ意味で、日本人にとっては日本は(文字通り)かけがえのない国であるはずと思う。
むしろ、他国よりもさらにそうであるはずで、外から見ていると、そもそも「日本人」というひとびとは「日本」なしでは成立しない概念であるようなところすらある。
抽象的なことを述べているのではなくて日本語の「松」は、日本のやさしげで風に耐える姿の日本の松でなくては、そもそも成り立たない。
松籟が、西洋の黒々と聳える黒松では、聞こえるはずもない。

福島第一の事故とその後の一連の事象が一種の必然であった、といえば、それは日本のひとは怒るだろうが、長野の山の美しい野原にピクニックに行って、「砂防ダム」という名前の巨大なコンクリートの骸にびっくりしたり、鎌倉の夕暮れの大気の具合によっては屈曲されて江ノ島の右上の高いところに現実よりも遙かに巨きな大きさに見える茜色に染まった富士山が見える海岸に、延々とこれ以上ないほど醜い姿をさらして折り重なっている、いまでは消波性どころか、まったく無用のものであると判っているテトラポッド、水に映った空と現実の空の、二枚の青空のまんなかを歩いているような畦道をぬけたばかりの県道に、赤錆びたまま朽ち果てた、誰も撤去しないパチンコ店やラブホテルの広告塔、道ばたに無造作につみあげられた廃棄されたクルマ、タイヤ、そうしたものは、ぼくにとっては「小さなフクシマ」で、アメリカやオーストラリアの経済人に「頭がわるすぎて、どう言えばいいかわからない」と言われる、ニュージーランド人の頑固さ、カネがないビンボ人の集まりのくせに、新しく見つかった大きな埋蔵量の金鉱も「風景が破壊される」と言って掘らせず、電力が不足気味どころではなくて、年がら年中停電しているのに、風力発電にまで反対してなかなかつくらせない頭の悪さが、よいことであるように思えてくることもある(^^)

ニュージーランド人には「電力がなければ経済も発展しないのがなぜ判らないのか」と言われても「それとこれとは関係が無い」といいはる「滅茶苦茶な理屈」という強力な武器がある。もし、福島第一事故のようなことがあれば、「安全だというなら、おまえが証明しろ」と言って「市民」が暴徒化して官庁を襲撃するに決まっている。
百歩譲って、放射能が安全だと仮に証明されたとしても、「それでも放射能と一緒に住むのは嫌だ」と言うに違いない。
では、どうすればいいのか、と問うと、そんなことはおまえが考えろ、それもいますぐ、とゆってみなで腕組みしてえばって睨み付けるに決まっている。

英語国民のなかでも、ニュージーランド人の大半は、ニュージーランドに移住することによって、収入が少なくとも半減することを覚悟してやってきた。
英語世界におけるニュージーランドのイメージは「ビンボだけどクリーン」

「ボロは着てても国土はグリーン」だからで、現実もあまり変わらない。

むかし、ガキンチョの頃、家に来たプラマーのにーちゃんに、「ニュージーランド人からニュージーランド人自身をみると、どんな国民に見えるの?」と、いま考えると、アホとしか言いようがない質問をしたことがあったが、にーちゃんは、あっさり
「ひとかたまりのヘンな奴の集まり」という。
名答だと、いまでも思っています。

日本語が言語として成り立たなくなりつつあることの大きな原因のひとつは、日本が国土を失いつつあることにある、と、このブログ記事で何度か書いた。
いつか大好きな映画「Sumo Do, Sumo Don’t」の水田のあいだに一本だけあるまっすぐな線路をディーゼルエンジンの列車が走ってゆくシーンに使われた、びっくりするくらい美しい水田の風景を自分の目で見たくて、上田と別所温泉のあいだにある撮影地まで出かけていったことがある。
ところが、発見したものは、カメラが映画の高さと向きにある、ちょうどそのポジションで醜いものがかろうじて映らないだけのことで、現実の風景には、相変わらずのどうしたらこんなふうに醜く出来るのだろうというデザインの看板や、もろもろの日本の「田舎」に付きものの人間の薄汚い欲望の造形がいっぱいあって、ひどくがっかりだった。

田中角栄というひとは、土地を投機の対象に変える精妙な工夫を発明したことで、いまでも日本では人気がある政治家だが、もうあのへんから日本の国土は、その上に乗っかって暮らしている「日本人」自身の手でぼろぼろにされて、跡形もなく壊され、野尻湖のように破壊の余地がなさそうに見える湖さえ、巨大でマヌケな白鳥型の船を浮かべて台無しにして、崇高な気持ちを起こさせる山容の妙高山の麓には、なにをおもったか、安手の色ペンキを塗った観覧車と遊園地をつくり、ものすごいことには、浅間山の群馬側という、どんなに想像力を働かせても壊しようのない風景も、やはりマヌケな観覧車でぶちこわしにする才能にめぐまれた地元人がいたようでした。

そうやって日本人は自分自身を自傷していった。
自分達の、他には代替のない国土を経済制度においても実際の景観においても破壊し、国土とは呼びようのないものに変えていった。
日本は、「奇跡の経済」のリズムに踊るひとびとによって、 少しづつ削り取られて、 少しづつ死んでいった。

きみは福島第一事故を「終わりの始まり」であると思う、と書いている。
耳をすませると、自分の国が、自分の社会が、崩れてゆく音が聞こえてくるようだ、という。
声高に復興を話している人達の遠景には、聞き取りにくい声で、静かに絶望と諦めを述べているひとたちの囁きに似た声が反響している、というガメの話はほんとうだと思う。

ぼくにとっての後退戦は、もう終わりなんだよ、ガメ、と言う。
もう、この洞窟を出て、白い布を棒にくくりつけて出ていく時が来た。
ぼくは日本をせいいっぱい愛しているが、ぼくは「生き延びる」のではない自分の生活が欲しい。ふつうの生活がしたい。
子供がおぼえるべき初めの語彙のグループに「セシウム」があって、道を歩きながら子供が路傍の花をみつけて駆け寄るたびに、危ないと言って叱りつけるような生活に耐えていけない。

ぼくは、どこか、文明なんかないところに行ったっていいんだ。
いつも現実的なきみは「文明がないところに行くと、トイレだって水洗ではないぞ」といって笑うだろうが、でもほんとうに、もう文明なんて信頼したくない。
頭がいいやつがいるところも嫌だな。
ぼくに向かって、放射能がどんななら大丈夫か、とか、正しくこわがらなければダメだとか、そんなことを言うやつには、もううんざり。
あいつらは根底から肝腎なところがバカなんだと思う。

日本に踏みとどまって、日本の困っているひとたちに手を貸すのが「国民の義務」だというが、ぼくには、もうその「国民」が信用できないのさ。
国民、って、ぼくも含むのに、信用できない。
自分が信用できない。
自分が日本人でいることが嫌でたまらない。

それに、もう、とても疲れた。
1年も勇気をふりしぼって後退戦を戦ったのだから、ガメ、ぼくを許してください。
どこか放射能なんて金輪際考えなくていい土地に行って、ぐっすり眠りたい。
「放射脳」だって。
なんて、嫌らしい低劣さに満ちた軽薄な言葉だろう。
こういうくだらない人間の頭から生まれてインターネットで流通した愚劣な言葉に日本語は食いつくされてしまった。

ぼくは、どこか遠い土地で、敗残兵に似た「逃げてきた外国人」になって、誇りを失って、馴染みのない社会を呪いながら死ぬだろう。
いつかきみに「パセティック」という言葉には、「悲壮」という意味はないんだよ、と教えてもらったことがあったが、滑稽というほうの意味なら、いまのぼくは十分にパセティックだと思う。
自分でも判っています。
国土がないのだもの、ぼくには、もう何もない。
安全だ、安全だ、とお題目を唱えながら、SNSの太鼓を叩いて練り歩くひとびとがいるのが自分の故郷だと思うと、ぞっとしないが、もう、どうでもいい。
もう、ほんとうに、どうでもいい。

文面は、読んでいくうちに息が苦しくなってくるような感じのものだったが、最後の便せんに、大きな花の絵、椿の絵が描いてある。
鈍感なぼくにはきみがどんな気持ちで、その奇妙に明るい色調の椿を描いたのか判らないが、それがきみの(言及されなかった)希望の象徴であることを祈っています。

では。

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友だち

付き合う友達は年を取れば変わってゆく。
それでは寂しいではないか、と思うが、現実の問題としてはどうもそういうものであるらしい。
わしは友達が「変わる」のではなくて、少しずつ増えてゆくだけだが、それはどうやら、わしがそもそもあんまり友達というものと会わないからであるよーだ。

考えてみれば当たり前で、人間は成長してゆくのだから、かつては波長が合った友達を追い越してしまうこともあるだろう。
逆に、友達のほうが人間的に成長して、自分を追い越してゆくこともあるに違いない。

子供のときからの友達、というのを考えてみると、このブログに名前が出てくる人で言えば従兄弟がそうであるし、デブP、というひどい名前で出てくる友達がそうである。
従兄弟とは、義理叔父によれば、まだ四つん這いになって這い回っている頃からふたりでオイチョカブを始めそうなくらい仲が良かったというし、デブP抜きでは、なつかしいバカガキ時代、忍び込んだ農場で豚においかけまわされたり、駝鳥に蹴り殺されそうになったあの黄金時代を思い出すことができない。

友達というものは、一面、迷惑をおしつけるために存在する。
わしは、そんなことはおぼえてなくて、デブPや従兄弟のでっちあげだと思うが、ふたりとも(多分しめしあわせて)、わしが20代前半まではいかに酷いやつだったか力説する。
3人で料理屋に行く、さんざん飲み食いして、帰るときになると、レジに誰もいない。
「すみませーん」
「ハロオオオー」としばらくゆって、誰も出てこないと、わしは「ラッキー」と呟いてレストランをあとにしたりしたという。

サービスも悪ければ食べ物もおいしくない店で、店主に「こんなんでカネをとるのは間違っておる。わしは払いたくないから払わない」とゆって、従兄弟を周章てさせたことがあるという。

どっちもおぼえてない。
作り話だと思います。

自分でゆっていれば世話はないが、わしはチョー短気である。
実際には、あんまり暴力をふるわないが、怒り出すと「絶対、殺される」と思うとみながいう。落雷みたいなもの、だそうだ。
表情が変わらないまま、ここに書けないような怒り方をするので「シロクマ」と言われたこともある。
そのうえにやくざみたいなものが嫌いなのでパブにやくざが居たりすると、そばにいると危なくてしようがない。

これもおぼえてないが、カネを貸してくれ、ということはないが、カネをくれ、ということはあったという。
なんで?というと、「カネがないからだよ」といったそーである。
何に使うのか?と聞くと、「友達というものは、そういうことを聞かないものだというぞ」とゆってえばっている。
もっていったカネがかえってきたことはないというが、これも、全部作り話だと思います。

わしは友達をつくりたいと願ったこともなければ、誰か特定の人間と友達になりたいと思ったこともないが、義理叔父の友達の話を聞いて、うらやましいと思ったことはあります。

義理叔父が夏をすごす軽井沢の家の窓際のカウチでうとうとしていると、もう絶交した友達が窓から覗いている。
こんなところで、何をやっているんだ、と訊くと、
いや近くまで来たから、センセイはどうしているだろうと思ってね、という。
義理叔父とこのひとは、義理叔父の仕事を通じての友達であって、聞いていると不思議な関係です。

義理叔父は「幕末」とか「維新」とか聞くと、それだけでげんなりするほうだが、このひとは「新撰組」が大好きで、「滅びの美学」なんという言葉を使ってしまうタイプのひとだった。
仕事ひとつとっても、義理叔父は日本の伝統的なやりかたが嫌いで、小回りが出来るタスクフォースをつくって、ミーティングも座ってやらないほどだったが、このひとは局長部長課長と並べて担当役員を座らせて伝統的な会議を積み重ねるのがよい、というやりかただった。
机の上に「既決」「未決」と書いた箱をおいて仕事をしたりするので、訪ねてきた義理叔父に「あんたは、いったい何時代のサラリーマンなんだ」と揶揄かわれていたりしたもののよーである。

それまでは仕事のつきあいと言っても、違う会社同士、情報を交換する程度のつきあいだったのが、あるとき一緒に仕事をするようになった。
アメリカの会社も提携しての話だったが、それが原因でこじれてしまった。
義理叔父が、いやそれはアメリカの会社の標準的な考えだから、と説明しようとしてもガンとして受け容れようとしない。
「ぼくは日本人だから」と言い出す。
「アメリカ人がどう考えたって、ぼくには関係がない」
「向こうさんに、日本のまともな会社っていうのは、そんなふうに考えないんだ、と説明してください」

そういうことから始まって、事業がようやく形をなしてうまく行って暫くしたある日、とうとう絶交することになったようでした。
義理叔父は、「あんな頑迷でものが理解できないやつは後にも先にもあいつだけだったよ」という。
そのうち、相手に義理叔父の悪口をふきこむ人間も出てきて、義理叔父は嫌気がさしてプロジェクトそのものから降りてしまった。
先方の常務取締役がやってきて取りなしに来たが、もうその頃には義理叔父はその事業を一緒にやる気が完全に失せていた。
これは、わしの想像だが、義理叔父のことだから、ほんとうはただ、自分のずいぶん遅く現れた「新しい友達」と何かやりたかったのであって、その友達と仲違いしてしまえば、事業をやる意味がないや、と思ったのかもしれません。

義理叔父が最後にもらったメールは、もう一回事業を一緒にやりなおせないか、というメールで、でも携帯電話の文字数制限で途中で切れていた。
電話して、そのことを告げると、
世の中には、間が悪い、ということがあるんだな、とつぶやいて、
わかりました、と言ってきれた。

そんなことから、7年もたっていたので急に家を訪ねてやってきた友達に驚いた。

ふたりで、一緒に散歩した。
いつもは眉根にしわを寄せて厳しい沈鬱な顔をしていることが多い友達が、奇妙に明るい顔で、機嫌がよい態度で、よほどいいことがあったのだな、と義理叔父は考えた。
軽井沢の駅のほうに歩いて行くと、義理叔父が見たことがない店がある。
なかにはいって、前にはずっとやめていたウイスキーを頼むと、
渋谷の、ほら、グランドファーザーズとか、一緒にいったことがあったよねえ、とむかしの話をして、こんなやさしげな顔をすることもあるのだな、という顔をして、むかしを懐かしんでいる。
このひとと、こんなに愉快な午後を過ごすのは何年ぶりのことだろう、と考えたそうです。

ここまで読んできて気が付いたひともいると思うが、義理叔父は、ここで目がさめた。
実は夢の後半は軽井沢にいるはずなのに、むかしふたりでよくでかけた赤坂のバーもでてきたりして、ずいぶん長い夢だったようです。
いままで、いいそこない、わだかまっていたことも、みな話していった。
お互いの気持ちがよく判ってよかった。
やっぱり、こいつは友達だったなあ、ああ、よかった、と嬉しかった。

怪談ならば、ここで電話がかかってきて、相手の友達が死んだ、というところだが、そこは現実なので、そうはいかない。
相手が喉頭ガンになって入院していたのは聞いていたが、治って退院したのも聞いていた。

次の週、業界紙の記者が、わざわざ軽井沢まで訪ねてきたそうである。
義理叔父と友達が一緒に行った事業について記事を書きたいと思って、という。
すぐには記事には出来なくても、私は記録には残しておくべきだと思うんです。

いやあ、あいつに訊いてくれよ。
ついでに、もういい加減おたがいに意地をはりあって絶交するのはやめて、ひさしぶりに酒でも飲もうと伝えて下さい。
夢のなかだけで和解しようなんて虫がよすぎるだろう。
相変わらず、ものに直面する勇気がないやつだ、と言ってやってください。

そのとき初めて、義理叔父はその友達が喉頭ガンを再発させて生死の境をさまよっているのを聞いたそうでした。
業界紙の記者が、「あのひとは、あんなひとだとは思っていなかったが、お話を伺いに行ったら、仕事で知っているひとを、ひとり残らず凄まじい言葉で表現して罵倒するんです。どいつもこいつも、おれを裏切った、とそりゃあもう、すごい言葉使いでした」
「Iさんのことまで、罵倒するので、わたしなどは驚いて顔をみつめてしまった」
Iさん、というのはそもそも義理叔父の友達を引き立てた常務の名前で、義理叔父も驚いたそうだった。
ところがね、あなたのことだけは、ひと言も悪口を言わなかった。
わたしが水をむけても、ああ、あいつか、というだけだった。

夢のなかで義理叔父を訪ねたころ、そのひとは意識が昏迷して、もう死ぬだろう、と言われているときだった。
だから、きっと、そのときに訪ねてきたんだね、と義理叔父は言う。
最後まで、バカな奴だった。

義理叔父は、もうそういう頃には、我慢しきれなくなって、大粒の涙を流していた。
ティッシュでおおげさにブオオオーと音をたてて洟をかんで、「あー、かっこわりい」とゆって笑っておる。

そのまま顔をそむけて窓の外の楓をずっと見ているので、わしも何も言わずに叔父の部屋から立ち去ったのでした。

03/March/2012

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日本の古典_その3 岡田隆彦

岡田隆彦は「詩を書く自分」が嫌いだったに違いない。
William Morrisについて書いているときの自分のほうが、遙かに好きだったようにおもえます。
だが岡田隆彦は頭のてっぺんから爪先まで、魂の表面から奥底まで、まるで全身に「詩」がしみ通るようにして、「詩」で全身がずぶ濡れになるようにして、詩人だった。
それも「抒情詩人」という、彼がいちばん嫌いなタイプの詩人だった。
そういう人間でなければ「ラブ・ソングに名をかりて」というような詩を書けるはずがないからです。

「 降りしきる雨の日に
 あるいはまた干からびた冬の日に
 私は変ってしまった
 と言ってくれ
 君の青白い額に唇を重ねると
 唇が青くなってしまうのだ
 こんなものが愛だとは
 どこかの賢人さえも
 僕らの所へやってきて叱咤するだろう
 せめてもこの代に生れたことを喜び合って
 いつものように電車に乗って帰ってくれないか
 いつものように僕は手を振って君の顔を見ているだろう
 君の額は悲しいし
 僕の髪は長すぎる
 あんなにきたないものでないので
 性の話はしたくない
 君と僕との小話は
 不潔な根性丸出しに
 アイラヴユウで始ったが
 結句アイヘイチューで終らない
 ぼやけたものだ
 いつもの花屋に寄る気はしないが
 黙って駅まで歩いていこう
 それから僕は旅に出る
 そこは平たい太陽が今も覆いかぶさっているだろう
 砂ぼこりのたちこめるその里で
 ジンとサンチマンへの抵抗力を作って
 いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」

都会のまんなかに生まれた私立大学の学生にとって、1950年代末から60年代初頭の東京はどんなものだったろうか、という質問にこたえて義理叔父が貸してくれた本の一冊が岡田隆彦の詩集だったが、その若い男の心の定型をそのまま切り取って詩にしたような、過不足のないリズム、意識と思考を追って、意識を追い越しもせず、遅れすぎもせず、伴走というには1歩か2歩遅れ気味に、自分の意識の流れについていく詩の数々に、すっかりうっとりしてしまった。
日本語の教科書がわりに、そのまま暗記してしまったのは、言うまでもありません。

二等車、というのはいまでいうグリーン車のことだが、

「いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」
という詩句ほど、その頃の学生たちにとって、「社会へはいってゆく」ということが、「人間を捨てる」ということと同義であったり、「違う人間になる」ことであったりした事実を証言している言葉はないが、一方で、
「もう君は愛してくれないだろうから」
というそれだけならば陳腐にすぎる「あまったれた」言い方を、若い日々のあまくて切ない、愛おしいような表現に変えてしまう力が、岡田隆彦の才能だったのだと思う。

「愛はドブのドブ板のようにきれいなだけで
おまえとタマシイしたあとは
詩のうたの思いの 終りのあるところ美辞麗句は
いやらしく 海へびのよう
おまえの裸もおれの裸もあつく
ナッシングへと向うタマシイとタマシイ」(「死ねない光」)

言っていることとは反対に、岡田隆彦がひそかに所持していた日本語にかかっては、性愛ですら、まったく純愛の一部なのだということが自明のことになってしまう(^^)

岡田隆彦は、どこまでも都会のひとだった。

「飛んだ調子 荒れた粒子の映像
見えない非情と抒情の街
あそこにわれらの凄惨な女  荒れた唇
死ぬまでとほうもなく都会のなかで
病のように
暮らしつづけるわれらの男  荒れた心
われらは容れものを空にして
男と女に逢いにいく
われらは吃りながら
別れを告げ
ある時は煙草に火をつけ
帰途につくのだが」(「われらの力」)

「どうしてたやすく 裏切りあい 信頼しあい
傷つけあうことができようか
おれたちは今日の昼食から
なにかを創りはじめなければならない
おまえからもらう手紙には かならず
どこかに判じがたい文字 無視
訊きそこない 言いそこない わだかまる
おまえとは いつか 別れて
ふたたび共にしなくなるまで
どんな些細なことにおいても
憎みあえようか」 (「われらの力」)

「電話ボクスでいら立つわれらの男は
いつか 相手と別れるだろう
かれも おまえも おれも
ひとつの難路でさえも あるならば
人らしく惨憺となっていきながら
鋭意にさがし求めようとするだろう」(「われらの力」)

「きみは女を不満のまま残して
家に帰り自瀆する
きみは自分の腐敗について
多言な考えをめぐらし
やがて眠りに就く
ぼくは今日もスケジュールをたずさえて
行く処へ出かけていく」 (「予定」)

やがて結婚する「史乃」という名前の女のひとのために、あるいは史乃という女びとただひとりのために書いているのだと自分を仮構することによって、岡田隆彦は、このあと、膨大な数のラブソングを書き残してゆく。

「孤独なオーケストラのように
きちがいじみて破裂し
おまえはおまえなのかおれなのか
じぶんの柔い唇にふれても
おれのものだと思えない」(「ひとりの女にささげる恋歌」)

「史乃命」という、すごい名前の詩集さえあります(^^)

まるで「モニと一緒にいること」というヘンタイみたいなブログ記事を書いた、ガメ・オベールのような人である。
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/モニと一緒にいるということ/

岡田隆彦は美術教師を職業にしていた。
美術世界の人に訊くと、案外たくさんの人が岡田隆彦を直截しっていたよーである。
わしは退屈な人間なので「素晴らしい人だったのでしょうね?」というような極くありきたりの質問をする。
そうすると英語で話すことを強いられているせいかもしれないが、一瞬、沈黙して、
「ええ、でも気むずかしい、いつも機嫌が悪いひとでした」というような返事が返ってくることが多かった。
あきらかに岡田隆彦と会うのを敬遠して過ごしていた、というひとにも会った。

どうやら結婚したころから、岡田隆彦の内なる「早熟な少年」が叛乱を始めて、詩人には制圧をまっとうすることが難しくなっていったよーでもある。

岡田隆彦は、やがて、膨大な数のラブソングを書き送った相手の史乃というひとと別れて、離婚してしまう。
離婚が詩人に与えた影響は周囲が自殺を真剣に警戒しなければならなかったほどのもので、教員をしていた大学にも行かず、ホテル・ニューオータニの一室に、まるまる木箱ひとつのサントリーの角瓶ウイスキーとともに閉じこもって、友人にも会わず、何日もすごしていた、と証言するひとに会ったことがある。

詩の中心が、その女びとであることを知っていたので、史乃さんというひとは、どんなひとだったんですか?と訊きたかったが、まさかそんな詮索がすぎる失礼なことは訊けないので、史乃というひとを直截しっているひとにあうたびに、話が出ないかなあー、と心待ちにしたが、
あんまりここに書きたくはない短い否定的なコメントのほかには、誰も何も言ってくれなかった。

大股びらきに堪えてさまよえ、という次に挙げる詩は、うちなる「早熟な少年」をねじ伏せて自分を破壊しないまま生きていこうとした岡田隆彦の決心が、そのまま顕れている。

「道を急ぐことはない。
あやまちを怖れる者はつねにほろびる。
明日をおびやかすその価値は幻影だ。
風を影に凍てつかせるなら 俗悪さにひるみ
道を急ぐことはない。
けれども垂直に現実とまじわるがいい。
厳粛な大股びらきに堪えて
非在の荒野をさまよいつづけろ。
せっかちに薔薇を求めて安くあがるな。
秘匿されるべきものの現前に立ちあい
引き裂かれる樹木の股に堪えて涙なく
こだまする胸の痛みが
深まるにまかせよう。そして、
あの孤独の深淵をひとり降りてゆく。
死の河だから進むことができる。
堪えてすべてを失ったなら 語るな。
蒼穹のごとき沈黙に飛ぶ鳥を見よ。
求める約束にみずからあざむかれ
道を急ぐことはない。」

詩や文学を専門にするひとは、この頃の詩には岡田隆彦が前には使わなかった句点がすべての文にうたれていることに注目すべきだが、そんなことは、ブログ記事ではどうでもいいだろう。

いまは、どうなさっているのですか?
と、訊くわしに、パーティの席で出会った、きらびやかな服を着た日本人の女のひとは、
流暢な英語で、「おや、亡くなったのをご存じではありませんでしたか? 二度目の奥さんとのあいだがうまくいかなくて、とても機嫌が悪いひとでした。わたしなどは、あなた、こわくて近寄れませんでしたのよ。でも、どうして、あなたはお若いのに、あの方に興味がおありになるの?あのかたのウイリアム・モリスの本は英語に訳されていたかしら?」
という。

そのまま、藤沢のほうに住んでいたよーだ、とか、なんだかいろいろなことを述べていたようだったが、もうわしの耳にははいっていなかった。
1939年に生まれた詩人なのだから、死んでいて少しも不思議はないが、なんだかまだ生きているに決まっていると決めていたのは、詩人の日本語が近しいものだったからでしょう。

わしは、その晩、家に帰ってから、頭のなかの「岡田隆彦詩集」をひっくりかえしていたが、どうしてもひとつの詩句にばかり日本語がもどってゆくのに困った。
それは、詩人が長かった頂点の終わりの頃に書いた詩の一部です。
いま初めて気が付いたが、その短い詩句にも句点がついている。
岡田隆彦が言い切りたかったものの正体に触れるようで、なんだか、ちょっと涙ぐんでしまうような気がしました。

「悪い孤独に
涙なし。」

なんという人生を送ったひとだろう。

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Made in Occupied Japan

子供のときにほんとうは入ってはいけないことになっている、食器が収納されている部屋にもぐりこんで遊んでいたら「Made in Occupied Japan」と書いてある食器があって不思議な気持ちになったことがある。周りにおかれている磁器や陶器からすると、ちょっと安っぽい感じがする(ごみん)食器で、捨ててしまったのかどこか奥深くにいってしまったのか判らない、このあいだ両親の家にでかけたときには、もうなくなっていたが、多分、ノリタケであると思う。
高校生の頃にふと思い出して、調べてみると、蒐集家がたくさんいるひとつのカテゴリーをなしている陶磁器の分野であって、へえ、と考えたりした。

アメリカにはコレクターが多いので骨董店でみかけるものも、ずいぶん不当な値段がついている。
オーストラリアやニュージーランドの、小さな町のそのまた外れにある、60年くらい前の普通の生活必需品を新品よりも少し安いくらいの値段で売っている骨董店に行くと、同じ程度のものがアメリカの半額以下で売っている。
いつかモニが面白がって手にとってみているので、一枚だけ買った大皿が、この家にもどこかにあるはずである。

日本は戦争に負けた国である。
あたりまえではないか、と言う人がいるだろうが、日本に行ったときのことを考えると、到底あたりまえと思えるようなことではなかった。
わしが日本にたびたび出かけた5年間は、2005年から丁度福島第一事故が起きる前の年の秋までで、20年近く続く社会と経済の停滞に日本が苦しんでいた、その断末魔だったが、それでも絶対的な豊かさはたいへんなもので、広尾山の家でも軽井沢の「山の家」のまわりでも、欧州人には理解できない数のランボルギーニやフェラーリ、ポルシェがたくさん走り回っていて、モニとふたりで食事をすると4万円は確実にかかる料理屋は、しかし、金曜日の夜ともなれば満席で予約をしなければテーブルがとれないこともあった。

1945年、日本で、あるいは日本が植民地化したり、傀儡化したりしていた地域では、
日本という国家の集団サディズムの代価を、サディズムの中心であった軍人と官僚の代わりに、(軍人や官僚は「内地」にとっくに遁走していたので)日本の普通の市民が文字通り身体で支払わされていた。
戦争に負けた側が判で押したようにうけるたくさんの殺人と強姦があった。
他の国にも共通の傾向があるが、日本は自分が被害者になった記録をことさらに隠しとおす。
アジアで言えば儒教諸国のように大声で被害を言い立てる文化をもたないので、たとえば「南京虐殺はなかった」と言って世界中の国から恥知らずぶりを攻撃される一方で、自分達が受けた集団強姦や殺戮の被害は、「貝のように」口をつぐんで、その苦しみが共有できるもの同士で、ひっそりと語りあわれるだけだった。

アメリカ占領軍による性犯罪ひとつとっても、「ほとんどなかった」という、たとえばいまのイラク人やアフガニスタン人に対するアメリカ人たちの態度ひとつみても「空想的」としかいいようがないことを「統計に基づく史実」として述べてあるが、到底、信用するわけにはいかない。
聞き取りにくい声、とこのブログ記事でもtwitterでも何度も同じことをいうが、
だいたいにおいて打ち負かされた側、踏みつけにされた側の真実は、打ち負かした側、足で相手の顔を地面に押しつけるようにして勝ち誇った側が、「証拠をみせろ」
「典拠はなにか」と常にあざけって冷笑するように、ほんとうの絶望の淵においこまれたものの声など、「証拠」を通して聞こえてくるわけはない。
ではどうすれば聞こえるのかというと、退屈で読むに値しない、とされていて、実際に読んでも日本語もおぼつかない文章が多い「自分史」の本や、まったく関係のない事件、たとえば犯罪の犠牲者の証言の途中で、突然、「私は米兵に連れ去られた過去があるのを夫に隠しており…」というような言葉で語られる。

日本社会には「キズモノ」を忌むという無惨な伝統があるので、外国人に強姦されたなどということは、絶対に認められない事件であったのは、いまの日本社会も本質的に同じなので、理解するのに努力はいらない。
「耐えがたいほどの痛みを共有してゆく」というのはほとんど家族だけがもつ機能だが、
日本の家族には歴史的にそういう機能が欠落している。

日本国憲法はアメリカ軍が日本人の手をわしづかみにして自分の思い通りに書かせたものであるのに決まっていたが、それが事実として認められることは長いあいだ忌避されていた。
ひとびとは、アメリカ人の風俗をデッドコピーして勝者の生活に憧れたが、70年代を通じて社会が自身を取り戻すにつれて、そういうこともなくなっていった。

日本が破滅的な敗北から気を取り直すのには凡そ40年という時間がかかったことになる。
日本の60年代、というような時代を調べて時間をおりてゆくと、ヒットチャートにはアメリカの曲がたくさんある。
1963年のヒットチャート1位にある「ヘイ・ポーラ」
http://www.youtube.com/watch?v=tVUNbdQ-cDY&feature=related
は、Paul &Paula
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_%26_Paula
の「Hey Paula」だろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hey_Paula_(song)

一方では、
天皇という神格化された絶対王権(昭和天皇は王とは異なりイギリス王室と同じようなものだった、というが、何冊か本を読んだ限りでは、あとで天皇を守るために作り上げた解説のように思われる。ジョージ6世などは、あんなものすごい権力を与えられたらどもりどころかひとことも話せなくなっていたのではなかろうか)をアメリカ人の手で否定された日本人たちは、やや原理的と呼びたくなるような占領軍の行政官たちのリベラル思想に基づいて「戦後民主主義」を築いていった。

「鉄腕アトム」というアニメを観ると、当時の日本人の切実で「哀切」という言葉を使いたくなるほどの民主主義への希求が感じられる。
日本人なら誰でも知っていることらしいが、ロボットを日本人と読み替え、傲慢で独善的な人間たちをアメリカ人ないし欧州人と読み替えることによって、日本人は「この世界で日本人であることの意味」を懸命に問うていった。

敗戦国では「素早く口をぬぐった者」が機敏に良い席を占める。
日本のひとが信じているのと異なって、ドイツでも事情は似たようなものだったが、
日本でもレッドパージが終わると、続々と国家社会主義者たちが支配層にもどっていった。
前にも述べたが、その象徴が岸信介・佐藤栄作の兄弟であったと思います。

日本にいてよく考えたことは、日本人にとっては「社会意識の底」とでも呼ぶべき場所では未だに戦争に負けたことがトラウマになっていることで、ややびっくりするほどの「白人の人種差別支配」に対する、中国人や半島人、インド人に較べれば桁が違うほどの過剰な反応や、中国人たちの南京虐殺への言及への、跳び上がって、いてもたってもいられない、というような過敏な反発、あるいは極く最近まで続いた「英語を話す人間への敵意と嫉妬」という不思議な社会的傾向に至るまで、戦争が影をおとしている、と思うことがあった。

日本にとってやや運が悪かったのは、「戦後民主主義」という、バランスを欠いていて世界の他の民主主義からみると特殊だが、疑いもなく個々の日本人を、人間を神として崇めるという古代的な後進性を核にもつ全体主義の桎梏から解き放って明るい気持ちにさせた、自分達の魂にとっては太陽にも等しい思想が、自分達が「人間」であることすら否定する勝者の手によって犬に餌の肉を放り投げでもするように投げ与えられたという、国民としてはこれ以上ない屈辱と一緒に訪れたことだった。

さまざまなものが敗戦後60年を経て恢復された日本で、最後まで破壊されて復興されなかったものは「倫理」だった。
昨日まで「一億火の玉となって英米人に痛撃をくわえる」
「神州の大義に則って怨敵を討ち晴らす」と威勢良く述べていた支配層が、1945年8月15日というたった一日を境に、これからは民主主義の一翼を担うのだと言いだし、
アメリカ人に見られては都合が悪い箇所を黒々と墨で塗りつぶした教科書を手に、ほんの昨日まで「天皇陛下のために死ぬことがわれわれのつとめだ」と繰り返していた自分の大好きな教師が、敗戦のあと教室へもどってみると、「みなさん自由と民主主義の時代が来ました。アメリカのお友達に学びましょう」という。
天皇陛下そのひとも、昨日までは神であったはずで、仰ぎ見ることすら許さない「龍顔」をやや仰向けて崇拝の対象として君臨していたのに、「いや、わたしは人間だから、神様だったときの責任はとれないね」といって、すたすたと奥へはいってしまった。

前にも書いたが、むかしボランティアで日本から来た留学生の手伝いをしているときに、
「援助交際」という名前の売春をしたことがある日本からの留学生がびっくりするほど多かったのでなんだか非現実的な気持ちになったことがあった。
日本の女の高校生たちの「援助交際」は、英語世界でもすでに家庭の話題になるほど知られていたが、どうせマスメディアがもともと「いかれた」イメージがある日本社会について面白がって作り上げたお話だろうとたかをくくっていた。
ところが、到底売春に及ぶなどと想像もできないタイプのマジメな高校生が自分の身体を遙かに年長の男達に売り渡して金銭をうけとった惨めな経験をカウンセラーに告白する。
自分達は気が付いていないが、潜在意識のほうは、意地悪にもちゃんと記憶していて、
意識にのぼらないところで本人を責めさいなみ、まるでお前の肉体など絶対に許さないとでもいうように、さまざまな症状を引き起こして苦しめていた。

もちろん女子高校生の倫理の欠如、などという譫を言っているのではない。
高校生には「判らない」という状態はあっても倫理などありはしないのは、自分のことを考えてもわかる。
十代の人間は、ただ突き動かされるようにして生きているのであって、ただ無我夢中で荒い急速な流れをかけおりるラフティングに似ている。
高校生たちの思考にはまだ社会がおおきく浸潤している。

そうではなくて自分からみれば子供にしかみえないはずの十代の女の高校生にカネを渡して売春という精神にとって破滅的な影響を与える蹂躙を平気で行う社会のことを言っている。
個人としての性の購買者のことをすら述べているのではなくて、「援助交際」といういかにも現実に顔をそむけて軽薄な、良心というものをもちあわせない狡猾な男の表情を思い浮かべさせるような、この世界に真実などないのさ、と嘯いている声が聞こえてくるような売春の別名を思いつかせる世界に「倫理」などあるわけがないのを思って、ぞっとする、ということを言っている。

「就活」といい今度は「婚活」という。
ないごとにもマニュアルを準備して、心や思考の手前で処理しようとする。
原子炉が崩壊しているのに「直ちには健康には影響がない」という。
まるで見繕った修辞によって世界を塗り替えられるとでもいうような、ちょうど、古代ギリシャ末期の職業詭弁家たちの繁栄を許した社会を思い起こさせるような倫理の零落ぶりである。

1945年のアメリカ人の手による空からの徹底的な破壊は日本人の心のなかを最も壊滅させた。
1964年、アメリカでさえ忌み嫌われた残忍な、もうひとりのサディスト、日本人を全部焼き殺してやると公言して日本焦土爆撃に臨んだカーチス・ルメイに、日本は這いつくばって支配者の泥のついた靴をなめるひとのようにして、勲一等旭日大綬章という勲章を与えることで讃えたが、カーチスルメイが焼き尽くしたのは、火の粉で松明に変わった小さな子供の肉体であるよりは、日本人が拠ってたっていた歴史的な「内なる伝統」だった。

日本の戦後の繁栄の歴史は、見る場所を変えて眺めてみれば世界史に稀な精神の混乱の歴史であると思う。
福島事故によって、まるでやっと目覚めたひとのように、姿勢を変えて正面から、(実は1945年から、そこに放置されたままの)たくさんの問題と日本のひとが向き合うようになったのは希望であると思います。
いまの困難な作業を社会が終えたとき、そのとき初めて家庭の飾り棚で、骨董店の倉庫で、あるいはギャラリーの陳列棚のなかで、世界中のoccupied japanが音を立てて砕け散るのだと考えました。

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