鼻っ柱が強かった
新人アナウンサー時代

そのようにしてTBSに入社し、アナウンサーになった安東さんですが、最初はスポーツ担当だったそうですね。

安東  僕は学生時代に「アナウンス研究会」といったサークルにも所属せず、弓道部という体育会の世界で生きてきましたので、まさに右も左もわからない世界。だからといって、スポンジのようにすべてを吸収していったかというと、そうでもありませんでした。
 というのも、当時のTBSのスポーツアナウンサーの世界では、もっとも視聴率を稼げるジャイアンツ戦の野球中継が主力のコンテンツで、「巨人戦の実況を担当することこそがアナウンサーの究極の目標」という常識があったんですが、僕にはそうは思えなかった。
 なにしろ僕は、スペインから帰国した8歳のとき、広島カープがリーグ戦初優勝を飾るという記念すべき年に広島に住んでいましたから、それ以来の広島ファンなんです。原爆の焼け野原から復興した広島で、住民のカンパで創立した球団のファンの目から見れば、ジャイアンツは「宿敵」以上の何ものでもないわけです(笑)。
 そのため、スポーツキャスター時代は野球に限らず、空中ブランコやアイスホッケーのキーパー、柔道、高飛び込みなど、さまざまなジャンルで活躍するアスリートたちと同じ練習メニューをこなして競技に挑戦するコーナーを担当し、自分なりに必死に取り組んでいました。
 そんな僕の姿を認めてくれたのが、スポーツとは別の部署にいた、情報バラエティ担当のプロデューサーでした。1996年の4月からはじまる『王様のブランチ』という番組を立ち上げるにあたり、僕の存在に目をつけてくれたのです。
 そのころ、TBSではアナウンス部という部署はあったものの、スポーツ班、報道班、情報バラエティ班などに分かれていて、班を越境してアナウンサーを番組に起用するのは異例のことでした。でも僕は、会社に対して「おかしい」と思うことは何でも言う性格だったので、上司に直談判をしてスポーツ班から情報バラエティ班に変えてもらい、『王様のブランチ』を担当させてもらうことになりました。

“アンディ”と呼ばれて
新たな世界が広がった

『王様のブランチ』では、おなじみとなった“アンディ”という愛称とともに親しまれ、多くの人にその存在を知られるようになりましたね?

安東  アンディという呼び名は、番組が始まって間もないころ、司会の田中律子さんが生放送中に名づけてくださったんです。「年上だから“安東くん”というのはおかしいし、かといって“安東さん”って感じでもないよね。だから、“アンディ”」って。
 彼女は裏表のない性格で、いつも明るく楽しそうにしている様子がまわりにも影響を及ぼして、現場全体が明るくなる、そんな素敵な人なんです。そして、その現場をまとめるお父さんのような存在として寺脇康文さんがいて、僕がミスをしたとき「今のカミ方、普通のアナウンサーにはできないよ」なんて、やさしくフォローしてくれる関根勤さんがいて、本当に家族のような雰囲気でした。

バラエティの現場は安東さんにとって、水の合う現場だったのですね?

安東  スポーツ番組は、アスリートという存在があって、彼らのパフォーマンスをいかに上手に伝えられるかというところにやりがいがあるのに比べて、バラエティ番組は何もないゼロの状態から番組を立ち上げていくという、ものづくりの喜びがあって、そこに大きなやりがいを感じました。
 『王様のブランチ』がはじまって1年後には、『アッコにおまかせ!』の進行役に起用されるんですが、こちらもとてもやりがいのある仕事でした。
 バラエティ番組づくりにたずさわるようになってからは、本当に楽しい毎日だったんですが、一方でその楽しさに慢心すまいとは、つねに自分に言い聞かせていました。「今は楽しくても、次に担当する番組はきっと辛いものになるに違いない」とか、「どこに落とし穴があるかわからないぞ」と気を引き締めておかないと安心できないというか、僕の場合、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、安心しないことで逆に平静を保つことができるんですね。

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