こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。秋ドラマの初回を見た感想と、校閲に関してひとこと。
『IQ246』
死体や人間を一目見ただけで職業から性格までズバリいい当てて名探偵ぶりをアピールする、って陳腐なパターン、もうやめません? そんなの、脚本家や作家が正解を用意して探偵に当てさせてるんだから当たるに決まってるじゃん。
あっ、もしかしてこういうのを見た人が、メラビアンの法則とか、人は見た目が9割とかいうインチキ理論を鵜呑みにしちゃうのかな?
ちなみにトランプ氏の奥さんって、見た目がものすごくアホっぽいんだけど、見た目で決めつけちゃってもいいですかね?
『逃げるは恥だが役に立つ』
これが抜群におもしろい。失業中の独身女性が得意な家事の腕を活かし、仕事で忙しい独身男性と契約して住み込み家政婦になるけど、諸事情から周囲には結婚したように偽装する、って軽いノリのラブコメなんですが、大学院卒高学歴者の就職難や、晩婚・非婚化といった社会現象を織り込んで、主人公がそうせざるをえなくなる状況を丁寧に積み上げていくので、突飛な設定なのに破綻してません。
ためしに原作マンガの1巻を読んでみたら、ドラマはマンガがはしょってる部分もきちんと補完してリアリティを高めてるんです。これは脚本家の仕事を素直にスゴイとほめるべきですね。
『校閲ガール』
地味にスゴいとかいってるけど、全然スゴくない。主役ひとりに欲ばっていろんなキャラクターを盛り込みすぎなので、人格が分裂してるようにしか見えません。空気が読めず自分勝手かと思えば努力家の面を見せてみたり、急に姉御肌で啖呵切ったりと、従来のドラマなどのキャラ設定のいいとこ取りをしたつもりなんだろうけど、むちゃくちゃなだけ。
ストーリーも納得いきません。小説家が、幼い息子がいいまちがえたことを懐かしんで実在の橋の名前を変えてたのに、校閲がそれをまちがいだと指摘して直させるって、ヒドくない?
もの書きの立場からいわせてもらうと、私は校閲が事実確認までやることに疑問を持ってます。言葉と文字の正誤、それから歴史の年号、人名・書名などの表記のチェック。これくらいをきっちりやってくれれば、それでじゅうぶん。校閲の内容チェックといっても、たいていはネットで検索してるだけですし。私が書いてる近現代文化史に関しては、ネットの情報が誤っていることも多いんで、あまり参考になりません。
私は校閲に嫌われるタイプの書き手です。校閲の指摘をことごとく却下したりします。表記の統一とかね。
たとえば、「ぶどう」「ブドウ」「葡萄」という表記が原稿の中に混在してると、どれかに統一するよう求められます。日本の出版界の慣例では、表記が不揃いなのは美しくないこととされるからです。
それを指摘するのも校閲の業務だから、きちんと見つけてくれるのはありがたいんですよ。でも、私は修正しないことも多いんです。さすがに同じページ内でバラバラだと不揃いな印象があるけれど、離れたページにある場合、「ぶどう」と書いたときは「ぶどう」の気分であり、「ブドウ」と書いたときは「ブドウ」と書きたい気分だったわけですよ。書き手の気分のゆらぎが文字面にあらわれているのだから、それは日本語表現の豊かさです。むしろ統一してはいけません。
あと、私はなるべく漢字でなくひらがなを使うことにしています。漢字ばかりだと見た目がいかめしくなるので。
だから「言う」ではなく「いう」とひらがなで書くことに「統一」しています。これは個人のクセ、文体です。ところがむかし、ある雑誌に原稿を書いたところ、ゲラで「いう」がすべて「言う」に直されてました。私はすべて「いう」に戻すよう赤を入れました。そしたら、この雑誌では「言う」と漢字表記で統一しているといわれました。知らねえよ、そんなの。などと我を通していると、嫌われて仕事の依頼がこなくなります。
[ 2016/10/18 13:51 ]
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