~ いじめの構造(1)----捨て石の必要性  ~


 


    
 

 私は、学部は東京理科大学理工学部応用生物科学科の木邑(仮名)教授の研究室に所属した。 この木邑教授は、●とともに、私が出会った人間の形をした物体の中でも最も軽蔑している物で ある。この木邑教授の評判は学生たちも知っているので、ほとんど木邑研への志願者がいないの だが、割り振りがあるので、定員を越えた研究室で「じゃんけん」をして負けた人間が木邑研へ 振り充てられてしまうのである。私もこうして貧乏くじを引いた訳であるが、木邑教授の異常さ が想像を絶することを知るのに時間はかからなかった。木邑教授の潔癖症のために、学生は毎日 徹底した掃除を義務づけられ、おかげで塵一つ無い研究室では殆ど研究が行われていなかった。 実際の所、彼が教授になって以来10年以上にわたり、おそらく木邑研からは1つの論文も出ていな いはずである(外研に出した学生の論文に、著者の真ん中あたりに共同研究者として木邑教授の 名前が入っているものはある)。さらに、木邑教授は、自分がかつては東大でも極めてて優秀な 学生であったことを常に研究室のメンバーにクドクドと自慢し、そして学生に向かって「私が研 究できないのは、君たちがバカだからだ。」と真剣に言うのである。彼の、相手に考える暇を与 えないように早口で機関銃のように攻撃する(三流の詐欺師が使う手段)ディスカッションを見 ても、確かに彼の頭脳の良さは認めざるをえないが、その後に私が接した科学者達と見比べると、 この木邑教授は科学者としては単なる無能でしかないことがよく判った。要するに、過去の履歴 によるエリート意識だけで、自身が優秀な科学者であるかの如く錯覚しているのである。大学と いうところには、こういう輩は必ずしも少なくない。
 

 さて、木邑教授は、気にくわない一部の学生を徹底していじめ、それによってストレスを発散 させる人物であった。特に、先輩の修士課程1年の石綿さん(仮名)は、完全に教授の餌食になっ ていた。石綿さんは、研究に対する能力や意欲は他の学生よりもはるかに優れていたし、人間的 にも良識ある好感の持てる人だった。その彼が、何故か研究室やセミナーで、他のメンバーがい る前で木邑教授に辱められ、なんだかんだ理由を付けられて研究に入らせてももらえない状況だ った。おそらく、私なら耐えられなかったと思うほど、その嫌がらせは苛烈を極めた。当初は好 人物だった石綿さんが、ある意味で嫌な人間に変化していったのを覚えている。というのは、彼 は私に、影で木邑教授への不満ばかり言うという状態で、彼は教授との人間関係のことばかりに 神経をすり減らし、サイエンスのことを考えるゆとりすら無くなったという印象を持ったのだ。 そのうち、あまりの状況に耐えかねた石綿さんは、ついに行方をくらました。私は、彼が自殺で もするのではないかと危惧していたが、実家に帰って今後どうするかを考えていたとのことだっ た。家族に説得されて なんとか研究室に復帰したが、木邑教授の嫌がらせは止むことがなかった。
 

 さて、こういう状況に対して私を含めた他のメンバーはどうしていたか。当然であるが、皆、 自分に木邑教授の矛先が向かないようにと願っていたので、誰一人として石綿さんを弁護し、木 邑教授に反抗する者はいなかった。私は、木邑教授にあまり関心を持たれていなかったことも幸 いして、憎悪を隠して無関心を装うことが出来たが、他のメンバーの中には、本心かどうかは判 らないが、木邑教授の意見に同調し、石綿さんを非難する者さえいた。この狂気の教授に蝕まれ ても、誰も助けてくれない状況の中にあった石綿さんの心中は察するにあまりある。
 

 つまり、石綿さんは木邑教授の狂気を受けとめて、私を含めた他のメンバーの危機を救ってく れていたのだ。卑怯だと思うが、私達にも防波堤としての石綿さんの存在を有り難く利用してい たとも言える。こういう狂気の教授のもとでは、いじめられる人間(捨て石)も必要なのである。 本当に申し訳ないことだが、私もどうしても大学だけは卒業したかったので、石綿さんを助ける ことは出来なかった。教授というのは無能であっても、卒業するためには絶対逆らえない存在だ ったのである。
 

 これが、大学において教授によるいじめに対処できない原因でもある。因果は巡り、その数年 後、●と私の間にも同じ状況が発生し、私は孤独と無力のうちに葬られる結果となったのである。
 

(●=基生研生殖研究部門N教授)