こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。
まずは、
3月5日付記事の続報から。最新の家計調査では、どうやら水戸が納豆消費全国トップの座を数年ぶりに奪還したもよう。おめでとうございます。ちなみに私は、納豆を食べるとおしっこが臭くなります。
さて、近現代文化史の真実を解き明かすマシンガントーク
(しゃべってないけど)「むかしはよかったね」連載中の『新潮45』4月号発売中です。
今回のネタはまた趣向を変えまして、下戸のアイテム、コーラとウーロン茶。なんだこんなの雑学じゃねえか、ネットでちゃちゃっと調べれば書けるじゃねえかというかたもいるかもしれませんけど、そうですか? 私の場合、過去の新聞雑誌記事や書籍からの情報を大量に参照してネタを集め、話を組み立てていますので、ネットにはない情報もかなり含まれてるはずです。あとからネットを検索すると、ネットの情報は薄いなあとがっかりすることがほとんどです。
もうすぐ4月です。この4月から大学に行くんだけど、学問なんて雑学とどこがちがうんだ、みたいに思ってる新入生もいることでしょう。まあたしかに、大学入試問題までは、雑学で解けないこともないから、そう思うのもむりはありません。
私は、雑学と学問、雑学とジャーナリズムには、はっきりとした違いがあると考えてます
(私は自分のやってる仕事を、学問とジャーナリズムの要素をエンターテインメント的な文章に落とし込む作業と考えてます。純然たる学問ではありません)。
大学一年生にもわかるよう、私なりに説明すると、それは掘りかたの差です。雑学マニアは、「なになには、なになにだ」という表面的な事実を知れば満足してしまいます。それ以上掘ろうとはしません。
加えて、雑学マニアは疑問を持たない。「なぜだろう」とは考えない。「なぜ」を考えて掘っていくのが、学問、あるいはジャーナリズムです。
大学でレポートを書くときは、ネットで調べた雑学を並べるだけではダメです。必ず、自分なりの問題点・疑問点をみつけて、掘ってください。たとえ、掘る場所の見当をまちがえていて、なにも出なかった、的外れな結論しか出なかったとしても、自分なりの疑問点をみつけて掘ったあとが見えれば、私ならそのレポートに高評価をくだします。残念ながら、私は講師でも教授でもありませんけど。
たとえば今回の私の原稿のコーラネタを例にとりましょう。ネットを検索してみると、「戦前の日本でコーラが普及しなかったのは、クスリくさいのが日本人にあわなかったからだ」みたいな記述がけっこうみつかります。
これはネットが誕生する以前からいわれていたことですが、よく考えると論理的におかしいんです。なぜ、みなさんこのヘンな説明に納得してしまうのでしょうか。
コーラをクスリくさいと思うには、少なくとも一度はコーラを飲まなければなりません。ところが、戦前の日本ではそもそもコーラ自体を飲んだことがある人がとても少なかったんです。飲んだことないものを、クスリくさいから嫌い、と思うわけがありません。それに、実際飲んでいた芥川龍之介などは、けっこう気にいってたようで、クスリくさいなんていってません。
しかも、戦後に爆発的にコーラが普及した経緯を見れば、日本人はコーラが大好きだったことは明らかです。戦争に負けた途端に日本人の味の好みが急激に変わったはずもない。つまりもともと日本人はコーラを受け入れる舌を持っていたことになります。
ということは、戦前の日本で普及しなかったのには、なんかべつに理由があるにちがいない、と掘っていったところ、戦後の雑誌に載っていた、清涼飲料業者の座談会記事に、そのべつの理由らしきことが書かれてました。なぜ戦前の日本でコーラが流行らず、飲み物といえばサイダーとラムネばかりだったのか。その理由は、雑誌記事をお読みください
(ひっぱるなあ)。
そしてもう一点。めんどうでも引用元の参考文献に目を通すこと。これも雑学マニアがやらないことです。芥川龍之介が佐佐木茂索宛てに出した手紙にコカコーラが出てくる、というネタはネットを検索するとたくさんひっかかりますが、そのネタを書いた人のほとんどは、手紙を読んでませんよね。
読んでください。芥川の書簡集ならたいていの大学図書館にあるはずです。ところで佐佐木ってだれなんだ? 当然そう思うはず。佐佐木の著作も読んでください。佐佐木のインタビュー記事なんかも読むと、例の手紙は芥川がウケ狙いで書いたものだったけど、佐佐木にはハマらなかったなんて事実も見えてきます。
そうやって表面的な雑学の裏を探っていくのが、学問的なおもしろさです。
この芥川のコーラの手紙ネタに関しては事実でしたけど、引用元の参考文献を再確認すると、ちまたに流布する雑学知識や常識がまちがいだと判明することもけっこうあります。とりわけ文献が戦前のものだと、引用者が誤読していることも少なくありません。
明治時代の文献を読むには、漢文と変体仮名の基礎知識が必要です。その知識がないと、明治時代の新聞すら読めません。江戸時代の文献を読むには古文書の知識が必要です。ここまでやるのはかなり大変。
なにかをきちんと調べるということは、けっこう手間がかかってめんどうです。でも、やればやっただけおもしろい。どこまで深く掘るかは、あなたしだいです。