拓郎は音楽業界に於ける時代の開拓者
拓郎がフォーライフの社長に就任した後の1978年の春、拓郎の事務所経由で文化放送の深夜番組「セイ!ヤング」に出演したいとのオファーがあった。TBSの「パックインミュージック」、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」のキャリアを経て、すでに深夜放送界の人気者だった彼を断る理由はなく、私は二つ返事で了承した。
そして拓郎は金曜日の担当パーソナリティになり、4月からスタートした。番組の構成作家は音楽評論家でノンフィクション作家、DJとしても活動している田家秀樹だった。
同時に、それまで番組「セイ!ヤング」のテーマ曲(なかにし礼作詞、鈴木邦彦作曲)に替えて拓郎に新しいテーマ曲の作曲を依頼し、松本隆の作詞した「夜を横切る君には」(唄・滝ともはる)を新テーマ曲とした。
番組はスタートと同時に話題となり、当然、聴取率は絶好調だった。
毎週寄せられるハガキは膨大な数で、本番までに全部に目を通すことが難しい状態だった。番組には当時、拓郎が所属していたユイ音楽工房(現ユイミュージック)スタッフの渋谷、常富にもコーナー出演してもらうことにした。
「拓郎のセイ!ヤング」を担当していた時期に最も印象深い出来事は「吉田拓郎 アイランド・コンサートIN篠島」である。
1979年7月26日から27日の未明にかけて愛知県の知多半島の先端にある人口2千人の篠島でオールナイトのコンサートを開催することになった。
彼はこれまで1975年の「つま恋コンサート」(元祖夏フェス)で野外のオールナイトを経験していたが、」離れ小島でのそれは困難が予想された。
私は「セイ!ヤング」でその模様を生中継することにした。地元の東海ラジオの技術協力を得て、島から本土の山へFM波を飛ばして中継するという離れ業的中継をすることになった。
当日、篠島には島の歴史が始まって以来の2万人を越える若者が押し寄せ、島民との間に小競り合いが起きる等の混乱状態だった。
やがて島に夕闇が訪れた午後7時からコンサートはスタートし、ゲストの長渕剛、小室等と六文銭の演奏に続き拓郎が登場した。観客は潮風が漂う離島でのオールナイトに大いに興奮し、盛り上がった。
このコンサートで拓郎は約8時間、全69曲を歌った。やがて水平線の彼方から空が白々と明ける4時にコンサートが終了し、生中継も無事に終了した。
その後、「吉田拓郎のセイ!ヤング」は1980年の3月までの2年間続いたが、土居まさる、みのもんた、落合恵子の「セイヤング」第1次黄金期に続く第2の黄金期と呼ばれる時代を築いた。
私がFM NACK5に異動した1990年は拓郎がデビューして20年目だった。この時、私はNACK5の特番として「吉田拓郎20th Anniversary~元気です」を企画し、ユイ音楽工房を通じて拓郎の快諾を得た。
そして同年の10月10日の午後1時から9時間の生放送で拓郎の語りで20年間の数々のヒット曲をエピソードを交えながら紹介していった。ゲストには武田鉄矢、小室等が出演した。その結果、開局して間もないNACK5での拓郎特番は話題を巻き起こし、新聞雑誌で記事に取り上げられる等、NACK5の知名度UPに貢献した。
このように拓郎との交流を振り返ってみると彼は「音楽業界に於ける時代の開拓者」だったことを再確認した。現在、彼もすでに古希を越えているが、今後も「元気です」であり続けてほしい。
Forever Young
田中秋夫
1940年生まれ。一般社団法人放送人の会・理事。元FM NACK5常務取締役。
1964年、文化放送にアナウンサーとして入局、その後、制作部に配属。「セイ!ヤング」や「ミスDJリクエストパレード」など深夜番組の開発に尽力し、ラジオ界では「名物ディレクター」として知られる。1990年に埼玉県を中心に首都圏をエリアとするFM NACK5に制作責任者として転籍。ラジオ番組のコンクールでは「浦和ロック伝説」「イムジン河2001」「中津川フォークジャンボリー」等で日本民間放送連盟賞受賞。