特集コーナー/バックナンバー
2018年8月15日(水)
【特集】戦闘機・紫電改 実像と受け継がれる想い
兵庫県加西市には巨大な戦争遺跡があります。
旧・日本海軍が終戦の前の年に完成させた鶉野飛行場跡。長さ1000m以上の滑走路からは
多くの特攻機が飛び立ちました。
【鶉野平和祈念の碑苑保存会 理事 上谷昭夫さん】
「(滑走路は)当時そのままの状態」
「滑走路が歴史を眺めてきた生き証人かなと思います」
20年以上にわたり滑走路の近くにある資料館を管理し、飛行場跡地を見守ってきた上谷昭夫さん。
滑走路の面影を残しつつ、未来への有効活用も模索したい。
そう考える上谷さんたちと加西市は議論を重ね、滑走路上で防災備蓄倉庫の建設が始まりました。
【記者リポート】
「今年春から防災備蓄倉庫の建設が進んでいます滑走路の北側部分です。
夏を迎えましてご覧のように倉庫の形がイメージできるようになってます」
倉庫のモデルは戦時中の飛行機の格納庫です。
その格納庫近くにあった工場では、
昭和20年春から旧・日本海軍の切り札ともいわれた最新戦闘機・紫電改が組立られていました。
今回取材に訪れたのは8月6日。
上谷さんは、73年前のこの日の朝に、
鶉野飛行場から紫電改で九州にむけて飛び立ったパイロットの話をしてくれました。
【上谷さんの話】
(パイロットの証言によると)
「はじめ広島の街を見た時にはお城もきちんと見えたし、
街も非常にきれいだったが、大きな入道雲が上がった」
「その入道雲の頂上は真っ赤で眺めているうちにすごい爆風にあって、私の飛行機は飛ばされました」
「操縦不能というか、操縦桿動かしても自分の飛行機が思うように宇動かなかった」と
そして、奇跡的に生還したパイロットはこんな証言もしたといいます。
「本当に紫電改が頼りになったのは爆風で飛ばされたあとでもプロペラが回り、
エンジンが動いていたこと。それで、私は飛行機をまた操縦することができた、」と。
原爆の爆風からパイロットの命を守った紫電改とはいったいどのような戦闘機だったのしょうか?
【紫電改パイロット 笠井智一さん】
「感心したことばっかりやな」「そら、あんた零戦とは全然違うんやから」
旧・日本海軍の戦闘機のパイロット・笠井智一さん。
昭和20年に本土防衛の要の航空隊で、当時の最新鋭機・紫電改と出会いました。
【笠井さんの話】
「ゼロ戦とは馬力もスピードも違う。紫電改にのった時の気力は全然ちがう」
「これやったら、(アメリカ軍戦闘機の)グラマンにも負けないと思った」
ゼロ戦と紫電改の性能を比較すると、約2倍の馬力がある紫電改は、
最高速度・機体につめる爆弾の量、共に零戦を上回りました。
また、戦争末期にアメリカ軍が紫電改を恐れていた様子は、
直木賞作家・城山三郎さんの作品でもふれられています。
【笠井さんの話】
「日本の、貧乏な国があそこまでの飛行機をよく作ったな、と」
「あー、立派ですよ」「私ら、今でもいいます、紫電改は世界一の戦闘機」
敗戦ムード漂う時期に、アメリカ軍の脅威となった紫電改。
戦時中、その紫電改を開発したメーカーからも、話を聞くことができました。
【新明和工業 石丸寛二副社長の話】
「当時のグラマンだとか米国の戦闘機は、だいたい2000馬力級で、紫電改のエンジンパワーはほぼ互角」
「零戦とは一段上のクラスだった」
現在は飛行艇メーカーとなった新明和工業の、石丸寛二副社長。
戦後に紫電改設計者から教えを受けた最後の弟子と言われています。
石丸さんは、紫電改設計者が開発にあたって込めた想いを語ってくれました。
【石丸さんの話】
「パイロットは養成にも時間がかかる1つの戦力」
「その命を手厚く防御する必要があると聞いている」
紫電改は、攻撃を受けた時に引火しにくいように燃料タンクが防弾仕様になっていた他、
操縦席の周りには鉄板がはられていました。
「人命」を守ろうとする願い。その願いは今も引き継がれています。
【辛坊治郎さんの話 2013年】
「この国の国民であってよかったな」
5年前に海で遭難したニュースキャスターの辛坊治郎さんを救った、
救難飛行艇「US-2」を作ったのが石丸さんの会社です。
世界で唯一、3mの荒波にも着水できるUS-2が多くの人々を救い続ける中、
石丸さんは平和教育への想いについてこう語りました。
【石丸さんの話】
「戦争中ではあったけれども、いろんな創意や工夫をし、
ミッションを全うするようなエンジニアリング、設計・製造、もの作りをやったというのは、
後世に残してもいいと思うし、それが平和教育だと思う」
兵庫県で生まれ、世界最高の救難飛行艇の礎ともなった紫電改。
その機体を再び、鶉野飛行場に再現しようという動きが始まっています。
「えらく、できてますね~」「すごいね~」
上谷さんが目の前にしているのは、製作が進められている紫電改の模型。
実物大で作られていて、全長9mあまり、翼の幅は約12mあります。
作っているのは、茨城県のデザイン会社社長の斎藤裕行さん。
零戦の実物大の模型を作った実績があり、それを知った上谷さんが声をかけました。
上谷さん「これ水平尾翼、動くやつね。方向舵を動くようにできないか話をしている…」
斎藤「なんかね、上谷さんと会うたびに可動する部分が多くなってくるから」
上谷「1、2、3、4、5、6…6つの可動部分あるから」「それと あと2つ…」
齋藤「ちょっと力がぬけてきた」
建設工事などでいう起工式にあたる式典を終えた紫電改の実物大の模型は来年春に完成し、
飛行場の防災備蓄倉庫付近で展示される予定です。
【上谷さんの話】
「私の長年の夢だった。紫電改に再会するのが」
「当時ここで作られていた飛行機ということに意味があり、
それが復元されるということに意味がある」
「私は嬉しいの一言につきますね」
戦うだけでなく、人の命を守るという願いも込められた戦闘機・紫電改。
戦後73年がたった今、鶉野飛行場は原爆の爆風からも生還した機体の帰りを待っています。