画像だけでダイジェスト
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[タカさんにとっては若いころからかわいがってもらい…]
[そんな 堺しぇんしぇえのすごいとこを活躍した年代ごとにタカさんが語り尽くします]

[記憶が消える その前に勝手に語り継ぎたいあれこれを 話そう]
ミッツ堺はい。しぇんしぇえとね 久々にお食事をさせてもらったときがありまして6時間。ほう。
ずっと しぇんしぇえの話を聞いてもう 腹 抱えていや これは絶対に テレビで聞いとかなきゃしぇんしぇえ もう…。
何で しぇんしぇえがしぇんしぇえなのかって知らないでしょ?うん。 そうですね。

[まずは 幼少期から一世を風靡したグループサウンズ時代までを振り返ります]
堺そうですね。これがでっかい おうちなんでしょ?しぇんしぇえ。
何かね でかかったの。いや それは僕は あの 別にあれでも 何でもないんだけど…。
ちっちゃい人ってのはね車でも 何か 住むとこでもね大きい物に対する 憧れ 願望があるね。

だから しぇんしぇえもおっきい車 乗ってましたよね。
大きい乗り物。昔 西麻布でば~って走ってきたら「あれ? 無人の車が来た」と思ったらしぇんしぇえがこうやって 運転して…。
堺土の庭を僕が 横浜のスケート…ローラースケートのねリンク行きたいって言ったら父親が駄目だと。
堺そういうローラースケート場とかはまあ ちょっと悪いやからも集まるからで そういうとこは行っちゃ駄目よと。でも やりたそうな顔してたんで大工さんを呼んで…。
そうでしょうね。…してくれてで バーを こう 全部 付けて。危ないから。

松竹の映画だったんですけど松竹は 大船に撮影所がありましたから鎌倉と あれではホントに 目と鼻の先なんでね。
オーディションがあるっていうことで鶴田 浩二さん 主演の 映画で6歳の息子の役かな?
これは 6歳のころはさすがに 自分の意思じゃないわけですよね?
ミッツえっ じゃあお父さまの 何か 仕事現場についてったりとか…。堺そうそう そうそう。 うん。
そうなの。で 父親が 用意 スタートで演技 ば~っとする…カメラの前で やってるの見てあ~ いいな お父さんの仕事ってって思ったことあったんですよ。

で 僕も ああいうこと…まあ まね事だけどやってみたいなっていうのがあってそれで 自分の意思もちょっと あってオーディション受けた。
まあ 受かってで その映画に出たっていうのがまあ 芸能界デビューでしたね。
ちょっとちょっと。ちょっと あ~たもうちょっと いなさい。
それで 何で しぇんしぇえスパイダース…。で 16歳で スパイダース。
これも 16歳になったときに父親が 「何かやりたいものあるのか?」って言うから僕は 芝居じゃなくて歌をやりたいと。 僕は歌が好きだったもんですから歌をやりたいって言ったらじゃあ ホリプロの堀 威夫社長… その当時はね。

そこへ 相談に行ってくれてそしたら そこにスパイダースっていうグループがあるから そこに入りなさいと。
[こうして スパイダースに加入することになった 堺さん]
[その グループサウンズブームの先駆者といわれるバンドが堺さんがボーカルを務めていたザスパイダース]

[当時 まだ数組しか成し遂げていなかったヨーロッパでのツアーも成功させました]
[その人気ぶりはライブ開演前からファンが列を成し堺さんが 一足 外に出るとファンに囲まれて渋滞ができるほど]
[ライブ会場内は もちろん会場の外でも 熱狂の渦を巻き起こしていました]

それを倒すんだって言って生意気にもそういうスローガンでスパイダースは勢いを増してった。
でも あれですよね。 こないだしぇんしぇえに聞いて…。
えっ? だって 空港…羽田か何か着いたときにこれ いけると思ったって…。
それはね おっしゃるとおりでね『夕陽が泣いている』がわれわれヨーロッパ行ってるときに火が付いたんですよ。
それで それ…ヨーロッパツアー終わって帰ってきたらあのころはあの 何ていうんですか?

送迎デッキっていうのが羽田にあって入りきれないぐらいの…その 送迎デッキに。
飛行機の中からこう タラップで降りてこう 出たと同時に もう…。
俺 そういうの好きだから。そんなに井上 順さん すごかったの?すごかったですよ。

したら あの人も人が すごく いい人だから「うんうん。 それでどうやるの?」って言ってそれで…。
これで 何年ぐらいいくわけですか? スパイダース。
堺それはね 僕はねこういう人気は おかしいいつか急降下するだろうと思ってた。
で 井上 順さんも やっぱり3年ぐらいでこういうの終わるよねだから もっと 力 つけなきゃねっていうふうになって。
それが どう… 2~3年後どうなっちゃうんですか?
これ タイガース テンプターズこれが出てきて俺たち もう おしまいですよ。
その スパイダースのファンクラブに京都の支部に男の子が5人いたの。
そしたら その男の子に僕はインタビューして「君たちは何?」って言ったら…。

で 「君たち プロになるのか?」って言ったら「はい。 なりたいで~す!」って言うからあ~ そうか お前…。
じゃあ… あっ 8年だけど売れて たかだか5年ぐらいで終わっちゃうんすね。
[ここから 堺さんはテレビスターへと転身していきます]

[その きっかけになったのがドラマ『時間ですよ』]
[下町の銭湯を舞台にしたホームドラマで堺さんは 居候をして働く健ちゃんを 演じ大人気に]
[今回は その中でも特に すごいとこを幾つか お見せします]
樹木「今日は… いなくて忙しいから さっさっさっと」堺「分かってますよ」

樹木「私には少ないわよ これ」浅田「ねえ ハマさん」
「あのね それはねシシリー島のアルカポネっつうの」

僕ら この 久世さんの『時間ですよ』のパート2とかパート もう 3ぐらいのやつで久世さんにあっ かま場っていうんですけどかま場のシーンを一番 最後に リハーサルのときにやるんですよ。
で 森 光子さんとか全部 芝居 リハーサル終わってで 森さんなんかお疲れさまでしたって帰した後俺と 憲武と その やっぱしお手伝いさんの役の 3人でかま場のシーンをやるんです。うんうん。
「じゃあ お前ら 宿題な」って久世さんに言われて「はい」っつって。「どうも 失礼します」
当時 赤坂のTBSの稽古場を「失礼します」 ぱって帰ったらすげえ 久世さんに怒られて。

堺さんたちは朝まで やってたんだと思って俺 もう…。う~わ~。
ちょっと 一回 樹木 希林をしのんでというかさ何か 僕は あの人は もう 今大女優に だ~っとなってで 『万引き家族』までいってで そういう人だからああ 演ずることが好きなんだなっていう人生を 過ごしてたけどその最初ってのはやっぱり 何か ああいうふうに自分が どうなってくか分かんないころの樹木 希林っていうのはちょっと面白い気がする。

何かの 裕也さん パーティーで「堺 来いよ」って言うから「あっ 行きます もちろんです」
バチ~ンって やったんだよ。くらくら くらくら…。

何か 「2人で出ようぜ 最初」とかいってば~っと出てった。
司会? ってなったからしょうがないからマイク持ってるから。
「今日は裕也さんのために 皆さんありがとうございます」とか言ってで ちらって見たら猪木さんがいたの。
それであれ? まずいなって思ったけどこれもう 後に引けなくなっちゃって。

そしたら 「はい。裕也さん おめでとうございます」
この時代から だからいつも しぇんしぇえがテレビで面白いことやって。そういうわけですよね。
うれしいね こうして呼んでいただいてるわけですよ。
『ハッチャキ!!マチャアキ』だもん。『ハッチャキ!!マチャアキ』
ハッチャキセブンとかやってるころっすよね? これ。
ハッチャキセブン。『たたかえ!ハッチャキセブン』って曲があるんだ やっぱり。あるんですよ。 あるんですよ。

こっから だって すっごい勢いでいくわけですよね。
[1971年からソロ歌手としての活動を始めた堺さん。 受賞の喜びに満面の笑みを浮かべる若かりし歌声の数々をお聞きください]
[まずは ソロデビューシングルで大ヒットを記録した…]

だって この50年 60年一貫して 同じスタイルでいらっしゃるでしょ?

しぇんしぇえ イタリアのお店にちゃんと その 全部の洋服の…。
型紙があって。あってそっから だから 生地をこういうふうにしてっつって生地だけ発注して送ってきてもらう…。
どうするんすか?いや それは サイズの合う方に持ってっていただいたり。
しぇんしぇえ 見てるとホント いっつも カワイイ…。
もう コートとか生地とか すげえ高い生地ですげえ高えんだろうなともう ビビっちゃうぐらいの…。
それで 車にすと~んって乗ってくときのねあの 何だかな?車 乗っていくときの 雰囲気がねすっげえカッコイイんすよしぇんしぇえは いつも。

あっ まあ もちろん仕事 来るときとかに乗ってるのは ありますよ。
もう イタリアに 僕車のレースに行くんですよ。クラシックカーの。 すると…。
[そして ここから年表は 30代へ入っていきます]
30代になると 今度は もう『かくし芸大会』がね76年から始まって。『カックラキン』だ。
『西遊記』もう ここで いわゆるアイドルからもう スターというね 地位を確立するわけですけれども。そんな そんな そんな。

『かくし芸』なんかさうまく やれたらさ「うまかったですね 今の 堺さん」とかって言われると…。
成功するとその年のディナーショーでそれをやるんでしょ?
大本番は お正月番組だから11月 最終週ぐらいで終わるわけですよ。
そうすると 12月になるとしぇんしぇえは ディナーショー。
[そんな中 32歳で代表作となる 『西遊記』に 出演]

[…といった豪華キャストに加え当時の金額で10億円という破格の予算で制作された超話題作でした]
[『西遊記』は当時の民放ドラマでは 異例の最高視聴率 27.4%という 数字をたたきだしました]
で 玉三郎さんとこへ最初に行って オファーをしたら「それは面白いわね」って言ってくれたらしいんですよ。
あんな女優さん なかなか もういらっしゃらないですね。
モデルさん上がりですからねそこまで 芝居なんか できるの?って最初はね すごく思ってたけどやっぱり…。
僕がちょっと アドリブかましても平気で ついてくる。
[そして 80年代からは様々な番組でMCを務め名司会者として活躍していきます]

[初出場の とんねるずはサプライズで全身を赤と白に塗って 登場しお茶の間を驚かせたのでした]
僕らが… 7時半ぐらいから始まって 9時ぐらいに 僕ら出る。
1時間半ぐらいの間に一回 誰かの曲を堺さんと一緒に紹介しなきゃいけない。

で 終わってから じゃあ歌 終わった後に ここで誰かの曲紹介をしなきゃいけないのにそれも出れない。
すげえ怒ってしぇんしぇえだけは 「しぇんしぇえ分かりました。 言います」
「実は 体を 白く塗ったり赤く塗ったりするので塗るのに1時間半取るのに2時間かかるんです」っつったら「それなら分かった」っつって。

だから とんねるずもとんねるずで 満を持して『紅白』 初出場だったんですよあのとき。

そういや あれでしょ?しぇんしぇえ。 お嬢さんが 今度…。
これは 僕にとっては もう何か 一つ 自分の持ってた宿題みたいなものをこう 娘が背負ってくれた。

堺 小春っていうまあ 芸名でやってくれるっていうからこの子が やってくれるということに対しては人生の中で いろんなことを経験これからしていくからその中の一つとしてこういう家系に生まれたんだから1人 堺を継いでくれたらうれしいなっていう気持ちの方が 強くてで 彼女は…。
堺1人ね 真面目な話になったらす~って いなくなった。


あの 僕が話したいなと思う話をちゃんと 引っ張ってくれたからうれしいわ。うれしいわ。