1.日本軍の配置 | 2.中国軍の動向 | 3.1938年における日本軍の動向 | 4.民間人の被害 |
1.第13軍の治安確保作戦 | 2.日本軍の動向 | 3.民間人の被害 |
1.1940年における日本軍の動向 | 2.1940年における民間人の被害 |
3.1941年における日本軍の動向 | 4.1941年における民間人の被害 |
5.第13軍地域における「清郷工作」の開始 |
1.日本軍の動向 | 2.民間人の被害 |
1.1943年における日本軍の動向 | 2.太湖南岸の粛清征伐または広徳作戦(第二十一号作戦) |
3.1943年における民間人の被害 | 4.1944年における日本軍の動向 |
1.江南地区の配置・動向 | 2.民間人の被害 |
1.新四軍の盛衰 | 2.止まらぬ民間人殺害 |
3.広徳周辺の掃蕩に参加した部隊のその後 | 4.歩兵第18聯隊の戦歴と事件以降の動向 |
広徳周辺の掃蕩戦に関連する、いわゆる江南地区北部のその後を簡単に触れていきます。
広徳周辺の掃蕩後は次のように配置されました。
昭和13年5月20日、京都編成の第116師団が中支那派遣軍の隷下編入となり、6月上海に上陸し、第18師団の担当警備地であった杭州付近に駐留し、警備を引き継ぎしました。
同年7月15日、新設の第15、第17、第22の3個師団が、中支那派遣軍の隷下編入となります。8月には上海に上陸し図のように配置されました。
揚子江南部、いわゆる江南地区は、広徳周辺の掃蕩戦以降も、日本軍への襲撃は続いていました。
日本軍に対し、遊撃戦を展開していたのは、共産党色の濃い新四軍と、国民党系の忠義救国軍です。
支那事変陸軍作戦3(以下「陸作3」)に、新四軍について次のように説明しています。
昭和12年10月12日、国民政府軍軍事委員会は華中・華南方面に残存していた共産党員を「国民革命軍新編第四軍」、いわゆる新四軍として国民党軍の編入を命じ、翌13年4月揚子江下流地域に集結を完了し、活動を開始した。
当然日本軍の占領地である上海・南京・杭州の三角地帯にも進入し、抗日活動を実施した。
江南の日本軍占拠地域にその活動地域を配当され、総兵力約五.〇〇〇の制限をもとに活動することを許されたが、国民党軍と同等の勢力に拡張することを目指し、日本軍占拠地域内において専ら民衆組織工作に専念していた。
長年新四軍を研究し続けている三好章さんは、ご自身の著書「摩擦と合作 新四軍 1937~1941」で、新四軍の動向をより詳細に説明しています。
不十分な点もありますが要約すると、その前身は、華中にいた中国工農紅軍(通称紅軍、今の人民解放軍の前身)であり、国民革命軍新編第四軍、つまり新四軍へと改編され、昭和12年12月25日武漢に軍部を成立させました。
4月28日、陳毅によって組織された先遣隊(司令 粟裕)が、岩寺を出発して江蘇省南部へと向かいます。
5月19日江蘇省に入り、6月14日には茅山と呼ばれる低い山岳地帯に、江南地区最初の抗日根拠地を建設しました。
茅山は、地理的に見ると、南京の汪兆銘政権とは目と鼻の先にあり、日本軍には脅威となる存在でした。
同じく共産党系で、主に華北で遊撃戦を展開していた八路軍は、民衆から広く支持されてましたが、新四軍は民心をつかむのに相当苦労したようです。
理由の一つに、当時この付近を活動拠点としていた中国軍の「遊撃隊」は、「規律が悪く、民衆の怨嗟の的になり、かえって敵を利している」(粟裕の分析)状態でした。
新四軍も、それら「遊撃隊」と同類とみなされ、姿を見せると民衆が逃亡してしまった、宿や食料も与えられず、ときには発砲されることもあったといいます。
民衆から支持されるには、具体的な行動を示すしか方法は残されていませんでした。
こうした「遊撃隊」とは違うと理解してもらうため、「三大規律、十項注意」を掲げ、規律の正しさを具体的に示し、誤解を解いてもらえるよう根気強く活動を続けました。
その地道な活動の積み重ねが功を制し、他の「遊撃隊」よりもわずかながら信頼できる軍隊と認識されるに至ったそうです。
もう一方の勢力である国民党系の忠義救国軍は、以前この地で指揮していた薛岳の軍隊とは系統自体が全く異なります。
ルーツは1937年9月4日蒋介石の命令により、上海で成立した「蘇浙行動委員会」にさかのぼります。
戴笠、宋子文、張自中、呉鉄城、兪鴻鈞、杜月笙、楊虎など、中央に近い人物から、杜月笙のようにアウトローな側面を持つ人物で組織された集団でした。
常務委員の一人に任命された戴笠は、日中戦争前は藍衣社の幹部として、国内の親日派軍人・政治家、共産党の活動家などの監視・弾圧・暗殺に従事するなど、いわゆる諜報活動を専門とする人物でした。
1938年3月13日、蒋介石の命令により、日本軍の占領区域に散在していた中国軍及び抗日武装集団をかき集めて、再軍備を実施しました。
同年5月、その部隊は「蘇浙行動委員会忠義救国軍」、つまり忠義救国軍として政府に批准され、その総指揮も兼任することとなりました。
陸作3には、新四軍と忠義救国軍の動向について次のように説明しています。
武漢地区を失陥した後、遊撃戦を主体とする作戦方式に転換したが、揚子江下流地域をその最大目標としたのである。
そして第三戦区軍は、江南の我が占拠地域に二つの遊撃区を設けて物資の吸収、鉄道・通信戦の破壊工作などを活発に行っていた。
新四軍・忠義救国軍とも、日本軍の後方を攪乱する目的を持っていた。
新四軍は、傀儡政府のある南京付近で活動することにより、日本軍にとって脅威となる存在であった。
両軍とも、南京の汪兆銘による親日政権・日本軍にとって、軽視できない存在だったことがうかがえます。
しかし両軍ともたびたび軍事的衝突を繰り返しており、一体となって抗日活動を行っていたとは言いがたい状態でした。
日本軍、新四軍、忠義救国軍の動向を説明できるほど資料はそろっていないので、ここでは日本軍の動向と、民間人の被害についてのみ、年毎に探っていきたいと思います。
第116師団
中国上海に6月上陸し、杭州・湖州付近の警備を任されました。
8月末までの約3か月間で同師団が実施した掃討戦は次の通り。
7月 銭塘江岸の掃蕩
8月 石瀬鎮付近の戦闘 閑林埠及び沈家附近の戦闘 平望、嘉興、海塩、硖鎮の四地区の警備及び討伐
8月に入ると、第116師団は南京に集結し、安慶へ移動します。
代わって、第15・17・22師団が上海から上陸し、江南地区の警備を引き継ぎました。
新配置後に、実施された戦闘及び掃蕩戦は次の通りです。
第15師団
8月 排年橋及東大亭附近の討伐 青竜山付近戦闘 周家村付近の戦闘 二聖橋付近の戦闘
9月 磨盤山山系付近の討伐 第二次磨盤山山系附近の討伐
10月 湯庄鎮付近の戦闘 塘溝場附近の戦闘 黄金山鎮付近の討伐
11月 横塘橋付近の戦闘 金壇西北方地区の討伐
12月 唐蔡及華家渡附近の戦闘 延陵鎮付近の戦闘
第17師団
8月 小利子附近の戦闘、大華房庄附近の戦闘 新読橋付近討伐、西塘橋鎮及び西倉附近の討伐、太湖付近討伐、月城鎮付近の討伐
9月 宜興南方地区の戦闘 潘家橋鎮付近の戦闘、王巷附近討伐 鳥鶏鎮附近の戦闘 白宇鎮付近討伐、蘇州城周辺掃蕩戦
10月 宜興付近の戦闘 甘木関の突破作戦 慈口鎮付近の戦闘 金家庄付近の討伐戦 西南界怪附近の討伐戦 関帝廟附近の戦闘 太倉北方地区の討伐戦 楊湘径附近の討伐戦 宜興県城附近の戦闘 如皋北門外鉄籬笆附近の戦闘 西来鎮の戦闘
11月 大畈鎮付近の戦闘 通山附近の戦闘 通城に向かい追撃 家村付近の討伐戦 昆山南方地区の討伐戦 周墅鎮附近の討伐戦 新径附近の討伐戦陸港附近の戦闘
12月 白茆江付近の討伐戦
第22師団
8月 瓶窯鎮東南3粁湖村附近の戦闘 閑林埠・松樹頭附近の戦闘 凌家橋・宋殿附近の戦闘 餘杭付近の戦闘
9月 湖杭水路周辺の討伐 菱湖鎮の戦闘 宋殿、像山附近の戦闘 富陽西方高地の戦闘 杭州―湖州間の水路討伐 北蔡鎮付近の戦闘 斜里橋付近の討伐 周街閣付近の討伐
10月 門山附近の戦闘 大西村付近の討伐 陽功鎮付近の討伐 南馬頭附近の反撃戦 七宝鎮及大西路附近の討伐
11月 新市・烏鎮付近の戦闘 餘杭西方半天山附近の戦闘 餘杭・瓶窯鎮付近の討伐 西山及金沢鎮附近の討伐 童棟墟附近の討伐 烏鎮及新市鎮附近の討伐
12月 南淮、奉賢附近の討伐戦 板橋山附近の討伐 餘杭県雙渓鎮の戦闘 杭州攻略に対する反撃作戦
支那事変陸軍作戦3を一部加筆 1975
江南地区の拡大 D…師団 Bs…独立混成旅団
江蘇省 ※「江蘇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」より引用。下記の引用元も同じ。
4月18日 溧陽県蒋店にて日本軍は民間人125人を殺害。
4月24日 鎮江句容県天王寺を出発した日本軍は、白陽村など10数村にて人を見ては捕まえ、40人以上の青壮年男性と建物にいた女性30人以上とともに焼殺した。この70人以上の村民は縄で縛られて集団虐殺された。
当日の晩と翌日の二日間で、日本軍は10以上の村にある建物を放火し、300人以上が殺害され、1000軒余りの建物が放火された。
5月25日 溧陽県前馬鎮に到着した日本軍は、前馬自衛団をたたいたのち、蒋店と道人渡の村人70人以上を殺害した。この掃蕩で120人以上の民間人が殺害され、1000以上の建物を放火した。
5月26日 日本軍機が、南京浦口区星甸街道を爆撃。20人以上爆死。負傷者100名以上。
6月3日 日本軍は江都(現揚州江都市)邵伯鎮両渡郷一帯を掃蕩し、22以上の村で、計1476戸の建物を焼却し、23人の村民を銃殺した。
7月7日 日本軍は蘇州呉江県蘆墟鎮内に入り、民間人を広場に集め、10時ごろ建物に放火し、鎮内の商店全てに火が回った。
9月1日 日本軍は句容県茅山道院元符万寧宮で、三清殿などの建物に火をかけ、民間人を殺害した。10月6日日本軍は再度茅山道院に向かい、建物に火をかけ、最終的にには13人の道士と5人の農民を機関銃で殺害した。翌7日にも道士5人、農民4名を殺害した。8日日本軍は茅山頂30数名の道士を捕まえた。しかし準備していた機関銃から音は出ても弾は出なかったので、皆慌てふためいて逃げていった。他2名を犬によってかみ殺させた。
12月1日 揚州にいた日本軍は、連日儀征県大儀一帯で、その地方を活動拠点とした抗日武装集団である陳文の部隊と激戦を繰り返していた。その間、日本軍は民間人を300人以上殺害した。
冬月 日本軍は靖江県朱滩圩で45名、三和庄では38名、十圩にて26名殺害した。
浙江省 ※「浙江省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」より引用。下記の引用元も同じ。
4月15日 嘉興県王江泾鎮店港炮楼(莫家村炮楼)にて日本軍は村民に暴行を加え、翌15日6村に対し銃撃を実施し、計1200軒の建物に放火。
4月15日 海寧県塩官の日本軍は袁花鎮に侵攻し、国民政府軍第62師第368旅謝明強部を殲滅。日本軍は撤退時途中にある建物計208軒を放火した。大臨村でも88軒の建物が放火された。
4月26日 臨安県青山鎮に日本軍が侵入した。洞霄宮で1人殺害し建物390軒放火した。横山崗では村民5名殺害した。斜陽村では、7人殺害、200以上の建物を放火。楊家村では41軒放火した。橋頭村では70歳ほどの高齢者を殺害し、建物50軒に放火した。峰脚では4人を殺害し、1人強姦、負傷者2名、建物20軒余りを放火。 同日 嘉興県余新鎮の日本軍は抗日武装団に攻撃を受けた。27日、日本軍は余新鎮へ報復を実施。12名を殺害、970軒余りの民家、389軒の商店、小学校、警察署などの公的施設など1638軒を放火した。
5月1日 日本軍は海塩県城に侵入し、東門外火神廟を占拠した。そして数日もたたないうちに城の東から西にまでのびる通り沿いにあった建物に放火した。東門外の場図里の民家170軒、北岡舎の民家151軒、南門外杜家斷46軒にそれぞれ放火した。同時に福業院、関帝廟など巨大寺院にも放火した。海塩県城で放火された建物は2000軒以上、県城の大部分は焦土と化した。なお日本軍は焚城にて100人以上の民間人を殺害した。場図里でも伯陽河の蘆蕩里にて13人の老人が殺害された。
5月28日 嘉興県王江泾鎮にて日本兵4名が抗日武装集団に襲撃された。翌29日、数十名の日本軍は天凝鎮を包囲し、10時頃、鎮に入り2名銃殺、1人負傷、建物に放火した。3名焼死し、2000軒以上の建物に放火したため、廃墟と化した。
5月 平湖県城乍浦公路虹霓鎮段に駐留した日本軍は、抗日遊撃隊に襲撃された。虹霓鎮河東では計162軒の建物が放火された。圓通寺の祠も放火された。他に旅客船1艘も放火された。
6月2日 海寧県丁橋鎮沿海一帯の20村を掃蕩し21人を殺害、計834軒のたてものを放火した。同日海寧県城往丁橋鎮に沿ってある上海杭州公路一帯も掃蕩され、280人以上を殺害。他に筧釗分八組竄擾峡石鎮にて民間人300名以上を殺害。
6月12日 午前7時日本軍を乗せた船が嘉善県恵民鎮北に至った頃、国民政府第45旅734団の襲撃に遭遇した。日本軍は報復のため、恵民鎮張匯集鎮で177軒の平屋が放火された。
6月から7月 徳清県大麻鎮海華村に侵入した日本軍は苕渓絲の工場300軒、建物150軒、台車440台破壊された。
8月1日 海塩県天成絲廠を占領した日本軍は2人刺殺、3人刺傷、楊家木橋と徐家庄の建物154戸を放火した。
8月7日 海寧県黄湾を攪乱した日本軍一帯は、尖山観音廟に侵入し、財物を略奪した後放火した。大火は数日にも及び、海寧県の廟は廃墟と化し、大量の文物が失われた。
8月13日 日本軍は徳清県鐘管郷に侵入し、村民62人を殺害、269軒の建物を放火。
9月18日 徳清県新市鎮に侵入した日本軍は198人の民間人を殺害した。
11月初め 日本軍機が平湖県城を爆撃し、東大街から倉弄口の範囲に爆弾を数十発投下ししたため、100人以上の民間人が爆死した。
12月 平湖県にいた日本軍が、嘉興県の公路を両側から掃蕩し、建物計322軒を放火。
安徽省 ※「安徽省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」より引用。下記の引用元も同じ。
5月3日 蕪湖老山の日本軍は神圣山にあった中国軍陣地に侵入時、毒ガス弾を20発余り発射したため、中毒者が多数発生した。
同日 宣城孫家埠巷で戦闘中であった日本軍は、毒ガス弾を発射した。中国軍は無防備であったため、めまいなどを訴える中毒者がでた。
7月24日 日本軍機は寧国県城を爆撃。直接的な損害額は約412万元。
8月7日 蕪湖湾止鎮に駐留していた日本軍は、中国軍陣地に侵攻中、大量の毒ガスを放ったため、先頭にいた中国軍部隊の多くは中毒になった。
10月28日 湾止に駐留していた日本軍は中国軍陣地に侵入し戦闘に発展した。戦闘中、日本軍は大量の毒ガスを放ったため、中国軍には多くの中毒者が出た。
12月11日 蕪湖にいた日本軍は、中国軍第145師に対して毒ガスを放った。
1938年における日本軍の戦闘及び掃蕩地区と被害を被った都市
この年、中国に駐留していた日本軍は再編制されました。
陸作3から抜粋します。
昭和14年9月陸軍中央は、全中国にわたる政戦略を統括するため、その一環として、従来華中方面にあった中支那派遣軍司令部を廃止し、支那派遣軍総司令部を南京に新設することとにした。
総司令官の隷下に、北支那方面軍、第十一軍、第十三軍、第二十一軍を置いた。
先の第十五、第十七、第二十二の三個師団は、第十三軍に編入された。
第十三軍の戦闘序列は次の通り
軍司令官 藤田進中将
第十五師団
第十七師団
第二十二師団
第百十六師団
独立混成第十一旅団
独立混成第十二旅団
独立混成第十三旅団
独立混成第十七旅団
陸作3に、昭和14年末日本軍のおかれた状況を次のように説明しています。
宜昌作戦に歩兵約7個大隊機関の兵力を抽出されたので占拠地域確保のほか積極行動に出られない状態にあった。
占領地域も武官作戦の際、兵力抽出のために太湖威勢の警備線を縮小し、宣城、溧陽を放棄して、湾止鎮、溧水、和橋鎮の線に後退させて揚子江の水路及び鉄道を直接警備する態勢にあった。
宜昌作戦に限らず、第13軍は新しい作戦が実施されるたびに兵を戦地に派遣しています。
派遣のたびに、自軍の兵力は必然的に低下するため、占領地域の維持が難しくなり、その一部を放棄せざるを得ず、結果再び中国軍に占領され活動拠点となるという、日本軍にとってよろしくない状況が終戦近くまで繰り返されました。
それは中国側の資料でも確認できます(中国抗日戦争大事記1997)。
「陸乍3」には中国軍の動向についても言及しています。
これら両党軍(新四軍と忠義救国軍)の間では昭和十四年春以来しばしば地盤争いの軍事衝突が繰り返されていた。
両軍とも「抗日」という共通した目標があるはずなのですが、協同するという意識には欠けていた様子がうかがえます。
第15師団
2月 延陵鎮付近の戦闘 竹簀橋附近の討伐
3月 河頭鎮付近の戦闘 甓橋鎮付近の戦闘
4月 第一次高淳作戦 巫家村付近の戦闘 江家橋付近の戦闘
5月 湯庄鎮付近の戦闘 新橋孔鎮付近の戦闘
6月 下新河附近の戦闘 邱山附近五二師壊滅戦
8月 黄金山鎮付近の戦闘 金壇地区南方外郭討伐
9月 第二次南方外郭討伐
10月 湟里鎮水北鎮付近の戦闘 師団秋季討伐
11月 直巷附近の戦闘(分哨全滅) 句容東南方地区の戦闘
12月 黄金山鎮付近包囲殲滅戦
第17師団
1月 巴城附近の戦闘
2月 庄涇の討伐 巴城鎮北方の討伐 茜墩渡付近の討伐 李家市附近の戦闘
3月 聯隊春季討伐 宜興付近の戦闘
4月 華墅鎮で宗教匪と戦闘 宜興方面討伐 江北地区大討伐 海門小地区の戦闘(陳才福部隊の反乱)
5月 宜興方面の戦闘 湟里鎮付近の戦闘
6月 高瑞鎮作戦
7月 昆山南方県境付近の大隊討伐
8月 香塘涇付近の討伐
9月 石碑鎮付近の討伐
10月 夏渓鎮・嘉澤鎮付近の戦闘 夏渓鎮警備隊の戦闘 成章鎮付近の攻撃 第二次湟里鎮作戦 昆山常熟県境付近の討伐 昆山南方大隊討伐
12月 青陽貴池作戦 四甲埧鎮付近の戦闘 海門・余東鎮付近の戦闘
第22師団
1月 第二次新市鎮および烏鎮討伐戦 徳清・淑村付近の戦闘 筧橋付近の戦闘 馬頭関附近の戦闘 瓶窯鎮・麻車頭附近の戦闘 靑浦県太平橋付近の戦闘 杭州に対する反撃戦 東三林塘付近の討伐 章堰鎮及び重固鎮付近の討伐
2月 第三次新市鎮および烏鎮討伐戦 大山付近の討伐 石湾鎮付近の討伐 餘杭西方天打山附近の戦闘 海塩氵敢浦鎮付近の討伐
3月 海寧附近の討伐 五杭方面の討伐 社井の戦闘 凌家橋の戦闘 袁化鎮附近の戦闘 春日橋付近の討伐 陳行鎮付近の討伐
4月 新豊鎮の戦闘 合渓鎮の戦闘 除家埭附近の戦闘 武康北方地区討伐戦 天字山附近の戦闘 梅峯山の戦闘 筧橋付近の討伐 七堡・十堡・十四堡附近の討伐 三橋埠附近の討伐 観音堂鎮付近の討伐 靑浦県重固鎮付近の討伐
5月 第四次新市鎮付近の討伐戦 李庄附近の戦闘 桐郷・双橋付近の戦闘 武林頭附近の戦闘 余家橋付近の戦闘 九林村・小林鎮・閑林埠附近の討伐 七堡・九堡附近の討伐 翁家堡附近の討伐 平湖附近の討伐 南山・大山附近の討伐 石湾鎮付近の討伐大山付近の討伐 凌家橋附近の戦闘 太平橋付近の戦闘 武康北方地区の討伐
6月 第二次武康北方地区の戦闘 菱湖鎮及び新市鎮付近の戦闘 呉興県鶏美山附近の戦闘 白雪村付近の戦闘 閑林埠の戦闘 通元鎮付近の討伐
7月 三済橋の戦闘 杭県新和豊附近の戦闘 杭県六豊附近の戦闘 馬鞍山附近の遭遇 杭県七堡付近の討伐 崇徳北方地区・石湾鎮付近の討伐
8月 石湾鎮周辺の戦闘 旧館市の戦闘 産廃付近の討伐 洮頭附近の戦闘 上海南地区第一第二討伐戦
9月 杭州閘口東橋小中頭の戦闘 祥大村・鳳凰山付近の討伐 凌家橋・蜈蜙山附近の戦闘前荘方面の討伐 杭州―新市鎮間の水路討伐
10月 長興地区連山の戦闘 崇徳・塘棲鎮西方地区の戦闘 石瀬鎮西方地区の戦闘(象山・馬頭関・張堰鎮付近の戦闘) 靑浦西南地方討伐戦
11月 千金の戦闘 崇徳・石湾鎮付近の第二次討伐 閑林埠附近の戦闘
12月 海塩地区の討伐 餘杭西方蛇山・白湖山附近の戦闘 小林鎮の戦闘 新橋鎮付近の戦闘
江蘇省
1月1日 日本軍は常州西郊に飛行場を建設する際、1473人の農地を取り上げたため、農民は飢えと寒さから救済を求めた。
6月5日 日本軍は常州武進県湟里街にて2000軒以上の建物を焼却した。
6月7日 日本軍機は宜興県を爆撃、官林鎮北街30発余り、61人爆死、27人負傷。6月19日日本軍は連続して、宜興、徐舎、美栖里、下新橋などを爆撃したため多くの死傷者がでた。20軒以上焼却。21日徐舎一帯を爆撃。民間人70人以上死傷。民家などの損害は膨大。22日、日本軍機6機が再度宜興・官林を爆撃し40人死傷。楊巷、徐舎一帯で50発余り投下され、破壊された家屋40軒以上、民間人6~70人余り死傷。同じく豊儀、湖斗、范道なども5~60発ほど爆弾が投下されたため、損害は大きかった。
浙江省
1月8日 海塩県欤城張家堰は日本軍の掃蕩により、100軒以上の民家と361軒の建物を放火した。
1月31日 日本軍機が冨陽県灵橋鎮を爆撃。95人爆死し、19人負傷。256軒の建物が破壊された。
2月28日 日本軍は浮山村の一部を無人区にするため、杭県繆家村と浮山村村民を瑪瑙寺に移した。その途中22人の高齢者が殺害され、千以上の建物が放火された。
3月29日 鉄道の鉄橋を抗日遊撃隊に爆破されたため、日本軍は海寧県陳家弄村の村民7名を刺殺し、121軒の建物を放火した。同じく日本軍は祝家埭から戚家埭の119戸の民家と590軒の建物を放火した。
4月10日 日本軍機は安吉県城を爆撃し、116人が死傷、200以上の建物が破壊された。
5月6日 崇徳県灵安郷に日本軍が侵入し、村民の建物8軒、平屋381軒を破壊した。翌日日本軍は灵安郷紅旗村木橋頭にて、村民の建物222軒、寺院1軒を放火した。
5月18日 崇徳県灵安郷環南村を掃蕩した日本軍は、村民の建物24軒、他の建物359軒を放火した。
5月27日 桐郷県屠甸鎮に侵入した日本軍は、李家木橋から寺橋新葆葯房一帯の大型建物1420軒、他に1495軒の建物を放火した。
6月1日 日本軍機は蕭山県城を爆撃。県政府、警察局など公的施設261軒を破壊した。
6月6日 桐郷県梧桐鎮安東村、百福村に侵入した日本軍は、村民5人殺害、村民の建物300軒、寺院1軒に放火した。
7月17日 海寧県硖石から桐郷屠甸鎮に侵入した日本軍は、東新橋を経て、1名の抗日武装員を銃殺。その後2名の遊撃隊を銃殺し、撤退時金元昌店から寺橋一帯の大型建物40軒、他に180軒の建物を放火した。
9月8日 日本軍機蕭山県南山郷に化学兵器を投下し、550名の学生が中毒にかかった。
9月16日 日本軍機が蕭山県浦陽鎮尖山村を爆撃し、450軒の建物が破壊された。
9月22日 午前8時海寧県許村鎮に侵入した日本軍は、沈士街の商店217軒、民家23軒とそれに付随する建物47軒、資勝寺に放火し、一人の僧侶が殺害された。
10月20日 日本軍機10機が臨安県横畈鎮を爆撃。民家を含む計521軒の建物が破壊された。大火は3日3晩続き、廃墟と化した。
10月 桐郷鎮烏鎮東柵の日本軍は中国兵を捜索中、建物383軒、菜種油8000斤を放火した。
11月10日 崇徳県河山鎮五泾村と水洪浜村に国民政府軍が駐屯したという情報を得た日本軍は、村に侵入。捜索時、民家を含む建物計241軒に放火。
安徽省
2月18日 日本軍機寧国港口を爆撃、直接損失約324万元。
3月3日 日本軍機6機朗渓県城爆撃、爆死51人、負傷者45人。
3月21日 日本軍機寧国河瀝渓を爆撃、損失約312万元。
3月 宣城県西河鎮に侵攻した日本軍は、財物を略奪し、民間人8人を殺害した。
6月9日 日本軍機2機が、朗渓、梅渚に爆弾十数発投下し、爆死66人、負傷13人。
6月23日 午前中日本軍機5機が広徳県城に爆弾を18発投下、爆死30人以上、重傷者多数。民家と公的施設数戸が破壊された。
1939年における日本軍の戦闘及び掃蕩地区と被害を被った都市
昭和15年7月下旬、宜昌作戦が終了し各部隊が逐次帰還するようになると、軍司令部の指示により占拠地域外周に対して、大規模な作戦を活発に実行するようになりました。
三河作戦 昭和15年9月4日~9月17日
江南作戦 昭和15年10月5日~10月29日
太湖西方作戦 昭和16年3月20日~3月27日
このうち江南地区で実施されたのは、江南作戦と太湖西方作戦です。
江南作戦の概要 ※「陸作」3から抜粋
方針 軍ハ湾止鎮―太湖間ヨリ深ク北方ニ突出セル敵ニ対シ軍主力ヲ以テ圧迫シ我第一線トノ間ニ挟撃シテ之ヲ殲滅ス
指導要領 まず第十五、第十七旅団および混成第十一旅団を敵陣地深く突進させて三州山系(広徳―泗安北翼の山系)に拠る第三戦区軍を殲滅したのち、占領地外周の敵を掃蕩する。この間、第二十二師団をして冨陽、諸曁を、さらに第十一旅団を配属して紹興を覆滅させる。
作戦は予定通り遂行され、三州山系、冨陽、諸曁を覆滅し、、十月末にはそれぞれ原駐地に帰還している。
太湖西方作戦 ※「陸作3」から抜粋
この時期、第十七師団は華中の転出を控えており、軍は独立混成第十一旅団を配属し作戦させて、同旅団の戦闘能力を向上させたいと考えていた。
しかし、この地を担当する中国軍(第三戦区軍)は蘇州地区の日本軍の兵力減少に気づき、宜興南方に五個師を集結させ、蘇州北部の部隊を援助しようとする意図が明瞭になってきた。
澤田軍司令官は、集結した中国軍に対し、第十五、第十七(独立混成第十一旅団配属)、第二十二師団を、白馬山、宜興、長興の三方向から、溧陽~泗安に向かわせて攻撃させた。
各部隊は予定通り溧陽~泗安以東地区を掃蕩して原駐地へ帰還した。
支那事変陸軍作戦3を一部加筆 1975
拡大
第15師団
2月 朗渓溧陽作戦
3月 北社鎮付近の戦闘
4月 宣城作戦 西陽庄附近の戦闘
5月 赤山馬山附近の戦闘 石頭崗附近の戦闘
6月 社頭鎮付近の戦闘 黄金山鎮付近の討伐 周巷村付近の戦闘
7月 秋季磨盤山作戦
第17師団
1月 石橋湾分哨の戦闘 楊中県・口岸鎮作戦 海門、余東鎮付近の戦闘 如皋東北地区討伐 泰興攻略戦(泰興城攻撃、銭庄、封家垡附近の戦闘、老葉庄の戦闘)
2月 陸區橋鎮付近の連隊討伐 銭塘江南岸作戦に参加 大湾山・石塘山の攻撃 老和尚頭の戦闘 尖山市・三江口を占領 官村鎮・新建鎮・琅圩占領 湟里鎮南方地区の討伐
3月 代家圩、儒村鎮、韶巷鎮、官村鎮の警備に対して敵反撃 第新芳橋鎮の攻撃
4月 金村・専橋頭の敵を攻撃 官村鎮方面を攻撃 長蕩湖附近の敵を攻撃 土山の薄暮攻撃。安楽山の夜襲実施
5月 礼嘉橋鎮において新四軍を包囲殲滅 磨頭鎮付近の戦闘
6月 都山、琅圩山に敵の反抗 琅圩山・心思庄の戦闘
8月 西来鎮附近の戦闘
10月 江南作戦(軍十一号作戦) 黄湖鎮附近の戦闘 安吉附近の戦闘 広徳付近の戦闘澗漳湾附近の戦闘
12月 宜興南方作戦 太平台の戦闘
第22師団
1月 呉興県小渓鎮付近の戦闘 銭塘江渡河作戦 双林鎮附近の戦闘 餘杭西方蛇山附近の戦闘 蛇山・白湖山附近の戦闘 施家崗・金家鎮・聖帝山附近の戦闘 朱家山・下洋村方面 鳳凰山の戦闘 王大田・観前村方面の戦闘 橋鎮・宋殿地区の掃蕩戦
2月 銭塘江南岸作戦 洪家涼亭付近の討伐 老河豊附近の戦闘 国家舗・下洋村の戦闘 七里店西南方高地の戦闘 高道地付近の討伐 閑林埠南方乾隆山の戦闘
3月 杭嘉湖地帯春季討伐戦 高道地付近の掃蕩 新市鎮・石湾鎮・烏鎮方面の掃蕩戦
4月 杭州艮山門発電所附近の戦闘 平湖付近の討伐
5月 杭嘉湖地帯春季第二次討伐戦
6月 莫于山東方作戦 杭嘉湖三角地帯夏季討伐戦 石瀬鎮北方杭湖軍行路の戦闘
7月 白馬の戦闘 崇徳付近の討伐
8月 秋季杭嘉湖討伐戦 合山附近の戦闘
10月 富春江渡河作戦 見子口・虹石附近の戦闘 舟枕山の戦闘 銅嶺橋頭の戦闘 龍門村・大章村の戦闘 天山油の戦闘 三都市附近の戦闘 胡公台の戦闘 霊安小哨襲撃戦
12月 凌家橋附近の戦闘 杭嘉湖三角地帯冬季討伐戦 良渚鎮の戦闘
江蘇省
5月19日 呉江県蘆墟、莘塔などで日本軍は激しい掃蕩を実施した。蘆墟洋沙坑では村民4人、その途中で捕まえた12人を殺害、1人重傷。莘塔では4人殺害。趙田村では5名殺害。
5月21日呉江県趙田村に到着した日本軍は、白巨斗、蘇家港ら6村に放火。莘塔では4村を放火された。240戸の建物が放火され、70人の男女が殺され、5人負傷、896人難民となった。蘆墟では2村放火。94戸が放火、死傷者24名、難民423人。
6月3日、日本軍は呉江県蘆墟洋沙坑、白巨斗、蘇家港などで虐殺・放火をした。白巨斗村で4人殺害、洋沙坑1人殺害、全村で民家を含む213戸を放火した。蘇家港では16人殺害され、6人負傷。
12月11日 無錫雪浪鎮の日本軍は新四軍の食糧を探していた。その途中3人の中国人を殺害。午後二時に、日本軍は許舎鎮にて放火・虐殺を実施。村民6人殺害。許舎鎮では20以上の村で1048軒放火、食糧10万斤焼却。4人の女性が強姦された。
本年 無錫胡埭鎮閭江村附近で日本軍は150人余りを殺害した。
浙江省
1月5日 日本軍400人が嘉興県風橋に侵入して街を包囲し、自衛隊ら26人を殺害、1人負傷。建物500軒放火。
1月9日 海塩県沈蕩にて日本軍は遊撃区の「清郷」を実施。商店160軒、民家300戸とそれに付随する建物912軒に放火した。日本軍は撤退時、2艘の船に機関銃を射撃したため、5人が死亡した。
9月 日本軍は杭州市堯典橋鎮方斗村を軍事行動上障害になるとの理由で、2000軒以上の建物を破壊。
10月25日 日本軍第22師団は長興県泗安、合渓、鼎新、煤山などで、民間人24人殺害、10人負傷、743軒放火した。
安徽省
2月16日 午前日本軍機2機が宣城県水東で爆弾3発投下し、民間人17人死亡、重傷者11人、軽傷19人、民家4軒破壊。午後日本軍機2機爆弾を7発投下し、死者10名以上、負傷者10名以上。
2月18日 日本軍機5機午後3時宣城県城内に爆弾12発を投下し、軍民13人死亡、負傷者33人、30軒以上の建物破損。
同日 日本軍機連続して寧国県城に爆弾を26発投下し、建物19軒破壊。死傷者33名。財産損失1.75万元。
2月19日 午後1時頃、日本軍機1機が宣城北門外西頭湾、双橋などに爆弾5発投下、爆死1人、負傷5人。2時日本軍機6機西河にて爆弾20数発投下、90以上の建物は海、爆死65人、負傷11人、民船1隻破壊。
2月20日 午前10時、日本軍機4機朗渓県城爆撃、東南門は10数発投下され、36人の死傷者がでた。
同日 日本軍機7機寧国を爆撃、死者20人以上、負傷者10人以上、40以上の建物破壊。
2月21日 日本軍機は寧国瀝渓を爆撃、損失約455万元。
2月22日 12時日本軍機6機は宣城新河庄にて、爆弾14発を投下し、民間人10人死亡、負傷者6人、20軒以上の建物が破壊された。同時に日本軍機5機が西河にて爆弾11発投下され、民間人8人死亡負傷者4人、100以上の建物が破壊された。午後1時日本軍機1機が周王村を襲撃。爆弾を2発投下し、建物8軒破壊。1時半には溪口を襲撃、5発爆弾が投下され、民間人の死傷者4名。
2月 日本軍は宣城県仁村湾を襲撃し、民間人300人以上殺害、300軒以上の建物を破壊した。
3月24日 日本軍機6機朗渓天主教堂を爆撃、死傷者500人以上。
6月23日 日本軍機6機朗渓を爆撃、30数発の爆弾が投下され、56人爆死。負傷者36人、50軒以上の建物が破壊された。
9月 日本軍が宣城西約40里にて抗日部隊50人に対し、毒ガスを使用して全員を殺害。
12月24日 朗渓県陥落中国人80人以上死亡、100軒以上の建物が破壊。
1940年時期不明 日本軍機29機、第六次広徳県城、楊邯橋、鎮嶋村、界牌を爆撃。71発の爆弾を投下、5人爆死、負傷者16人、50軒以上の建物を破壊。
1940年における日本軍の戦闘及び掃蕩地区と被害を被った都市
第15師団
1月 句容周辺地区の討伐
2月 蘇北作戦
3月 太湖作戦
7月 洪藍埠附近の戦闘
8月 王家村付近の戦闘
11月 金壇南方地区
12月 土山付近の討伐 江蔭西北地区の討伐
第17師団
1月 宜興南方作戦 太平台の戦闘
2月 蘇北作戦(十二号作戦)に参加
3月 太湖西方作戦(十四号作戦)に参加
※その後華北・南部へ移動
第22師団
1月 長興北方拡張作戦 合渓鎮附近の戦闘
2月 杭嘉湖三角地帯冬季第二次討伐戦
3月 太湖西方作戦(十四号作戦) 霊安鎮小哨襲撃戦
4月 瓶窯鎮付近の戦闘 乍浦鎮包囲 平湖付近の討伐戦
5月 洪家涼亭分哨の迎撃戦 霊安鎮付近の討伐
6月 餘杭・硖地区の討伐 長安附近の戦闘 臨浦鎮付近の討伐
太湖東方清郷工作
7月 蘇州清郷作戦に聯隊一部参加(各中隊より選抜・通信) 清郷工作作戦に参加 太湖西方作戦に参加 張堰鎮附近の戦闘 冨陽県城東北2粁附近の戦闘
8月 湖州西方作戦 餘杭・硖地区の夏季討伐 長興県蘆家橋西北方附近の戦闘 餘杭襲撃事件 富盛市傖塘市附近の討伐
9月 銭塘江南岸反撃作戦 海塩県歟城附近の戦闘 餘杭鳳凰山附近の戦闘 秋季管内討伐戦 州泉鎮及び石湾鎮付近の戦闘 宋殿附近の戦闘 海寧県大石橋付近の戦闘 百官鎮附近の戦闘 竜山付近の討伐 香濾峰の戦闘 柯橋鎮の戦闘
10月 南潯地区七里村付近の戦闘 餘杭県荊山湾附近の戦闘 海塩県歟城太平橋附近の戦闘 紹興県大船塔附近の戦闘 黄湖鎮付近の戦闘 海塩北方地区の討伐 姜女山鳥門山の戦闘 尚五峯寺獅子林山の戦闘 義峰山銀山の戦闘
11月 連市鎮、月明橋付近の戦闘 河家附近の戦闘 宋殿附近の戦闘 新篁鎮付近の戦闘
12月 武康地区遊撃隊撃滅作戦 長生橋付近の戦闘 倉前鎮西郊附近の附近遭遇戦 上虞作戦
江蘇省
この年清郷工作実施。それに伴い発生したと思われる虐殺事件も発生しており、「第13軍地域における清郷工作の開始」で紹介します。
浙江省
1月6日 日本軍機が臨浦(現杭州市蕭山区)義橋郷を爆撃、576軒破壊。
4月15日 日本軍機7機が臨安県天目山を爆撃、浙江省政府の兵士5名、僧侶30人以上、民間人7人爆死、負傷者1名、禅源寺の僧侶の居宅350軒余りを破壊。
4月19日 日本軍機が冨陽県場口鎮を爆撃、爆弾50発投下、10人以上爆死、負傷者45人、50軒以上の家屋破壊。
5月7日 日本軍機3機が第二次冨陽県場口鎮爆撃、爆弾43発投下し、爆死8人、負傷者20人、建物94軒破壊。9日午後4時日本軍機3機が再び爆撃、50発爆弾投下、10人爆死、50人負傷、県政府の施設寺院など50軒破壊。
6月 日本軍嘉興県新豊竹臨の祝家で保管されていた貴重な書籍2,5万冊焼却。
7月12日 日本軍機が蕭山県瓜瀝に爆弾を投下し、51人が爆死。投下した爆弾には細菌弾もあり、26人の足はボロボロになった。
7月15日 嘉興県新篁区庄史鎮にて日本軍は掃蕩により、429軒の建物を放火した。
8月1日 崇徳県高橋郷に侵入した日本軍は、村民の建物396軒、寺院3軒を放火した。
8月27日 日本軍機が安吉県遞舖鎮を爆撃し、爆死20人、負傷者80数名。
9月 日本軍は上海杭州鉄道線の晴郷を実施。鉄道線の両側500メートル内の植物と建物を除去破壊した。日本軍は、海寧県でも建物218軒のほか多数の植物を排除した。
11月22日 日本軍は桐郷県史橋郷永新村、史橋村、李家弄村などを掃蕩、長新村で住居を含む建物1374軒、史橋村では建物444軒、順済庵と李家弄村の建物580軒放火。
12月28日 日本軍機は蕭山を爆撃、臨東村では建物14件、橋14、新港村建物500軒、新聯村70軒の建物、臨一村の建物18軒、新河村建物85軒、前孔村建物288軒、臨北村建物20軒、譚家埭の建物55軒を放火。
安徽省
2月4日 日本軍機1機広徳に有毒の細菌兵器の入った筒を投下。
2月21日 12時日本軍機7機が宣城県新田鎮を爆撃、午後1時孫家埠頭爆撃、両方合わせて爆弾49発投下、147軒の建物を破壊、爆死27人、負傷者19人。
3月21日 午後2時、日本軍機10機広徳流洞橋を爆撃、死傷者20数人、半数近い建物が破壊。
3月24日 午前8時から9時、日本軍機9機が朗渓県城を爆撃、数十発の爆弾を投下。爆死67人、負傷者42人、134軒の建物が破壊。機関銃掃射が行われたため、北門一帯は廃墟と化した。
3月26日 9時から17時までの間、日本軍機16機が朗渓県城を爆撃。県城の中心街及び天主教堂とも40数発爆弾を投下された。爆死200人以上、負傷者数十人、破壊された建物数百軒。
5月22日 午前7時 日本軍機10機が寧国県を爆撃。さらに日本軍機7機が飛来し、城外及び河瀝溪鎮とも併せて64発の爆弾を投下、爆死14人、負傷者2名、破壊された建物155軒。他には、日本軍機20機が東及び西津両鎮を爆撃し、100発の爆弾を投下。西津鎮城廂保の建物100軒が破壊された。津南と津北では数十軒の建物が破壊された。死者22人、重傷者4人、軽傷者1人。東津鎮では10軒以上の建物が破壊された。また西門を守備していた軍59師の1個小隊の20名以上が死亡。
6月20日 日本軍が宣城県距新河庄三里許小村に侵入し、20発以上を砲撃したため、20~30人の住民が死傷。
「陸作3」によると、清郷工作とは、揚子江下流地域に国民政府政治力の浸透発展を図り、新政権の完全な自主独立の基盤を築くとするもので、昭和十六年初め、南京国民政府警政部長李士群と軍事顧問晴氣慶胤中佐とが合議し、提案したとされています。
具体的にどのように進めるか? その手順も記述されています。
① 日本軍占拠地域を区切り、まず日本軍が主体となって敵性を除去する。
② これに加えて中国側が、政治、経済、文教等の各種施策を行う
③ 工作の進捗に伴い日本軍の兵力を段階的に削減する。
④ やがて政治、経済、軍事の一切の干渉を断って新中国の理想を局地的に具現した模範的平和地区を建設する。
⑤ 全占拠地域に及ぼすことにより、新政権の支配力を拡大強化していく。
このうち軍が大きくかかわるのは①です。
①細かい手順は次の通りです。
1.清郷地区周辺に「隔絶幕」を設立して田地区との交通を遮断し、該区域内の敵性武力を掃蕩しその地下組織を除去して「匪民」を分離する。
※ 陸作3によると、「隔絶幕」とは清郷地区周辺にめぐらし、清郷地区外敵性武力と清郷地区内民衆との間を完全に隔絶することを目的とするもので、水溝及び地障に沿い竹矢来および電流鉄条網を構築し、これに日中両軍からなる濃厚な兵力を配置し、要所に堡塁を構築し、公路、運河の重要出入り口に検問所を設けて敵匪の流出を防止し物資の搬出入を検索するもの。
2.武力討伐の進捗に伴い国民政府側政治力を随伴させて、民生の向上、経済の振興策により民心を把握し、保安・自衛組織の確立、特工組織の充実強化により敵性武力・秘密機関をして潜入債権の余地をなくし、事後治安維持に就いて日本軍を煩わすことのないようにする。
第一期清郷地区には、江蘇省海南鉄道(上海―南京間)以北、揚子江以南の豊穣な地域である常熟、無錫、昆山、太倉の五県が指定されました。
これを三期(各2か月で終了を予定)に分けて実施し、逐次周辺地区に連続的に拡大し、次期清郷地区として浙江省杭州周辺及び蘇州北部を予定していました。
清郷地区に指定された江南地区に出没する抗日勢力の活動内容は、「陸乍3」によると次のように説明してます。
昭和十二年以来国民党・共産党の両軍による遊撃隊の遊撃根拠地となっていた。
前者は常熟・江蔭を根拠地として解放区の建設を測っていたのに対し、後者は蘇州・無錫・常州地区にてテロ、破壊活動を務めていた。
江南地区第一期清郷工作 ※陸軍作戦3より抜粋。
昭和16年7月1日開始
参加部隊 日本軍10個大隊、中国軍第一方面軍を主力とする4個師二個旅の約12000人、中国模範警察隊約2000名。
これらの部隊は各担任地域の掃蕩を実施するとともに、地区の周囲約130キロにわたり隔絶幕を構築し、公路、運河の主要出入り口14か所に大検問所を、その他40から50か所に小検問所を設けた。
新四軍および国民党側の忠義救国軍はいち早く地区外に退避したので交戦することなく、諸部隊は逐次分散配置に移り、潜伏あるいは誘導する敵性分子も粛清し、共産党地下組織の剔抉につとめた。
地区内の治安は安定し、9月になると日本人の一人歩きさえ危険でないといわれるほどになったという。
江南地区第二期清郷工作 ※陸軍作戦3より抜粋
昭和16年9月21日開始
第一期地区に隣接する無錫、江蔭県の大部分と常熟、呉県の一部で実施された。
この地区に潜伏していた新四軍は常州方面及び揚子江北岸に退避しており、地区内遊撃隊及び敵性地下組織も所在の日本軍警備隊の掃蕩委より逐次剔抉されて、地区の外周は封鎖された。
清郷工作は、昭和17年6月になると江北、上海特別区、太湖東南でも実施されたが、翌18年春ごろ、自然中止となった。
清郷工作は、華北で日本軍が実施した燼滅作戦(三光作戦)と比べると、大きな成果はなかったかのように説明されます。(笠原十九司 2017)
しかし、新四軍の襲撃はこの年をもって、大きな損害を発生させたとする事例は視られなくなります。
「江蘇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に次の記述があります。
6月8日 日本軍は蘇州地区における清郷工作の日華協定を作成し、蘇州南部の抗日根拠地を重点的に清郷する方針を決めた。
1941年から1943年にかけて、日本軍は南京上海杭州地区において9期の清郷作戦を進行した。そのうち7期は蘇州南部だった。
7月1日日本軍は蘇州・常熟・太倉・昆山地区の清郷を実施。
日本軍は水陸両方で道路、河川を包囲し、鉄条網や電線を架線して、清郷する地区を分割して統治した。
この蘇州常熟太倉地区の抗日勢力は重大な損失を被り、損失は400人以上となった。
多くの民間人も自由を完全に失った。常熟地区では無実で捕まった人は数千人に上った。
昆山の北部では7月から半年間にかけて、日本軍に殺害された者は400人以上に上る。
他に200万斤以上の米が強奪された。
冬 日本軍は大規模な掃討を実施。江蔭県黄橋郷陳家宗祠内にて、200人以上を殺害。
月城鎮黄義士祠内にて、数十人の民間人を捕まえ、拷問のうえ20人以上殺害した。 官山郷では10人殺害された。
これは私が入手した清郷工作による唯一の史料です。
おそらく、これ以外にも人的被害、物的被害は存在したと考えるのが自然でしょう。
被害の規模は、華北で展開された「燼滅作戦」「三光作戦」には及ばないかもしれませんが、民間人への影響は小さくなかったと見られます。
支那事変陸軍作戦3を一部加筆 1975
江南地区における清郷工作と、それに反抗する新四軍の動向
青線で囲われているのが清郷地区
中国抗日戦争史地図集 1995
1941年における日本軍の戦闘及び掃蕩地区と被害を被った都市
昭和17年1月下旬における江南地区の日本軍は次の配置は次の配置となります。
上海周辺…独立混成第17旅団
南京とその南部…第15師団が引き続き警備を担当
無錫・蘇州・太湖南東…第17師団が華北転出のため独立混成第11旅団が担当
杭州とその周辺…第22師団
昭和十七、八年の支那派遣軍1972を加筆
江南地区の拡大
第15師団
5月 蘭谿附近の戦闘
6月 衢州城攻略戦
8月 五峯山争奪戦
第22師団
1月 太湖周辺作戦 海塩県石泉鎮付近の戦闘 管内冬季討伐 海寧県袁化鎮西方の戦闘 粛山反撃戦
2月 連市地区春季討伐戦 五夫鎮付近の討伐
3月 太湖東方清郷工作
4月 州泉鎮付近の戦闘 双渓鎮附近の戦闘 管内春季討伐 海塩県沈蕩鎮付近の討伐
5月 餘杭付近の戦闘
江蘇省
2月21日から3月14日
蘇州、呉江、靑浦、嘉善、嘉興を拠点とした日本軍は百余りの船に分乗し、呉江県蘆墟、莘塔などで20日間にわたり10以上の惨案を起こした。通称「蘆莘厙周大虐殺」と言われている。盧墟では10人以
上が日本軍によって溺死させられ、72人が刺殺された。
甘渓村では2月21日村民8人殺害された。3月4日14人ほどの村民が刀で切り殺され、140以上の建物が放火された。
楊樹兜では村民16人刺殺された。
城司村では7名死亡。負傷者2名
大樹下村 日本軍によって11人殺害される。
北蘆墟村 2月22日72人殺害。さらに8戸の民家を含む30軒放火。
利字窑村 30人以上死亡、6人重傷
梓樹下村 青壮年13人死亡
低潮村 28名銃殺される。2名強姦。23軒放火される。
高浮頭 40軒の建物が放火される
盧墟夾港里村(現愛好村) 18人死亡、100軒以上の建物が焼却
盧墟倪家舎 12名の高齢者を殺害、20以上の建物を放火
白蕩湾村(現愛好村) 18人死亡。100軒建物が放火。
莘塔凌家墻門 60名以上殺害 その後放火される。
莘塔南灶村(現元蕩村) 日本軍によって放火され、数十人焼死。
莘塔豊字村(現莘西村) 掃蕩、村人10人以上殺害。
北厙金家湾村 30数名村民が射殺され、2名の女性が強姦され殺害される
北厙東浜、西浜両村 2月21日 村民60数名を捕まえ、21名殺害。
港上 10名以上殺害
北珠村 3月6日 20名以上殺害。
昆山周庄鎮 10日以上にわたって民間人200人以上殺害。
不完全な統計では、この虐殺で少なくとも1700人以上が殺害、負傷者85人、失踪5人。
3月9日 呉江県蘆墟鎮邗上村(現蘆東村) 20名以上捕まえられ銃殺される。3名の女性も溺死。姚家浜(姚池村、現蘆東村)村付近で13人が集団虐殺される。そして姚家浜にでは途中につかまった者など80人以上が殺害された。
3月9日 呉江県北厙鎮蛇埰にて10名殺害される。日本軍撤退後柳宅池より200体以上の遺体が掘りだされる。
浙江省
4月23日 日本軍が富春江以南を掃蕩、冨陽県許家橋村、黄泥沙村で民家を含む217軒放火された。王家宕村でも大型建物他204軒を放火。 4月 日本軍は餘杭県双渓鎮にて300以上の建物を破壊。 6月1日 日本軍機が蕭山県義橋峡山頭村を爆撃、全村で200軒以上の建物破損。 6月17日 日本軍機4機が冨陽県親賢郷大章村を爆撃、村民10名爆死、55人負傷、58軒の建物破損、部分的な破壊46軒。 8月24日 嘉興県虹陽に駐留していた日本軍は、抗日武装集団に襲撃された。その後船十数隻を集めて、虹陽を北と東の両方から侵入し報復を実施した。抗日武装組織は撤退し、民家を含む206軒に放火した。
安徽省
4月28日 宣城水陽と新河庄で日本に関連する団体が、放火略奪を働いた。損失額7万元余り。
昭和18年1月下旬時点における江南地区の配置は次の通りです。
南京とその周辺…ひきつづき第15師団が警備
上海・蘇州・太湖南東…第60師団が警備
杭州とその周辺…第70師団が警備
昭和十七、八年の支那派遣軍1972を一部加筆
江南地区の拡大
第15師団
1月 金壇東方地区の討伐
第70師団
1月 武康西方の牌頭鎮付近の討伐
2月 張堰渡付近で襲撃にあう
4月 臨平附近の討伐
5月 楽橋付近を粛正派遣
7月 下金市附近で戦闘 清郷工作にて大小百数十回の戦闘
8月 太湖南岸の粛清征伐 黄湖鎮・臨安附近討伐
9月 広徳作戦
10月 孝豊県城の攻防
11月 安吉・逓舗鎮で中国軍の攻撃
目的 広徳付近を攻略確保し、もって敵忠義救国軍の根拠を覆滅し、三角地帯(おおむね、南京、上海、杭州を含む地域)の治安を向上させるとともに、派遣軍自給体制の確立を容易ならしめるにある。
昭和18年9月30日~10月15日
参加部隊 第六十一師団 第六十四師団 第七十師団
9月30日 各部隊は警備地から広徳方面へと向かって進む
10月2日 第70師団が広徳を占領し、翌日第61師団も同地へ進入 中国軍は大した抵抗をすることなく南方の天目山系に逃走した。
各兵団は引き続き広徳周辺地域を掃蕩し、根拠地を覆滅した。
10月4日 軍は占拠地域を概ね、安吉、広徳 、水東鎮、宣城を連ねる線まで拡大することに決し、各兵団に担当地域を割り当て、5日から新選挙体制に移行し、地域内の掃蕩を続行させた。
昭和十七、八年の支那派遣軍1972を一部加筆
浙江省
1月21日 桐郷県烏鎮の日本軍は大捜査を展開し、男女300~400人を捕らえた。23日日本軍は撤退時烏鎮で53人を同行させ、28日江蘇省呉江県産墓の日本軍司令部の背面にある河で52人を殺害した。
6月21日 平湖県長豊橋にて日本軍は村民50人を銃殺、11人負傷。
安徽省
10月9日 日本軍は広徳柏塾鎮を毒(詳細は不明)で満たした後、城郊外の誓節渡、門口塘等の地へ撤退した。
10月11日 広徳の柏塾にいた日本軍は中国軍第52師に擲弾筒にて毒ガスを銃十発発射。中国軍兵士に腹が赤くなる、鼻水が多く出る、口から血を吐くなどの中毒者が発生する。
11月14日 日本軍800名蕪湖十連郷朱墩、東溪、西溪、天井壩などで放火・虐殺を実施した。東渓の民家30戸破壊、165人が受難、6人死亡、建物92軒、財物損失額約146万元。
朱墩では民家26戸、受難者134人、死傷者4人、放火された建物72軒、財物損失額約59万元。天井では、破壊された民家は9戸、受難者47人、負傷者1人、放火された建物30軒、財産損失約23万元。西溪では、破壊された建物4戸、受難人口17人、死亡1人、負傷者3人、放火された建物4軒。財産損失1万元。以上総計69戸363人が被害を受け、死者9人、負傷者6人、放火された建物198軒、財産損失約230万元。
日本軍の動向
第70師団
8月 長興西方付近の討伐
※資料の不足から、44年はこの1件のみしか見つけることができませんでした。
実際はこの時期も多数掃蕩戦があったようなので、資料がそろい次第紹介しようと思います。
江南地区の配置は次の通りです。
第60師団 主として滬寧鉄道沿線地区、一部は揚子江北岸地区、一部は揚子江北岸地区、師団司令部は蘇州
第61師団 南京を含む長興沿線及び盧州(南京西150キロ)、師団司令部は南京
第70師団 杭州及び金華(杭州南130キロ)、義鳥(金華北東33キロ)地区、師団司令部は杭州
2月、第60師団と第61師団が上海付近に進出し、警備を担当します。
不敗の戦場 中国大陸戦記 1989
江南地区の拡大
浙江省
6月19日杭州市民2000人以上が偽の省政府を包囲し、「食糧をよこせ」デモ、日本軍によって100名銃殺、300名負傷。
安徽省
1月26日 日本軍機が寧国港口鎮を爆撃。破壊された建物256軒、死傷者20人余り。
7月4日 昼12時50分、日本軍機が蕪湖市洋碼頭江附近に爆弾を1発投下したため、3人が受傷、6艘の小舟破損、1軒建物破壊。
以上広徳周辺の掃蕩後から終戦までの約7年間を、たかだか20ページほどで追うというかなり無茶なことをやりましたが、江南地区の治安は全く安定していなかった事実が、両国の資料からもうかがえます。
ここでは紹介できませんでしたが、日本軍の部隊戦史には、新四軍に関連した戦闘もしくは掃蕩戦が何度か登場しており、現地軍はかなり苦労したと見られます。
その新四軍も、1941年1月に発生した皖南事変(新四軍が国民党軍に襲撃を受け壊滅的な状態になった)と、清郷工作が大きく影響してか、日本軍の部隊史から記述はほとんどみられなくなります。
しかし、中国側の資料である「中国抗日戦争大事記」によると、皖南事変以降も新四軍がかかわったと思われる遊撃戦は9件(江南地区に限る)起きており、部隊自体は壊滅することなく、規模は小さいながらも活動を継続していたことがわかります。
そのうちの1件は、本ページのメインである虐殺の現場となった、太湖の馬山でした。
詳細は不明ですが「大事記」によると、
1943年9月14日、日本軍の偽軍(おそらく中国人で編成された南京傀儡政府の部隊とみられる)1000人余りが、太湖馬迹山を襲撃し、新進軍第16旅の一部と中共太滆地委機関は甚大な損害を被った」
とあります。
これを裏付ける資料は日本側に遺されていませんが、中国側の資料によると馬山の周辺は虐殺事件から数年もたたないうちに、新四軍の活動地域内に含まれており、活動拠点の一つになっていたと見られます。
それを裏付けるように、この戦闘よりも2か月前の7月5日に、日本海軍の第一砲艇隊が馬山で抗日勢力と戦闘をしています。
戦闘詳報によると、「馬跡山北端附近部落集結中ノ敵約三〇〇ヲ発見之ヲ急襲攻撃撃退ス」とあり、戦果は「詳細不明ナルモ相當ナルモノト認ム」としています。
馬山戦闘図 第1砲艇隊戦時日誌戦闘詳報 1943年
当時太湖付近には、第15師団、第60師団などが警備していたのですが、日本軍の警備網をあっさりとすり抜けて活動していたことをこの2件は証明しています。
日本軍は、幾度の掃蕩作戦・清郷工作などで広大な江南地区の統治を目指していましたが、実現することなく終戦を迎えました。
馬山虐殺事件以降も、各地で日本軍による虐殺・放火は続いており、1942年には蘇州附近で犠牲者1700人といわれる「蘆莘厙周大虐殺」と呼ばれる事件が発生しています。
私は以前、防衛研究所の史料室に保管されている戦闘詳報に、敵軍に協力的な人物は処分せよ、部落は放火せよとの記述を見たことがあります。
おそらく、軍司令部は抗日勢力を弱める手段として、この二つ(虐殺・放火)を黙認され、実行されていたと考えるのが自然でしょう。
こうした日本軍のふるまいは、一般の中国人の眼にどのように映ったか?
民間人の被害を見れば、言うに及ばないでしょう。
各地に建てられている犠牲者の慰霊碑を見れば、戦争の傷は浅くなかったことを示しています。
第3師団
徐州会戦・武漢攻略戦・襄東会戦・贛湘会戦・宜昌作戦など、華中方面で実施された作戦のほとんどに参加する。
太平洋戦争勃発後も、長沙作戦・常徳殲滅作戦・大陸打通作戦など、中国大陸で駐屯を続ける。1945年にはアメリカ軍上陸に備え、上海方面へと移動する途中の鎮江で終戦を迎えた。
第6師団
徐州会戦・武漢攻略戦・南昌武寧攻略戦など華中方面の戦闘に参加する。
太平洋戦争開戦後の1942年、ソロモン諸島ブーゲンビル南部へ派遣される。
しかし、1944年第二次タロキナ作戦で、連合軍の激しい空襲を受けて大損害を被る。
日本軍からの補給は途絶えたため、栄養失調者が続出し、餓死者やマラリアによる病死者が相次ぐ。
1945年壊滅寸前で終戦を迎える。戦死者は、歩兵第45聯隊は3316名。
歩兵第23聯隊は4000名以上で、3分の1は栄養失調によるものだという。
有事における聯隊の人数は4000~5000人ほどだから、全体の7~8割も戦死したことになる。
第18師団
広東作戦・海南島討伐作戦に参加する。
後に南方作戦に転用され、マレー作戦・シンガポール攻略戦に参加。
しかしビルマ攻略戦にて、補給路が立たれたため、餓死者が続出。
兵士の一部は他の師団の糧食・武器を強奪し、「泥棒師団」と呼ばれたという。
拉孟・騰越の戦いにも参加したが玉砕する。全兵士約30000人のうち20000人以上が戦死。同地にて終戦を迎える。
台湾歩兵連隊(波田支隊)
無錫付近の警備後は、武漢攻略戦・揚子江遡行作戦に参加する。
第18師団と同じく華南方面に転用され、海南島討伐に参加する。
太平洋戦争開戦後は第48師団の隷下部隊となり、フィリピン攻略戦、スラバヤ攻略戦に参加する。
作戦終了後はジャワ島の警備にあたる。
終戦はティモールで迎える。
日中戦争
歩兵第18聯隊に動員令が下されたのは、奇しくも軍旗祭の開催日である昭和12年8月14日でした。
前日までその準備に追われていた兵士達に、突然片付けるよう命令が下りました。
8月25日に動員は完結し豊橋駅へと出発しました。
営門を出て、大手通り、広小路へと進み、その沿道には多くの人と旗が幾重にも重なっていたといわれています。
8月27日広島し到着し、翌日宇品桟橋へつくと直ちに輸送船に乗りこみ、上海へと向かいました。
9月2日聯隊の主力(一個大隊欠)は、呉淞桟橋に上陸しました。
その前日、軍参謀と海軍参謀が第29旅団の輸送船に急いで乗船してきました。
そのころ、上海派遣軍は陸上飛行基地として、上海共同租界の東端にある公大飛行場を確保する必要に迫られていました。
軍の参謀は、1個支隊にこの重任を就かせる命令を伝えるため、急いでのりこんできました。
第29旅団(歩兵第18聯隊と歩兵第34聯隊で編成)の旅団長上野少将はこの命令に接して、直ちに歩兵第18聯隊に下令し、飯田少佐を支隊長とする飯田部隊を編成しました。
この飯田部隊の主力は、後に馬山虐殺事件と深いかかわりを持つ第三大隊でした。
飯田支隊は、編成を終えた後、海軍部隊の協力を得て黄浦江を溯上し、9月3日上海共同租界の一角に上陸しました。
待ち受けていた中国軍は、ドイツ式軍事訓練を受けていた蒋介石直系の部隊で、数か月前からこの一帯の地形地物、クリークをうまく利用して強固な陣地を形成していました。
飛行場確保を急がねばならない飯田支隊に対し、簡単に進出させまいとする中国軍の間で激しい攻防が繰り返されました。
9月8日までに3人の中隊長が戦死し、翌9日には支隊長の飯田少佐まで戦死しました。
目的地である公大飛行場は、附近にいた中国軍が撤退したため、8日から日本軍の航空基地として、機能が発揮されました。
この激戦の地は、後に日本軍から「飯田桟橋」と呼ばれました。
わたしの知人は、「この戦闘で200人以上いた中隊が半数になり、上海戦を終えた頃、自分の中隊(第十中隊)は16人しか生き残りがいなかった。」と語っていました。
その後第三大隊は、本隊と合流し、一部は南京追撃戦に参加しました。
そして3月12日広徳周辺の掃蕩戦において、行軍の途中である馬山にて、虐殺事件を発生させます。
ここでは詳細に触れませんでしたが、飯田少佐が戦死した後、大隊長に就任したのはO少佐(事情のため名前を伏す)です。
O少佐は馬山で部隊の全てを指揮する立場にいました。
おそらく大隊命令である、男はすべて殺し、民家を焼却せよとの命令は彼と関わりがあると考えて間違いないでしょう。
しかし、事件発生前にも日本軍は、南京で向かう途中に同じような虐殺事件を起こしているので、全て少佐の独断で行ったとは即断できませんし、事前に彼に伝えられていた軍命令だった可能性もあります。
仮に軍命令であるとしたら、それは軍→師団→旅団→聯隊と下って伝わっていきますので、O少佐のみにその責任を問うのはいささかフェアではないでしょう。
歩兵第18聯隊は、中国各地を転戦しましたが、1942年8月第3師団から離されて、9月1日には満洲に入り、第29師団の隷下となります。
太平洋戦争
1944年2月第29師団に、サイパン・テニアンに上陸する命令が下りました。
同師団の兵士は3隻の輸送船団で南進していましたが、2月29日歩兵第18聯隊の兵士が乗船した埼戸丸の船体に、アメリカ軍潜水艦の発射した魚雷が直撃し、それが原因で沈没します。
この事故で約4000名いた全将兵のうち、聯隊長以下1646名が死亡しました。
3月3日歩兵第18聯隊の生き残りはサイパンに上陸し、島の北部で陣地構築をすることになりましたが、5月中旬から6月中旬には第二大隊と第三大隊はグァム島に移動しました。
6月15日ついにアメリカ軍は、サイパン島に上陸するため、南部の海岸に集結します。
アメリカ軍は上陸開始から1時間で死傷者1000名以上を出しましたが、その後は日本軍の陣地を次々と打ち破り、北部へと進撃します。
6月16日、第一大隊はタポーチョ山付近でアメリカ軍に対し夜襲を仕掛けますが、圧倒的な軍事力の前に全滅し、7月7日サイパン島守備隊は消息を絶ちました。
大本営はサイパン救済のため、軍司令官にサイパン逆上陸を命じました。
急きょ第三大隊を主力とする行岡支隊およそ600余名が編成され、ロタ島へと上陸しましたが、逆上陸の可能な状況ではなく断念し、6月29日グァム島に戻りました。
7月21日いよいよグアム島にも、アメリカ軍の攻撃が陸と空の両方から押し寄せてきました。
日向台の戦闘で聯隊の兵力は半減し、24日には青葉山、マンガン山の戦いでさらに兵力は減少しました。
25日軍旗奉焼後、アメリカ軍も総攻撃を決行し、殆どの兵士が戦死しました。
もはや軍隊の体を成さない歩兵第18聯隊の生き残りは、島内でちりじりとなり、再び組織的な戦闘に参加できる状態ではありました。
公式記録によると、グアム・サイパン・テニアンにおける日本軍の組織的な戦闘は、8月11日で終了とされています。
「戦史叢書中部太平洋陸軍作戦」によると、戦後陸軍で生還した者は734人。
うち歩兵第18聯隊は122名と、9割以上の人が日本に帰ることができなかった計算になります。
無事日本へ帰国できた一人が、のちに映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のモデルとなった大場栄大尉(蒲郡市出身)です。
彼はサイパン守備隊が玉砕した後タポーチョ山で遊撃戦を展開し、ポツダム宣言受諾後の9月にアメリカ軍へ投降しました。
さて、このWebページはこれで終わります。
前にも申し上げましたが、私は専門家ではありません。
ここまで多くの方と出会い、日本軍を勉強させていただきました。
教えていただいた元兵士の方の多くは、この10年間でほとんど亡くなられました。
聞きたかったことがいっぱいあり、悔やんでも悔やみきれませんが、自分にとってあの貴重な時間を共有できたことはかけがえのない宝です。
活動拠点としている鶴舞図書館、愛知県図書館の司書の方には、無理を言って他館に所蔵されている本を調べていただくなど、大変お世話になりました。
国会図書館や防衛省の防衛研究所戦史室の方々には、「微妙な思い」をさせられたことも何度もありましたが、お世話になりました。
重ねてお礼申し上げます。
また殆どないと思いますが、万が一新資料を見つけたらブログで公開し、ここに追加していく予定です。
素人のうんざりする文章を最後までつきあっていただきありがとうございました。
最後に、戦死した日中両方の兵士の方々、そして万斛の恨みを抱いて亡くなっただろう多くの中国民間人の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
魂の安息が得られる日まで…。
平成29年11月27日