言いたいことは解るけど、そういうことじゃないんだよ、と言っておきたい。
議論とは、「知」とは「みんな仲良く」のためにある訳ではないのだ。
小学校の学級会ではないのだ。


これに関しては西部邁のたとえが的確だ。


西部邁という保守系の知識人が言っていたことですが、

「知識人は村はずれの狂人でいい」  と。

普段は村はずれに住み、自分のペースで畑を耕したりしながら村のサイクルとは違うサイクルで暮らし、村で困ったことがあった時に意見を求められたら意見を言い、それが役に立てばちょっとした謝礼を貰い、役に立たなければそのまま捨て置かれ、村での困りごとが終われば、また自分の暮らしに戻る。
おそらく『ゴーマニズム宣言』に書かれたものだと記憶するが、最近京大生の反骨精神が白眼視されるのも、こういう「知」の本来の在り方を、誰も理解できていないからだと思う。


みんな「知」というものを誤解しすぎている。
「知」さえあれば、人は豊かに楽しく、愛し合いながら生きていけると思い込んでいる。

しかしこれはカントを始め多くの哲学者が言っているが、「知」はそういう効果もあるものの、時にはそんなコミュニケーションを批判し、人を孤独にさせる効果もあるのだ。

こういった「知」の重みを、一般人、特に女性はどうしても理解できないらしい。
そう言えば女性の哲学者ってほとんどいない。アーレントくらいだ。


この世界のあちこちからどんどん「知」が消えていってる気がするのは僕だけだろうか。
目先の幸福感に耽溺していては、たちまち絶望に飲み込まれるだけなのに。