こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
いろんな立場、いろんな考えの人間がいるのだから、意見が対立するのはあたりまえです。そこで、議論をして互いの考えをすり合わせていく作業が必要となるわけですが、相手のいいぶんをろくに聞かず、「ちかごろの人は寛容でなくなった、寛容さが失われた、むかしのようにもっと寛容になるべきだ」と安易に決めつけて納得してしまう風潮があるのは、よろしくないです。
私はこれまで何度も、当ブログや書籍などで、現代人が不寛容になったと決めつけるのはまちがいであることを論証してきました。最近読者になったかたは、ためしに「寛容」で当ブログを検索してみてください(読んで腹を立てる人もいるでしょう)。
現代人は不寛容という論調がはびこるのは、脳でものごとを考えず、脊髄反射だけでコメントするコメンテーターにとって、不快な意見をバッサリ斬り捨てられて便利だからです。不寛容と決めつける態度こそが不寛容だ、というところまでアタマがまわらないんですね。
仮に、ちかごろの人が不寛容になったのだとしたら、むかしの人は寛容だったことになりますね。でもその前提を当てはめると、さまざまな矛盾や疑問が生じます。
それこそ、のどぐろ女子高生(私のツイッターに登場するキャラ)に、「むかしの人が寛容だったなら、なぜ戦争をしたのですか?」と皮肉をいわれたら、なにも反論できません。
意見が対立する相手を武力で制圧するのは、極めつけに不寛容です。
むかしの日本の軍隊では、ささいなことで上官が兵隊を殴ってました。むかしの親も、ささいなことでこどもを殴ってました。街を歩けば、肩が触れたとささいなことで殴り合いのケンカ。
むかしの人がいまより寛容だったとは、とても思えない事例ばかりです。
寛容=道徳的=善、と単純に考えてる人も多いのですが、寛容はかなりいいかげんな概念なので、いいほうにも悪いほうにも使えてしまいます。
むかしの人は暴力や死に寛容だったのだよ、という見かたもできてしまうんです。
いま、保育所に預けたこどもが保育士の不注意で死んだら大変な騒ぎになります。でも戦前は、国家資格もなにもない10代の女の子を低賃金で子守りに雇うのが普通でした。当然、不注意(あるいは故意)による乳幼児の事故死はけっこう起きていて、新聞記事にもなってます。
でもむかしの人はそれをおおごとにはしなかったわけです。子守りが業務上過失致死に問われることもなかった、っていうか、未成年だからそもそも罪に問えないことは承知の上ですか。
こういう事例に対して、「むかしの人は寛容だったなあ、現代人は見習うべきだ、こどもが死んでも騒がず、寛容になろう」などとコメンテーターがいったら、批判の嵐に見舞われるでしょう。
そこで私は、こう考えることにしました。「むかしの人は寛容だったのではない。むかしの人は鈍感だっただけだ」。
むかしは、自分の痛みや苦しみにも、他人の痛みや苦しみにも、鈍感な人が多かったんです。それがいまは、鈍感な人が減って、敏感・繊細な人が増えました。ただ、それも必ずしもいいことばかりではなく、べつの問題が生じるようになった、と考えたほうが腑に落ちるんです。
[ 2016/06/06 21:27 ]
未分類 | TB(-) | CM(-)