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2018-12-06

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ずっと、こころから「あいつがにくい」と思っていて、
 その「あいつ」がどえらい目にあうことを願い続けて、
 とうとうその「あいつ」がひどい目にあったとしたら、
 憎んだり呪っていた人間は、幸福になったのだろうか。

 「あいつがにくい」を、人生の目的みたいにして
 生き続けるというようなことが、
 ほんとうにできるのだろうかと想像してみた。
 「みんな大好き!」とあかるく生き続けることにも、
 おそらく無理があるように、
 「あいつがにくい」「あいつらがにくい」を追求して
 日々を暮らしたりしていくことっていうのも、
 ほんとは無理なんじゃないかと思ったのだ。

 インターネットというものを知りはじめたころ、
 おもしろいなぁと思って、ネット漂流をしていたら、
 「糸井重里が大嫌い」という見ず知らずの人を発見した。
 むろん、あっちもこっちを知らないはずだと思うけれど、
 とにかく強く嫌いなのだという。
 理由はよくわからないが嫌いであるのは確からしい。
 いまなら、「よくあること」とわかっているのだけれど、
 そのころは、もう少し初心だったので、やや落ちこんだ。
 どういう野郎なんだコノヤロと、読んでいくと、
 その彼が、友人たちとたのしくピクニックをしていたり、
 家族とあかるく笑っている写真とかが出てきた。
 近くにいる人とは、こんなふうにつきあっているんだ、
 と知ってしまったら、拍子抜けしてしまった。
 つまり、彼は、「糸井重里が大嫌い」を中心にして、
 人生を送っている人物なのではなくて、
 じぶんのたのしいことは、ちゃんとやっている人なのだ。
 それがわかって、もうそれ以上考えるのはやめにした。

 なにかとかだれかを嫌ったり憎んだり呪ったりすること。
 こういうことのほとんどが、ただの憂さ晴らしだったり、
 酔ってからむようなことなのだと、このごろわかった。
 あるいは、なにやら別の損得にからむようなことだとか。
 憎まれている本人には預かり知らぬことなのではないか。
 「あいつがにくい」は、なんか「じぶんがにくい」と、
 背中合わせになっているような気もするんだよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんの幸福を本気で探すって、こらえ性がいるしね〜。


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