吉田拓郎がおこした二つの事件
その後、拓郎は1971年8月に岐阜県中津川市はなの湖畔で開催された「第3回全日本フォークジャンボリー」に初出演した。このイベントは第1回から地元の中津川労音と関西系フォークの音楽事務所「URC」が主催していたのだが、メインの第1ステージは高石友也や岡林信康、赤い風船を擁する関西系フォークシンガーに独占され、拓郎たち東京勢は手狭な第2ステージに追いやられた格好になっていた。
このステージで拓郎は演奏を始めたが、途中で小室等と六文銭を呼び込むと「人間なんて」を歌いはじめた。すると次第に観客も歌いだし、人数がどんどん膨んで異常な熱気に包まれていった。
そして誰かが「メインステージへ行こう!」と言い出し、「人間なんて」を大合唱しながらメインステージに向かって行進をはじめ、会場に雪崩込んでいった。その結果メインステージのコンサートは中止となってしまった。暴徒化した観客はメインステージを乗っ取り討論会がはじまった。
その結果、コンサートのトリを務める予定だった岡林信康はあきらめて会場から姿を消した。
フォークソングが体制批判のサブカルチャーからメインカルチャーへ浮上する転換期に起こった事件だった。
1972年1月に鹿児島時代の同級生でCBS・ソニーのディレクターだった前田仁の誘いでソニーに移籍した拓郎は「結婚しようよ」を発売、40万枚を売り上げ、オリコンチャート3位を獲得した。さらに次のシングル「旅の宿」も大ヒットしてオリコンチャート1位に輝いた。
拓郎は曲がヒットしたことで一部のファンから「商業主義に屈した」と批判され、コンサート会場で「帰れコール」を受けることもあったが、めげることはなかった。
その後、彼に作曲の依頼が来るようになり、モップスの「たどりついたらいつも雨降り」やグループ猫の「雪」「地下鉄に乗って」を提供しヒットさせた。
その後、梓みちよ「メランコリー」、キャンディーズ「やさしい悪魔」等々を提供し大ヒットさせていった。さらに森進一に「襟裳岬」を提供し、第16回のレコード大賞を受賞する等、売れっ子の作曲家としての地位も確立していった。
1975年2月に拓郎は小室等、井上陽水、泉谷しげるの4人とフォーライフレコードを立ち上げる(初代社長は小室等、拓郎は2代目の社長)。この「ミュージシャンがレコード会社を立ち上げた」ことは世間を騒がす大事件となった。
当然、従来の音楽業界「日本レコード協会」からの反発は強く、「販売は引き受けない」ことを申し合わせた。しかし、4人の結束は固く、この包囲網を突破していくことになった。フォークが音楽業界で一定の力を持ったことの証明だった。