このブログでは、吃音者であり、オーストリアに共働き夫婦と子2人の4人家族で住む自然科学を専門とする科学者Maromisoの日々考える脳みその中身を、政治にジェンダー問題から芸能まで雑多なトピックについてダダ漏れにしようと思います。

July 2017

今日はプロテニス選手の錦織圭さんについての話題です。
錦織選手は島根県松江市の出身ですが、
島根県は個人的に馴染みのある土地ということもあり、
錦織選手には勝手に親近感を覚え応援しています。

説明する必要などないと思いますが、
錦織選手は、2017年現在、世界ランキング10位以内を常にキープしており、
先日の全英ウィンブルドン選手権では、3回戦敗退で不調と言われてしまうなど
紛れもない世界トップクラスの選手です。

そんな錦織選手の話題として最近、錦織選手の彼女についての記事をよく目にしますが、
これらの記事を見る度に非常に残念な気持ちになるので、今日はその感想です。

よく目にする記事の内容を要約すると、
「錦織選手の昔の彼女は体操選手で、
錦織選手の食事の管理などのケアを手厚く行っていたのに対し、
現在の彼女はモデルという職業で、自由奔放に遊んでおり、
錦織選手のケアなどはしないため、
その彼女が足枷となって成績がいまいち伸びていない。」
といったものです。

まず、このような記事の最も残念な点は、非常に差別的であるという点です。

おそらく記事の前提として、
スポーツ選手のパートナーは(特に男性スポーツ選手の女性パートナーは)、
選手の体調管理をするなど選手を陰で支えるべきである、
という価値観があるのだと思います。

これは「女性は表に出ず男性を陰で支えるべき」
という非常に差別的で古い価値観に基づいていると思われます。

大リーグのヤンキースの田中投手の妻の里田まいさんが、
栄養バランスを考えた料理を作ったり、スタジアムへ応援へ行っている、
ということで日本では「よくできた奥さん」と報道しているのも同じことです。

今の時代では、パートナー同士はそれぞれ独立した一人の人間という解釈ですから、
「男性を陰で支える」つまり「自分の人生より男性の人生をよくすることを優先する」
ということを価値のあることと捉えることは非常に危険な考え方です。

当たり前ですが、人生というものは他人と共有できるものではありません。
例えばグランドスラムで優勝するなど、1人の人間が何かを達成して得た喜びは、
それをどれだけ陰で支えていようが、達成した選手にしか味わうことはできません。

別の例として、よく日本ではノーベル賞受賞者のインタビューに妻を同伴して
自分を支えてくれてありがとうと感謝を述べたりしていますが、
どれだけ感謝されようと、ノーベル賞を取るような大発見をした瞬間の高揚感を
本人と同じレベルで理解することはできないわけです。

このように、錦織選手の彼女が錦織選手がテニスプレーヤーとして成功するように
尽くさないのはおかしい、というのはどう考えても一人の人間の独立性を認めない
差別的な考え方だと思います。

次に残念な点は、錦織選手の実力をバカにすることになってしまっている点です。

若い時からテニスの本場アメリカに拠点を起いて実力をつけ、
その実力を認めさせることで世界トップクラスのコーチ陣を引き込み、
勝利を重ね知名度を上げる事で多くのスポンサーを獲得し、
そうやって自分の力で世界トッププレイヤーとして活躍している選手に対し、
パートナーが支えてくれないから成績が落ちた、などと
グレる中学生の言い訳のようなレベルの低い批判をすることがなぜできるのでしょうか。

フェデラーと信じられないようなハイレベルな打ち合いをし、
両者一歩も引かない戦いを繰り広げている中でここぞという1ポイントをフェデラーに奪われた、
ということに対して、それが、
フェデラーが苦しんで血のにじむような努力の末に手に入れた錦織とのわずかな実力差、
でもなく、
互いのコーチ陣も含めた激しい情報戦の末に見破られた錦織のほんのわずかな弱点、
でもなく、
実は食事含め何から何まで自分のことを自分で管理できないお子様なため
パートナーが鶏ささみを中心にした食事を作ってくれなかったせいである、
などと解釈することがどれだけ馬鹿げているか考えるまでもないと思います。

さらに、残念な点として、
現在の錦織選手のパートナーが、錦織選手の財産を使って遊んでいる、
といった内容の記事をよく見かけることです。

例えそれが事実だったとして、何が悪いのでしょうか。

両者は明らかに合意の上でそれをしている訳であり、
それをさせる錦織選手が稼ぎの少ないパートナーの独立性を認めない差別をしている、
と批判するならまだしも、
パートナーの方を批判することはとてもおかしなことだと思います。

デートや飲み会で男性が女性に奢る、その行動は私は差別的だと思いますが、
100歩譲って、そういう古い風習がまだ日本にあるとして、
それとこの錦織選手とパートナーの金銭問題はどう違うのでしょうか。
ただ金額が大きいからという理由なら、単なる嫉妬ということになると思います。
何も努力せずに自由にお金を使えてずるい、という嫉妬でしょうか。
もうこの点は、お金持ちの友達が親に好きなおもちゃをどんどん買ってもらって羨ましい、
と駄々をこねる小学生と同じ単なる言いがかりですね。

この他にも、錦織選手が大金を手にしているため成金的にダメになっている、
といったプロスポーツについて根本的に誤解している悲しい解釈など、
一連の記事に対して残念な点はまだまだ多いのですが、切りがないのでこの辺にしようと思います。



前回の記事で、あまり明るくなかった学生時代に
ファンだったダウンタウンに助けられたと書きましたが、
実は、ビートルズにも多いに助けられました。

そんなビートルズのドキュメンタリー映画、
EIGHT DAYS A WEEKを最初に観たのはオーストリアの映画館でしたが、
英語が難しくて細かく理解できていませんでした。
ところが最近、WOWOWを自宅のテレビ見れるシステムを導入したおかげで
この映画の日本語字幕バージョンを観ることができたので今日はその感想です。

まず率直な感想としては、
「ビートルズに熱狂した古い世代の自己満足映画」ということです。

映画の概要としては、
ビートルズがデビューした1962年から世界が急速に熱狂していく様子や、
あまりの混乱からメンバーのライブ活動への熱が冷めていく様子、
そしてライブ活動を休止しスタジオでの曲作りに没頭していく様子を中心に、
1966年あたりまでの活動について、
当時の貴重な映像や音源またメンバーや関係者の証言などを集めて作られています。

私は、ビートルズが解散してかなり経ってから生まれたので、
ビートルズの熱狂を生で体験したことはないのですが、
「ビートルズが音楽だけでなく世界の考え方を大きく変えてくれたおかげで今がある」
などと結構本気で考えているので、そういう視点から観ると、
ここまでの熱狂の中にあっても自分の人生を見失わず芸術を極めようと思える
その純粋さがあって初めて世界を変えることができるのか、
といったことを「勉強」できるような映画となっています。

しかし、ビートルズの熱狂がすごかったという事実に対しての証言が、
ハリウッド俳優から歴史学者まで各方面からかなりしつこく続くため、
ビートルズなんてあまり知らない一般的な立場から考えてみると、
「ビートルズはこんなにすごかったんだぞ」
と年寄りが若者に語る、そんな説教くさい映画になってしまっていると思います。

この映画の監督は、興行収入のことももちろん気にしてはいたとは思いますが、
おそらくビートルズが好き過ぎて、というよりむしろ、
ビートルズを若い世代に自分にことのように自慢したいという気持ちが強過ぎて、
こんな説教臭い構成にしてしまったのかなと推測します。

ビートルズは、自分達の凄さを語ることで世界を熱狂させたのではなく、
その実力で世界を熱狂させたわけなので、
「ビートルズを知らない人の心にも届く世代を超えた実力がビートルズにはある」
と信じているのであれば、当時のライブ映像やスタジオの映像を見せる、
ただそのことに集中するだけでよかったのではないかと思いました。

実際に、WOWOWのバージョンにはありませんでしたが、
映画館のバージョンでは、ドキュメンタリーが終わった後に
ニューヨークの野球場でのライブをほぼノーカットで流すオマケが付いていたのですが、
映画を一緒に見た9歳の子供はこのオマケが一番よかったと言っていました。

私も40歳が近づき、子供に対しても仕事の後輩に対しても、
自分がいいと思ったものを、つい説教臭く長々と話してしまう傾向が強まっているので、
そんな自分を戒めなければと思えるそんな映画だったと思います。


少し前になりますが、脳科学者の茂木健一郎さんが、
上下関係を重視して権力に盾突けない日本の芸人をオワコンと表現していました。
そして、松本人志さんなどににそれを批判されて落ち込む茂木さんに対し、
中田敦彦さんが、その落ち込む状況こそが茂木さんの言っていた状態、
といった肯定のコメントをしたことで、
それは事実上、松本人志さんを批判したことということであり、
ちょっと売れたからって大先輩を批判するなんて「調子に乗っている」
などと世間から避難を浴びていると話題になっていました。

この一連のニュースを見たのは、このブログを始める前だったのですが、
学生時代から、超、ダウンタウンのファンだった身として、
この話題には思うことが多いので感想を発信したいと思います。

私は子供の頃から言葉を発することに多少の障害がある関係で、
あまり明るい学生時代は過ごして来ませんでした。
しかし、そんな学生生活を救ってくれていたのは、深夜のラジオと、
東京に進出し当時全盛期だったダウンタウンでした。

当時のダウンタウンは、ほぼ毎日どこかの局で番組を持っており、
その絶大な影響力の前に、私も「松っちゃん」ばかりか「浜ちゃん」の書籍まで買い、
本当に心酔しておりました。
今振り返っても心酔するに値する面白さと頼もしさがあったと思います。

分かりにくい例えかもしれませんが、
それまで世界になかった、野球、というスポーツを発案し、
その野球の素晴らしさを世にを普及しつつ、
自身もプレーヤーとして170km/sの豪速球を投げて、
他を寄せ付けず活躍する、
そんな感じの圧倒的な力があったと思います。

ところが現在は、
ダウンタウン自身はまだ130km/sくらいは投げることができるため
プレーヤーとしてなんとかやっていけているものの、
野球自体を引っ張って行く程の勢いはなく、
そうこうしてる間に野球というスポーツ自体が古くなりかけている、
つまりはオワコン化してきている状況だと思います。

ここで、何が「古く」なってしまっているかについて考えますと、
まずダウンタウンの「新しさ」とは元々、
上下関係などの古い日本の慣習を打ち破る、といった部分だったと思います。

そして若き日のダウンタウンは、「空気を読め」という表現で
「自分達の新しさを理解しろ」と訴えていたわけですが、
それが十分に理解され新しくなくなってしまった現在では、
「空気を読め」は「出来上がったお笑いのルールからはみ出すな」
という解釈に変わってしまっており、
後輩達はその「空気」を読もうと躍起になっているのかなと思います。

テレビの枠におさまり、目上の人の機嫌を損ねる言動は控え、
世の中への批判であったり大それたメッセージなど送らず、
ひたすら今ある現状からはみ出ず、
その中だけで面白い言葉を紡ぎ出すことをすべきという「空気」です。

しかし、この現在読むべき「空気」というものは、皮肉なことに
ダウンタウンが反発していた古い慣習そのものとなってしまっているため、
この矛盾を続けることでダウンタウンの作ったお笑いは、
どんどん古くオワコン化してしまっているわけです。

茂木健一郎さんが、この「空気」への違和感を訴えていたのかは分かりませんが、
少なくとも中田敦彦さんの感じている違和感はこういうことではないかと思います。

最近、海外から日本の番組を見れるシステムを導入したのですが、
日曜日の朝の某ワイドショーで後輩である東野幸治さんを司会に置いて、
いい先輩芸人のお手本といった雰囲気のコメントをする「松っちゃん」を見て、
そこに流れるおかしな「空気」に、大きな違和感を感じざるをえません。

しかし、このオワコン化は単に時代が流れているだけという見方もできるので、
ダウンタウンが一つの新しい時代を作り、それが終わりに向かっている中、
それを変えることをもう1度ダウンタウンに求めるのはおかしな話です。

やはり今の時代を変えていくのは、中田敦彦さんら若い世代であると思うので、
その中で何とかしなければと戦おうとしている中田敦彦さんに対して、
自分はまだ古いお笑いが好きだから変えようとしないで欲しい、
といったノスタルジックな批判をするならまだしも、
「天狗になっている」「調子に乗っている」
などという批判をするのはかなりお門違いだなと感じたので意見を発信してみました。








前回の記事は、小池都知事の発言から思うことでしたが、
今回は、また政治家関連で、
蓮舫議員の国籍問題から思う日本の特徴を考えてみます。

蓮舫議員の一連の国籍問題の中の一つの焦点は、
「二重国籍」についてだと思いますが、
日本で国会議員に立候補する国籍の条件としては、
現在のところ、日本国民であることであり、
他の国にも国籍を置いていることについて言及されていません。

同じように、日本の国籍法についても、
ある一定の年齢を過ぎると1つの国籍にすることが望まれてはいるものの、
日本の国籍を選択したとした上で、
重国籍の状態を続けた場合について罰則等を設けていません。

これには、国によっては国籍を放棄することが難しいことから、
日本国籍を選択したいのにできなくなってしまう、
という場合への配慮があるのかもしれませんが、
そういう場合も含めて細かく法整備をして来なかった、
つまり、「日本以外の国籍」ということについて深く考えられて来なかった、
という要素が大きいのだと思います。

そして、このことは、
「日本以外の国が現実世界に存在している」
という至極当たり前の事実に対する認識の低い、
「世界でトップクラスの外国苦手大国」
という日本最大の特徴の一側面を示していると思います。

しかし、それも当然のことで、
日本は、四方が海で囲まれているため、
そもそも外国との物理的な距離が遠く、
古くから外交といえばその歴史の大部分は、
「師匠」的存在であった中国に教えを乞う、ということであり、
外国相手に対等な立場で交渉する、
ということを本当の意味で始めるのは、
たった150年前の開国後であるわけです。

つまり、他国との関係性については、
日本はまだ150年の歴史しか持たず、
ド素人レベルを出ることができていないわけです。
古いですが、「ターザン、ニューヨークへ行く」状態です。

このド素人という点は、
長い歴史を経て個人レベルで植えつけられているので、
外交というだけで舞い上がってしまう政治家も、
運転しにくい左ハンドルの車を乗り回すお金持ちも、
他国の人々へ差別的発言を繰り返すネット住民も、
みんなしょうがないわけです。

しかし、おそらく江戸時代のように、
日本が育んだ独自の文化の中だけで生活できるのであれば
このような不自然な人々が出てくる必要はないのですが、
残念ながら、貿易、交通網、情報網の発達した現在では、
日本が日本だけで国として続けて行くことはできません。

では、どうすればよいか。

その答えは、おそらくとてもシンプルで、
日本独自に育んだ文化、哲学を背景として、
つまり、日本としてのアイデンティティを保ちつつ他国と接する、
そのことをしっかり意識することだと思います。

ただ、とても当たり前のことに聞こえるかもしれないこのことは、
私たちド素人には、意外と難しいものです。
私も、海外で生活し始めて6年になりますが、
未だにやはり他国の人々に比べ自然体で生活することはできていません。

政治も同様で、
ここは他国に追随する場面か日本独自の方向性を打ち出す場面か、
常にあやふやで、日本はこうだという指針が決まっていないように見えます。

しかし、素人だからといって他国が同情し理解してくれる訳ではないので、
個人レベル、国レベルで、少しでも素人を脱することができるように、
自然体で他人、他国と接することができるように、
努めていかなくてはいけません。

最近多い「日本のスゴイ所を日本で発信するテレビ番組」を見るのではなく、
日本とはどういう国かを本当に意味で理解し、世界の中でそれを表現しようと
努めなければならないと思います。

蓮舫議員の問題からは、大きく逸れてしまいましたが、
今回は、蓮舫議員の問題からふと連想したことを発信してみました。










このブログ一発目の記事は、ちょっと真面目にジェンダー問題です。
というのも、たまたまウェブニュースで、小池都知事が、
「都庁は女性の人材宝庫になっている」
といった発言をされているとのニュースがあり目を引いたからです。

小池知事就任のニュースは、こちらでも流れていて、
欧米からの視点では、東京のトップに女性が就く、
ということで、日本が少し「近代化」したのかなという認識になったと思います。

そんな小池知事が、積極的に、女性の雇用について発言をする、
ということは非常に前向きなことだと筆者は捉えますが、
おそらく、このニュースに対する反応として、
一定数の「逆差別」という意見が出ているのかな、と推測します。

男女平等、男女平等、と言いながら、
女性を積極的に雇用する、というのは、逆に差別であって、
平等にするなら、男女を差なく平等に雇用するべきだ。
それこそが、真の男女平等であって、
例えば、同じレベルの能力があった男女のどちらかを採用しようとするときに、
女性を選択するのであれば、それは逆差別だ、
という見方です。

ただ、こういった見方に一言。
それは、逆差別ではありません。

もともと、今の社会で「仕事」と言われているものは、
かつてはほぼ全て男性のものであった、
そこに異論のある人は少ないと思います。
その状態から、近代、現代と時代が進み、
少しづつ男女が平等になる方向へ近付いているわけです。
スポーツのスコアで例えるなら、
10対0だったところから、
10対1、10対2、、、10対6と少しづつ近づいてきているわけです。

そんな中で、逆差別とは、
スコアが逆転したということです。

どう考えても今の日本でスコアの逆転なんて起こってないですね。
逆差別、という言葉は、未来に、10対10までついに来た時に、
勢いあまって10対11になってしまった、
その段階で初めて使う言葉です。

元々、男性が、勝手にルールを作った勝手なスポーツで、
10対0にしてしまっていたわけですから、
大規模なルール改正や時にはちょっとしたハンデも設けて、
まずは10対10の状態に持っていって、
何もかも平等な条件が整ったその時に、
初めて仕切り直しです。
逆差別、つまり、男性差別、という言葉を使えるのはそのあとです。

科学の世界でも、
男女共同参画の一環で、女性の研究者を積極的に採用しようという動きがあり、
これに、逆差別、だと訴える研究者は少なからずいます。

この、男女不平等が世界トップクラスで強く残っている日本で、
逆差別、という言葉を使うことが、
どれほど現実を見ていない言葉か、
メディアを通して、そういったことをもっと発信していかなければ、
なかなか状況は変わって行かないのではないのかな、
と思い、これを最初の記事としてみました。











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