広徳周辺の掃蕩戦

Ⅰ.戦史叢書に載らない大掃蕩戦

作戦実施までの経緯

広徳周辺の掃蕩戦=徐州会戦・武漢戦の前哨戦?

Ⅱ.各兵団の動向

1.第三師団

歩兵第六聯隊
歩兵第六十八聯隊
歩兵第十八聯隊
歩兵第三十四聯隊

2.第十八師団

歩兵第五十六聯隊
桑名支隊とは?
歩兵第百十四聯隊
歩兵第百二十四聯隊

3.第六師団

歩兵第四十五聯隊

4.波田支隊

台湾歩兵第一連隊
台湾歩兵第二連隊

Ⅲ.海軍の関わり

Ⅳ.民間人への影響

1.放火

2.虐殺

Ⅴ.掃蕩戦の成果

1.中国軍の規模

2.中国軍の損害

3.掃蕩戦の結果


Ⅰ.戦史叢書に載らない大掃蕩戦

作戦実施までの経緯

馬山虐殺事件は、本稿でとりあげる広徳周辺の掃蕩戦で発生しました。


広徳周辺の掃蕩戦概要図  出典「第三師団戦史」


なお資料によっては、三州山系の掃蕩と呼んでいる場合があります。
ここでは広徳周辺の掃蕩で統一します。
作戦は大きく前期(3月12日~3月31日)と後期(4月中旬)の2期に分けられます。
後期は部隊誌によっては18日であったり、20日以降に終了としているものもあります。
そもそもこの作戦は、なぜ実行されたのでしょうか?
「第三師団戦史」には次のような説明があります。
長文ですが引用します。

「中国軍は新たに徐州方面に作戦を開始するに当たり、なるべく多くの日本軍を江東地区に牽制すべく企図し、江南において我に対峙する敵即ち顧祝同の指揮する3コ師を我が第6、第18師団の警備地区の間隙に深く楔入し、広徳を根拠として活発な遊撃活動を繰り返させていた。
2月中旬天谷支隊に復員が内示せられ2月22日台湾軍に属する波田支隊(中将波田重一指揮する歩兵2コ聯隊、山砲2コ中隊基幹)が中支軍の戦斗序列に入り、3月上旬頃、杭州付近に向かうことになっていた。
ここにおいて軍は天谷支隊を第三師団長の指揮に入れ、同支隊の担任する南京付近の警備を歩兵第29旅団(師団の警備地区の東半分)に移乗させ、その跡に波田支隊を配置することとせられていた。
軍は上記交代の時期を利用して広徳付近の掃蕩を企図し、波田支隊を杭州付近より、第18師団討伐隊を湖州付近より、第6師団討伐隊を寧国付近より、第3師団討伐隊を宜興、金壇付近より、それぞれ所在の敵を掃蕩しつつ広徳付近に急進的に前進し、広徳を中心とする凹角地帯の敵の掃蕩を命じた。」

恥ずかしながらこの文章をはじめて目にしたとき、何を書いているんだかよくわかりませんでした。
私の調べた範囲で明らかにできたことを、複数に分割しながら説明すると次のようになります。

①1938年における中国軍の動向

②1938年華中方面における日本軍の再編と警備地区の変更

③軍は移動を利用して掃蕩戦を決定

掃蕩は次の部隊に命令する。

掃蕩の概要図に注目すると、各部隊が警備地から広徳附近へ向かって行軍し、張渚鎮附近で戦闘をした様子が図示されています。

この作戦については、昭和14年度の「軍事年鑑」の「支那事変経過」にも次のような記述があります。

中支方面掃討期間(自一月至六月)
三月初旬中支方面の敵は徐州方面に兵力転用の爲江南皇軍の牽制を企図し、三月十七日以降その行動活発となり、蕪湖、慄陽、杭州方面及鳳台、廬州間の遊撃頗る頻繁を極む。
依て軍は三月十五日行動開始杭州、閭江、金壇方向より兵を進め、二十五日遊撃根拠地広徳を掃蕩し三州山系に圧迫し、又三月十七日陸海相協力して井鎮撫を通州南方地区に上陸せしめてこれを攻略し、東台を占領し別に一部を以て崇明島を収む。」

この記述によると、広徳周辺以外に揚子江左岸の掃蕩も並行して行われていたことがわかります。
この掃蕩戦は、第百一師団を主力とした部隊が実施したもので、こちらもすさまじい内容だったようですが、本稿では馬山虐殺事件と深い関わりのある広徳周辺の掃蕩に注目し、その経緯を追ってみたいと思います。 ちなみに広徳周辺の掃蕩は、大きく前期(3月上旬~同月末)と後期(4月初め~同月下旬初め)に分かれます。 開始日は部隊によって異なりますが、あまり大差があるわけでもないので、この区分を採用します。

※本文中にある、南京戦後の占領地の状況については南京戦後の占領地の実態にて詳細を紹介していますので、参照してください。


広徳周辺の掃蕩=徐州会戦・武漢戦の前哨戦?

掃蕩戦は、華北の台児庄(昭和13年3月~)の戦いと並行して実施されており、終了後には徐州会戦が開始されます。
実施期間が近いためか、元兵士の手記や部隊誌などによると、掃蕩は徐州会戦や武漢戦の前哨戦と聞いたとする内容を目にしたことがあります。
はたして事実でしょうか?
支那事変実記第六輯に、南京戦後にあたる1月8日「敵軍徐州に集結」という記述があります。

「而して連雲港より徐州に至る同線(隴海線―筆者注)東段には支那側が過去一ヵ年に亙り、堅固な防御陣を設けてをり、南北河水よりする攻撃に對しても支へ得べしと誇称してゐたものであるが、今やその望みも極めて薄くなつたので、支那側は青島同様連雲港の主要建造物を全部破壊し徐州以東の軍隊を徐州へ集結中である。
徐州また日本軍の攻撃に堪へざるに至れば開封、鄭州に後退し、京漢線を中心に構築してある厳重な防備陣による作戦といはれる。」

同書1月22日には次の記述があります。
「徐州第五戦区総司令李宗仁は十萬余の中央軍の河北、山西に於ける敗兵を徐州へ集結して隴海線死守の遽點とすべく傳えられてゐたが、単に戦車壕を掘ってゐるだけで、空中から視察しただけでは、保定、石家荘に於いて構築されてゐた如き堅固な陣地は発見されず、傳えられる如き大軍の屯していることも疑問である。
とくに防戦陣地がこれまでの軍事的遽點に比し、手薄であることは注目を要する。(以下略)」

これらの記述により、中国軍は徐州で何らかの作戦を展開する可能性を想起させる情報は、すでに1月にはもたらされていたようです。
情報源はいまいちわからなかったのですが、高レベルな情報であることは間違いありません。
中支那派遣軍は1938年3月6日に、「中支方面ヨリ見タル支那ノ一般情勢」という資料をまとめています。

「其三 軍(中支那派遣軍)当面ノ状況
(中略)蒋介石ハ隴海線沿線確保ノタメ二月三日先ツ第三戦区総司令長官顧祝同ニ対シ日本軍ノ背後ニ向ヒ攻勢ヲ命シ次テ第五戦区司令長官李宗仁ニ対シ北方及南方ニ対スル攻勢ヲ命シ以テ徐州付近ヲ死守セシメ第三戦区方面ヨリ広西軍寥磊ノ第七軍六ヶ師ヲ又第一戦区方面ヨリ張自忠ノ第五十九軍(二ケ師)及湯恩伯ノ第二十五軍団ヲ我ガ荻洲部隊正面ニ集中ス」

この資料によると蒋介石は、顧祝同に日本軍の背後から攻撃を、李宗仁には日本軍を南北から攻撃を命じて、徐州を死守しなさいと指示を与えたとする情報をどこからか入手したらしいことがわかります。
ただし、この時点では、徐州で中国軍はなにをしようとしているのか?、その目的の把握にまでは至っていないようです。
日本軍が徐州に軍を派遣しなければならないと判断したのは、いつでどのような情報からでしょうか。

「支那事変陸軍作戦(2)」によると、時期は不明ですが北支那方面軍より「中国軍が徐州、台児庄方面に優勢な兵力を集中し、攻勢を企図しつつある情報(主として通信諜報)が得られた」という記述があります。
台児庄が取り上げられているので、戦闘前にもたらされた情報であると思われますが、日本軍の動向に影響を与えていないようです。
当時大本営作戦課長だった稲田正純中佐は回想録に興味深い記述を遺しています。

「台児庄方面に「湯恩伯軍出現」の情報を得たとき、これはえらいことになった、前に出すぎている第二軍の一部を早くまとめないと危ないと心配した。
湯恩伯軍の出現は蒋介石主力が決戦を求めてきたことを意味するからである。
瀬谷、坂本両支隊が危機を脱して後退したので、安心するとともに敵の主力を寄せ付けた結果となったので、それでは徐州作戦をやろうということになり、急いで準備に取り掛かった。」

これらの情報により、日本軍は徐州攻略の決断に踏み切ったようです。
なお、決断の原因となる湯恩伯出現の情報は、資料によって異なりますが、3月下旬もしくは4月初めころのようです。
この時期は、広徳周辺の掃蕩作戦の後期に当たります。
よって、日本軍が広徳周辺の掃蕩=徐州会戦の前哨戦と認識していたと理解するには少し無理があります。
よって掃蕩戦はあくまで占領地域内の中国軍主力・抗日勢力を壊滅するのが目的で、徐州会戦・武漢戦とのつながりは希薄のようです。


Ⅱ.各兵団の動向

作戦始動前にあたる昭和13年3月10日、中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、陸軍記念日大観兵式終了後の記者会見で次のように発言しています。
「さし當り占領都市地域の治安確保と戦後の復興に力を注ぐけれども、自分たちは軍人だから同時に時期作戦の準備はいつでも整へてゐる。
必要であればなんどきでもやるので、占領地域内でも時々残敵が蠢動するが、之はもう匪賊と見るべきもので、虫けらみたいなものだ
氣に當らない。」
広徳周辺の掃蕩は(おそらく)畑司令官の指示した作戦の一つですが、司令官の指摘する通り、「匪賊」「虫けら」のような勢力だったのでしょうか。
掃蕩戦における各兵団の行軍概要を、部隊誌などの資料を参考にその実態を見ていきます。


1.第三師団

歩兵第六聯隊

当時の新聞には同聯隊のことを示す川並部隊も、掃蕩作戦に同行したとする記事はあります(朝日新聞東京版・名古屋新聞・新愛知など)。
しかし「歩兵第六聯隊歴史」には、掃蕩に関する記述は一切ありません。
「歩兵第六十八聯隊第一大隊史」によると、同年4月3日から4月13日までの間、歩兵第六十八連隊が溧陽を離れたとき、歩兵第六聯隊第二大隊が溧陽の警備を引き継ぎ、「青竜山燕山付近に蠢動する敵を掃蕩し、治安を確保した」とあります。
歩兵第六聯隊で、作戦に関わったといえるのはこの記述のみです。
同年4月には、公道橋鎮付近にて「正規兵及び便衣隊混合の「チェッコ」軽機関銃二を有する約三百名」が「蟠踞」していたため、該兵匪を掃蕩し併せて付近一帯の治安を粛正」する作戦を実施したという記述があります。
しかし、この掃蕩戦は揚州附近で実施されたもので、広徳周辺の掃蕩とは場所も目的も異なり、両者を同一視することはできません。
いまのところ同聯隊の、積極的な参加を示す資料は発見できていません。
その理由はなぜか?
同聯隊の警備地の北部は、日本軍の勢力がいきわたっていない地域が広がっていたため、絶えず中国軍の出没情報や襲撃が続いていました。
ここを離れて遠い広徳周辺まで行軍すると、警備が手薄となり、襲撃のリスクは高くなるため、掃蕩に参加させなかった可能性はあります。
また、移動して空白となった警備地を引き継ぐ部隊は周辺にはいなかったのも、積極的な参加ができなかった理由の一つかもしれません。
未発見の資料の可能性は捨てきれませんが、郷土部隊の情報を詳細に伝える地方紙にさえ、参加したという記事は掲載されていないので、新資料発見は期待できないと思われます。


歩兵第六十八聯隊

右 同聯隊の動向 出典 歩兵第六十八聯隊第一大隊史


唯一動向の時系列がはっきりしている「歩兵第六十八連隊第一大隊史」の記述から、同聯隊の行軍概要を追ってみます。

前期

同聯隊は警備地の金檀を出発し、南へ行軍してから3月12日から3月18日まで溧陽付近を掃蕩してます。
翌19日にはさらに南下し、三州山山系(広徳北部に広がる山岳地帯)の載啅鎮周辺を掃蕩します。
しかし3月25日第一中隊が附近の三木関南側高地を占領した後、中国軍に包囲され連絡が取れない状況に陥ります。
部隊誌には、三州山山系の地理とそこで発生した戦闘について詳細な記述があります。

①付近は竹林と背の高い灌木が密生する地帯で、2、3メートル先も透視できない

②道は地元の人が固めた通路以外ない

③溧陽―戴埠鎮間の道は幅約50㎝、広いところで1M内外のところが多く、人馬のほかは通過困難で、聯隊砲車輌の通行を妨げた。

④中国軍は、この通路に自動火器を隠し配置して、再三再四側方より逆襲してくる

その後の詳細は不明ですが、おそらく載啅鎮南部にある「高地上を占領」し、曹口という場所で、歩兵第三十四聯隊と会い、連絡を取ることができました。
前期の同大隊における戦闘死傷表によると、第一中隊は戦死4名、負傷者18名をだしています。

後期

再び載啅鎮附近で周辺の掃蕩作戦を繰り返しましたが、前期と変わらず中国軍の猛攻は衰えていなかったようです。


tou 新愛知新聞 昭和13年3月30日

4月5日には次のような指示があったとあります。

①夜間の射撃は、やむを得ない場合以外禁止し、敵の出撃には刺突をせよ。

②敵の手榴弾による損害を避けるため、陣地の二、三米前に偽陣地を作り、藁人形などの偽兵を配置せよ。

③小銃を持たぬ者は竹槍を作れ。

同大隊史によると、前期と比較すると多くの小銃の弾薬・機関銃弾など戦闘用物資の補給を受けたとする記述が多く、戦闘の激しさがうかがえます。


上記の指示は、中国軍の猛攻の激しさから検討した対処法だったようです。
tou

新愛知新聞 昭和13年4月12日


作戦終了日に近い4月13日、第一大隊は第二大隊とともに大洪山攻撃に参加し、さらに南部の白沙村高地への攻撃を始めましたが、正面、両側から攻撃を受け、北の東観へ後退
翌14日も同高地への攻撃を実施しましたが、猛烈な射撃を受け、さらに主力を戴埠鎮へ後退させました。
しかし翌15日戴埠鎮北端で中国軍に包囲攻撃を受けたため、信号弾を上げて第二大隊へ攻撃の支援を図りましたがうまく伝わらず、自力で包囲を突破し、溧陽へ引き上げたとあります。
同聯隊における掃蕩戦はこれで終了しました。
第一大隊の部隊誌によると、この作戦での同大隊の損害は戦死者12名、戦傷者67名とあります。
部隊誌の記述からは、地形や植生を有効に利用する中国軍の猛攻を受け全体的に退却しなければならないほど、苦戦していた様子がうかがえました。

なお他の大隊の動向は以下の通りです。
第二大隊…黄金鎮→竹コウ(草かんむり+貢)橋→南波→宇橋へと第一大隊の西側を南進
第三大隊…戴埠鎮→横澗へと第一大隊の東を南進
「歩68第五中隊史」に元兵士の従軍ノートや手記に次のような記述を見つけました。
上野仙三氏の従軍ノート「三月十七日 丹陽地区残留隊長 小貫大尉より、第一線討伐隊は猛攻撃中苦戦の様子であると聞く」
田口義一の手記「(広徳周辺の掃討は)上海附近の陣内線とは異なり苦労のみ多い戦ではあったが、記憶に残る戦闘であった」
これらの情報から、第二大隊も厳しい状況であったことがうかがえますが、第二大隊・第三大隊とも戦闘の詳細及び損害に関する記述を見つけていません。
今後の課題です。

東観附近の戦闘概要図 出典 歩兵第六十八聯隊第一大隊史


歩兵第十八聯隊

同聯隊同八中隊部隊誌によると、作戦の始まる前の3月3日には、すでに太湖付近の「残敵」を掃蕩する情報はもたらされていたそうです。
3月10日の記述には聯隊の動向について次のような説明をしています。
「敵はこのころ、上海事件の勇将である蔡挺階の指揮する精鋭第十九路軍が、太湖の西方及び南方の江蘇省、浙江省、安徽省の三省の省境の合点附近(わが軍は三州山系と呼んでいた)の山岳地帯の岩穴や山頂の陣地を本拠として、日本軍の主要交通路の南京―上海道の橋や道路を破壊して、その交通を妨害し、部隊及び軍需物資の補充輸送を阻止しようと、金壇、常州、慄陽付近に出没しており、この敵を討伐掃討し、時期作戦を有利に展開させるため、三月十日の陸軍記念日を期し、第一大隊(二個中隊欠)、第三大隊を第一線とし、第二大隊(八中隊、重機一小隊欠)を予備として、広徳の凹角地帯に向かって行動を起こしていた。」

次にこの記述をほかの部隊誌で確かめてみます。

第一大隊第の動向

第二中隊の動向をまとめた「旗の許に」の記述を中心に、動向を追うと次のようになります。

①昭和12年2月末南京に出発する噂があり、その三日後つまり、昭和13年3月初めに第一大隊の本部、第三中隊と第四中隊は駐留していた靖江を出発し、南京へ向かった。

②第一中隊と第二中隊は靖江に残留したが、後に太湖方面に出撃するよう命じられたため、翌4月に宜興張堵鎮へ行軍し大隊主力と合流した。

この動向から判断すると、同大隊の小銃中隊は3月の掃蕩戦に一切参加せず、4月に入り大隊全てが掃蕩戦に参加したことになります。
「旗の許に」によると第二中隊のかかわった4月の戦闘の経過は、次の通りです。
4月11日 張渚鎮にて第一中隊と第二中隊が大隊主力に合流し、戦線に投入
4月12日 陣地配備に付き敵と対戦する
4月13日 我々増援部隊の到着により戦線を整えた第一大隊はこの方面の敵に対し広徳の野に展開布陣する
4月14日 敵の精鋭を撃破し三州山系方面に敗走させた
戦闘の具体的な地名や配置図など詳細な情報は一切ありませんが、張渚鎮付近であった戦闘の一場面を記述したものと思われます。
一冊の本のみで判断するのは頼りないのですが、第一大隊の参加は後期のみである可能性が高いと思われます。


tou

新愛知新聞 昭和13年4月8日


第二大隊の動向

第八中隊誌によると、同大隊の動向について次のような情報がもたらされたとあります。

3月12日 情報 (聯隊主力方面より入った)この日、第二大隊主力は、太湖西方地区の雪堰鎮にあって、討伐掃蕩を準備中なりと。
3月15日 太湖方面の大隊主力は、いよいよ第一線に進出して、太湖の西方雪堰鎮付近で、敗敵を討伐、掃蕩中で、十五日夜半には敵の夜襲があり、第五中隊は十名程度の負傷者を出したとのことである。
3月17日 情報 (南京本部と電話連絡)無錫から太湖の北岸を回り、宜興―溧陽―溧水を通り、付近の敵を討伐しながら、南京警備地区に向かって行動中の聯隊主力は、その後、中国正規兵と遭遇し交戦中なり。と。

第七中隊元兵士の従軍日記にもこの時期に、太湖北部から西部にある街を行軍する様子が記述されています。
3月11日 無錫梅園到着
3月12日 雪堰鎮到着
3月13日 分水敦鎮到着
3月14日 万石橋到着
3月19日 蜀山鎮到着
3月25日 宜興到着
3月29日 張渚鎮到着
4月4日~同7日 張渚鎮付近にて中国軍との戦闘が連日続く
4月13日 中国軍が立てこもる皇飛嶺を占領するが、その後大部隊から猛射撃を受ける。(著者はこの戦闘で右腕貫通銃創の傷を負い内地へ帰国)

第二機関銃中隊誌には次のように動向したとあります。
3月15日 馬頭出発―甲山 漕橋鎮付近で戦闘
3月16日 興復橋にむかって敵を追撃
3月17日 寺前鎮―大塘埠―蜀山鎮を経て鼎山鎮へと追撃
3月28日 歩兵第十八連隊第三大隊と歩兵第三十四連隊が優勢な敵の重囲におちいり軍旗危うしという状況のため、張堵鎮へ出動
4月1日 斗門嶺附近の戦闘
4月13日 皇飛嶺附近の戦闘で中国軍の猛攻が夜間になっても続き、一度撤退するが再度攻撃前進
4月16日歩兵第六十八連隊が中国軍に追尾され、離脱困難のため収容援助の命令が来るが、交戦することなく午後に溧陽到着

これらの記述からも、同機関銃中隊も同様太湖北岸から西側の地域を行軍しているようです。
しかし、部隊史によると蜀山鎮到着後、一部は七里崗→清口村→張渚鎮へと、第七中隊とは異なる方向を行軍していたようです。
機関銃中隊が単独で行動することは考えられず、他の小銃中隊に同行したと思われますが詳細については一切わかりません。
今後の課題です。
4月13日に登場する皇飛嶺は、地図上で位置を確認できていませんが、第二機関銃中隊史によると張渚鎮西部・溧陽南部の山岳地帯にあるようです。


皇飛嶺附近の戦闘と斗門嶺附近の戦闘 出典:歩兵第十八聯隊第二機関銃中隊史


第二機関銃中隊は、皇飛嶺のある山岳地帯→溧陽へと進軍して終了したようです。

4月13日の戦闘は「第八中隊誌」にも詳細があります。
「第七中隊を尖兵として前進を開始したが、前方に七、八千の大軍と遭遇し、第二大隊は第六、第七中隊を広域にわたり展開して、応戦隊形を取り前進したが、この戦闘で他中隊の河合政一(上等兵)分隊長及びその隊員は、二千の敵中に突進して、戦史に永久に残る決死の奮戦をしたという」
ちなみに当初、南京の湯水鎮を警備していた第八中隊も、4月15日金壇→天王寺→溧陽へと激戦地へと移動しているようですが、戦闘には参加することなく、再び天王寺地区の警備の任務を任されました。

第二機関銃中隊の動向 出典 歩兵第十八聯隊第二機関銃中隊史


第三大隊の動向

第三大隊は、このサイトにあるとおり、3月12日~13日にかけて太湖の馬山へ上陸し非戦闘員を虐殺する事件を起こしました。

前期

事件の様子を唯一記したA氏の手記によると、事件後の動向は次のとおりです。
3月14日 西島に上陸し、掃討。
3月17日 西島出発
3月18日 太湖西岸鹿天門に到着
3月20日 蜀山鎮へ到着。第十一中隊配属。
3月21日 河阜鎮へ到着。南西部落を掃蕩。
3月22日 中国軍と戦闘、集落の掃蕩を繰り返す。
3月30日 銅官里に前進。
3月31日~4月4日 張渚鎮へ向かう途中九峯(張渚鎮西北)にて中国軍の襲撃に遭遇。四方の部落はすべて中国軍が占領してしまったため、包囲猛攻を受ける

3月末における中国軍の猛攻は、逆襲に次ぐ逆襲で包囲を徐々に狭めてくるというもので、大隊は食糧・弾薬が底を尽いており、A氏は死を覚悟したと記しています。
同じく付近で苦戦をしていた歩兵第六十八聯隊第一大隊は、情報連絡のため4月1日には1個小隊を歩兵第十八聯隊第三大隊に派遣をしています。
しかし、そのころ既に第三大隊は包囲を受け、危険な状態にありました。
中国軍の猛攻は、4月3日頃に日本軍の航空部隊による爆撃により収まったとあります。
なお、他の部隊誌にも第三大隊の苦戦ぶりが記されています。
第二機関銃中隊誌には、3月28日に張堵鎮付近で同大隊と歩兵第三十四連隊が優勢な敵の重囲に陥ったとあります。
兵東氏の「歩兵第十八聯隊史」にも、第三大隊が有力な中国軍に包囲され、軍旗危うしという状況であったと伝えています。
時期が少々異なりますが、両者とも第三大隊が非常に危険な状態にあったことを伝えているとみられます。

後期 ※A氏手記をもとに
4月11日 場所は不明だが中国軍と遭遇し戦闘
4月13日 黄山占領
4月14日 溧陽に向けて出発 
4月15日 溧陽に到着。
第三大隊は、A氏の第三機関銃中隊以外はほとんど動向が不明です。
しかし、手記によると第二大隊と同様に張渚鎮の次に山岳地帯を通り越して溧陽に向かっているようなので、他の小銃中隊も同様の行動をとったとみられます。

掃蕩戦による歩兵第十八聯隊の損害

作戦終了後、第一大隊は燕山、第二大隊は金壇、聯隊本部と第三大隊は溧陽に駐留することとなりました。
同聯隊の作戦による損害は、「第八中隊誌」によると、聯隊の死傷者は四十名とあります。
しかし、他の文献に注目すると第二機関銃中隊32名(第二機関銃中隊史)、第六中隊死傷者21名、第七中隊死傷者11名(ともに「第八中隊史」)という記述があり、この数字が正しいと「八中隊史」にある四十名を上回るという矛盾が生じます。
「歩兵第十八連隊史」で兵東氏は、「この戦闘に連隊の損害は意外に多く、事実、各大隊の戦場からの離脱は、敵の逆襲のために困難をきわめた」と結んでいます。


歩兵第三十四聯隊

「歩兵第三十四聯隊史」によると、第二大隊は3月9日南京の警備へ向かったため、この作戦には参加していません。
よって参加したのは第一大隊と第三大隊です。
同聯隊史によると作戦については次のように説明しています。

「徐州方面に新たな作戦を企図した中国軍は、なるべく多くの日本軍を江南地区にくぎ付けしようと、顧祝同の指揮する三個師に、広徳を根拠地として活発な遊撃戦を繰り返させていた
第三師団(長・藤田進中将)は、三月十日、軍命令に基づいて、歩兵第二十九旅団(長・上野勘一郎少将)を基幹とする討伐隊を編成し宜興―張堵鎮道に沿う地区の敵を掃討しつつ前進、広徳を中心とする凹角地帯に蟠踞する敵の掃討を命じた。」

以下部隊誌から聯隊の動向を追ってみます。

前期
3月11日 曹橋鎮に向かう。
3月15日 第一大隊は高端鎮付近に陣地を占領した有力な敵を攻撃をしてこれを占領。
3月17日 宜興付近の敵に一斉攻撃を加え翌日、宜興東西の線に進出。
3月21日 第五旅団討伐隊が南渡鎮―溧陽の線に到達(3月17日)したため、第二十九旅団討伐隊はこの討伐隊と共に、一斉攻撃を開始。
3月22日 九嶺(張堵鎮西北方)高地において、優勢な中国軍と交戦し駆逐
3月23日 第一大隊張堵鎮南方の中国軍と戦闘し、張堵鎮一帯を占領
3月25日 早朝より、中国軍の右翼に対し包囲攻撃を開始、南方の波田支隊の攻撃に策応して撃破

後期
4月3日 中国軍が波田支隊の後方より追尾反転してきたため、歩兵第五旅団を載啅鎮、歩兵第二十九旅団を張堵鎮付近に停止させ、機を見て攻勢に転移させる態勢をとる
4月5日~9日 中国軍は聯隊に対し昼夜の別なく大規模な逆襲及び夜襲を繰り返してきたが撃退
4月10日 第三師団長は中国軍に対して包囲攻撃を企図し、この共軍に意見を具申。軍は目前に控えた徐州会戦に第三師団の有力な一部を参加させる予定であったので、「師団は独力にて当面の敵に一撃を加えた後、速やかに新配置につく」よう命令された。
4月13日 師団は歩兵第五旅団を右翼隊、歩兵第二十九旅団を左翼隊とし、払暁より総攻撃に入り、翌日には中国軍をはるか南方に圧迫、その動きを封じる。
4月20日 溧陽を経て南渡鎮に集結し作戦を終える。

部隊誌によると作戦による損害は、戦死者24、戦傷死2とあります。
戦傷者についての記述はありませんが、多くの戦闘と同様戦死者を上回ったと考えるのが自然です。

なお、歩兵第十八聯隊第二機関銃中隊史には、歩兵第三十四聯隊も3月末に張渚鎮附近で中国軍に包囲されたとあります。
しかし「歩兵第三十四聯隊史」にはこの苦戦した様子はほとんど記載されておらず、また比較的多く出版されている同聯隊の中隊史にも全く記述がありません。
今後の課題です。

2.第十八師団

歩兵第五十六連隊

第三師団戦史によると下川支隊が武康から広徳周辺に向かって行軍した様子が図示されています。
下川支隊とは、下川義一少佐率いる歩兵第五十六聯隊第三大隊とみられます。
同聯隊史によると、昭和13年3月に実施した掃蕩作戦は黄子村附近などとしか記述されていません。
支那事変実記第八輯に下川支隊の動向と思われる記述があります。
3月15日「莫干山南方地区より前進せる下川部隊は、険阻なる山地を踏破して踏破して、安吉に向かつて進撃」。
3月19日「下川部隊は剣難なる山地を踏破し安吉に進出、續いて前進」
数少ない同部隊の動向記述です。
今後の課題です。

桑名支隊とは?

第三師団戦史によると「桑名支隊」が長興より三方向に分かれて広徳周辺へ移動していることが図示されています。
「桑名支隊」とは桑名照貮少将が旅団長を務める歩兵第三十五旅団で間違いなさそうです。
同旅団は、歩兵第百十四聯隊と歩兵第百二十四聯隊を配下聯隊としていました。

歩兵第百十四聯隊

同聯隊史には、警備地の中国軍について次の記述があります。
「敵は湖州を軸に、東西、嘉興―広徳南北、湖州―杭州道に出没して、しばしば我が輸送隊、あるいは警備隊を襲撃していた。」

次に同聯隊の動向を下記に示します。
3月14日杭州出発。瓶窰鎮北方の中国軍を掃蕩して北進
15日武康周辺山地の中国軍を撃破
16日湖州到着
17~18日長興到着
19日泗安鎮に到着
20日広徳へ向けて出発
21日広徳東方、浙江省と安徽省との省界線で、東北方の第百二十四聯隊および、第六師団との連絡を終え泗安鎮に引き上げる。
22日長興到着
23日湖州到着
25日菱湖鎮北方二キロ付近にて中国軍と遭遇、交戦して敗退させる
26日清徳を掃蕩
28日杭州に帰還
同聯隊の損害・「戦果」はともに不明です。

歩兵第百二十四聯隊

同聯隊については「福岡聯隊史」に次の記述があります。

「(昭和13年)六月上旬までの約半年間の警備で、敵の逆襲を受けたこともたびたびあった。
特に我が警備陣の分断を策した敵の有力部隊が、李家巷方面を包囲するに至り、三月二十五日崗子街附近の戦闘で、仁王山警備隊長で第一中隊長斎藤宗門中尉が戦死した。
(中略)警備は百二十四聯隊の第二大隊が主として李家巷附近を、第三大隊が長興附近を担当したが、太湖から多数のジャンクを使って忍び寄った敵軍が李家巷包囲に加わり、撃退はしたものの、第二大隊の損害もまた大きかった。

歩兵第百二十四連聯隊の兵士だった村田和志郎さんは、戦後「日中戦争日記」という本を出版しています。
掃蕩戦に関する記述はほとんどありませんが、次の記述を発見しました。
4月2日 (中略)青山戦闘。戦死1、負傷若干。(第一大隊討伐戦死3、負傷若干)
4月5日 近日討伐、長興移駐。あわただしく時間なし。 4月7日 夜9時半整列、十時出発。八里店で休憩。(三時迄)
4月8日 未明前進。八時、長超山、寺に休憩。(十時~十二時半)
4月9日 午前二時準備、五時三十分出発。陸路を呂山へ、呂山攻撃。
これを広徳周辺の掃蕩に含まれるか検討が必要ですが、3月以降も中国軍がこの地帯に出没していたことを示唆する内容です。
「支那事変実記第八輯」には同聯隊の動向に関する記述が見られます。
3月19日「片岡、小堺、浅野等の諸隊は西進して下泗安に進出し、さらに安江省境を超えて進撃」
小堺部隊は小堺芳松中佐率いる歩兵第百二十四聯隊を指しているものと思われます。
歩兵第百十四聯隊と共に行動している様子がうかがえますが、記述はこれのみで、詳細は不明です。

第十八師団は、大軍と遭遇せず、杭州⇔広徳の間を移動しただけのようです。
なお、歩兵第五十五聯隊の部隊誌には掃蕩に関する記述はほとんど見られませんでした。
「第三師団戦史の概要図」に同聯隊を示す記述は見られず、歩兵第六聯隊と同じく、作戦に参加しなかったとみられます。
ちなみに支那事変実記第九輯に掃討作戦終了後にあたる4月末に、同聯隊の戦闘と思われる次の記述が見られます。


「野副部隊・羅卓英軍を猛攻
野副部隊は富陽街道新橋西北方に集結中の迫撃砲を有する羅卓英軍約一千三百の敵に對してこの日早朝より攻撃を開始し、寡兵克く敵に南東北の三方より包圍猛攻を加へ、交戦約六時間壮烈なる白兵戦の後、午後二時半これを撃破、敵は使體約四百を遺棄して西方に敗走した。」

野副部隊とは野副昌徳大佐率いる歩兵第五十五聯隊とみて間違いありません。
富陽は同師団の警備地である杭州の西南に位置します。
時期・場所にみると、この戦闘を広徳周辺の掃蕩戦に含められませんが、同聯隊が杭州にとどまった理由は、こうした南から進出する中国軍に対応するため、作戦には参加しなかったのも理由の一つと見られます。

以上、第十八師団の動向を部隊誌などでみてきましたが、第三師団と波田支隊とは異なり、部分的な記述や、まったく記述のない場合もあり、詳細は不明な点が多いのが実状です。
広徳周辺に集結した中国軍の多くが、張渚鎮付近に集結していたため、大軍に遭遇せず、結果被害が少なかったため、記述の少なさにつながったとも考えられます。
今後の課題です。

3.第六師団

第三師団戦史の広徳付近掃蕩戦経過要図によると、第六師団からは牛島支隊が寧国から出発し、広徳へ向かって東に行軍したとあります。
「牛島」とは牛島満少将のことを指していることは間違いないでしょう。
熊本兵団戦史によると、時期の記述はありませんが「師団は牛島満少将の指揮する広徳討伐隊を派遣し、他師団の討伐隊と協力して同地附近の討伐を実施した」とあります。
牛島少将は当時歩兵第三十六旅団長(歩兵第二十三聯隊・歩兵第四十五聯隊)なので、支隊は二つの聯隊にかかわる部隊によって編成されたと考えるのが自然です。
歩兵第四十五聯隊の動向からおってみます。


歩兵第四十五聯隊

「歩兵第四十五聯隊史」には次のような記述があります。

「四月に入り、徐州会戦に中支那派遣軍より一部を派遣したため、警備兵力が減ったので、嘉興・太湖・東西地区・杭州地区及寧国付近などにおいて敵の遊撃作戦が活発化した。
四月十三日、聯隊は水東鎮(孫家舗の南二十粁)附近に進出せる敵を掃討するため、二ケ大隊をもって出撃す。
第二大隊は警備地より南に向かい、第三大隊は十時舗を経て南下し、水東鎮の東側に出て、これを掃蕩す。
四月中旬団山鎮にて、敵の包囲攻撃を受けこれを撃退す。

同部隊誌によると、この掃蕩作戦の間に同聯隊で12名の戦死者を出しています。
戦死場所はいずれも掃蕩の行われた地域に近接しているため、戦闘による戦死者とみて間違いなさそうです。
しかし同聯隊による掃蕩戦の記述はこれのみで、3月及び4月はじめの記述はほとんどありません。

同聯隊元兵士である赤星昴さんの著書「江南の春遠く 日華事変戦記・上河鎮の激戦」に次の記述があります。
「昭和十三年三月中旬―。
広徳周辺にしゅん動する敵を掃蕩、せん滅せんという大作戦が、実施されることになり、私たちも久しぶりに戦闘に参加することになった」
同書の記述をもとにこの行軍で何があったかかいつまんで説明すると、
・十字舗を過ぎて丘陵地帯に向かう途中、二、三十人の敵があらわれて一斉射撃をあびせてきた。
・広徳、朗渓、定埠と行軍を何日も続いた。
・洪林橋にて陣地を構築し、巡行・斥候などを実施
日付は不明ですが、歩兵第四十五聯隊が3月中に朗渓に到着していたことを明確に記しています。

支那事変実記第八輯にも同聯隊の動向とみられる記述があります。
3月30日 竹下部隊の主力は、団山舗南方二キロ千姑廟に「蟠踞」する四川軍に対し攻撃
4月2日 大粉山に陣地を構築した中国軍を攻撃
4月8日 野口部隊の一部は沈村鎮の中国軍を攻撃
4月10日 野口部隊は洪林橋の東二里毛家店付近に現れる中国軍を攻撃
4月14日 竹下部隊の主力が正午楊柳舗を占領し、宣城附近の掃蕩を完了

竹下部隊とは竹下義晴大佐率いる歩兵第四十五聯隊と見て間違いありません。
この記述によると、3月末から4月末にかけて同聯隊は宣城周辺の掃蕩を行っていたことになります。
ちなみに、同書4月18日には詳細は不明ですが、次の記述があります。
「先頃から三州山系掃蕩戦に協力した竹下部隊は、朗渓北方地帯において、同方面後方攪亂を企図するする十九集団軍遊撃編成に関する重要書類を発見、遊撃隊の訓練・民衆組織と、遊撃戦術とが細微に亙り記述されたもので、これにより遊撃隊の全貌を明らかにするを得た。」
再び、第三師団戦史にある掃蕩作戦の概要図に注目すると、第六師団の部隊が広徳へ向かって移動し、次に朗渓へ移動し戦闘した様子が図示されています。
支那事変実記の記述に従うと、この朗渓に進んだのも歩兵第四十五聯隊ということになります。

二つの資料から、日付や動向に不明な点はみられるものの、同聯隊は3月に朗渓へ進軍したと考えてほぼ間違いないとみられます。

もう一方の歩兵第二十三聯隊については、部隊誌に記述はほとんど無いため、情報が得られませんでした。

他の資料による第六師団の動向

他の聯隊史に注目すると、3月第六師団がほかの部隊とともに広徳へ進軍している様子がうかがえます。
「台湾歩兵第一連隊史」によると、3月には第六師団も広徳周辺に到達するはずであったとする記述があります。
また「歩兵第百十四聯隊史」にも、3月21日広徳で第六師団との連絡を終え泗安鎮に引き上げるとの記述があります。
支那事変実記第八輯に次の記述があります。
3月17日「孫家埠占領 また、わが長谷川部隊は、昨十六日朝来、蕪湖、湖州街道の宣城南方里江南鉄道終点に近い孫家埠(安徽省)に対し猛攻撃を加へつつあつたが、本日早暁つひにこれを占領した。」
3月19日「長谷川、竹下等の諸隊は寧國方面より東進し、この日その先頭部隊を以て早くも廣徳に進出した」
当時この附近を警備していたのは第六師団なので、長谷川部隊は、長谷川正憲大佐率いる歩兵第四十七聯隊と考えて間違いないと思われます。
同聯隊の動向を記した「郷土部隊奮戦史」にはこの戦闘の記述は一切ないため検討は必要ですが、「兵力約一萬」「堅固な数条の陣地により頑強に交戦した」(支那事変実記)とのことなので激戦であったことは間違いないようです。
同書で第六師団にかかわると見られる記述は3月24日にも登場します。
「三州山系一帯に蟠踞中の敵三箇師は、去る十五日以来わが包圍掃蕩戦によつて殆ど撃滅されたが、内約二千五百は巧みに包囲網を逃れ、山間傳ひに蕪湖の東北方六里の青山付近に集結し、南京、蕪湖間の警備船を突破して甲北に脱出すべく機を狙ってゐたが、わが中野部隊は昨日深夜青山を完全に包圍、本日早暁その寝込みを襲つてこれに猛攻を加へ、一兵も残さず殲滅し、十日間にわたる大掃蕩戦の掉尾を飾つた。
「中野部隊」の詳細は不明ですが、戦場は第六師団の警備地付近なので、同師団の部隊と考えて間違いなさそうです。

以上第六師団の動向をみてきましたが、3月に広徳付近に行軍したと確実に言えるのは歩兵第四十五聯隊のみで、他の聯隊は掃蕩戦に参加しているかまだ検討の必要な状況です。
今後の課題です。

4.波田支隊

はじめに

波田支隊が中国大陸に上陸するまでの経緯を説明します。
昭和12年9月7日動員下令により、台湾歩兵第一聯隊・台湾歩兵第二聯隊・山砲兵聯隊、それに第一と第二衛生隊が加わり、重藤千秋少将を支隊長とする「重藤支隊」が編成
同年9月13日上海に上陸し、各地を転戦後台湾南部に一時待機が命じられる。
翌年1月、波田重一少将が着任し、「波田支隊」と称されるようになる。
同支隊は、同年2月26日高雄港から乗船し、杭州に上陸。
翌月広徳周辺の掃蕩に参戦。

次に各聯隊別に掃蕩戦の動向を見ていきます。

台湾歩兵第一聯隊

同聯隊史によると次のような動向が記されています。
3月15日杭州を出発し、二縦隊となって山間を縫って余杭に到着。
16日夕方双渓鎮 
17日木橋頭 
19日長白村付近に進出
20日安吉付近に到着
この間参戦した兵士は次のような苦労があったと手記で語っています。

何度も襲撃にあい、戦死者もでた。
道路は所々遮断され、橋梁は焼却されていたため、なかなか進められ無かった。
正確ではない地図をもとに移動したことが原因で目的地に到達せず、一夜行軍して結局出発した位置に戻る結果となり、精魂共に疲れ果てた」

21日安吉を出発し、孝豊付近で中国軍の構築した堅陣と戦闘したものの、不利と判断し転身。
23日に広徳城壁付近に到達。

当初の計画では第六師団と第三師団も広徳付近まで進出する予定だったとありますが、到達したのは波田支隊のみだったようです。
その後軍の命令により、下四安で糧秣・弾薬の補給を受けることとなりました。

27日広徳を出発
28日下四安に到着
29日独山→流洞橋付近で中国軍の数個師団にも及ぶ大軍と遭遇し、激戦の末多数の戦死者・戦傷者がでる。
翌30日も激戦は続き、後方にあった支隊司令部も危険となったため、聯隊本部位置まで前進。正午過ぎに中国軍は退却。

この戦闘による弾薬の損耗は激しかったようで、追撃するにも砲弾は尽き、山砲中隊四門の砲は最後のわずか二発を残すのみとなり、重砲弾の補給飲み込みがないため急いで宜興方面に転身することとなりました。
その途中、中国軍の追撃に合い、第一中隊は包囲され離脱困難になるなど、苦難を乗り越え翌31日に、第三師団野砲聯隊の陣地(張堵鎮附近)にたどり着きました。
同連隊の損害は大きく、毒に第一中隊はこの時約三千名の中国軍に包囲され、最後まで残って戦ったのは約15名のみでした。
有力な中国軍に包囲された第一中隊の中隊史には、掃蕩戦にかんする詳細な記述があります。

「三州山系の大掃討作戦は、名は掃討戦であるが台湾軍波田支隊にとって歴史に残るべき戦闘であり、特に大旺村付近の戦闘は部隊の約三分の一(中隊に追っては半分)の戦死傷者を出す大激戦で、蠢動する敵に殲滅敵大打撃を与えたけれど、我軍もまた弾薬を打ち尽くし、白兵戦(突撃)を繰り返し、双方とも真暗闇の中で徹夜で夜襲をかけ、暁の肉弾戦による決戦は戦列を極めた。
多くの戦死者と負傷者を出し、弾薬が尽きた部隊の戦闘力はいかに必勝の信念に燃えた精強な歩兵といえども、戦力の低下は当然で、ましてや砲兵の如きは白兵戦に弱く、弾丸のないほうはむしろ厄介な長物でしかない。部隊は敵の迫撃を受け、多くの戦死者の遺体さえ収容できず、宜興を目指して転身したが、包囲され孤立した後衛尖兵となった第一中隊の一部は、まだ寒中なのに約七時間近くも水中に漬って防戦し、本隊の転身を容易ならしめた。」

激しい戦闘ゆえに、戦死者の遺体を回収できず、隊長が部下の兵士に対して日本刀を渡し、「これをやるから切り取ってこい」と命令し、銃弾の飛び交う中、遺体まで走り、4,5名の指を持ち帰ったエピソードが登場します。
この話は歩兵第十八聯隊にも伝わったようで、第七中隊兵士の従軍日記にも伝文として登場します。
この掃蕩戦で同聯隊は戦死者80数名、負傷者200数名にも及んだとあります。
4月1日にはようやく目的地である宜興に到着しました。
波田支隊は宜興到着後、6月4日まで付近の警備に付き、その間大きな戦闘には参加していません。
よって同聯隊の参加は前期のみということになります。
なお、同聯隊第一中隊元兵士小野茂正氏によると、宜興周辺の警備中も頻繁に襲撃を受けたとのことです。


台湾歩兵第二聯隊

「栄光の十中隊(台湾歩兵第二聯隊第十中隊)」に次の動向が記されています。
3月12日杭州出発
15日より一週間、韓頭鎮、逓捕鎮、安吉の討伐、戦闘に従事
23日広徳出発、無錫へ
29日朱安着
30日弔橋出発
4月1日宜興農学校宿舎
6日無錫着

動向は台湾歩兵第一聯隊と若干異なるようですが、広徳に向かって西進し、宜興へ移動している点で合致します。
同聯隊も前期のみ参加のようですが、宜興到着後一部はかつて歩兵第三十四聯隊の警備していた無錫へ移動します。
この移動は、軍が計画していた「空白となる同旅団(第三師団歩兵第二十九旅団―筆者註)の警備地区に波田支隊を配置」する命令をうけての行動です。
同聯隊第十中隊元兵士衛藤忠臣氏の陣中日誌にはさらに詳細な掃蕩戦の動向が記されています。
抜粋すると次のようになります。

15日に杭州を出発。
17日には英紅鎮に集結 そこで激しい砲撃戦に遭遇
中国軍は、「地の利を得て陣地構築を施しており、こちらは狭い山道を進むので、なかなか前進ができない」と行軍の困難さを伝えています。
21日広徳到着
23日下四安に到着
25日「友軍、三、六、十八師団に追われた敵が杭村方面に逃げてきたとのこと。一連隊と二連隊の第三大隊はこれを攻撃するため再び山岳地帯へ向かう」
26日道を間違えたことに気づき、引き返して杭村に到着。
27日先日襲撃があり、討伐を開始。中国軍と激戦。戦死者2名
28~29日弔橋到着。
30日張堵鎮に到着。「三州山系中央山岳部に残っている約三万の残敵を、日本軍は三師団と1ケ旅団の兵力で四万より包囲攻撃中」。
4月1日宜興に移動。
4月6日無錫へ移動。
同聯隊に関連する資料に、「軍旗と共に幾山河」という書籍はあります。
回想録がほとんどで、掃蕩戦に関する記述は第十中隊史と比較するとごくわずかですが、次の記述を見つけました。
「然し同じ戦場で居た兵士たちにとっては、いつ迄も慰霊祭のある事ある度に「三州山系附近の戦闘(昭和一三・三・ニ六 昭和一三・三・三一)(江蘇、安徽、溯江三省の境、接点)と九行の文字は明記されているがそれは即ち流銅橋の戦闘にして第三大隊砲小隊第二分隊の腔発全滅の場所でもある。
広徳を東に概ね四粁高い山々に囲まれた下泗安北方の無銘部落の寒村部隊(戦跡の栞によれば白峴鎮西南凡そ十六キロ大王村西方高地付近となってゐる)の惨事は憶へば胸苦しく、そして、苦々しく、異様な心境で起想することであろう。
台歩二第三大隊砲小隊の痛恨極まりなき悲劇の戦闘であった。
隊長斉田清中尉は愴惶としてことの填末を詳細に大隊長永井義夫少佐に報告し、部下多数の死と曲射砲の腔発事故の今後の戦闘に於ける支障を詫びた。」
「腔発」とは、砲弾が砲身内で爆発する事故のことをいいます。
戦闘による事故を日本側の「損害」と言えるか?
検討しましたが、日本軍は事故によるものも「損害」として集計している資料を見たことがあるので、当時の基準からみてこれも損害の一例として見てよいかと思われます。
しかしながら部隊誌に掃蕩戦の記述は少なく、大隊砲小隊で発生した事故に限られているので、台湾歩兵第一聯隊ほど大きな損害は出なかった可能性はあるかと思います。

以上、波田支隊の動向を見てきましたが、第三師団の各聯隊と同じく、3月末に張渚鎮―広徳にある山岳地帯で有力な中国軍と遭遇し、地形を利用した攻撃により大苦戦した様子はうかがえました。
参考にした資料からこの掃蕩戦で大きな損害を被ったのは、第三師団と波田支隊であったと考えて間違いないでしょう。


掃蕩戦に於ける日本軍の損害

部隊誌によって、掃蕩戦に関する記述量にばらつきがみられます。
特に第三師団と台湾軍の記述は、他の部隊と比較すると、損害の大きさが影響しているためか、掃蕩戦に関する記述は多い印象を受けます。
掃蕩戦における日本軍の損害は、毎日新聞東京版によると、戦死傷者あわせて700名とあります。
一方中国側の資料では不確かな統計として、死傷者4500人(黄勇「薛岳伝」団結出版社2013)という数字が提示されています。
これらの数字は実態にどれだけ近いのでしょうか?
今となっては完全復元はほぼ不可能に近いですが、残されている史料から、戦死傷者数を検討してみます。

第三師団

歩兵第三十四聯隊(一個大隊欠)では24名の戦死者を出しており、歩兵第六十八聯隊第一大隊の戦死者は12名です。
各一個大隊は平均して12名の戦死者の発生しているので、掃蕩に参加した両聯隊の5個大隊で計算すると、少なく60名(12人×5=60)近いの戦死者が発生したことになります。
戦傷者数については、歩兵第六十八聯隊第一大隊の戦傷者67名という数字があります。
戦死者の5倍以上ですが、通常戦傷者数は戦死者数の倍近い人数になることが多いので、それをもとに計算すると両聯隊で少なくとも300名(67×5=335)ほど発生したことになります。
さて残ったのは歩兵第十八聯隊ですが、第二大隊(二個中隊と一個機関銃中隊)の戦死傷者64名のみで、第一大隊と「軍旗危うし」に追い詰められた第三大隊の記録は残っていません。 歩兵第六十八聯隊第一大隊は戦死者と戦傷者の割合は、約1:5となっています。 それにあてはめて計算すると、第二大隊の戦死者は6~7名、戦傷者は60~61名となります。 少なくとも一個中隊につき、戦死者2名戦傷者20名発生している計算となります。 第三大隊も、第二大隊と同様に苦戦を強いられていたのを考慮すると、同規模の損害を被っていた可能性は高いと考えています。 当時第三大隊は、掃蕩に小銃中隊四個と機関銃中隊1個参加したとすると、発生した戦死者は少なくとも10(2×5=10)名、戦傷者は100名(20×5=100)ほどにはなります。 いささか根拠は盤石ではありませんが、第三師団全体の戦死者は70名以上、戦傷者は400名以上にはなったと考えています。

波田支隊

台湾歩兵第一聯隊は部隊誌によると、戦死者80数名、戦傷者200名近くをだしたとあります。
同第二聯隊についてはどうでしょうか?
第十中隊の戦死3名という記録があります。
これをもとに計算すると、戦死者は小銃中隊(十二個)と機関銃中隊(四個)計16個中隊でで50名(16×3=48)近くになります。
戦傷者は3名登場しますが、他の戦場で「二分隊の陣地を見ると、まだ四、五名残っているようだ」とさらにいたことを想起させる記述があります。
少なくとも8名はいたことを推測させる記述であり、それを基準に計算すると16個の中隊すべてで、128名(16×8=128)になります。
第三大隊詳報第二分隊の腔発事故による被害者(約10名ほどか?)を加えて計算すると、同第二聯隊は戦死者50名以上、戦傷者130名以上になります。
計算方法が盤石ではありませんが、波田支隊全体では、少なくとも戦死者100名以上、戦傷者300名以上になったと考えています。

日本軍全体の損害


次の他の部隊の損害も検討してみます。
第六師団は掃蕩期間中、歩兵第四十五聯隊の戦死者12名が唯一の記録です。
第十八師団も戦死傷者は出ていたようですが、激戦に遭遇した記録はないので、損害は少なかったと推測されます。
以上の検討から、戦死傷者は、新聞報道よりも多くなりますが、少なくとも800~900名以上は発生していたと考えています。
次に広徳周辺の掃蕩戦で新しく判明した分を追加した全体の概要図を作成しました。
まだ判明してい無い部分もありますが、追加資料を見つけ次第更新していきます。


Ⅲ.海軍の関わり

馬山虐殺事件でも取り上げましたが、海軍の航空部隊が馬山を空襲したと思われる記述が「支那事変における帝国海軍の行動」にあり、海軍の積極的な参加姿勢がうかがえます。
他の資料でも支那事変実記第八輯の3月18日に海軍の関わりを示す記述があります。

「海軍機、廣徳を空爆
この地上部隊(掃蕩作戦に参加した陸軍部隊―筆者注)の作戦に協力して、わが無敵海軍航空隊○機はこの日午後二時○○基地を出発、廣徳城内の敵に対して大爆撃を敢行し、敵に多大の損害を與へた
空中よりの偵察によれば、行軍の進撃によつて山嶽地帯から狩り出された敵は、目下算を亂して廣徳城内に逃げ込みつつあり、城内は右往左往する敵の敗残兵で大混亂に陥つてゐる様子である。」

他にも、支那事変実記第八輯3月15日に次の記述があります。

「太湖の敵帆船五隻を撃滅
太湖付近の殘敵掃蕩は、日一日と輝く成果を収めつつあるが、連日太湖付近の警戒に當ってゐた加藤大佐の率ゐる砲艇隊では、この日午後五時頃、折から薄暗闇迫る五峰山附近に、九隻の奇怪成る大型帆船が航行してゐるのを、附近を警戒中の池田、白石兩大尉の指揮する一隊が発見し、静かにこれに近づかんとして兩者の距離約五百メートルに達するや、突如として該帆船は猛烈なる砲撃の火蓋を切った。
かねて斯くあることを期してゐた我が方では直ちにこれに應戦し交戦二時間半、夜の帷全く下りた太湖上に凄壮な放火を交へ、遂にうち五隻を撃滅して火を放ちこれを炎上せしめた
此間早くも、他の四隻は横山島南岸に船腹をつけて、驀地に陸上に向つて逃走を開始したので、これを追つて機銃の掃射を浴びせること十數分、その遺棄死體によつて果然この帆船の搭乗員は立派な支那正規軍と判明した。
この戦闘によつて敵の蒙つた損害は遺棄死體のみで二百を下らず、外に溺死せるもの多數ある見込で、更にチェコ機銃、ベルグメン機銃各二挺、小銃、自転車、弾薬多數を押収した。」

馬山虐殺事件でも触れていますが、この戦闘は海軍の砲艇隊によるものとみられます。
日付は若干異なりますが、A氏手記に馬山から出発した後の3月16日、戦闘により何隻かの船が太湖上で炎上している様子が記されており、この時の戦闘の一部を記述したものと思われます。
広徳周辺の掃蕩は、主に内陸部での戦闘が中心であったため、海軍の活動範囲は限られていたようですが、空や水上など可能な範囲で参加していたようです。


Ⅳ.民間人への影響

この掃蕩戦のなか、馬山虐殺事件は起こりましたが、他の部隊で類似した事件は起こらなかったのでしょうか?
事件を象徴する放火と虐殺の2つを日本側の資料から確認してみます。

1.放火 日本側の資料をもとに

台湾歩兵第一聯隊第一中隊史に次のような記述があります。

「三州山系の掃討作戦は我波田支隊に課せられた大作戦である。杭州から三州山系を通り、太湖に達する広い地区を無人地帯にする掃蕩作戦であった。
生けるものは、豚・鶏にいたるまで一切殺せ、食糧となる米、トウモロコシ、豆類等は焼き、またはクリークに投げ込み、処理し、家は焼き払い、敵部隊が住めなくせよ、という非情な作戦であった。」

台湾歩兵第二聯隊第十中隊でも、杭州から広徳へ行軍する途中にある集落を焼却した話が陣中日誌に登場します。
所属部隊不明の「焼却隊」とも遭遇しているようなので、他の部隊にもそうした組織が存在していたことを示しています。
同第二聯隊の回想記である「軍旗と共に幾山河」には、さらに放火の具体的な記述があります。

「昼でもみんな眠って歩いていた。四日三晩、不眠不休の行動だ。
アメリカのベトナム枯葉作戦ではないが、敵の巣窟にならないようにと部落の焼き払いもやってみたが、屋根の家は兜も角練瓦や石で作った家の焼却は容易でない。」

歩兵第百十六聯隊の関係資料にも気になる記述があります。
同聯隊史に19日の泗安鎮へ向かう途中「復帰してきた敵の拠点部落を次々に焼き払い」、菱湖鎮付近の部落も焼いたとあります。
同聯隊聯隊砲中隊の中川中隊長の遺した「陣中雑見」には、さらに具体的な記述があります。

「(歩兵第百十四聯隊)討伐隊は湖州―長興―下泗安を経て、再び湖州に引き返し、菱胡鎮―徳清と巡って、十八日には長興以西の沿道部落焼払いの命令が出て、次々と焼かれる民家の煙は天に沖し、惨状この世のものとも思われなかったと書かれている。
(第二中隊記録)また、二十六日には杭州から湖州に通ずる水路を利用していた日本軍の物資輸送隊が度々襲撃されるので、クリーク沿いの千メートル以内の民家焼き払いの命令が出て、これも同じく大規模な焼却作戦に出ている。
聖戦とは称していたが、こちら側に不都合な障害物だと言っては、土地の民衆の迷惑も考えない行動は、民衆の抗日意識を助長する結果を生んだものであろう。」

「歩兵第六十八連隊第一大隊史」には日本軍が戦闘行為の一環として放火していたことを示す記述があります。

「(昭和13年)三月二十九日
峻険な高地に拠る敵に対し、山裾より火を放っての寄攻を企図して、聯隊に焼夷材料を求めたが材料なし。
依て、一三〇五左第一線の第四中隊が奇襲戦法で敵陣の一角を占領するや、西北の強風を利して山裾より火を放つべく、一四〇〇第一線各中隊の一部が野猫山、鉄山付近の部落に挺進して放火をする。」

歩兵第十八連隊第七中隊兵士の日記に次の話が紹介されています。

「四月一日
(中略)今日はH軍曹(本文では実名)を長として、小銃二個分隊軽機一個分隊で吊橋西方地区の焼打の命令を受ける
戦争とはいえ、罪もない民家を焼き払うのは忍び難いが、命令に背くことはできない」

第七中隊は当時張渚鎮付近にいたので、吊橋もその付近の地域と考えられます。
こうした記述から、馬山虐殺事件以外でも、集落の放火は行われていたとみるのが自然です
敵性があると判断された集落は、徹底的に放火し食糧も焼き払って中国軍が再び利用できないようにする行為は、馬山虐殺事件と一致します。
焼き払われた可能性のある集落は他にもありそうです。
掃蕩作戦に度々登場する張渚鎮も3月29日の段階で、「戦禍は激しく受けて悲惨な姿になっている」との記述があり、廃墟と化していた様子がうかがえます。
「歩兵第六十八聯隊第一大隊史」には炎に包まれた溧陽の写真とスケッチが掲載されており、「歩兵第十八聯隊写真集」にも廃墟と化した溧陽の写真があります。




左 溧陽占領 出典:歩兵第六十八聯隊第一大隊史     右 猛火につつまれる溧陽付近の部落 出典:豊橋歩兵第十八聯隊写真集 

後で触れますが、中国側からはより詳細な放火に関する資料があります。
よって、台湾第一聯隊第一中隊の受けた「集落を焼き払う命令」は、全ての部隊に指示されていたと考えるのが自然かと思われます。


2.虐殺発生の可能性

非戦闘員の虐殺が起きた可能性はないのでしょうか?
周知の通り部隊誌の多くは、民間人の虐殺に関する記述は一切書かないのが普通です。
しかし、上記でも触れましたが、台湾歩兵第一聯隊第一中隊の元兵士の手記に、「生きているものはすべて殺せ」との残酷な命令があったことを伝えています。
こうした命令がある以上、敵性のある集落と判断された場合は、家屋・食糧だけでなく、報復として住民への殺害が起きる可能性はあったとみられます。
支那事変実記第九輯の4月21日に、掃蕩戦の「戦果」を伝えた記述がありますが、気になる部分があるので抜粋します。

「而して今回の討伐において顕著な点は便衣隊の頗る多いことで、正規兵で便衣を纏ったものも少なくなく、更に土民が強制的に便衣武装せしめられたもの頗る多く、為めに敵のこの方面の抗争拠点たる寧国の如きには、殆ど支那住民の姿が見られなかった程で、如何に一般民衆に対する強制武装が苛酷に行はれたかを如実に物語ってゐた」

この記述によると、便衣兵と民間人の区別は難しい状況であり、正規兵と誤って殺害された民間人がいてもおかしくありません。
虐殺行為と認定するには見解の分かれるところですが、銃弾の飛び交う戦闘地にいたため、巻き込まれて死んだ民間人もいたようです。
「四月二日
(中略)何かにつまづいたので、良く見ると、住民が四、五名死んでいる
白髪の老人、手には長いキセルを持っている。
家族で此処まで避難して来たのだろう。
私達を敵と間違えて撃った弾が命中したのだ。
何ということだ。
私が一番心配していたことが現実になってしまった。」
(歩兵第十八聯隊第七中隊所属兵士)
この戦闘は、前後の記述から張渚鎮付近と考えられます。
他の戦争でも、こうした事例はよく見られるので、氷山の一角である可能性は高いとみられます。
今のところ、日本側の資料で住民を虐殺したと明確にいえる事例は、馬山虐殺事件のみです。

日本側の資料には、数は少ないものの虐殺(馬山虐殺事件)と放火(台湾軍・第三師団)に関する資料はあります。
馬山虐殺事件では略奪、強姦もあったとしていますが、この2項目に関する記述はほとんどありませんでした。
デリケートな項目のため、軍の記録に残されなかった事情があるものとみられます。
一方中国側の資料では、虐殺・強姦・略奪・放火に関する詳細な記録が遺されています。

中国側の資料

浙江省

2014年に出版された「浙江省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に、この時期に次の「惨案」があったことを報告しています。
3月20日 日本軍船舶が長興県泗安、林城時、泥兜村(泗安塘南側湾曲附近)を往来していたところ、抗日武装集団に襲撃された。
村民に報復するため、日本軍は泥兜村へ襲撃に向かい、平民12名を銃殺し、草ぶきの家屋427軒、平屋651軒、大型建物26軒を焼却、食糧20000キロ、羊肉・豚肉250トン、牛5トンを略奪した。
同日 日本軍は徳清県大麻鎮、葛順発に侵入し、4名を銃殺し、1名負傷
蝋燭工場1件、染物屋1件、薬店1軒、油屋1件、大型の家屋20軒、平屋24軒、草ぶきの家屋4軒焼却された。
他にも、陳阿珍などの農家平屋173軒、草ぶきの家屋12軒焼却された。
3月21日 日本軍は海寧県張店鉄道沿いにて抗日武装集団の襲撃にあった。
報復を実施するため、数百名の日本軍が自硤石を出発し、鉄道線沿いに位置する祝家埭、戚家埭、蒋家ダン(竹+断)の民家119戸、家屋565軒を焼却した。
他にも金龍村で22戸の民家、家屋97軒、陳家蕩では民家9戸家屋76軒焼却したため、千人余りの村民は変えるべき家も無いため、他の集落へ慌てて逃げた。
3月25日 日本軍は徳清県双渓郷に侵入し、家屋935軒焼却し、家畜246トン、米625石破壊した。
3月26日 湖州と杭州を開通している水路を警備していた日本軍は1000以上の兵を終結し、竜渓の両岸から南北に分かれてすさまじい焼殺を実施した。
北の呉興県菱湖鎮査家ダン(竹+断)から南の杭県王家庄に至るまでの140以上の村落に対し、日本軍は585名の平民を殺害し、7799軒の家屋を焼却した。
3月30日 日本軍は掃討のため崇徳県同福郷から李巾浩などの平屋414軒、大型建物26件を焼却した。
翌日、日本軍は沈進山などで5名銃殺し、凌柏林などで2名溺死させ、村民の大型家屋32軒、平屋791軒焼却した。
3月31日 日本軍は崇徳県の高橋鎮、崇福鎮、虎ショウ(口+粛)郷、景云郷等の地を分かれて進軍し、王連方などで14名銃殺、大型建物104軒、平屋1845.5軒、草ぶきの家屋8軒を焼却した。
同時に、観音堂、外姚廟、万年庵、景衛廟は焼却され、農家のナンキンハゼの樹木86畝や桑の樹木126畝も焼かれた
4月6日 日本軍機7機が富陽県大源地区を爆撃し、爆弾21弾投下、爆死39名、負傷者21名、破壊された家屋37軒
同日 午前9時55分、日本軍機4機が上虞県崧厦、百官から蒋家橋、桃園橋、谷家祠堂、横三弄、里明堂などに、重量のある爆弾と焼夷弾20発以上を投下し、爆死45名、負傷者60人余り、破壊された家屋32軒
4月14日 嘉興県王江ケイ(氵+圣)鎮鉄店港炮楼(莫家村炮楼)の日本軍将校黒田は、欲望のため、婦女を強姦し、村民を殴打したため、心に恨みを持たれた。
15日、黒田率いる日本軍は報復のため、全六村に対し銃を撃ち、152軒の民家と家屋1048軒焼却した。
4月15日 袁花鎮に侵入海寧県城盐官に駐在していた日本軍は、国民政府軍第62師第368団謝明強部隊をせん滅しようとした。
先にそれを知った謝明強部隊は、臨機応変に対応できていなかった。
日本軍は撤退時にその途中にある馬家橋西塘地大路に火を放ち、民家37戸家屋171軒を焼却した。大臨村では外繭工場、廟宇などの建物88軒焼却された。

日本側の資料である歩兵第百十四聯隊聯隊砲中隊の中川中隊長の「陣中雑見」と比較すると、合致する点は見られます。
3月20日から25日にかけて、千軒以上の建物が焼却されたことになりますが、3月18日長興以西の沿道部落焼払いの命令が出たとある点で合致します。
26日から30日になるとさらに多い一万軒近い家屋が焼却されていますが、ここで見られる行為は「杭州から湖州に通ずる水路を利用していた日本軍の物資輸送隊が度々襲撃されるので、クリーク沿いの千メートル以内の民家焼き払いの命令が出た」ため日本軍は「焼却した」という、歩兵第百十六聯隊の記述と合致します。
民間人の虐殺事例は3月で600人以上にのぼります。
いずれも第十八師団が実施したものと考えて間違いないかと思われます。
4月の事例は、杭州の西に位置する嘉興・海寧で発生していますが、先月付近を警備していた第二後備兵団は復員によりこの地を離れているため、これも第十八師団によるものと思われます。

安徽省

2014年に出版された「安徽省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に、この時期に次の「惨案」があったことを報告しています。

3月22日 朗渓は再度陥落し、第六師団の一部は、県城、梅渚、東夏などにある家屋210軒余り、穀類13万斤以上が焼却され、民間人470人以上が殺害された。
時期は不明ですが3月中に、宣城孫阜を占領した日本軍は、馬義坊、興隆街街を放火で焼却し、中国軍民千人以上を殺害し、人口は三分の一に激減したと報告しています。

日本側の資料と比較して検討すると、3月22日の事例は、当時そこにいた歩兵第四十五聯隊とのかかわりが強いとみられます。
当日同聯隊が朗渓にいたことを示す資料は未確認ですが、3月末にはいたことを示す資料は複数遺されており、それ以前に朗渓に到達していた可能性は高いとみられます。

中国側の資料は、広徳周辺の掃蕩の期間中、馬山以外にも虐殺・放火・強姦などの被害を被った街や村があったことを伝えています。
ちなみに馬山のある江蘇省の資料を見つけることができませんでした。
しかし、まったくなかったと言い切る自信はありません。
歩兵第十八聯隊第七中隊の元兵士の日記にある、張渚鎮付近の「吊橋」という地域の住居に放火せよとの命令を受けたとあります。
この件は中国側の資料では未確認です。
中国の資料でも、見落としや確認できなかった事例はあるとみられます。
3月12日から始まった広徳周辺の掃蕩で、殺害された民間人は三千人以上、そのうち半数近くを馬山虐殺事件の死者(戦死者を除くと1400人余り)が占めています。
また杭州付近では、建物や食糧への焼却が広大な面積で実施されている様子を日中双方の資料は伝えています。
こうした行為は中国人にとって、単なる暴力行為としか映らず、抗日意識をますます増加させ、地域によっては抗日武装集団の結成を促す十分なきっかけにもなったと思われます。

Ⅴ.掃蕩戦の「戦果」

1.広徳周辺に集結した中国軍の規模とその変遷

支那事変実記第九輯4月21日に、広徳周辺の掃蕩に関する記述があります。
「三月中旬以来我が猛攻のため失った敵兵力は一萬数千に及び、その他負傷兵数は約三萬を超え、しかも遊撃戦術の機としたる所期の目的は全然達せられず、蒋介石は甚だしき不評に名誉挽回の決意を固めて、執拗なる反撃命令を発し、行軍占領地域内の攪乱を図らんとしているが侵入の都度我が所在部隊の為めに粉砕されている。
なお三月中旬以来江南方面各地に侵入し来たり、行軍部隊と交戦した敵の兵力の主なるものは大体次の通りである。
広徳方面 三月二十二日二〇〇、二十五日一.四〇〇 二十八日一.八〇〇 三十日三.〇〇〇
宜興方面 三月十日七〇〇 二十一日一.〇〇〇 二十三日一.三〇〇 二十五日より二十九日五.〇〇〇 四月三日より十四日まで三〇〇
長興方面 三月二十九日一.〇〇〇
慄陽方面 三月十五・六日一.一〇〇
孝豊方面 三月十八・十九日二〇〇
宣城方面 三月十四日一.〇〇〇 十六日三.〇〇〇 十九日三〇〇 二十一日一.二〇〇 三十一日二.五〇〇
丹陽湖東南方面 三月二十三日三.四〇〇 二十四日二〇〇
蕪湖方面 三月三十一日五〇〇 四月十七日九〇〇
餘杭方面 四月五日一.五〇〇
富陽方面 四月三日一.〇〇〇
三山鎮方面 四月一日四〇〇」


3月10日

3月14・15日

3月15日・16日



3月18日・19日

3月21日・22日

3月23日



3月24日

3月25日

3月28日



3月29日

3月30日・31日


4月3日・4日・5日

4月17日

これらの数字が実数に近いか、今となっては調べるすべはありません。
また、4月5日から同月16日にわたり、張渚鎮附近で激しい戦闘が行われているのですが、そのデータは反映されていません。
一部問題は見られますが、部隊誌にある戦闘の時期と重なる事例もあるので、これを参考に広徳周辺に集結した中国軍の規模とその変遷を見ていきます。

①3月10日~20日 宜興附近と蕪湖付近に中国兵が出現しており、その多くは蕪湖に集中。
②21日~23日 宜興付近と蕪湖附近に出現し、多くは蕪湖付近に集中。
③25日~29日 宜興附近に多くの中国兵が集中。
④4月17日 杭州付近に集中。宜興付近にも出現するが、以前ほど大きな規模ではない。
①から④の変遷を見ると、規模の大きい中国軍が宜興・蕪湖に、広い範囲で分布していたのですが、やがて活動地点は宜興付近にせばまり、勢力が弱まっている経過がうかがえます。

次の図は、上記のデータをもとに、延べ五千人以上の中国兵が出現した都市と、その総数を示したものです。
宜興・広徳付近の規模は、ほかの地域に比べてずば抜けて多い傾向が見られました。
中国軍がこの地に集結していたとする日本側の情報の正しさを証明しています。
しかし、情報は活かせても戦場となった起伏の激しい地形への対処法は不十分であり、予想外に多くの損害を生じました。



しかし、宣城にも常に千人規模の部隊が集結していた事実も注目されるべき事柄です。
この付近は第六師団の警備地ですが、多くの部隊を広徳付近に行軍させないため、それを牽制する目的があったのかもしれません。
先ほども指摘したように、このデータに欠陥は見られますが、掃蕩戦による中国軍の動向の一端を見ることのできる資料です。


2.中国軍の損害

支那事変実記第九輯の4月1日に次の記述があります。
「太湖西方の粛清今や成る
(中略)
同方面の敵は中央軍三個師乃至四個師で、南京の陥落したことも知らず頑強にわが軍に抵抗してゐた。
この掃蕩戦における交戦回数は三十餘回、交戦せる敵兵力は約三萬に上り、その遺棄死體は七千に達した。
我方の損害は戦死傷合計約四百である。」

4月1日は後期作戦が始まった頃なので、この記述は前期作戦の戦果と考えて間違いないとみられます。
「陸海軍軍事年鑑 昭和14年版」に広徳周辺の掃蕩の戦果をしめした「彼我損害一覧表」があるので引用します。

 中支作戦 掃蕩期間 主として太湖西方南方討伐  三月 遺棄死体一三二五〇  四、五、六月 遺棄死体三〇〇〇

支那事変実記と比較して、遺棄死体の数が倍近い差があることがわかります。
中国軍の損害の把握は今となって不可能ですが、遺棄死体数から規模の大きい中国軍との戦闘であったことをよく示しています。
4月以降の「三〇〇〇」と激減しているのは、いささか少ない印象を受けます。
上記で確認してきましたが、4月に入っても激しい戦闘が何度も発生しており、実数は3000人より多いとみられます。

3.掃蕩戦の結果

掃蕩戦終了後、広徳付近を警備する部隊は配置されず、第六師団や第十八師団は元の配置に戻って警備を続け、第三師団歩兵第二十九旅団は新たな警備地へと各々移動しました。
そのため広徳周辺は再び空白地となり、中国軍が進出しやすい地域になります。
こうした状況から、掃蕩戦の目的は、広徳周辺に多数集結した中国軍に対し大きな打撃を与えて、治安を安定させることにすぎなかったのではないかとみられます。
掃蕩戦終了後、上海―南京―寧国―杭州の広大な地域には、再び中国軍が進出し、再び日本軍を襲撃するようになります。
共産党系の新四軍は、江蘇省各地に「抗日拠点」を築いて遊撃戦を続け、1943年には再び馬山で日本軍と衝突しています。
広徳周辺の掃蕩戦をみてきましたが、次の結果がもたらされたと考えます。
①広徳周辺から有力な中国軍(主に国民党系)を追い払うことはできたが、当時の日本軍は徐州会戦が始まる頃で、広徳に配置する部隊は確保できず、再び進出されるリスクは残されたまま掃蕩戦は終了した。
②結局都市と道のみの占領という状態は変わらず、隙間だらけの占領地には再び中国兵が進出し、襲撃事件がおこるといういつもの状態に戻った。
③民間人にとっては、日本と日本軍に対し万斛の恨みを遺す悲惨な結果しかもたらさなかった。

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