その20聖娼

 ある日、私の恋人である哲学青年に2冊の興味深い本を手渡された。哲学青年がこよなく愛するアレキサンダー大王の伝記に「聖娼」というタイトルの本だった。

 

 アレキサンダー大王の伝記はごく普通だった。それよりも「聖娼」のほうが気になる。

 

 「聖娼」とは古代メソポタミア地方から発した性の伝統文化だった。月の女神イナンナに仕える巫女が聖なる娼婦となり、神殿売春を行う。この場合の神殿娼婦とはバカにできない。古代アッシリア帝国の皇帝の王女でも神殿娼婦の巫女になっている。

 

 「聖娼」には大切な使命がある。古代メソポタミアは春に祭りをして冬に子を産んだ。それを管理したのが「聖娼」なのだ。「聖娼」は性欲だけでなく、古代の人々の生活なのだ。まだ避妊が無い時代、性と産まれる子どもに対して現代より密接しているのだ。

 

 しかしこの「聖娼」は実に興味深い。私と哲学青年は教会関連で知り合った。この「聖娼」文化は聖書の黙示録では「バビロンの大淫婦」とされている。でも私はかつて大学生時代こういうメソポタミア文明を勉強したことがある。つまり、「聖娼」はキリスト教に反するものなのだ。でも、それでは人生つまらない。以前哲学青年と古代ギリシャの同性愛文化の正統性を語った。キリスト教は性の戒律が厳しく、それによって抑圧された聖職者の性犯罪の多いことは事実である。

 

 この「聖娼」はどちらかといえば古代へのロマンの書物だ。そう目くじらをたてる内容ではなかった。これは物静かな哲学青年の求愛のアプローチのひとつなのだろう。本で求愛するなんて哲学青年らしい。

 

 ガチガチのクリスチャンなら性の対象にされたと怒るだろう。でも私は古代の世界はすでに書物で知っている。聖書でも雅歌という官能的な詩が書かれている。しかも私は澁澤龍彦の大ファンだ。パートナーに性的な意味があってもそれはそれでいいと思っている。愛する異性にセクシャルなことがあるほうが健康的だ。哲学青年のように本で主張することは面白いと思った。