私は学問とメタファーとは切っても切れないと考えてるので、人社系が「微分」とか専門用語の意味を改変して使う権利はあるという立場。ただ、メタファーが既存の社会差別に加担する用法かとか、そういう議論は不可欠と思う
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「表現の良し悪し」はあるでしょう。それは同じ言語を使い理解するグループの密な議論で決めればいいと思います。そして、ある言語集団はそれを「流用」だと捉えるが、他は「濫用」だと思う場合がある。そういうことだと考えています。
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流用と濫用の境界が不明確だからうんたららという人がどこからともなく湧いてきそうな気がするので先に書いておきます。灰色の存在は白と黒の存在を否定しません。
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白と黒はあるでしょうが、その間は連続しています。真ん中に切れ目を見出したがる集団もいれば、グレーにより繋がれていること自体を重視する集団もいます。
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灰色に切れ目を見出すか繋がれていることを重視するかは、黒と白にどう対応するかとは独立な問題です。その独立性が理解できるようになったことこそ、境界設定問題に関する哲学の成果といえるでしょう。
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こういう話題は具体例に関する意見をお互いに述べないと「相手が何を言っているか」を理解不可能だと思います。具体例のない議論は不毛。 例えば、添付画像赤枠内でのクリステヴァさんによる数学用語や数学記号の使い方は「真っ黒でひどい」と判定しないことは論外だと私は思います。pic.twitter.com/9Q2ctRVXIP
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具体的な事例を出して議論すべきとのご提案には賛成です。まず、クリステヴァについては、「数学としては意味を成していない」ことは疑ったことはありません。ただ数学を理解する側からの説明ばかりで、クリステヴァの文章を理解する側の説明を読むまでは判断出来ないという気がします。
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それが「ラカン派の用語法」において完全に意味を成さないのかどうかは専門家でないとわかりません。私は判断を留保します。そもそもソーカルとブリックモン『知の欺瞞』は原告と検察が被告を一方的に訴える裁判を見ているような書物でした。被告の抗弁の場はなく、弁護士もいないのです。
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仮にある罪状が告発されているとしたら、判断をするには両方の言い分を知らねばなりません。数学と物理学的の観点から見た「いい加減さ」は解説されていましたが、それが哲学あるいは思想の文脈でどうだったのか、訴えられたそれぞれの著者に関して反論があってしかるべきです。
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たとえばラカンの数学的概念の使用については実際に、ソーカルの批判に対する反論がでています。『知の欺瞞』を過去の一事件として片付けて、研究書や論文が普通に出続けています。 https://www.cairn.info/revue-essaim-2010-1-page-7.htm …https://books.google.co.jp/books?id=VKAYBwAAQBAJ&dq=scientific+wars+lacan&lr=lang_fr%7Clang_en%7Clang_ja&hl=ja&source=gbs_navlinks_s …
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