日本軍占領地で活動した中国軍の実態

Ⅰ.南京戦後に抗日勢力の情報

1.部隊史

2.支那事變實記

Ⅱ.薛岳とは?

1.第3戦区とは?

2.部隊再編制と新方針の設定

3.日本軍への攻撃

4.正規軍ではない抗日勢力の実態

Ⅲ.広徳付近及び三州山系付近に潜伏した中国軍の情報

1.部隊誌にある中国軍の情報

2.日本国内の新聞にある中国軍の情報

3.「薛岳伝」にある中国軍の情報


占領地に出没した中国軍もしくは抗日勢力が、いかなる組織であり、目的をもって日本軍を襲撃したのでしょうか?
時期を南京戦後と広徳周辺の掃蕩期間の二つに区分して、日中双方の資料で確認していきます。


Ⅰ.南京戦後に抗日勢力の情報

軍関係者で執筆された部隊史と、マスコミ関係者で執筆された支那事變實記・新聞記事に記述されている中国軍の情報を紹介していきます。


1.部隊史

・歩兵第六十八聯隊第一大隊史

警備地付近に出没した中国軍の特徴を次のように記しています。
「▶敵情=遊撃隊司令は謝昇標で兵力約五千。南方地区のいわゆる広徳付近の大凹角地帯より潜入し、溧陽付近に根拠を置き、長蕩湖西側地区に於て最も跳梁していた。」
広徳周辺の掃蕩直前の3月に実施された掃蕩戦にて、次の成果を得ました。
「三興では敵兵既に敗走せる部落を掃蕩し弾薬、防毒面、書類を押収した。これら地区周辺には便衣隊、敗残兵など相当有力なるものの集結しあるを知る」

・歩兵第六聯隊歴史
「敵は陳文・高楚の指揮する抗日義勇軍別働隊第二大隊で「チェッコ」軽機関銃二を有する約三百名だった」
・歩兵第百四十九聯隊 戦記甲府連隊
同連隊の警備地である上海に出没した武装集団について、次の説明をしています。
「民衆と同じ服装をして、日本の施設や軍隊にテロを行う便衣隊が各地に出没していた」
「便衣隊員は、大工、佐官、機械工などさまざまの中国人で編成、武器は、青竜刀、赤いふさをつけた槍、火なわ銃、種子島銃など旧式のものが多く、なかには、日本軍の使っている三八式歩兵銃をもっているものもあった」


部隊史に登場する抗日勢力は、3つに分けられます。
①兵力五千と大規模な部隊を率いる組織で、弾薬・防毒面を所有し、書類で情報共有をおこなっていた。装備の面から国民革命軍とのかかわりの強い部隊。
②抗日義勇軍とあるが、国民革命軍の装備である「チエッコ」(ブルーノZB26軽機関銃)を所持している。土着の有志で集った部隊であったのが、国民革命軍に支持され兵器を提供されたか、もしくは戦場で廃棄されたものを回収し再利用して武装した勢力か。


ブルーノZB26軽機関銃 引用元
http://bazar.hunting-shop.cz/detailni_foto.php?id_inzeratu=204702&id_obrazku=1

③便衣で職種は様々な人で編成されており、装備は刀、槍、旧式銃など、バラバラで統一されていない。装備面からは国民革命軍とのかかわりがほとんどみられず、全員有志で集まった勢力か。
部隊史の記述から、現地の日本軍は、正規軍の他に、義勇軍の存在も認識していたことがわかります。


2.支那事變實記 ※いずれも昭和13年

1月16日
敵軍、杭州へ逆襲す
張発奎、劉建緒軍は杭州放棄後、銭塘江南岸及び上流に集結し以前杭州奪回の機を狙っているが、張発奎軍は二三日前より根拠地於潜、桐盧より前進を開始し、すでに餘杭西方五里の臨安附近に三、四千、新登附近に二、三千集結を終り、餘杭、冨陽に侵入の態勢を示し、十六日夜は遂に餘杭の歩哨突破を企てたが、岩本部隊に撃退された。

1月25日
蕪湖で敵一箇團を殲滅
ゲリラ戦術をもつて支那軍今後の主要戰闘方針とし、敵軍は各地に於いて小癪な抵抗を続けてゐるが、本日も○○部隊の○○隊は、蕪湖南方八キロの地點にある山口において、敵一四七師第二旅に属する一ケ團と激戦、殆ど殲滅せしめた。

2月5日
餘杭で敵襲撃破
この日の正午杭州西方の餘杭に敵第七十八師、第二十八師の混合部隊約一銭が攻撃し来たつたが、我が野副部隊及び村上砲兵部隊はこれと交戦約一時間にして撃退した。
ところが敵は執拗にも午後六時ごろ再び五百の兵力をもって襲撃してきた。
だが我が軍はこれまた直ちに撃破潰走せしめた。
またこの日正午冨陽にも敵の便衣隊約百名が来襲、我が軍の一撃に遭って悉く遁走してしまった。

2月25日
揚子江遡行猛攻
岡本(鎮)部隊の一部は、揚子江雁の要地○○鎮付近に蟠踞する約一千五百の敵を攻撃するため、海軍と協力、二十四日夕刻より揚子江を遡行、同夜半○○鎮西北方地区に上陸したが、二十五日早朝より攻撃を開始した。
敵の頑強なる抵抗に對し、我が方は海軍の優勢なる援護射撃のもとに、猛攻實に八時間、午後五時遂に○○鎮部落を奪取した。
一方岡本(保)部隊はこれに策応、○○鎮及び○○方面より○○鎮付近に敵を掃蕩、これまた多大の損害を與て池田部隊の○○鎮攻撃を容易ならしめた。
なほ○○附近の我が軍全面の敵は第百十四、五、六、七、八の五師及び四川軍、共産軍である。

張発奎、劉建緒という著名な軍人が率いる国民党系の部隊のほかに、共産党系の部隊も含まれていたことを伝えています。

張発奎(1896~1980) 
引用元
https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%A0%E5%8F%91%E5%A5%8E/1432561?fr=aladdin

劉建緒(1892~1978)引用元 http://baike.chinaso.com/wiki/doc-view-117651.html

支那事變實記には、部隊誌に登場する日国民党系の抗日勢力はほとんど登場しませんが、支那事變實記の2月13日に、次の記述を見つけました。

「四川の山奥から草鞋ばきでやつてくる山猿兵に交じって、ちかごろもつと日分明な便衣隊が出没して行軍を悩ましている。
「紅槍匪」といふ奴で、鍾馗の剣のあうな穂先に赤い毛をつけた長柄の槍を持つて、この寒さに真っ裸、赤い布を一巻腹に巻いて、なにやら呪文を唱えながらがむしゃらにやつてくる狂信便衣隊である。
片手に朱文字で怪しげな文字を書いた紙片を固く握つていて、死んでもこれは放さない。
これをもつていれば死んでも十日以内に素晴らしい金持ちに生まれ変われるといふ信念を持つているのだといふから、死を恐れぬといふよりは、死を望む狂信者の群れだ。」

文中にある、「穂先に赤い毛をつけた長柄の槍」は、先に紹介した歩兵第百四十九聯隊の便衣隊の装備にもみられます。
この「紅槍匪」こと紅槍会とはいったい何者でしょうか?
紅槍会を世界大百科にて検索すると次の説明がでます。

中国近代の非合法の郷村自衛組織。黒槍会などの同質異名の組織は数多いが,紅槍会はそれらの代表的なもの。1910年代後半に山東,河南省境地方より起こり,華北一帯に広がった。義和団に淵源するとされ,宗教的信仰と〈槍弾不入(弾に当たらぬ)〉に象徴される迷信とを精神的紐帯とする点で特色がある。装備の劣勢を迷信に基づく精神的高揚により補ったわけである。軍閥混戦の時代はもちろん,抗日戦争期にも八路軍のもとで活躍し,解放とともにその歴史的使命を終えた。

写真集 支那事変 森松俊夫監修1978から引用

この説明だと、華北方面を活動の中心とした武装集団であり、華中方面との関係は希薄のように見受けられます。
槍一つだけで紅槍会の存在を認めるのは慎重でなければなりませんが、中華民国成立時は、農村で非合法に結成された自衛組織は膨大な数に上るそうなので、日中戦争時の上海付近でもそうした勢力の流れをくむ自衛組織が結成されて、日本軍を襲撃していても不思議ではない状況であったと見られます。
彼らの活動背景には襲撃の指示をする者がいたのでしょうか?
それとも、誰からの指示もなく単独で行動をしていたのでしょうか?
日本側の資料では、ここまでが限界でした。
中国側の資料によると、彼らの行動は、「薛岳」という人物の指揮によるものだったと説明する文献があります。

Ⅱ.薛岳とは?

薛岳(1896~1998)は中華民国の軍人で、日中戦争ではたびたび日本軍と対峙した人物として知られています。

引用元 http://n.cztv.com/news/12351097.html

引用元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%9B%E5%B2%B3

中国では、「戦神」と呼ぶ人もいます。
日中戦争を少しでも勉強したことのある人なら、一度は薛岳の名を聞いたことはあるかもしれません。
彼の軍歴は当初蒋介石の感情に左右され、完全に下野しなければならない時期もありましたが、蒋介石の始めた紅軍掃蕩で招聘され、功績を積み上げて中央に復帰し、1937年(民国26年)、滇黔綏靖公署主任兼貴州省政府主席に任ぜられましたが、その年に日中戦争が勃発しました。
第二次上海事変では第19集団軍総司令に任命され、日本軍に多大な損害を与え、侵攻を長期間阻むなどの戦績をあげるも、第十軍が金山衛上陸により撤退を余儀なくされます。
その後華北戦線・武漢会戦・長沙会戦などで、他の将校よりも大きな打撃を日本軍に与えた人物として知られています。
戦後に勃発した国共内戦では、国民革命軍側の将校として、共産党率いる中国人民解放軍を迎撃しようとするも、戦況の不利を覆すほどの勢力はなく、撤退を重ねます。
台湾に逃れた後も国民党の中央で活躍しましたが、李登輝とはうまが合わず、1998年満101歳で亡くなっています。

この薛岳が日本の占領地とどのようなかかわりがあるか?
南京陥落後、第3戦区に配置された国民党系の将校である黄紹竑、張発奎、朱紹良、顧祝同、陳誠、唐生智らは、全員武漢へと移動しました。
しかし薛岳だけは、第3戦区に残り、蒋介石より同戦区の「前敵総指揮」に任されました。

1.第3戦区とは?

第3戦区とは「抗日戦争戦区」のひとつです。

抗日戦争戦区 中国抗日戦争史地図集1994を改編

「抗日戦争戦区」とは、中、1937年盧溝橋事件の勃発後の戦争情勢に対応するため、華民国国民政府が中国国内を計画的に戦区に分画したものです。
第3戦区は江蘇省と浙江省に設定されました。
薛岳は、その第3戦区で前敵総指揮を任ぜられました。
薛岳の任じられた第3戦区前敵総指揮とは、正直どのようなポストなのかわかりませんが、南京戦後第3戦区内に配置された日本軍への攻撃を任されたようです。
以下、彼の戦歴を綴った「薛岳伝」に準拠して説明していきます。


2.部隊再編制と新方針の設定

「薛岳伝」に、南京陥落後の薛岳の動向について次の記述があります。


南京陥落後の12月27日、蒋介石は薛岳に対し第3戦区前敵指揮と、第3戦区内にいた部隊の統一・指揮を命じた。
薛岳は任命後早速、バラバラになった部隊を再編制に着手した。
江西省、湖南省一帯で兵を補充し、訓練された部隊を編制し、晥南(安徽省南部)と天目山に強固な根拠地を築いた。
「于戦略守勢中取攻勢」の方針を根拠とし、「以正規軍防御、以遊撃隊襲之」を作戦の中心とした。
薛岳は、蒋介石からこの作戦を承認された後、第十九集団軍内に遊撃総指揮部隊を創設し、孔荷寵に総指揮を担当させ、正規軍を補助するため、主に待ち伏せ攻撃、迂回襲撃、攪乱の三大戦法を採用した。

薛岳は孔荷寵に命じて「第19集団軍戦区遊撃隊組織計画」を作成した。
蘇浙皖地区の遊撃戦の展開には、遊撃作戦の方針、戦術、遊撃隊の編成、後方勤務および民衆への働きかけなど、詳細な指導文書、緻密な計画を作成した。



孔荷寵 1896~1955 引用元https://kknews.cc/history/3vn2qa.html

「于戦略守勢中取攻勢」は、守備をしつつ攻勢を取る戦略、「以正規軍防御、以遊撃隊襲之」は、正規軍は防御で遊撃隊は襲撃との訳であっているか自信はありませんが、日本軍の占領地に出没した抗日勢力は、確かにこれと合致する活動をしています。
薛岳は、作戦を実施する前の計画段階で、補給路・情報手段の破壊を念頭に置いていたことになります。


薛岳自身の指導のもと、1か月以内で蘇州南部、安徽省南部、浙江省西部に20の遊撃司令部を編成し、抗日遊撃戦は大規模に発展した。
断続することなく、遊撃隊は日本軍の占領内の県に侵入し、抗日宣伝、民衆への働きかけ、各地で日本軍を襲撃するなど、江浙地区において穏やかに統治を実施するという日本軍の企図を破壊した。
上陸した日本軍の侵攻を防ぎ、後方へ遊撃兵を不断に派遣するため、第三戦区右翼の銭塘江から浙江省安徽省山地おおび温台沿海に兵を重点的に駐屯した。
遊撃戦を始めたころの中国軍部隊の配置は次の通り。
第10集団軍…銭塘江南岸及び浙江省東部沿海部の防備を担当
第19集団軍…天目山に梯形編成の配備で防備。一部は日本軍の後方を襲撃。
第23集団軍…安徽省南部に駐屯。一部は連続して蕪湖を占領した日本軍を襲撃。


この記述でようやく、日本軍占領地を襲撃した中国軍は薛岳の作戦をもとに、行動していたことがわかります。
中国軍の配置に注目すると、第10・19集団軍は第十八師団担当地域の南部、第23集団軍は第六師団担当地域の南部に配置されています。
両地域で遊撃隊の活動が活発化した理由も、この配置で納得がいきます。
なお、薛岳は実戦を避けるとしながらも、日本軍と正面から戦闘した戦績に関する記述もあります。


3.日本軍への攻撃

1938年1月、日本軍は大挙して徐州に侵攻した。東戦線の日本軍は北上へと移り、南京上海杭州一帯はからの状態となった。
薛岳はこれをよい戦機ととらえ、この地区に出撃した。
1月2日 10・19両集団軍は薛岳の命令により、江南の遊撃隊を配下に蘇州南部・杭州地区に出撃し、溧陽、宜興を奪還した。
あわせて、積極的に南京上海鉄道、溧陽、朗渓、句容、溧水間の道路を積極的に破壊し、日本兵を多く殺害した。


この記述にある北上した日本軍部隊とは、南京を警備していた第十六師団と湖州に配置されていた第百十四師団が相当すると見られますが、部隊移動という機密事項が中国軍に漏れていたこと、それを戦機ととらえた薛岳が正規軍に襲撃を指示して占領された都市を奪還したことがうかがえます。
さらに、日本側の資料で中国軍の遊撃戦が活発になってきたとされる2月以降の記述もあります。


13日、蒋介石は薛岳に電報を送った。
「江南の敵は、津浦線の南北で徐州を挟んで攻撃するため蚌へと移動し、江北に兵力を移転している、私は当然弱体化した日本軍の攻撃に移る」
薛岳は各部隊に出撃命令を下達した。
各軍の攻撃目標は次の通り。
「第10集団軍は冨陽行路を攻撃し、第19集団軍は広徳・宣城に迫り、第23軍は魯港へ向かい、湾止鎮を攻撃し、空軍遊撃隊は、杭州・宣城・蕪湖・広徳の日本軍駐屯地を偵察し、空爆せよ。」
各部隊は命令を受領後、積極的に行動し、大きな戦果を得た。
2月下旬に至るまで、第10集団軍は前後で広徳、朗渓、林埠などを奪還し、併せて、余杭、冨陽などを攻め、杭州付近の道路を破壊、さらに石湾を襲撃した。
嘉興などの運河交通網も攻撃した。
63師は溧水に深入りし、南京にまで迫っていた。
第19集団軍は孝豊、泗安と取り返し、宣城を猛攻し、南京・上海線を切断した。
第23集団軍は蕪湖宣城を襲撃し、戈江鎮、石○(石+危)、西川等の地を取り戻した。江南の鉄道を破壊した。


「薛岳伝」に日本軍への攻撃を実施した日付はないのは惜しまれますが、2月13日に杭州、翌14日には湾止鎮が数千の中国軍部隊から攻撃されており、記述の内容はこの2例に相当すると見て間違いないでしょう。
また空軍遊撃隊による爆撃についても、近い時期に蕪湖で複数回中国軍戦闘機から爆撃を受けているので、これも薛岳の作戦によるものと見られます。
「薛岳伝」には上記以外の襲撃についても紹介しています。


2月28日、薛岳は日本軍に打撃を与えるため、60師に寧国を出発し、59師と協働で南京・上海線路に侵攻するよう命じた。
両部隊は日本軍を牽制するため、出発後、蘇州南部の地方武装集団と協同で、宜興を取り戻し、長興を攻撃し、溧水を包囲し、南京・上海間の道路を破壊し、一度その地の水陸交通網を切断した。
3月、薛岳は最高統帥部の電報に接した。
「敵は淮河に兵を増やしている。再び攻勢を企図している、第三戦区は兵力を増大し、第五戦区と連携すべきである」
第10集団軍に命じ、機動性のある師を選んで派遣した。
余杭、紹興の間を渡航し、四個支隊編成し、蘇州嘉興方面に入り遊撃戦をした。
かつ上海、杭州間の交通網も破壊した。
対建緒は命令を受領後、すぐに62師師長陶柳の指揮する袁西初旅と63師楊宏懐旅は、嘉善、海鹽、桐郷、海寧一帯で遊撃を実施した。
3月中旬上海、杭州間の交通網を破壊した。
この時は、日本軍の後方で45旅と10集団軍が連携をして、嘉善、靑浦、松江などにいる日本兵を積極的に攻撃した。


日本側の資料で、これらの事例に相当する戦闘は確認できていませんが、薛岳の指示は、単に日本軍を直接攻撃するだけではなく、道路・運河などの交通網の破壊など、作戦実施前に攻撃目標とした、ライフラインへの攻撃もともに実施していた様子がうかがえます。


4.正規軍ではない抗日勢力の実態

日本軍の占領地に出没していた中国軍は、薛岳の指示により行動していました。
一方、占領地には正規軍とは思えない装備の抗日勢力が出没していたことも事実です。
「薛岳伝」には、彼らの素性についても記述されています。


民衆の熱気は大きくなり、昨年末中国軍が撤退時に廃棄した銃を探し集めて、日本軍とその協力者を攻撃した。
一時期、江蘇省・浙江省には大小100以上の抗日遊撃隊が出現した。
この遊撃隊の、形成された背景は皆同じではなく、成り立ちは複雑である。
首領の出身は様々で、軍官、料理人、弁護士、地元の有力者など。
彼らの経歴・身分・政治的な抱負は皆異なり、堅い抗日思想で意志を統一していた。
こうした複雑な武装集団に対し、日本軍は無視できず懐柔して解散させるよう企てた。
1938年2月、漢奸周鳳岐は遊撃隊の首領を懐柔すべく、新市に各勢力の頭目を招き、部隊の林立、日本軍への襲撃などの問題を解決したいと考えた。
しかし、首領の多くは、日本軍へ抵抗することで一致しており、日本軍の陰謀は実現しなかった。


この記述によると、救国・抗日という意志のもと結成した民間人による義勇軍というのが、実態であったようです。
第百一師団の警備地に出没した抗日勢力は、槍・火縄銃など古典的な兵器を使用していたようですが、その理由も民間人だったため、最新鋭の兵器をそろえられなかったからと見られます。
また、彼らの一部が国民党軍の兵器を所持していた理由は、撤退した中国軍の兵器を収集したためだったようです。
日本軍も、間断なく襲撃してくる抗日勢力には悩まされていたので、彼らを解散させることを考えたようですが、堅い絆で結成された集団を帰順させることはできなかったようです。
こうした民間人による武装集団の活躍は、薛岳の耳にもいち早く伝わったようです。


薛岳は直感した。この遊撃隊は必ず江蘇省浙江省において重要な抗日勢力になるだろうと。
しかし、彼ら遊撃隊は絶大な愛国心を持ったものも多いけれど、一部愛国心の薄弱な者もいた。
この遊撃隊は、堅固な意志を形成させる必要があった。
あわせて戦闘力を向上させれば有利になるので、装備を整備する必要もあった。
薛岳は日本軍の後方にいる部隊に対し、作戦区域内の遊撃隊の装備を整えるよう命令を下した。
各部隊は実行し、大きな業績を得た。
3月、79師は徳清新市において、東部戦線挺進軍第二路指揮部を設立し、3個の総隊を1個の編に統一した。
59師は第四路遊撃司令部を創設し、蘇州南部の遊撃武装2個大隊に再編した。
第10集団軍は平湖嘉善一帯の遊撃武装隊を上海杭州地区第1、2、4遊撃隊に再編成した。
他に、薛岳は朱希を派遣して、参謀に対し浙江省西部地区の遊撃隊を5個団に再編成した。
3月中旬、各部隊が遊撃攻撃をしている間、「日本軍は前後から困難と、幾多の苦痛を受けている。」との報告があった。


国民党軍と同じ訓練を受けた抗日勢力の詳細な戦績は不明ですが、日本軍にとって、抗日意識の高い集団の強化は大きな不安材料であり、穏やかな占領統治をめざすには大きな障壁になったとみられます。


Ⅲ.広徳付近及び三州山系付近に潜伏した中国軍の情報

1.部隊誌にある中国軍の情報

日本軍は、潜伏する中国軍の実態をどのように把握していたか、部隊史から確認すると、微妙に違う点が見られます。
・歩兵第十八聯隊史  この山系(三州山系―筆者註)は江蘇・浙江・安徽の三省境によこたわり、聯隊は広徳付近凹角地帯に進む。ここには、先の上海事件の敵の勇将蔡挺階が指揮する精鋭第十九路軍が布
陣している
・歩兵第三十四聯隊史
徐州方面に新たな作戦を企図した中国軍は、なるべく多くの日本軍を江南地区にくぎ付けしようと、顧祝同の指揮する三個師に、広徳を根拠地として活発な遊撃戦を繰り返させていた。
両書とも第三師団配下の聯隊史ですが、司令官が全く異なります。

歩十八史にある蔡挺階(1892~1968)とは、第一次上海事変で撤退を勧める国民党の指示を拒否し、第十九路軍を指揮して、火力に勝る日本軍に対し懸命に抗戦した軍人として知られています。

引用元 https://kknews.cc/history/64q39q.html

しかし蔡挺階が、日中戦争で前線にたったのは1940年以降とされており、時期的に合致しません。

ちなみに1938年第三戦区を担当していた司令官・将校・部隊は次の通りです。
司令長官 顧祝同
作戦地区 江蘇省、浙江省
第10集団軍 劉建緒
第19集団軍 羅卓英
第23集団軍 唐式遵
第28集団軍 潘文華
新編第4軍 葉挺(独立)
独立第6旅団 周志群(独立)
遊撃総司令 黄紹竑
合計 24個歩兵師団、6個歩兵旅団  特種部隊と遊撃部隊を含まず。

新四軍は5月以降に編入されているので、この編成は昭和13年5月とみられます。
彼ほどの戦績であれば集団軍長になっていてもおかしくないのですが、ここに「蔡挺階」の名前はありません。
したがって彼は、この当時第三戦区にはいなかったとみて間違いないと見られます。
「十八連」の筆者が第十九路軍としたのは、第十九集団軍と間違って認識した可能性は高いと思われます。
ちなみに司令官には「歩三四史」にもある顧祝同が司令官となっています。

顧祝同 1892~1987  
引用元
http://www.ccue.com/ccp_west/2012-11-15/1353022667d4199925.html

南京陥落後、顧祝同は武漢に移動しており戦区内にはいませんが、昭和13年1月第3戦区の司令長官に昇進しています。
薛岳の「第三戦区前敵総指揮」は、組織のどの階層に位置づけられるのかわかりませんが、当時第三戦区で日本軍の近くで、中国軍を指揮していたのは薛岳のみでした。
広徳周辺に軍を集めるように指示したのは薛岳であるとする資料はありますが、顧祝同であったという証拠は今のところみつけていません。
名目第3戦区の司令官は顧祝同ですが、この地域で日本軍に対し、戦闘を指揮した中心人物は薛岳だったというのが実態に近いと見られます。


2.日本国内の新聞にある中国軍の情報

愛知県の地方紙である「新愛知新聞」4月19日付けには、第六十師、第五十九師、第六師、第三十四師の4個師とし、豊橋市の地方紙「参陽新報」には4月5日には、第七十九師、第九十八師、第五十九師、第百十四師、第五十五師、第六十師の5個師としています。
いずれも集団軍よりも下の戦略単位である「師」で説明しています。
両紙に共通するのは五十九・六十の2個師のみで、正しい情報を得ていなかった当時の状況がうかがえます。


3.「薛岳伝」にある中国軍の情報

前述で引用した「薛岳伝」にも広徳周辺の掃蕩に関する記述はあります。


江蘇省浙江省の情勢が安定し、日本軍の3、6両師団は主力を集中して、江蘇省・浙江省・安徽省周辺に対し大規模な掃討を進めた。
目的は、この地域の中国軍隊の壊滅である。
薛岳は、すぐに外から包囲し日本軍を取り囲むため運用する部隊を集めた。
3月下旬、波田部隊は杭州から出発し、天目山を掃蕩し、21日安吉を占領した。
併せて孝豊に向かい前進した。
薛岳は28軍の組織部隊に攻撃するよう命じた。
激戦を経て、28軍の戦死者は1000人余りでたものの、26日安吉を奪還した。
それに続き、浙江省・江蘇省の部隊本部では日本軍に対し薛岳の命令により、大規模な遊撃攻撃を実施した。
連続して進行してきた日本軍に攻撃を加え、一次南潯、震沢、海鹽などを奪還した。
28日、63師の一部は杭州城内の日本領事館を襲撃した。


この記述は台湾軍波田支隊との戦闘に相当するとみられます。
同支隊は北上する途中、安吉を通過しており、行軍中中国軍の攻撃に何度も遭遇しています。
この記述によると、同支隊と戦闘に発展したのは28軍ということになります。
3月28日の日本領事館襲撃は、事実としたら大事件ですが、新聞等では確認できていません。
さらに「薛岳伝」を引用します。


この掃蕩期間中、浙江省でも頻繁に戦闘が行われた。
日本軍は蘇州南部と安徽省南部にも向かって進撃してきた。
3月中旬、日本軍の第三師団と第六師団の一部は、宣城・金壇から蘇州南部・安徽省南部に侵攻した。
この地区の抗日軍民は薛岳の指揮のもと、交戦したがいかんせん実力に違いがあり、広徳朗渓、別橋などを失い、部隊の損失は重大だった。
28日、第三師団の一部は金鶏峰付近に侵攻し、60師と67師、401団と遭遇した。
60師師長陳沛は、指揮部隊を流洞橋にて日本軍の進行を阻んだが、薛岳に向かって増援を求めた。
薛岳は59師、67師、201旅の主力をすぐに向かわせ、日本軍と30日まで戦闘した。
3部隊が協力して追撃し、陶坎頭、羊山、晨山等を奪還した。
この過程で、江蘇省浙江省安徽省辺区の遊撃司令の謝昇標はあらゆる戦闘に参加したが、戦死した。
ただし日本軍の甘い見通しは失敗し、蘇州南部の溧陽、宜興、張渚鎮を再び奪還した。
下旬に至るまで、60、59両師は江蘇省南部にとどまることなく、再び安徽省南部へと移動した。
同時に日本軍第六師団も、南陵、繁昌に侵犯してきた。
戦局は再び逼迫したが、薛岳はおびえることなく、23集団軍と、60師、59師などと頑強に抵抗し、20日以上にわたる日本軍の攻撃を撃退し、併せて張渚などを奪還し、戦局は安定した。
掃蕩作戦は5月中旬まで持続し、日本軍は行動範囲に制限があるため、あちこちで攻撃され、混沌とした状態だった。



3月28日の戦闘は、第三師団歩兵第十八聯隊・歩兵第三十四聯隊・歩兵第六十八聯隊(溧應・張渚鎮)、第六師団歩兵第四十五聯隊(朗渓)が遭遇した中国軍との間で発生した戦闘に相当するとみられます。
先に薛岳は日本軍を包囲し攻撃する戦術を採用しました。
中国軍は薛岳の作戦通りに動いたらしく、歩兵第十八聯隊第三大隊は、張渚鎮の山間で包囲され、攻撃しながらじわじわと距離を縮めてくるため、軍旗危うしという状況に陥りました。
部隊史によっては歩兵第三十四聯隊も包囲され、全滅の危険性がありました。
彼らを攻撃したのは、60師と67師、401団であったということになります。
なお、60師が流洞橋にて日本軍の進行を阻んだ戦闘とは、台湾歩兵第一聯隊との戦闘に相当するとみられます。
60師長陳沛は、自分たちだけでは阻みきれないので薛岳に依頼し、59師、67師、201旅の主力をすぐに向かわせました。
その結果、同聯隊第一中隊は、部隊誌によると有力な中国軍3000に包囲され、何時間も体を水に漬いた状態で戦闘を続け、こちらも軍旗の危うい状態にさらされていました。
台湾歩兵第一聯隊は、掃蕩戦で第十中隊長水井忠太郎大尉以下80数名の戦死者と、200名近くの負傷者を出しており、戦闘の激しかったことを物語っています。
なお戦死した中国人将校謝昇標の名は、歩兵第六十八聯隊第一大隊史にも溧陽附近を本拠地とする中国軍の首領として登場しているので、日本軍の収集した情報も誤りではなかったようです。

さて、広徳周辺の掃蕩は4月の下旬には完全に終了しているのですが、中国側では日本軍の掃蕩は5月まで続いたとしており、認識にズレが生じてます。
また都市を奪還した、日本を撃退したという表現もたびたび登場しています。
他のページでも触れましたが、日本軍はあくまで部隊の移動を利用して潜伏する中国軍に打撃を与えるのが目的で、都市を占領するというのは目的に含まれていませんでした。
波田支隊の動きをみてもわかるように、占領した安吉に常駐することなく、中国軍に包囲されながらも、ひたすら目的地である宜興へ向けて進出することを優先に動いています。
日本軍が望んだ結果とは、潜伏する中国軍壊滅ではなく、計画通りに軍を移動させることでした。
さらに「薛岳伝」には次の記述があります。


薛岳が指揮した江蘇・浙江・安徽周辺の戦闘は完全勝利に終わった。
不完全な統計だが、第10集団軍は4500人の日本兵を壊滅させた。
小銃類170以上、重機関銃5丁、破壊された自動車40両、戦車一両、破壊した占領地の橋70余り、鉄道多数を鹵獲。


日本軍の一部は軍旗危うしという状況に陥ったのは事実です。
しかし、この掃蕩の背景である第三師団と台湾軍の移動は、問題なく実施されており日本軍にとっては、ただ想定以上の損害を被った戦闘に過ぎず、負けたという認識を示す記述はありません。
なお日本の新聞の記事などでも、中国軍が作戦の一環として南部に撤退したのを、「敗走した」と記述しており、両国で認識のずれは見られます。
このことから、日本軍の本来の目的である「移動」情報は中国軍に知られず、互いに自分たちは勝利した、もしくは撃退したと考えていたのが実態のようです。


なお不完全な統計で4500人の日本兵を壊滅とあります。
規模としては、2個聯隊に相当しますが、別のページでも試算してみたところ、戦死者・負傷者をあわせても1000人に届きませんでした。
申し訳ありませんが、中国側の資料は正確さを確かめる作業をすることなく、イメージと知識で見積もったとしか思えませんでした。
掃蕩に参加した第三師団が最も多く損害を被ったと思われますが、終了後徐州会戦にも参加しています。
4500人も「壊滅」していたら、徐州会戦にも参加は躊躇されたと見られます。
よって、中国側の見積もりはかなり無理のある数字とみられます。

一方中国側の戦死者・負傷者数は、まったく記述はありません。
日本側の「軍事年鑑」の「主として太湖西方南方討伐」の「敵遺棄死体」は「三月 13250人」「四、五、六月 3000人」という数字があります。
中国側の資料によると、判明しているもので参戦した部隊は、59・60・67の三個師、28軍、201旅、401団。
日本軍と比較すると、師は師団、旅は旅団、団は聯隊に相当しますが、人数は全く異なります。
日本軍の場合は、有事で一個師団は3万人ちかくなる場合もあります。
一方中国軍の支那事変直前の歩兵師の基本編制は、司令部歩兵旅2、騎兵旅2、野砲兵団1、工兵営1、輜重兵営1等人員13854名、馬匹3508、小銃6127、軽機224、重機75、歩
兵砲24、迫撃砲24、野砲36(「写真集支那事変」森松俊夫監修1979)となっていましたが、実際には標準型は少なく、中央軍と地方軍とでは、編制装備に大きな装備がありました。
1937年頃の華北戦線では、5000人から7000人の部隊で一個師とする部隊が結成されています。


中国抗日戦争史地図集1994より引用

これを基準にすると最大2万以上の兵員が、広徳周辺に集中していたことになります。
一方基本師編制にあてはめると、4万~5万以上の大規模な部隊に相当します。
どちらが正しいか確かめるすべは残されていませんが、日本側の資料は溧陽付近で戦闘した中国軍の規模を5000人から6000人としており、数万人規模だったとは認識していなかったようです。
手元にある資料からは、国民党軍は2万人という大軍であったとは思えません。
よって、軍事年鑑にある「13250」人の戦死者を出したとも思えず、日本側の資料も戦果を大きく見積もった可能性はあるとみられます。
支那事変実記に7000人という数字があります。
これもどこまで正確な数値か、今となっては確かめようはありませんが、現段階ではそれが最も近い数字かと考えます。

さて掃蕩戦が終わるころに当たる支那事變實記第九輯4月18日に、興味深い記述があります。


去る、十三、十四、十五日三日間にわたる太湖西岸地區三州山系の掃蕩戦において敵三ケ師を殲滅したわが部隊の中、田上部隊は引き続き残敵の掃蕩に當つてゐたが、今日、同部隊は三州山系中の俊峰黄騾山附近の残敵討伐戰において敵約一千と遭遇、猛撃を加へてこれを南方に潰走せしめた。
敵の遺棄死體中尉以下二百、チェコ製機銃六、小銃七〇、弾薬多數を鹵獲した。
なほ、先頃から三州山系掃蕩戰に協力した竹下部隊は、朗渓北方地帯において、同方面後方攪亂を企圖する十九集團遊撃隊編成に關する重要書類を発見、遊撃隊の訓練・民衆組織と、遊撃戦術とが細微に亙り記述されたもので、これにより遊撃隊の全貌を明かにするを得た。
 其の特徴とするところは、軍政部指導の下に地方行政區劃に従い縣長を地方遊撃隊司令に任命し、更に民衆歩安泰なるものを以て遊撃隊を組織し、軍遊撃隊と協同し、彼等の得意とする遊撃戰法を以てわが占領地帯に接近し、我が軍に對抗せんとする點にある。
特に注目すべきは其の編成方法であって、十九集團軍長薛岳が遊撃隊総司令に當り、其の下に遊撃總指揮を置き、更に行政區劃に従ひ五地區に分け、地區遊撃司令の指揮下に屬せしめてゐるが、戰區遊撃隊の編成並びに地區遊撃隊の名稱等左の如くである。
一.第十九集團軍總司令―遊撃總指揮―地區遊撃司令(イ)軍遊撃隊(ロ)地方遊撃隊(ハ)混合編成遊撃隊
一.地區遊撃隊は數個の軍遊撃隊及び地方遊撃隊を以て編成し、軍遊撃隊は第十九集團軍から一部將校、下士、兵を選拔しこれを編成す
一.地方遊撃隊は各縣縣長その任に當り、副司令以下は各縣縣長より任官委官す

遊撃隊所在地
一.寧國(司令部所在地)、廣徳、宣城、朗渓
二.南陵(司令部所在地)、蕪湖、繁昌、銅陵
三.石埭、太平、涇縣、靑陽(司令部所在地)、貴池
四.旌徳、績渓(司令部所在地)、昌化、於潜、臨安
五.孝豊(司令部所在地)、武康、安吉、長興、呉興


竹下部隊とは第六師団歩兵第四十五聯隊のことですが、掃蕩も終盤になってはじめて日本軍は、遊撃活動の全容を把握する資料を発見しました。
遊撃隊は正規軍と民間人で編成されていること、遊撃隊の拠点は20以上に上ること、遊撃隊の戦区を多く5個に分けて地区の遊撃司令が指揮することなど。
そこにかかれた地名は、いずれも連日のように襲撃を受けていた蕪湖・杭州周辺でした。
日本軍は、複数の情報網から中国軍の正確な動向を得ていたのは事実です。
しかし、得られた情報から点と点をつなぎあわせて、包囲網を狭めて拠点を攻撃するといった活動をするほど余裕はなく、一方的に遊撃隊の襲撃を受けてしまったというのが実態だったようです。


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