(cache)「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人に言いたいこと(小池 みき) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)


「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人に言いたいこと

その揶揄の先に待ち受けるのは、分断だ
小池 みき プロフィール

批判が逆効果になることも

私が揶揄調の批判記事を警戒するのは、こうした「敵意の反転」の下地を作るからというだけではない。すでにスピリチュアルを愛好している人々に対しても、悪影響があると考えている。

簡単な話だ。揶揄は、揶揄されている側を意固地にさせ、考えをより先鋭化させてしまう、ということである。

つい先日のことだが、先述した「縄文祭」の件で名前の上がっているスピリチュアルリーダーの一人が、Facebookに「いつもの界隈が騒いでいて煩わしい」というような内容の文章を投稿していた。「いつもの界隈」とは、彼女のアンチ、そしてアンチ・スピリチュアルの界隈のことだ。

そしてその投稿に対して、ファンからは「正しいことをしているからこそ批判されるんですね」といったコメントが寄せられていた。

〔PHOTO〕iStock

こうしたやり取りは、スピリチュアル系ブログの周りではよく見かける。

特に「引き寄せ」系の理論は、他者からの批判や中傷を「自分自身の不安の投影であり、正しい方向に進んでいるときにこそ現れるもの」ととらえることが多いため、不愉快な批判をされればされるほど「自分の正しさ」を確信する、というループもよく起こる。

Happy氏も、ブログの中でこう書いている

「自分を抑圧しながら『ルール』の中にいる人に、あなたがやってることを批判された時は、イケる!ってこと。逆に良いね良いねなんて言われたら危ないかもよ笑」

スピリチュアルが軽んじられ、嘲笑われる光景を見て、「スピリチュアルのヤバさに気づいた」人もいるのかもしれない。しかし、前述のブログ主たちもそうであるように、かえって態度を硬化させていく人もいる。

スピリチュアルへのコミットが深いほど、アイデンティティをそこに託しているほど、その人は意固地になるしかなくなる。帰路を断ち、ふりかかる批判を「正しさ故に受ける迫害」に転換するしか自分を保つ術がなくなるのだ。

それははたして、スピリチュアルをめぐる「注意喚起」に励む人々が望んでいることなのだろうか。余計先鋭化されたスピリチュアリズムと、その熱狂的支持者が社会の隅で増幅する可能性を、私は考えてしまう。

その批判には、「社会」の観点が不足している

さらにもうひとつ、揶揄調の批判には気になる点がある。「女性向けスピリチュアルとそれに傾倒する女性」という現象を、「個人の問題」ではなく、「社会の問題」としてとらえる視点が不足している点である。

スピリチュアルに傾倒する人に対し、「愚かだから/弱いからそんなものにすがりつくのだ」というジャッジを下すのは簡単だ。しかし、こう問うことはできないだろうか。「社会の何が、彼女にスピリチュアルを選択させたのか?」。

言及する書き手が多いので、もう一度「子宮系」にまつわる言説を例にあげる。

たとえばある産婦人科医はネット媒体の記事で、「子宮系スピリチュアルに共感するのは、その指導者たちのような『キラキラ女子』になりたい女性だ」と推察している。

 

また、スピリチュアルネタに精通したライターも、ウェブ媒体の記事にて、「子宮系女子というのは何かをすごく我慢して生きてきた人なのかもしれないということです。本音をなかなか口にできないから、〈魂〉や〈子宮〉といったものに代弁してもらうのです」と書いていた。

二人が推察しているのは「彼女たちの何が、彼女たちにスピリチュアルを選ばせたのか」だ。しかしこの主語を「社会」にした上で二人の推察を見ると、また違う問いが生まれてくるはずだ。

すなわち、「女性が、『キラキラ女子』を目指さなければと思う社会とは?」「誰かに代弁してもらわなければ本音の言えない社会とは?」

結婚相談所のことを想像してみてほしい。このビジネスは、結婚したいと望む男女が大勢いるから成り立つ。そして、人が「結婚したい」と思うのはけっして動物的本能ではない。

メディアを通じてこれでもかというくらい刷り込まれる「夫婦」や「家庭」の像、「家庭のひとつも持たなきゃ一人前じゃないぞ」「もう30なのにまだ結婚しないつもり?」という周囲の人々からの言葉、幸せそうな友達夫婦の姿……。そんな、社会からインプットした情報の蓄積こそが、いくらかの人を結婚相談所に向かわせる。

ExelateDataExelateData