糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

12月05日の「今日のダーリン」

・「しょうがない」ということばは、
 あんまりよく思われていない。
 じぶん自身のことで言えば、
 「しょうがない」をいちばん聞いたのは、
 ちいさな子どものときのことで、
 そのほとんどは、おばあちゃんが言っていた。

 「しょうがない」というのは、
 「どうにもしようがない」という意味のことで、
 じぶんや他人に、あきらめをうながすセリフである。
 子どもだったぼくは、「しょうがない」のひと言で
 すべてがおしまいになってしまうことに、不満だった。

 おとなになっていく過程で、
 「しょうがないであきらめちゃダメだ」という言い方で、
 「しょうがない」ということばに出合うことになる。
 「問題意識」だとか「主体性」だとかということばが、
 こういうときには、混じってきたりする。
 青年だったぼくは、決意する、
 「しょうがない」と言わない人になろうと。 
 たぶん、それから、ずいぶん年月が経ったけれど、
 ぼくは、なるべく「しょうがない」と言わないように
 生きてきたような気がする。
 「しょうがない」と言う人間はよろしくない、と。

 だが、「しょうがない」を無意識で禁じてしまうと、
 実は、考え方が歪んでくるということにもなる。
 「しょうがない」ことは、現実にあるのに、
 「しょうがない」と言えないということで、
 どうにもならないことを、まるで、
 どうにかなるように思いこんでしまうのである。
 逆に、それが「どうにもならない」を生み出してしまう。

 たとえば、あなたは、あなたの両親から生まれてきた。
 ある時代に、ある国に、ある顔で、生まれてきた。
 これは、もう「しょうがない」としか言えないだろう。
 これを認めたうえで、次の場面に移動はできるだろう。
 しかし、事実は事実で、どうにもしょうがないのだ。
 人は、年齢を重ね、経験を重ねると、少しずつだけど
 「しょうがない」を言えるようになると知った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「しょうがない」と言ってから、元気に笑えることがある。