こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。またですか。性懲りもなく、また体罰教師のニュースですか。
こういう事件が起こると、必ず、体罰教師を擁護する人があらわれます。そして彼らのいうセリフも決まってます。「場合によっては体罰は必要なんだ。体罰で良くなる子もいるんだ。いって聞かなければ殴るしかないだろう。体罰なしでこどもをしつけることなど不可能だ。愛があれば体罰はいいのだ」
やれやれ。これすべて、なんの根拠もない妄想です。
現に私は、よそのこどもやよそのオトナに何十回と注意してますけど、一度も暴力をふるったことはありません。暴力ぬきで怒る、叱る、注意することは可能です。その理論と実践については、去年出した『怒る!日本文化論』で詳しく説明しています。考えうる疑問や反論には、本の中で極力答えているつもりなので、もし反論があるのなら、私の本を読んで、あなたが実践してみてください。その上でまだ反論があるのなら、うかがいましょう。
もういいかげん、暴力に根拠のない幻想を抱くのはやめてくれませんか。きれいな暴力なんて存在しないんですから。暴力は、美化した途端に歯止めがきかなくなるのです。暴力や体罰を理由の如何によって許すのは、法治国家であることを放棄するのも同然です。
私は根拠のない話がなにより嫌いです。『怒る!日本文化論』を執筆する際にも、明治から現在までの新聞雑誌で報じられた体罰に関する大量の記事の、かなりの部分に目を通しました。
その作業でわかったのは、現実の体罰には爽快さや痛快さのかけらもないということ。体罰や暴力をふるう人間は、例外なく、すべて卑怯なクズ野郎だということです。断言してもいい。例外はありません。平気で暴力をふるえる人間は、どんな地位や肩書きを持っていようと、どんなにえらそうな理屈を並べようと、100パーセント、クズ野郎です。まともな人間なら、一度でも暴力をふるってしまったら、強い後悔の念に苛まれます。何人も何度も殴って平気な顔をしていられる人は、どうひいき目に見ても、まともとはいいがたい。
過去の体罰事件を検証すると、共通するパターンがあることに気づきます。体罰によって生徒がケガしたり死んだりして裁判になると、その途端、体罰教師たちはみんないい逃れをし始めるのです。「数発叩いただけだ」「軽くはたいただけだ」などと、過少申告をします。
もし本当に自分の教育理念に自信があるのなら、体罰は正義だと信じているのなら、裁判になっても堂々と「私は30発殴りました。それが教育上有効だと信じているからです」などと主張すればいい。信念を曲げることなく裁判でも体罰の有用さを主張すればいい。なのに現実には、みんな罪を逃れるために、ウソをつき、こそこそと自己保身に走ります。それこそが、彼らに最初から信念も思想も愛もない証拠です。
体罰教師を責める側も用心しないといけません。被告となった体罰教師のなかには、「自分を異常者のように報道したマスコミによって人権を侵害された」と、マスコミやジャーナリストを訴えている者も少なくないのですから。
こういうところにも卑怯者としての本性があらわれてます。自分はさんざん他人の人権など無視して立場の弱い者を殴ってきたくせに、いざ自分がやりこめられる立場になると、途端に人権を持ち出して被害者ヅラをするのです。
暴力を礼賛する者たちも同類です。暴力教師を擁護する者たちは、減刑嘆願書の署名活動をはじめます。その署名を断ると、今度はその家族が陰湿な村八分のような扱いを受けることもあります。暴力礼賛者の陰湿さ、卑怯さは、とどまるところを知りません。
体罰を受けたせいで目が覚めた、真人間になれたなんて語る人もいますけど、これもまた一方的でご都合主義の証言です。こどものとき教師から受けた体罰を、オトナになってもまだ許せない、オトナになってから考え直すと教師の身勝手さに気づいて腹が立つようになった、酔った勢いで教師を殴りかねないから同窓会には出席しないなどといった証言を載せてる記事もあるんです。なかなか口に出せないだけで、そう考えてる人はけっこういるんです。
今回ひとつだけ感心したのは、以前は体罰の効果を支持するような発言をしていた橋下市長が、体罰の違法性を全面的に認めたことです。橋下さんを独裁者だとか批判する意見も多いのですが、橋下さんは批判に耳を傾けているし、自分がまちがっていたと納得したときは、わりと素直に認めるんですよね。政策への支持・不支持はべつとして、そこは評価してますよ、私は。
[ 2013/01/14 21:02 ]
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