歩兵第六聯隊 | 歩兵第六十八聯隊 | 歩兵第十八聯隊 |
歩兵第三十四聯隊 | 騎兵第三聯隊 |
歩兵第七聯隊 | 歩兵第三十五聯隊 | 歩兵第十九聯隊・歩兵第三十六聯隊 |
歩兵第五十五聯隊 | 歩兵第五十六聯隊 | 歩兵第百二十四聯隊 |
歩兵第十三聯隊 | 歩兵第四十七聯隊 | 歩兵第二十三聯隊 | 歩兵第四十五聯隊 |
歩兵第百四十九聯隊 | 歩兵第百五十七聯隊 |
南京戦後、広大な地域を警備することになった日本軍。
内地はちょうちん行列で祝賀ムードでしたが、現地の日本軍は占領地のいたるところで中国軍の襲撃を受け、時に激しい戦闘のため多数の戦死者・戦傷者が発生するなど、安定とはほど遠い状態でした。
ここでは、南京戦後の知られざる占領地の実態を見ていきます。
南京戦後にあたる昭和12年12月末、軍は各兵団の配置を次のように決めました。
第十六師団 南京
第十三師団 来安 除県、六合、全椒
天谷支隊 揚州
第三師団 鎮江 金壇 常州 江陰 無錫
第九師団 常熟 太倉
百一師団 上海
第六師団 蕪湖 太平 寧国
第百十四師団 湖州
第十八師団 杭州
第一後備兵団 松江
第二後備兵団 長安とその北部
翌1938年になると、配置に変更が見られます。
1月末 第十六師団が南京から華北に転用され、天谷支隊が南京の警備を引き継ぐ
2月半ば 第三師団が揚州の警備を天谷支隊から引き継ぐ
2月13日 第百十四師団華北に転用され、湖州は第十八師団が警備を引き継ぐ
3月 天谷支隊の復員が決まり、南京の警備は第三師団(歩兵第三十四連隊第二大隊と歩兵第十八連隊第八中隊など)が担当する
次に馬山虐殺事件が起こる以前の、南京戦後から3月初めにおける日本軍占領地、特に揚子江右岸の状況を各兵団別にみていきます。
昭和12年末第三師団の配下聯隊は次のような配置を命じられました。
歩兵第六聯隊 鎮江
歩兵第六十八聯隊 金壇 丹陽
歩兵第十八聯隊 江陰 靖江
歩兵第三十四聯隊 無錫 曹橋
騎兵第三聯隊 常州
翌年1月上旬揚州付近を警備していた天谷支隊は南京へ移動することになり、その空白を第三師団が引き継ぐことになりました。
昭和13年1月11までの警備状況
昭和13年1月12日以降の警備状況
同聯隊は南京戦後の昭和12年12月25日、第一大隊・第二大隊など聯隊主力は丹陽、第二大隊は金壇に配置されていました。
翌13年1月12日には次の配置へと変更されました。
第一大隊…邵伯鎮・仙女鎮
第二大隊…鎮江
第三大隊…揚州
「歩兵第六聯隊歴史」には警備期間中の様子が記載されています。
「昭和13年1月13日より4月20日まで警備地において各部隊毎に時期作戦のための教育・訓練を実施した。
この間第一大隊の警備地区である邵伯鎮においては時々夜襲を受けたが、よくこれを撃退した。
そのほか各大隊とも偵察部隊が敵と衝突したり、敵を討伐するなどのことがあったが一段には平穏であった。」
この記述の次にある「前期広徳付近の凹角陣地の攻撃 公道橋鎮大儀街附近の討伐 自一三,二,二四 至 一三、二、二八」を長文ですが引用します。
「敵は陳文・高楚の指揮する抗日義勇軍別働隊第二大隊で「チェッコ」軽機関銃二を有する約三百であった。」
この中国軍は、間宮少佐率いる第三大隊が攻撃したとあります。
「2月27日午前六時、敵は警戒中の我下士哨に対し来襲した。
掃蕩隊は直ちに警急集合し、各所命の配置に付き、戦闘が開始された。
各隊は敵の猛射を冒して攻撃し、天命となり彼我識別明瞭になると、敵は退却を開始した。
第一線両中隊は直ちに追撃に移り、算を乱して潰走する敵を追撃すること約二千米、掃蕩を完全に終了した。
敵の死体二十四を数え、我方の損害は下士官一名が負傷しただけであった。」
ちなみに「前期広徳附近の凹角陣地の攻撃」とあるので、後の「広徳周辺の掃蕩」を想起させますが、2月なのでこれは正しい記載ではありません。
しかしながら、この時期六聯隊の警備地域附近には、小規模な部隊から日本陸軍の1個中隊以上に匹敵する中国軍が出没していたことがわかります。
部隊誌以外では支那事変実記第六輯の1月28日に次のような記事があります。
「川並部隊の殊勲
寒氣と食糧の欠乏から土匪に早變わりした支那軍遊撃隊は揚子江北岸方面には相當多數に上り、良民を脅威している事実が判明したので、川並部隊の一部は鎮江對岸の揚州付近一帯に亙り本日より土匪掃蕩を開始し、更にその一部は○○とがっして浦口附近大河口上流の優勢なる土匪と交戦、殆どこれを殲滅した。」
川並部隊とは川並密大佐率いる歩兵第六聯隊と判断して間違いないとみられます。
両方の資料からうかがえるのは、地理的な特徴からか、中国兵の出没する地域が北部に偏っていることがわかります。
なお部隊史では襲撃してきた勢力の一部を「抗日義勇軍」と表現しており、正規軍以外の勢力も認識していたようです。
新愛知新聞 昭和13年3月30日
新愛知新聞 昭和13年4月2日
同聯隊でこの時期の詳細を知る手がかりは、部隊誌が残されている第一大隊のみです。
資料に制約がある点は否めませんが、「歩兵第六十八聯隊第一大隊史」から当時の状況を確認していきます。
昭和13年1月24日から2月4日までの動向
2月4日から2月18日までの動向 ―戦闘あり …戦闘なし
2月20日から2月26日までの動向 ―戦闘あり …戦闘なし
3月5日から3月8日までの動向
同大隊は、昭和12年12月25日に鎮江へ移動し、翌13年1月11日には金壇へと移動しました。
新愛知新聞 昭和13年1月22日
金壇到着後の動向を月別に見ていきます。
1月の動向
1月27日~1月29日 堯頭―サ(さんずい+夏)渓―湟里―水北―岸頭―金壇と行動。敗残兵約40名、到着に先立ち南方に逃走。
1月31日 下新河―王母観―崑崙橋―金壇と移動。
2月の動向
2月2日~2月4日 黄塘橋―卜才橋―厚ウ(土へん+于)―サ(さんずい+夏)渓―堯塘―金壇と移動。
2月4日~2月6日 社頭鎮付近で約五十名の中国軍と白兵戦。
2月5日 指前標付近で中国軍約百名と戦闘。
同日 凍バイ(さんずい+売)浦―東ユ(しんにょう+由)庄―岸頭―金壇と移動。
2月10日 萬山―湯庄―東木林―金壇と移動。
2月13日~2月15日 荘埠―青培―直渓端―鳥ウ(土へん+于)―金壇。
2月14日~2月15日 黄盧橋―導野橋―張堰―黄塘―金壇。
2月16日~2月18日 徐村―新建―豊義―東安―サ(さんずい+夏)渓―水北―金壇。
2月19日 崑崙橋―西岡―三興―金壇と移動。三興で掃蕩。
2月20日~2月22日 珠淋鎮付近にて中国軍約五、六百と戦闘。22日第四中隊包囲を受ける。
2月26日 西岡―土山附近 下新河―王母観―三興―崑崙橋を掃蕩。
3月の動向
3月1日 岸頭―水北―東木林―金壇と移動。
3月上旬 師団は「溧陽・宜興付近の敵遊撃隊本拠を覆滅することを企図し指前標付近への進出のため道路、特に架橋の整備を図る」こととなる。
架橋中である3月10日・3月11日には、中国軍が来襲し戦闘が発生し第十五橋点火されるが消火。
1月27日から、広徳周辺の掃蕩作戦が開始される前日の3月11日までの間、連日のように掃蕩作戦を行い、ときに数十人と小規模な部隊から、500~600人と規模の大きい部隊と遭遇し、戦闘に発展した様子がうかがえました。
中国兵の出没地点は、いずれも日本軍が常駐していない町や村に集中していたようです。
歩兵第十八聯隊は、本部及び第二大隊と第三大隊は江陰、第一大隊は靖江へ、それぞれ配置されました。
靖江を警備していた第一大隊第二中隊の動向をつづった「旗の許に」によると、警備中次のような出来事があったことを伝えています。
「昭和十三年の一月も無事に過ぎた。
しかし二月に入ると敵来襲の情報が入って緊張する。
情報は靖江の西北方十五キロにある泰興という部落に敵が侵入して来て、我を襲撃するというのである。
早速、大隊から岡部見習士官以下十名が、自転車隊を編成し、偵察に出発したが、夕方になって皆徒歩で帰って来たので、これは変だぞと思っていると、はたせるかなこの偵察隊は十二キロまで前進したところで、両側から敵の射撃を受けたので、自転車を棄てて畑の中を逃げかくれしながら帰って来たという。
その夜は特に警戒配備を増強して待機したが、別に変ったこともなく夜が明けた。
機先を制する意味で、早朝討伐隊を編成し、大隊長自ら指揮のもとに出発した。」
しかし中国軍はすでに北方へ逃げたため、戦闘には発展しなかったようです。
江陰を警備していた第二大隊第八中隊を動向を記した部隊誌「歩兵第十八聯隊第八中隊誌」には次の記述があります。
1月30日 敗残兵の横行頻繁との情報があり、あす掃討に出かけることに決まる。
1月31日 中隊は153名の特別編成中隊を作り無錫街道に沿って付近の部落を討伐掃蕩。翌日終了
2月17日 情報として合同通信班の1名が行方不明となり、後に遺体の一部が発見される
1/30~1/31の掃蕩作戦の詳細は不明ですが、大きな損害はなかったようです。
第三大隊は警備期間中の状況をしめす資料はほとんど残されていないため、この間の動向は一切不明です。
警備地が揚子江左岸にまで及んでいるためか、歩兵第六聯隊と同じく北部から襲撃を受けている様子がうかがえました。
江蔭付近にも不明確な情報ではありましたが、中国兵が入り込んでいた情報があったことがうかがえます。
同聯隊は第一大隊が曹橋鎮付近、聯隊本部・第二大隊・第三大隊は無錫へと、それぞれ東西に分かれて配置されてました。
同聯隊の歴史を伝える「歩兵第三十四聯隊史」には昭和13年1月から3月初めにかけての戦闘は記述されていませんが、「無錫・曹橋鎮付近警備間の戦死者 (昭和12年12月-同13年3月)」に12名の「戦死者」が掲載されています。
そのうち7名の戦死日が12月25日となっています。
同聯隊の「第二中隊史」「十中隊史」には、昭和12年12月25日、無錫に向かう途中にある石橋湾で戦闘が起き7名戦死したとする記述があります。
戦死者が発生すると戦傷者数は、ケースにもよりますが倍以上発生している場合も見られるため、有力な中国軍と遭遇し戦闘に発展した可能性も考えられます。
残り5名の戦死場所については全く情報がありませんが、戦死日の期間が昭和13年1月から3月はじめとあり、ちょうど無錫・曹橋鎮の警備中なので、何らかの襲撃があって戦死したと考えるのが自然かと思われます。
この時期の資料が不足しているため検討は難しいのですが、戦死者が発生している背景には、やはり中国兵出没との関係を推測させます。
「騎兵第三聯隊史」によると警備を担当した常州付近でも、詳細は不明ですが、昭和12年12月24日から昭和13年4月4日のあいだに「小部隊による討伐が繰り返し行われ」、「特に青幣を使った情報は的確で、夜間奇襲包囲して夜明けとともにこれを撃滅する戦闘が行われ、地区内の治安は急速に回復していった」とあります。
短い記述ではありますが、警備地付近で中国兵が出没していた様子がうかがえます。
以上第三師団の警備地を見てきましたが、警備地附近に中国兵が出没しており、特に歩兵第六十八聯隊の警備地域では、中国軍の襲撃に何度も遭遇し戦闘へ発展するほど活発に行動していた様子がうかがえました。
歩兵第六十八聯隊の警備地南部の慄陽は、後に「広徳周辺の掃蕩」で日中両軍による激戦が展開されます。
中国軍は、日本軍の本格的な掃討を実施する前から、溧陽付近で活発な活動をしていた様子がうかがえます。
第九師団は南京城攻略戦終了後、蘇州・昆山へ移動を命じられました。
「歩兵第七聯隊史」によると常熟へ移動後次のような動向があったことを伝えています。
2月7日 陽成湖北側地区の掃蕩
2月12日 陽成湖西側地区掃蕩
この2件の掃蕩に関する情報はほとんどありませんが、掃蕩を実施する前には「○○に中国兵が出没している」などの情報が部隊にもたらされるのが普通です。
この掃蕩も「敵軍出没」の情報が聯隊にもたらされて行動に至ったと考えるのが自然です。
※現代中国の地図には「陽成湖」は見当たりませんが、部隊誌の付録地図によると、位置的に陽澄湖に該当するようなので、それにしたがい作図しました。
部隊誌である「富山聯隊史」によると、蘇州への移動後に実施された掃蕩に関する記述があります。
1月26日 太湖東岸地区一帯に残敵蠢動の情報が入る。
1月27日 北沢鎮と呉江鎮の掃蕩を命じる。
1月28日 南庫鎮一帯の掃蕩を命じる。
2月8日 陽成湖附近の掃蕩。
最後の掃蕩は、歩兵第七聯隊と近い日時に陽成湖付近の掃蕩を行っており、旅団司令部からの命令であったと考えることができそうです。
両聯隊は警備地域東側に配置されていました。
部隊誌には掃蕩作戦に関連する記述はほとんどありませんが、戦前の資料である「中支方面ニオケル行動概要 歩兵第三十六連隊」(防衛研究所所蔵)に次のような記述を見つけました。
「昭和13年1月8日嘉定付近に集結し嘉定南翔青舗に亘る広大なる地域の警備に任じ戦後いまだ日浅く治安攪乱、匪団出没絶えざる該地区の警備、治安の確保に任じつつ鋭意戦力の充実を図り時期作戦を準備す」
「匪団」を正規もしくは非正規の中国兵ととらえるか、盗賊の類ととらえるか、判断の難しいところですが、歩兵第三十六聯隊の警備地の治安が安定していなかったことがうかがえます。
歩兵第十九聯隊も、元兵士宮部一三さん著「風雲南京城」によると、太湖周辺の掃蕩に2回参加したとあり、附近ではなく警備地域以外の掃蕩作戦に参加したことはあったようです。
おそらく、その2回とは、歩兵第七・三十五聯隊が実施した1月26日~1月28日と、2月8日の掃蕩戦に相当する可能性はあります。
以上、第九師団の警備地域の状況を概観してきましたが、各聯隊の動向から、詳細な部分に不明な点は見られますが中国兵が出没する情報に基づいて、掃蕩作戦を実施していたてい様子がうかがえました。
同師団は昭和12年12月23日杭州攻略戦後、杭州とその周辺を警備していました。
翌年2月、第百十四師団が警備地の湖州から華北へ転用されることとなり、その空白地の警備を引き継ぐこととなりました。
当時の杭州付近の状況について次の記述があります。
「中国軍は各地に残存していた。
その主なものは蕪湖及び杭州方面に約20万、南部津浦線方面に3~4万とみなされていた。」(菊花清冽たり)
「広大な大陸に上陸した日本軍にとっての悩みは、占領した要地はいつまでも皇軍の意のままになるような中国大陸ではなかった。
日本軍の居住するほんの狭い区域だけは安穏であるにしても、抗日の意識に燃える中国民衆はかつて日本軍が血を流した処でも、日本軍の守備隊がいなくなると早速抗日物資を集積して、抗戦のゲリラ活動を始めるのである。
又杭州を中心とする浙江省一帯を残置する中国正規軍も占領地の付近に蟠踞して、兵力の少ない守備部隊を襲撃してくるといったような毎日の連続であった。」(われら聯隊砲とともに)
同聯隊は杭州西の余杭附近を警備していました。
部隊誌「菊花清冽たり」に次の記述があります。
「(昭和13年はじめ)再三にわたり大小さまざまな規模の敵の襲撃を受けたが、その都度反撃潰走させてその任務を全うした。
なかでも二月十四日の敵の襲撃は警備期間中最も大きな烈しい戦闘であった。
(中略)昼間は何ら敵状に変化も認められなかったが夜半過ぎ、突如として佐々野山陣地に対し敵の猛烈な射撃による攻撃が開始された。
(中略)余杭奪還を目指した優勢な敵の大部隊が大挙来襲したものと思われる。
激闘数時間に及ぶ混戦が続いた。
そのうちに配属砲兵隊の正確な集中支援射撃が始まりようやく敵の陣営に退却の兆しが見え始めた。」
払暁前には戦闘は終了したとのことですが、この戦闘で十数名の戦死者が発生したとあります。
この戦闘以外にも「再三にわたり大小さまざまな規模の敵の襲撃を受けた」とあることから、記録として残ってはいないものの絶えず中国軍の襲撃を受けていたことは事実のようです。
同聯隊は杭州付近を警備していました。
部隊誌(菊歩兵第五十六聯隊戦記)には、2月18日から2月26日にかけて、安吉・孝豊の掃蕩作戦を実施したとの記述があります。
第十中隊兵士岩永儀六さんの手記にその詳細があるので、それを基に時系列で並べていくと次のようになります。
2月18日 安吉、孝豊の残敵掃蕩のため出発
2月23日 孝豊にて中国軍と衝突
2月24日 1時50分中国軍の一部と衝突、9時撃退。しかしこの日第三大隊が中国軍の大部隊に完全包囲され、多数の戦死者が発生。
2月25日 中国軍が逆襲。
この後戦闘の詳細な記述はありませんが、警備を継続しているので退却したものと見られます。
この掃蕩作戦と同じ時期に歩兵第百二十四聯隊も安吉付近へ向けて掃蕩作戦を実施しているので、共同で行った作戦であったと見られます。
同聯隊は、杭州攻略戦後他の連隊と同じくその周辺を警備していましたが、湖州を警備していた第百十四師団が華北に転用されたため、2月13日から同地の警備を引き継ぐことになりました。
2月18日安吉附近へ掃蕩のため出発しています。
歩兵第五十六聯隊もほぼ同じ頃に安吉附近の掃蕩に出発しており、2個聯隊で実施された規模の大きい掃蕩作戦だったようです。
同聯隊元兵士村田和志郎さんが戦後出版した「日中戦争日記」にその詳細が記述されているので、それをもとに時系列で動向を追うと次のようになります。
2月18日 湖州から妙西へ出発 行軍中集中射撃にあい、戦闘へ発展。
2月19日 この日も戦闘があり、1名戦死。
2月20日 和平鎮占領
2月21日 呉山附近で中国軍から射撃を受ける
2月22日 暁野鎮突入
2月23日 馬家村に露営
2月24日 南山村に露営
2月25日 盛家埠にて戦闘し占領する。
参考できる資料は村田さんの日記に限られていますが、湖州付近にまで戦闘意識の高い中国軍が潜伏していた様子がうかがえます。
部隊史以外の資料に見られる第十八師団の動向
支那事変実記第六輯の1月16日に、「敵軍、杭州へ逆襲す」という記述があります。
それによると、張発奎・劉建緒軍は杭州奪回を狙っていたものの、餘抗西方の張軍は岩本部隊に撃退されたが、南方から進出した劉軍は三浦部隊と戦闘中とあります。
その後の詳しい経緯は不明ですが、1月21日藤山部隊により「杭州富陽間の山嶽地帯に蟠踞蠢動する敵に對し、徹底的掃蕩戦を開始し、二十一日朝までにすでに所要の高地を占領し、包圍體形をとりつつ降雪を衝いて前進、ジリジリと敵を壓迫しつつあり、これら残敵の掃蕩も一兩日のうちに完了するものと見られるに至つた。」とあります。
これ以後記述がないので、戦闘は21日で実質終了したと思われます。
部隊誌等にこの戦闘は一切記されていませんが、「岩本部隊」「藤川部隊」は、警備地からみて第十八師団もしくは第二後備兵団の部隊と見られます。
第十八師団の資料は非常に限られていますが、杭州近辺に聯隊規模の中国軍が活動していた様子がうかがえました。
出没する中国軍には次の特徴が見られます。
①規模の大きな部隊を編成し、杭州南部から北上して日本軍を襲撃してくる事例(1/16、2/14)。
②安吉・孝豊など、日本軍の警備の手が及ばない都市や村に集結し、日本軍の占領地附近にある山岳地帯に出没する事例。
ちなみにこの期間の歩兵第百十四連隊の動向について、部隊誌にはほとんど記述はありません。
その理由について、自分なりに考察したのですが、同聯隊はこの期間はほとんど掃蕩戦に出発することなく、杭州の警備のみを全うする任務を負っていたのではないかと考えています。
杭州附近は、第三・九師団と異なり、短期間の間に大規模な中国軍の襲撃を2度も受けています。
杭州の西側に位置する安吉付近にも好戦的な中国軍が潜伏している情報も当然師団司令部には伝わっていたと思われます。
こうした状況から、中国軍は杭州を重要視していると考えた第十八師団は、警備が手薄にならないよう歩兵第百十四聯隊を常駐させざるを得なかったとみられます。
第六師団は南京戦後、蕪湖附近の警備を担当することになりました。
「熊本兵団戦史」によると、各聯隊は次のような配置を取りました。
歩兵第三十六旅団・野砲兵第六連隊第一大隊・第二野戦病院…太平、彩石鎮、蕪湖鎮
歩兵第四十七聯隊主力、第四野戦病院…湾化鎮付近
師団主力残余の諸隊…蕪湖付近
日本軍が南京を占領したころ、蕪湖は第十八師団が占領していました。
後に第十八師団は杭州へ移動することとなり、第六師団が蕪湖の警備を引き継ぐこととなりました。
昭和13年1月初の配置
昭和13年2月中旬の配置
前年12月末から1月末までの動向
1月末から2月までの動向
同聯隊は、師団司令部より先に蕪湖へ移動しましたが、対岸の西簗山付近や裕渓鎮には中国軍が潜伏していたため、12月23日掃蕩が命じられました。
さらに南部の三山鎮に潜伏した中国軍も攻撃し、この地に第三中隊を残し主力は蕪湖へ戻りました。
12月31日には車両部隊が襲撃を受けているとの連絡を受けて、烏渓鎮、高淳、水陽鎮一帯を翌昭和13年1月7日まで掃蕩を続けました。
「熊本兵団戦史」によると、この掃蕩戦で多数の負傷者がでたとあります。
1月下旬になると、再び蕪湖周辺の中国軍は活発になり、夜間何度もに襲撃してきたことを「戦史」は伝えています。
中国軍は「逐次兵力を増し、山口南側白馬山付近に盛に陣地構築をはじめ、その後方石キ(石へん+危)鎮、竹糸港、楊附近に兵力を終結している状況」であったため、同聯隊は1月24日と25日にかけて、白馬山一帯を攻略しました。
2月に入ると、湾止鎮・寧国付近に潜伏する中国軍は再び活発になったため、第二大隊は他の聯隊と共にこの近辺の掃蕩を実施しました。
さらに以前占領した三山鎮付近にも中国兵の出没が著しくなったため、歩兵第二十三聯隊と協力し、三山鎮方面の中国軍を攻撃しました。
以上、南京戦後の歩兵第十三聯隊の動向を追ってきましたが、中国軍が1月末から2月にかけて占領地に多く入り込み、活動を活発化させている様子がうかがえます。
同聯隊は昭和12年12月28日、師団命令により寧国への移動を命じられました。
「郷土部隊奮闘史」(以下「奮闘史」)によると、安徽省南部にいた第十一旅が寧国附近を北上していることが原因で、湾止鎮―寧国道の沿線にしばしば中国兵が出没していたとの記述があります。
昭和12年12月29日主力は寧国、第一大隊は湾止鎮にそれぞれ移動しました。
1月に入ると、寧国城内外に中国機により何度も爆撃された(1月11日に3機、12日5機、16日5機、23日7機)ようですが、「日本軍には損害らしい損害はなかった」とのことです。
第一大隊の警備する湾止鎮にも、この期間に何度か中国軍の襲撃は見られたようですが、大きな損害が出たという情報はありません。
しかし2月13日に、湾止鎮に約四千の中國軍が襲撃し、陣地深くまで入り込まれるという危機に陥ります。
この戦闘は始まってから3時間後、中国軍は退却し、危機は回避されたようです。
「奮闘史」の著者は、第一大隊の警備していた湾止鎮は、師団司令部のある蕪湖と聯隊本部のある寧国の中継地点であるため、分断を狙ったと考えているようです。
第一大隊は2月23日まで湾止鎮を警備した後、聯隊主力のいる寧国へ移動しました。
「奮闘史」によると、中国軍は直接的な襲撃だけではなく、電線の切断、電柱の倒壊、橋の焼却などライフラインへの攻撃も並行して行っていたことも伝えており、襲撃方法が多岐にわたっていた様子がうかがえます。
連日やすむことなく繰り返される夜襲は兵士の精神面も影響していたようで、小隊長のなかにはノイローゼ気味になり、「昼寝て夜起きる」という警備体制に変更せざるを得なかったとの記述があります。
電線を切断する中国兵 出典 中国抗日戦争図誌 下巻
同聯隊は昭和13年1月3日南京を出発し、主力は蕪湖、第二大隊は裕渓鎮、他は西簗山などに移動しました。
「都城歩兵第二十三聯隊戦記」に中国軍の活動についての記述があり、長文ですが引用します。
「敵は付近に出没して小癪にも攻撃を繰り返し、また橋梁、鉄道などを破壊して交通を妨害するばかりでなく、輜重隊を襲撃して補給を困難にするなどの事件が頻発したが、その都度歩兵第四十七連隊の部隊と協力して反撃を加え、あるいは討伐を実施して任務を完遂した」
上記に触れましたが、2月同聯隊は歩兵第十三聯隊とともに三山鎮を攻撃し占領しています。
この戦闘に関する経緯を、部隊誌の記述をもとに時系列で並べると次のようになります。
2月24日 主力が蕪湖埠頭で、上の海軍中佐の指揮する砲艦水雷艇など数隻に分乗し、夜半三山鎮北方の大沙凸州に上陸し所在の中国兵を掃蕩
2月25日 三山鎮の第一線陣地を占領。海軍は三山(山の名)に対し艦砲射撃を加える
2月26日 三山鎮一帯の中国軍を掃蕩。根拠地である繁昌の陣地を占領。主力は三山鎮に集結して同地附近の警備にあたる
三山鎮付近ではその後も襲撃を一度受けたようですが、「一般的に平穏に終止した」とあります。
同聯隊は、揚子江左岸での戦闘もあったようですが、この期間は右岸にいた中国軍との戦闘が中心であった様子がうかがえます。
「歩兵第四十五聯隊史」によると、同聯隊は昭和12年12月22日南京を出発し、23日太平に到着しました。
2月14日まで太平周辺の警備し、2月末からは寧国付近の警備につくこととなりました。
太平周辺の頃は「極めて平穏にして無事」という記述しかありません。
寧国周辺(第二大隊のみ西簗山)についても、詳細な記述はなく、戦闘の有無は確認できません。
しかし、部隊誌の戦没者名簿によると、3月6日太平で1名、翌7日蕪湖で1名、翌8日西簗山で1名の計3名が掲載されています。
名簿には戦病死された兵士の名簿はなく、ただ亡くなった地名のみが記述されています。
現地の野戦病院で戦傷もしくは病気により死亡した可能性もありますが、それぞれ警備地周辺で死亡しているようなので、戦闘による戦死である可能性が高いと見られます。
以上第六師団の動向を見てきましたが、歩兵第四十五聯隊以外は中国軍による襲撃があり、激しい戦闘が連日あったことがうかがえます。
部隊誌以外では支那事変実記第六輯の1月25日「蕪湖で敵一箇團を殲滅」という記述があります。
部隊名は○○と伏せられていますが、蕪湖付近とあるので第六師団の部隊によるものと見られます。
上記の第十八師団でもふれましたが、2月にはいると蕪湖周辺の中国軍は活動を活発化している様子が、第六師団の資料からもうかがえました。
さらに、2月14日第十八師団の歩兵第五十五聯隊が規模の大きい中国軍に襲撃を受けた前日の2月13日、歩兵第四十七聯隊第一大隊の警備する湾止鎮も、規模の大きな中国軍に襲撃されています。
連日実施された中国軍の襲撃は、偶然とは考えにくく、むしろあらかじめ決定された作戦を基本に連動して、二つの地域にいる日本軍を攻撃したとみられます。
同師団は上海戦後、南京追撃戦に参加することなく、上海とその西部の湖州付近まで進軍した後、再び上海付近を警備していました。
昭和12年末、杭州城攻略戦に参加するため、歩兵第百一聯隊を除いた部隊が杭州に向かうよう命じられました。
杭州攻略後の昭和13年1月3日、軍より上海へ帰還するよう命令があり、同地へ向けて北上します。
師団長伊藤政喜中将の日記、「戦記 甲府連隊」(歩兵第百四十九聯隊史)、「福井部隊の血戦記」(「歩兵第百五十七聯隊史」などによると、上海へは掃蕩戦をともなって北上した様子が記されています。
昭和13年1月7日、「残敵を掃討しながら海岸沿いに上海に帰還せよとの命令」が下り、同聯隊は、翁家阜→九里橋→海塩→乍浦鎮へと海岸沿いを移動しました。
乍浦鎮付近は、以前から同聯隊で「偵察、残敵掃蕩、道路破損個所の修理」などを実施していましたが、1月14日同地にて相当数の中国軍部隊がいることが判明したため戦闘に発展し、「死体三十を残して敗走」したとあります。
その先にある南橋鎮でも同月18日「軽機をもつ残敵を発見、約一時間で撃滅」、19日には「さらに一〇キロ東北方の泰日橋付近で三百人ていどの敵が、トーチカによってわが軍に抵抗、これも一気に撃滅した」とあります。
1月22日上海に到着しましたが、部隊誌によると「治安はまだ完全に回復されたとは言えない実情だった。民衆と同じ服装をして、日本の施設や軍隊にテロを行う便衣隊が各地に出没していた。軍の主要輸送路の橋梁を爆破したり、井戸へ毒物を上げこんだり、軍の施設に爆薬を仕かけ、少数の日本兵には直接襲撃を加えるありさまで、わが警備隊の神経を疲れさせた」とあります。
部隊誌には抗日テロにより同聯隊兵士が殺害された話が記載されています。
兵士殺害事件以後、便衣隊に対する警戒をさらに厳重になったが、「とらえてもとらえても、この種の事件は後を絶たなかった」とあります。
1月9日同聯隊は「杭州湾北岸地区および浦東掃討」のため、拓林城をめざして出発しました。
同月17日拓林城に到着し、19日には歩兵第百三聯隊とともに浦東付近の掃蕩中、「抑竜廟という一小部落に達したとき、突如として部落の民家から機関銃の猛射を浴び」、「数名を射殺、他を敗走させた」が、「東平隊」の3名が戦死しました。
21日老巷鎮に到着したところ、同聯隊に対し日本軍機2機が通信筒を投下しました。
内容は次の通りでした。
「老巷鎮より北方約三千メートルの地点に、武装せる敵約百名陣地を占領しあり」
その情報をもとに各部隊に命令し、一時間近く戦闘の末、中国軍は北方に敗走したとあります。
同月23日上海に到着しました。
なお、歩兵第百一・百三聯隊にはこの期間の動向を示す資料は見つけていません
同師団の警備地に含まれる金山衛から上海へかけての一帯も、中国軍の出没は絶えなかった様子がうかがえました。
この地域は、上海戦後何度も日本軍による掃蕩戦が実施されていたようですが、効果はあまりなかったようです。
同師団の警備地の中心地に当たる上海では、抗日テロ事件(兵士殺害・要人の暗殺)は頻繁に起きていた様子がうかがえました。
この部隊の編成は次の通りです。
第一後備歩兵団司令部
近衛師団後備歩兵第一大隊
同第二大隊
同第三大隊
同第四大隊
第三師団後備歩兵第一大隊
同第二大隊
最近まで、上海西部にある松江附近の警備を指示されていたこと以外、部隊の情報はほとんど入手していませんでした。
しかし毎日新聞2013年8月14日付の朝刊に、同部隊の参加した「掃蕩戦」に関する記事が掲載され、それを読んで驚愕した人も多かったと思われます。
昭和13年3月3日同部隊の近衛師団後備部隊は、楓涇付近にある銭家草を「抗日ゲリラ」の村であるという理由で「掃蕩」を行っています。
この「掃蕩」についてはいろいろと問題があるようなので詳細は、後述の「警備地における民間人の被害」でふれます。
この掃蕩以外にこの部隊に関する動向は、ほとんど把握できていません。
今後の課題です。
同部隊は次のような編成でした。
第二後備歩兵団司令部
第二師団後備歩兵第一大隊、同第二大隊、同第三大隊、同第四大隊
第三師団後備歩兵第三大隊、同第四大隊
同部隊に関しては警備地の問題など詳細が不明な部分が多い野が実状です。
警備地は、長安鎮とその北部とあり、その範囲はどこまで広がるか明確ではありません。
はじめに警備地の範囲を検討してみます。
第三師団とあるので名古屋の地方新聞にそれらしい記事はないだろうかさがしてみたところ、中日新聞の前身のひとつ「新愛知」に、同部隊の兵士らしき人が嘉興でインタビューを受けている記事を発見しました。
インタビューを受けた嘉興は、警備地域から少し離れていますが、警備地の「長安鎮の北部」に嘉興県があり、嘉興の嘉善でインタビューを受けていても矛盾しません。
最近、昭和13年に出版された同兵団の者と思われる写真集「支那事変寫眞帖」を見つけました。
当時嘉興県内の一都市であった嘉善の写真が複数枚掲載されていました。
写真集は時系列で写真を掲載しており、嘉善の写真は南京攻略戦や杭州攻略の後に見られます。
杭州攻略は昭和12年12月末ですから、順番で行けばそれ以降に同兵団は嘉善にいたことになります。
以上の検討から同兵団の警備地は、長安鎮と嘉興県付近まで広がっていたとみています。
さて、「新愛知」のインタビューを受けた兵士は、南京攻略戦前に掃蕩があったことを証言していますが、それ以後の情報を伝える記事を見つけることはできませんでした。
他に詳細を知るすべはないか調べると「静岡民友新聞」という静岡県内で発刊された地方紙を発見しました。
同紙にも、第二後備兵団の兵士と思われるインタビュー記事があり、昭和13年1月から2月にかけて中国兵の襲撃や掃蕩戦があったことを語っています。
他の部隊の資料に比べ大きく制約はありますが、第二後備役兵団の警備地も中国兵の襲撃が活発だったことがうかがえます。
第百十四師団については、警備地である湖州周辺の様子を示す資料はほとんどありませんが、第二後備歩兵団兵士と思われる兵士が新聞のインタビューで、湖州周辺に敵兵が出没していたと証言しています。
記事は昭和13年1月27日の新聞に掲載されており、インタビューはそれ以前に行われたはずですなので、同師団の警備中にあった出来事のようです。
したがって湖州周辺に中国兵の出没はまったくなかったとも言い切れません。
今後の課題です。
なお、第114師団と思われる部隊が、南京から湖州へ移動する途中、敗残兵が多く潜伏していることを伝える資料を見つけました。
山本部隊とあるので、おそらく歩兵第百五十聯隊の戦歴を記した本(「郷土部隊従軍記」の「山本部隊」)に、南京戦後の溧陽の状況に関する話が登場します。
「溧陽へは支那民二千餘名が入込み、此の中へ便衣を纏った正規兵が盛に潜入して来るので相當危険多く、夜になると何処からともなく迫撃砲やチェッコ銃を以て射撃して来る。
皇軍が南京へ南京への急追撃を続けたため敗残兵が途中に相當多く、我軍の引上と同時に盛に出没するらしい。」
後に歩兵第六十八聯隊が溧陽北部の金壇を警備し、中国軍と何度も遭遇し戦闘を繰り返しますが、既に溧陽附近には多く中国軍が潜伏していたことを示しています。
第十六師団と天谷支隊については、警備期間中に中国軍の出没・襲撃の情報を伝える資料は見つけられませんでした。
今後の課題です。
各兵団の警備地域における治安状況を見てきましたが、各地で中国軍が進入し、時に戦闘に発展している様子がうかがえました。
大規模な襲撃事例
杭州周辺及びその西部(第十八師団警備)、寧国附近と蕪湖西部(第六師団警備)の2地域は、日本軍に積極的な攻撃をする中国軍がいたこともうかがえました。
時系列で並べると次のようになります。
①1月21日 杭州 中国軍の大軍が襲撃 第十八師団が対応
②2月13日 湾止鎮 約四千の中国軍が襲撃 第六師団歩兵第四十七聯隊が対応
③2月14日 杭州餘杭 中国軍の大軍が襲撃 第十八師団歩兵五十五聯隊が対応
②と③は時期的に近い時期にあり、連携して日本軍を攻撃したと思わせる動きです。
最近、当時の中国軍について参考になる記述を「中国抗日軍事史」で見つけました。
「中国軍第三戦区・第五戦区が呼応して日本軍後方を遊撃し、その小部隊や交通に奇襲をかけ、運輸・補給を妨害した。
三十八年一月、(中略)中国第三戦区は第一〇集団軍に杭州・太湖間、第一九集団軍は宣城・南京間、第二三集団軍は蕪湖・貴池間に移動して遊撃戦を実施することを命じた」
この記述に従うと、第六師団を襲撃したのは第一九集団軍もしくは第二三集団軍であり、第十八師団を襲撃したのは第一〇集団軍である可能性が高くなります。
中国軍は、襲撃するだけでなく、電柱倒壊・電線の切断・橋梁焼却など、ライフラインを狙った攻撃も行っていたのも、正規軍からの指示であったということになります。
なぜ中国軍は遊撃戦を実施しつづけたのか?
歩兵第四十七聯隊の動向を記した「奮戦史」には、湾止鎮は寧国と蕪湖つなぐ重要な場所にあり、したがってここを中国軍に占領されると師団は分断される、それが狙いだったと説明しています。
ところが2月13日の襲撃は、占領できる可能性があったにもかかわらず撤退しています。
占領の意志があったとするには、腑に落ちないように私には見受けられます。
小規模な襲撃事例
積極的な攻撃をしてくる中国軍がいた一方、中国兵は出没していたが、大きな戦闘に発展していない地域(上海・江蔭・無錫・蘇州付近)も見られます。
部隊誌の記述を比較すると、出没する兵士の装備も違っていたようです。
例えば、第百一師団歩兵第百五十七聯隊史によると、中国軍便衣兵の特徴を次のように記述しています。
「便衣隊員は、大工、佐官、機械工などさまざまの中国人で編成、武器は、青竜刀、赤いふさをつけた槍、火なわ銃、種子島銃など旧式のものが多く、なかには、日本軍の使っている三八式歩兵銃をもっているものもあった」
「赤い房のついた槍を持つ」者については、1932年におきた平頂山事件発生前に、赤槍会なる集団が撫順炭鉱を襲撃したという話を聞いたことがあります。
正規部隊とはいえませんが、赤槍会のような非正規部隊も、日本軍の襲撃を行っていたことを示唆する内容です。
この周辺に出没していたのは非正規部隊ばかりかというと、そうとも言い切れない事例もあります。
第三師団歩兵第六十八聯隊第一大隊史に、警備地付近に出没した中国軍の特徴を記しています。
「▶敵情=遊撃隊司令は謝昇標で兵力約五千。南方地区のいわゆる広徳付近の大凹角地帯より潜入し、溧陽付近に根拠を置き、長蕩湖西側地区に於て最も跳梁していた。」
「三興では敵兵既に敗走せる部落を掃蕩し弾薬、防毒面、書類を押収した。これら地区周辺には便衣隊、敗残兵など相当有力なるものの集結しあるを知る」
数千を超える兵員を独りの人間が統率し、弾薬・防毒面など軍備がすぐれているうえに、書類で重要な情報を共有していたようです。
あきらかに非正規軍とは異なる部隊であり、この周辺に出没していたのは正規兵、想像をたくましくすると第三戦区の司令部より、指示を受けた正規の国民革命軍の一部であったと考えるのが自然かと思われます。
占領地内で日本軍を襲撃した勢力については、別のページで詳細に触れていますのでそこを参照してください。
南京戦後から約2か月間、日本軍は占領地で掃蕩戦を何度も実施している経緯を紹介してきました。
掃蕩戦で中国兵捕虜を捕らえたという記述は、多くの部隊誌や従軍記などで見られます。
しかし、その後彼らがどのような扱いを受けたか?
何ら処罰を受けることなく解放されたのでしょうか?
どうも解放されず、殺害された可能性が高いと思われる資料がいくつかあります。
私は10年近く日中戦争に関する記事、主に地方紙を収集してきましたが、捕虜を処刑したと証言する兵士がたびたび登場します。
戦時中は報道の自由は制限されていたと学んでいたので、これを発見したときは驚きました。
以下は、同時期静岡民友新聞に掲載されていたものです。
※内容が凄まじいので、記事では実名ですがイニシャルとしました。
1月27日
K隊 I曹長
チャン公を随分捕えましたがこれを良民と敗残兵と見分けすることが大役です。(中略)
支那兵の○は都合○○斬りましたよ。
五人切り位並べて斬ってもびくともしません。隣の奴の首がごろりとなっても顔色一つ変えません。
1月28日
武康警備のM先生
毎日銃声は我々のいる近くでひっきりなしにするのだ
○○日到着の夜我々の寝る場所の横に七名隠れているのを発見引きづり出して○○した。
今度は安心してきった。
支那人の殺される前の度胸の良さに本当に感心した。
1月29日
石井部隊兵士 M氏
歩哨線をとおる怪しい支那人二人を捕え一人を刺殺、一人を射殺
1月31日
田上部隊O准尉の部下の手記
土民は残忍の性にとんでおり、はいざん兵に多くこれと協力しては日本軍がいればいたずらをし、時々掃蕩に出るも油断ならず、われもまた敗残兵密偵など捕虜として毎日二人三人は○○のさびとしている
2月8日
掛川出身 上村部隊
12月15日歩哨に立ちますと夜中の一時半敵の敗残兵約四五十名が夜襲してきた。
私は大急ぎで○隊長に報告して帰り、一人を射殺し一人を生け捕りにしました。
生け捕った敵兵を討ち○○両君の戸村合戦のような気がして胸がすきました。
2月25日
鵜飼部隊 O
南京陥落直後、糧秣警備を天王寺で命ぜられた。
この時、金壇、天王寺間は銃声がしきり、敗残兵の出没が甚だしいときでした。
この時二名捕えて銃殺しました。それに夜中の十二時頃にも敵スパイを一人殺したです。
不眠不休の軽快で随分緊張した。
3月2日
嘉善にて
最近便衣不逞の徒が○○に入り込まんとする形勢があるので警戒している7日には便衣隊を5名捕縛して極刑に処した
地方紙は郷土部隊の動向が中心となるので、田上部隊は歩兵第三十四聯隊、石井部隊は歩兵第十八聯隊と判断して間違いなさそうです。
鵜飼部隊について詳細は不明ですが、当時天王寺・金壇付近を警備していたのは歩兵第六十八聯隊なので、同聯隊兵士の証言と考えてよいかと思われます。
嘉善にいた兵士は、第二後備歩兵団兵士とみて間違いないと思われます。
私の活動範囲の狭さにより、第三師団の資料に限られてしまいますが、掃蕩で捕虜となった中国兵は、殺害された場合が多いと考えられます。
ここで紹介した捕虜の殺害とは状況が異なりますが、第百一師団の資料でも見られます。
昭和13年詳しい時期は不明ですが、文脈から見て杭州戦を終えた1月の頃と思われます。
歩兵第百五十七聯隊第五中隊が、道路偵察隊として、「杭州湾海岸沿いの道路状況の調査と、破損個所の応急修理、残敵掃蕩を実施していた」ところ、金山衛と奉賢城の中間付近にある部落で、兵営らしい建物を発見し、内部を確認すると中国兵百余人と「小銃、手榴弾など」を発見し、ただちに捕らえて全員を処分したとあります。
未見ですが、同聯隊の第二大隊戦闘詳報には、この時実施された処刑の記述があるそうです(古川隆久 鈴木淳 劉傑編「第百一師団長日記」中央公論新社2007)。
残りの第六師団、第九師団、第十八師団については、資料をほとんど得られてませんが、殺害した可能性は高いと思われます。
犯罪の事例
私は以前、日本兵に家族を殺害されたという中国人女性から、「日本兵は中国各地で女性を見つけては強姦をしていた」という話を聞いたことがあります。
いわゆる南京事件でも特徴の一つに強姦の多発があげられています。
南京以外の地域を警備した部隊で、性犯罪は発生しなかったのか確認してみたいと思います。
「日本軍「慰安婦」関連資料集成」という資料に、昭和13年1月から同年2月の間に、強姦をした第十軍兵士の記録が記載されています。
昭和12年末から翌年13年1月に報告された例は次の通りです。
第百十四師団工兵第百十五聯隊第一中隊 予備役陸軍工兵一等兵 T
昭和12年12月31日湖州城内で中国人女児を空き家に連行し姦淫しようとしているところを憲兵に取り押さえられる。
第六師団歩兵第十三聯隊第六中隊
陸軍歩兵一等兵 H 傷害強姦
同第三中隊陸軍歩兵一等兵 K 強姦
昭和12年12月25日から同27日にかけて、Hは中国人農家に於いて氏名不詳の中國婦人が被告の威勢に畏怖し抵抗不能に陥るのに乗じ強姦した。
またHはKと共に、宿営地の隣家の中国人婦人を強姦した。
第百一師団歩兵第百一聯隊第二中隊 後備役陸軍歩兵一等兵 K
昭和13年1月4日、中国人婦人が日本軍人に畏怖しているのに乗じ強姦した。
第十八師団工兵第十二聯隊第一中隊 補充兵役陸軍工兵一等兵 Y
昭和13年1月4日姦淫の目的をもって中国人婦人を連行し畏怖しているのに乗じ強姦した。
この5名以外に、歩兵第百一聯隊後備役兵士2名、同第百三聯隊後備役兵士1名、同第百四十九聯隊後備役兵士2名、野砲兵第十二聯隊後備役兵士1名、工兵第百十四聯隊予備役兵士1名、工兵第十二聯隊兵士1名の計8名の事例を報告しています。
2月に入っても強姦事件は収まることなく、工兵第十二聯隊兵士補充兵役兵士2名、輜重兵第十二聯隊補充兵役兵士1名、野砲兵第十二聯隊後備役兵士1名、第十八師団第一野戦病院後備役兵士1名、第十八師団通信隊後備役兵士2名・補充兵役兵士1名の計8名の事例を報告しています。
兵種別では現役兵、予備兵・後備兵・補充兵すべてに見られますが、後備兵は11名と全体の5割近くを占めます。
兵科別では、歩兵・砲兵・工兵・輜重兵・通信隊となっていますが、全体的に歩兵が多い傾向が見られます。
強姦件数の実態について
判明している事例は2か月で合計21名となりますが、第十軍は10万近い兵が動員されていることを考えると少ない印象を受けます。
私は判明した事例以外に表に出なかった事例はかなりあったと考えています。
戦後日本で米兵による強姦事件は、1週間で1000件以上も発生したという記録があります。
ドイツのベルリンでも、占領期間中に連合国軍兵士による強姦事件が多発したとの証言があります。
中国では強姦された女性は、蔑視される習慣があるとされ、声を上げられなかった事例もかなりの数にのぼっていたというのが、実態ではなかろうかとみられます。
後述しますが、中国側の資料では実態の把握は困難であるとしながらも、浙江省において掃蕩が実施されて多数の強姦被害者がでたとする事例をいくつも報告しています(浙江省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失2014)。
さて第十軍と共に南京への進軍を競った上海派遣軍の実態はどうだったのでしょうか?
第十六師団の担当した南京では、強姦は多発したという複数の証言(兵士と被害者)があり、件数は二万件以上あったとする資料もあります。
第三師団と第九師団は、まとまった資料は残されていないようですが、全くなかったと言えるのでしょうか?
「歩兵第十八聯隊第八中隊誌」に、次の記述があります。
「二月七日(中略)
しかし、昨夜連隊本部衛兵に服務した、中隊衛兵要因の下番後の報告によると、昨夜、本部裏で砲兵隊の某下士官が、酒に酔い姑娘にチョッカイをかけようとした。
姑娘は逃げて本部に入り訴えたため、直ちに衛兵所に連絡があった。
そこで衛兵指令は直ちに兵三名を指名して逮捕に向かわせたところ、小銃二発を発砲して逃げ去った、と言う事件が起きた。」
歩兵第六聯隊第二機関銃中隊の部隊誌にも、詳細は不明ですが次の記述があります。
「二月二日 慰安婦利用外出。七中隊の兵が強かんの反動、己れの名利の為に、兵を拘束した結果なり。春秋の筆法なら府礼説。」
こうした資料が遺されていると、第三師団や第九師団にはほとんどなかったと言い切れる自信はありません。
第十軍と同様、表面化していない事例は複数あったと理解するのが自然かと思われます。
銭花草虐殺事件
2013年9月21日放送のTBS報道特集で紹介されたので、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、昭和13年3月3日上海より南西に位置する楓涇・銭花草にて、村人が第一後備歩兵団近衛後備歩兵隊によって虐殺されるという事件が発生しています。
毎日新聞の記事によると、同歩兵隊は「抗日ゲリラ」の掃蕩として、村の男性60数人を集めて集団虐殺をおこない、建物に放火したとされています。
事件を示す日記だけではなく、現場でまもなく殺害される人たちの写真も遺されているという極めて珍しい事例でした。
私も、内容が馬山虐殺事件と重なる部分があり、衝撃を受けたことを覚えています。
なお、この事件の発端理由は、村人と地主の間でおきた土地に関する争いという村人の証言があり、抗日ゲリラは偽情報であった可能性もあります。
ここで取り上げる掃蕩戦と同列にとらえてよいか検討しましたが、参加した兵士の日記に、殺害した中国人を「土匪」と表現しており、彼らを民間人ではなく抗日勢力と見ていた可能性が高いと思われます。
また男性のみ殺害し、集落は放火するという方法は、言いたくはないのですが中国にいた日本軍によく見られる行為であり、掃蕩戦の一つとして数えても問題はないと思われます。
わたしが知りえた日本側の資料はこれのみです。
一方、中国側の資料には南京戦後から広徳周辺掃蕩前の間に、後の馬山虐殺事件を彷彿とさせる事例が占領地内でおいていくつか報告されています。
各省別に見ていこうと思います。
江蘇省
同省の警備は、西部は第三師団を、東部は第九師団をそれぞれ担当していました。
2014年刊行された「江蘇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に、省内で発生した事件を時系列で報告しています。
1月15日 日本軍は鎮江の丹徒県宝堰鎮を包囲し、22人を殺害、焼却された家屋804軒(大型建物430軒、瓦葺の平屋275軒、草ぶきの家屋99軒)、商店286軒
1月26日 日本軍100人余りが、18艘の汽船に乗って昆山県淀山湖西北の馬援庄村に到着し、村を包囲後、銃剣を使って村民を外に出し、ロープで一人一人の手を次々とつなぎ、10人から20人ごとにバラバラだが縛っていった。
そして淀山湖に並べて、銃剣で突き刺し、軍刀でたたき割るなどして集団虐殺を実施した。
犠牲者は70余名。村にある広場や田畑で被害を受けたのは20余名。この件で殺害された村民92名、国民党軍16名。同時に日本軍は394軒の家屋と稲73.5斤に放火し、1000抉の銀を略奪。農業用の牛35トンを殺した。
2月14日 日本軍の戦闘機が溧陽県(現溧陽市)の南渡鎮、に爆弾を投下し、100人が死亡、数百人負傷。多数の建物が破壊された。
次に、日本側の資料と比較してみます。
1月15日の事例は、歩兵第六聯隊の第二大隊の警備地付近で発生しており、部隊誌には遺されていませんが同聯隊の実施した掃蕩戦の一つとである可能性はあります。
1月26日の事例は、近い時期に歩兵第三十五聯隊が、「北沢鎮」と「呉江鎮」を掃蕩しています。
この二つの街の場所をいまだ特定できていませんが、昆山は太湖東部に位置しているため、この事件は同聯隊の掃蕩中に発生した可能性は高いと思われます。
2月14日の事例は、海軍の航空隊の記録にはなく、陸軍航空隊の記録は手元にないため、不明といわざるをえません。
今後の課題です。
浙江省
同省は、昭和12年11月の杭州湾敵前上陸の場所としても有名ですが、南京戦後の同年12月23日第十八師団に杭州攻略が命じられています。
中国側の資料によると、この攻略戦で民間人は膨大な被害を被っただけでなく、攻略戦後も同地で日本軍における掃蕩作戦で膨大な被害を被っていたことを報告しています。
2014年刊行された「浙江省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に、詳細があるので一つ一つ紹介していきます。
杭州攻略途中
安徽省
2014年刊行された「安徽省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」に、次の事件があったことを時系列で伝えています。
12月28日 日本軍は広徳城に火を放ち、城内外は火の海となった。大火は十日昼夜にわたって続き、城は焦土と化し、数万の家屋が焼き払われた。
1月2日 宣城の北部水陽鎮に侵入した日本軍は、当日から4日にかけて虐殺、放火を行ったため、400人から500人殺害された。
1月28日 蕪湖にいた日本軍は、白馬山の民家1300戸、家屋4000軒余りを焼却し、30人余りの村人を殺害した。
細かい日時は不明ですが、1月中には次の事件が発生したことを伝えています。
1月 蕪湖に駐在した日本軍は、軍事統治を実行。殺人、強姦をおこない、蕪湖にいた民間人は外へ逃避した。
1月 湾止鎮を出発し宣城水陽へ侵入した日本軍は、その途中にある川東南部において、地元の抗日武装集団の狙撃にあった。日本軍は30数名の抗日志士を連れ去って焼殺した。日本軍は人を見ては殺し、建物を見ては放火した。川東で長年にわたり経営されてきた華僑街は焦土となり、水陽鎮は一千余りの建物が日本軍によって放火された。
1月 宣城狸橋に侵入した日本軍は、村民を殺害し、狸橋周囲の数十里にある大小の集落を放火し4日4晩にわたって燃えた。不完全な統計ではあるが、狸橋一帯の80%に当たる6978戸が被害にあっている。殺害された人数は6218人。牧畜、農具・衣類など略奪されたものは数知れない。
2月7日 宣城県城内日本軍は北門郊区の掃蕩を実施した。行動範囲は顧村、高塘橋、孫家庄、金土地廟に及んだ。日本軍はこの地域の10数里にわたる農村の家屋を焼却し、人を見ては殺害した。北郊では日本軍によって100人以上が殺害された。
2月8日 宣城県内の北郊に至った日本軍は、山上にある寺院数十件を焼却し、そこに避難していた民間人50人から60人を殺害した。
日本側の資料と比較すると、1月2日および1月中におきた水陽鎮付近の虐殺・放火は、同時期にこの周辺を掃蕩していた歩兵第十三聯隊と関わりが強いと思われます。
1月中に起きたとされる宣城附近の掃蕩も歩兵第十三聯隊である可能性もありますが、何度も襲撃を受けた歩兵第四十七聯隊である可能性も否定できません。
安徽省では第六師団が配置されているため、この周辺で発生した日本軍による虐殺・放火は同師団とのかかわりは強いと考えて間違いないと思われます。
しかし、12月28日の広徳の虐殺・放火は、それに相当する日本側の資料を見つけられていません。
杭州攻略を命じられた第十八師団か?と思いましたが、蕪湖から杭州へ移動する途中の12月19日、広徳に集結し、杭州へと出発しているので同師団との関連は薄いと考えざるを得ません。
杭州線が終了した後も、同師団が広徳を掃蕩したという資料はいまのところ未見です。
他の部隊の動向も見ていきます。
第百十四師団は南京戦後、広徳付近は通過することなく、溧水・溧陽を通過し、次の警備地である湖州へと移動しています。
第六師団は、蕪湖と寧国附近を超えて掃蕩戦を行えるとは思えません。
現状では、この件にかかわった部隊は不明としか言えません。
今後の課題です。
以上、中国の資料をみてきましたが、この時期少なく見積もっても1万人以上の民間人が日本軍によって死亡していること、人以外にも2万軒以上の建物や食糧が焼却されていること、婦女子に対する強姦が多発したことなどを伝えています。
省別で見ていきましたが、どの事例も村民を殺害し建物を放火するで合致しており、広範囲で行われたことがよくわかります。
これは部隊がそれぞれ単独で行ったというよりも、上層部から共通する指示、つまり抗日勢力の殺害・活動拠点の放火が各部隊に下ったため発生した可能性が高いと見ています。
昭和13年2月、大陸令59号で、現地の日本軍に次の命令が下されました。
「中支那派遣軍司令官は、海軍と協働して概ね杭州、寧国(宣城)、蕪湖を含む揚子江右岸地区内諸要地の確保安定に任すると共に、航空部隊を以て右地域外的国内要地の攻撃を続行すべし」
「航空部隊を以て右地域外敵国内要地の攻撃を続行すべし」については、海軍の記録によると積極的に中国各地を爆撃したとする資料はあります。
陸軍の航空部隊については、資料を確認できていません。
では「確保安定」はどうでしょうか。 いままで、取り上げてきた通り、占領地の状況は安定とは程遠い状況で、担当している街を警備するので手一杯だった状況がうかがえます。 日本軍は少しでも、抗日勢力を抑えるため、掃蕩戦を各地で展開したはずでした。
しかし、警備地周辺で実施された掃蕩戦は、民間人への暴力的な行為となり、あらたな抗日意識を形成させる結果しか生みませんでした。