新宿区について(名前の由来・歴史・地勢)
区名の由来
江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)の翌年に、日本橋を起点として五街道が定められました。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義務が課せられていました。
甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。甲州街道は、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで、名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の設置が認められました。この宿場は、内藤氏が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなりました。
甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。甲州街道は、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで、名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の設置が認められました。この宿場は、内藤氏が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなりました。
新宿区の紋章[昭和42年3月制定]
古来から堅実さを表すといわれている菱形を原型に、新宿の「新」の一字を一筆で勢いよく描いたもので、新宿が将来に向かってますます堅実に発展していく意を表現するものです。
新宿区の花つつじ[昭和47年10月制定]
つつじは、江戸時代から昭和初期まで大久保通りの周辺が名所で、見物用臨時列車が運転されたこともありました。
新宿区の木けやき[昭和47年10月制定]
けやきは、武蔵野を代表する木で、新宿区内で最もよく見掛けることのできる木の一つです。
区の歴史
昭和22年3月15日、旧四谷・牛込・淀橋の3区が統合し、新宿区として発足しましたが、この名称は歴史的な由来のほか、新宿御苑や新宿駅が全国的にも有名であり、普遍的であるとして採用されたものです。
現在の新宿区は昭和22年3月15日に、かつての四谷・牛込・淀橋区が統合して成立しました。四谷、牛込の両区は、明治11年、東京府15区のうちの区として誕生していましたが、淀橋区は、まだ豊多摩郡の中で淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町に分かれていました。
市街化が進むにつれ、この4町の人口が、大正9年と比較して昭和5年には62%の伸びを示すようになり、市部と郡部の行政格差が目立つようになります。このため、市部併合運動が起こり、昭和7年10月、前記4町が併合してできたのが、淀橋区です。このころになると新宿駅周辺は百貨店、映画館、劇場、カフェーなどがひしめき、明治以降、山の手の繁華街として有名だった四谷、神楽坂にとって替わる一大繁華街に変ぼうを遂げていったのです。
昭和20年5月から8月にかけての東京大空襲は本区の様相を一変させてしまいました。戦前華やかだった新宿駅周辺、四谷、神楽坂、高田馬場も焼野原となり、本区の大部分の地域が焼失してしまいました。戦災前、旧3区の戸数は6万3295戸を数えていましたが、戦時中の建物疎開や戦災で5万6459戸を失い、6836戸を残すのみとなり、人口も戦前は約40万人近くありましたが、終戦時には約7万8000人と減少してしまいました。
こうした混乱の中から、本区も復興への歩みを一歩一歩踏みしめていきます。すなわち、民主主義国家を目ざした憲法の改正、これに伴う地方自治制度の諸改革が行われ、昭和22年3月に当時の四谷・牛込・淀橋の3区が統合し、新しい「新宿区」が誕生したのでした。
次に、この旧3区の名前の由来からその歴史をたどってみます。
現在の新宿区は昭和22年3月15日に、かつての四谷・牛込・淀橋区が統合して成立しました。四谷、牛込の両区は、明治11年、東京府15区のうちの区として誕生していましたが、淀橋区は、まだ豊多摩郡の中で淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町に分かれていました。
市街化が進むにつれ、この4町の人口が、大正9年と比較して昭和5年には62%の伸びを示すようになり、市部と郡部の行政格差が目立つようになります。このため、市部併合運動が起こり、昭和7年10月、前記4町が併合してできたのが、淀橋区です。このころになると新宿駅周辺は百貨店、映画館、劇場、カフェーなどがひしめき、明治以降、山の手の繁華街として有名だった四谷、神楽坂にとって替わる一大繁華街に変ぼうを遂げていったのです。
昭和20年5月から8月にかけての東京大空襲は本区の様相を一変させてしまいました。戦前華やかだった新宿駅周辺、四谷、神楽坂、高田馬場も焼野原となり、本区の大部分の地域が焼失してしまいました。戦災前、旧3区の戸数は6万3295戸を数えていましたが、戦時中の建物疎開や戦災で5万6459戸を失い、6836戸を残すのみとなり、人口も戦前は約40万人近くありましたが、終戦時には約7万8000人と減少してしまいました。
こうした混乱の中から、本区も復興への歩みを一歩一歩踏みしめていきます。すなわち、民主主義国家を目ざした憲法の改正、これに伴う地方自治制度の諸改革が行われ、昭和22年3月に当時の四谷・牛込・淀橋の3区が統合し、新しい「新宿区」が誕生したのでした。
次に、この旧3区の名前の由来からその歴史をたどってみます。
四谷
もとは武蔵野の荒野で、現在の四谷四丁目交差点の辺りは左右とも谷でやぶが深く、一筋の道があるだけでした。そして、旅人の休む4軒の茶屋があり、この四つの茶屋が転じて四谷の地名が起こったといわれています。
牛込
「込」は多く集まるという意味があり、大昔、この地一帯にたくさんの牛が放牧されていたので、この名が起きたといわれています。上野国(こうづけ・現在の群馬県)の大胡(おおご)氏が移ってこの地に住み、約400年前の天文24年(1555)、牛込氏を名のりました。牛込氏は小田原の北条氏に属し、牛込から日比谷辺りまでを領有し、その居城は袋町一帯の高台にありました。牛込氏の墓は現在も宗参寺(弁天町1)にあります。
淀橋
成子村と中野村の間を流れる神田川にかかっている橋を餘戸、あるいは四所橋と呼び、これから転じたものか、また、寛永年間3代将軍家光が橋のそばで休息したおり、川の流れがよどんで見えるから淀橋にせよといったとか、さらに亨保年間8代将軍吉宗が山城国(現在の京都)淀にその景色が似ているので名づけたとか、そのほかいろいろの説があり、いずれも橋の名からその地名が生まれたようです。
区の現況
位置・面積
新宿区の形
新宿区は東京23区のほぼ中央に位置し、千代田・港・文京・豊島・中野・渋谷の各区にそれぞれ隣接しています。区役所本庁舎(歌舞伎町1-4-1)中央部の地点は北緯35度41分26秒、東経139度42分23秒にあたります。面積は18.22km2、周囲約29.4km、東西約6.5km、南北約6.3kmで、23区中13番目の広さです。(荒川河口部と中央防波堤埋立地を含む23区部の面積の合計は、626.70km2 です。)
地勢
地形は台地と低地からなり、豊島台地、淀橋台地、下町低地に分けられます。豊島・淀橋台地は四谷・牛込・角筈・柏木・大久保・戸塚・落合などの台地からなり、各台地の間に下町低地が入り組んでいます。区内最高地点は、都立戸山公園内箱根山の標高44.6m。台地は、平均ほぼ30mの高台で、低地で最も低いのは飯田橋付近の4.2mです。ちなみに新宿区役所の標高は32.55mです。台地部の地層は、地表から関東ローム層・武蔵野砂れき層・東京層があり、低地部は、埋土の下に沖積層・東京層があって、台地部・低地部とも東京層の下にさらに三浦層群が広がっています。
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新宿区 総務部-総務課
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