こんにちは。ふと気がつくと20年近くカラオケに行ってないパオロ・マッツァリーノです。私とカラオケに行く場合、演歌もしくはムード歌謡しばりにしますので、そのつもりで。
さて。いま毎週見てるテレビドラマは『泣くな、はらちゃん』と『相棒』だけなんですが、これとはべつに、非常に恐ろしいドラマを発見しました。NHKの朝ドラ『純と愛』です。
なにが恐ろしいのかというと、ヒロインの努力がことごとく報われないんです。うまくいきかけたとほっとしたのもつかのま、悲劇が訪れ、失意のどん底にたたき落とされることの繰り返し。
その展開がわざとらしくて朝から疲れる、などとくさす人たちもいます。彼らは苦難が続く展開を見せられることで自分の気が滅入ってると思ってるようだけど、そうかな? 苦難が続く展開なら、数年前の『ゲゲゲの女房』だって同じでした。なのにそのときは朝から疲れるなんて批判の声はあがりませんでした。なぜか。それは、主人公夫婦の努力が最後には報われることがわかってたからです。だから視聴者は夫婦の苦難を気楽に見守ることができたのです。
ところが『純と愛』はオリジナル脚本で先の展開がわからないので、ヒロインの努力が裏切られるたびに、不安な空気が流れます。そして、このドラマが発信し続ける「努力が報われるとはかぎらない」という裏メッセージが、見るものの神経を逆なでし、疲れさせるのです。
基本的にエンターテインメント系ドラマのほとんどは、「努力は報われる」というお約束の上に成立しています。そのメッセージを広めて視聴者に夢と希望を与えるのが使命だといっても過言ではありません。
しかし現実の世の中ではそうじゃないことに、みんな本心では気づいてます。努力は報われないことのほうが多いんです。ゴッホの努力が報われたのは死んでからのこと。でも死んでからいくら認められたって、本人には何の意味もありません。ゴッホにとっては、死ぬまで努力が認められなかったことは、ただただ、恐ろしい悪夢でしかなかったはずです。
『ゲゲゲ』にだって、仲間のマンガ家が餓死したなんてエピソードがありました。水木さんと同じ状況に置かれたら、精神的に耐えられない人のほうが絶対に多いでしょう。夢の実現を信じて努力するって、口でいうほど生やさしいことではありません。
ちょっと話が横にそれますけど、映画版の『ゲゲゲの女房』はまさに怪作です。低予算でむかしの街並みなどを再現できなかったからなんだろうけど、いまの調布駅前とかで普通に撮影しちゃってるんです。もちろん設定は昭和なんですよ。なのにくたびれた着物を着た役者が、ビルの建ち並ぶ現在の街を歩いちゃう。大胆すぎて唖然とします。郷里にいるはずのしゅうとめのイメージが、まるで生霊のように普通に台所に立ってしゃべってたりと、わかりづらい演出に腹を立てた人が続出したようですが、私はけっこう愉しめました。映画版はマンガ家として成功する前の時点で終わるんです。そういうわけで、先の見えない不安な生活をよりリアルに描けてたのは映画版でした。朝ドラは健康的すぎたような。
ゲゲゲから一般論に話を戻しましょう。ドラマは、努力は報われるのだよと教えてくれますが、現実はそうとはかぎらない。でも、ひとは、努力はいつか報われると心のどこかで信じているから、生きていけるというのも事実です。努力は報われないのだと心の底から絶望してしまったひとは、たぶん歩みを止めてしまいます。だから、ファンタジーだろうがフィクションだろうが開き直りだろうが破れかぶれだろうが、努力は報われると信じることは、やっぱり大切なんですね。私だって、まだまだ心のどこかで信じてるから、本も書けるし、赤の他人に注意したり、ほめたりと、世の中と関わる努力もできるんです。
そう考えると、『純と愛』は展開がわざとらしいのではなく、ある意味、超現実的なドラマなのかもしれません。だからラストがどうなるのか、どうするのか、とても気になるんですよ。まあさすがにハッピーエンドには、なる……のでしょう。同じ遊川脚本の『家政婦のミタ』も『女王の教室』も、一応、希望の持てるラストでしたから。でも、なんか企んでそうな気もするんですよねえ。コワイですねコワイですね、って淀川長治みたいなシメになっちゃいましたけど、今日のところはこのへんで。
[ 2013/02/17 22:19 ]
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