1.引用元 | 2.冒頭 | 3.鈕埼村の惨劇 |
4.檀渓村の惨劇 | 5.他の事例 | 6.被害の状況 |
1.A氏の手記について | 2.A氏の軍歴 | 3.事件前の動向 | 4.事件当日から翌日の動向 |
5.A氏の目撃した島民の惨状 | 6.A氏の経験した虐殺事例 | 7.A氏の願い |
1.堵宪章氏の証言 | 2.楊月海氏の証言 | 3.殷素英氏の証言 |
1.事件発生日 | 2.地名の問題 | 3.日本軍の上陸地点 | 4.司令官の違い |
5.犠牲者の違い |
1.海軍陸戦隊の協力? | 2.海軍航空部隊の協力 |
事件の概要を簡単に要約すると次のようになります。
いつ? 1938年3月12日~3月13日の二日間
どこで? 江蘇省無錫市太湖にある馬山という島
誰が? 第三師団歩兵第十八連隊第三大隊を主力とする日本軍
なにを? 馬山に住む島民に対して
どうした? 無差別虐殺、家屋の放火と破壊、略奪行為を行った。
事件を初めて日本に伝えた文献は本多勝一氏著「南京への道」です。
少し長くなりますが引用します。
「その大規模な実例は、太湖の島の一つ「馬山」での住民虐殺である。
南京では死体処理が行われていた三月十二日(旧暦二月十一日)、この島の山頂にいた中国国民党軍に食糧補給などして協力していた島民は、中国軍の撤退後に日本軍の包囲を受け、三光作戦(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)の復讐を受けた。
無錫市からの避難民や他村の漁民なども含めて約1500人が殺されたが、そのうち純粋の島民は999人であった。
総人口約四千人の四分の一が殺されたことになる。
後の四分の三は、山などに逃げて見つからなかったからだが、見つかったものは赤ん坊であれ老人であれすべて虐殺された。
一家全滅が八十余世帯。焼失三千余間。」
この事件を初めて知ったころ、中国最大の検索システムである百度で事件を検索すると、これとほぼ同じ内容が記載された中国語のページにつながったことがあります(現在ではなぜか検索できず)。
それを記述した人は当然中国出身の方でしょうから、おそらく本多氏は中国語で書かれた原文を日本語に翻訳したか、もしくは口頭で聞いたことを文章化したものと思われます。
過去には、なんと日本の予算委員会で事件に触れた政治家がいました。
当時新自由クラブ・民主連合に所属していた田英夫さんです。
発言は1985年11月6日第103回国会予算委員会でされたようです。
長文ですが引用します。
「○田英夫君 (中略)私も総理(当時は中曽根さん)と同じ海軍に身を投じた一人でありまして、震洋特別攻撃隊の生き残りの一人であります。
航海学校で訓練を受けたときには、階段ベッドの上に寝ていた男は「大和」で死んだわけです。
隣の階段ベッドの二人は私と同じ震洋隊で沖縄で死んだのであります。
特に特攻隊を志願するかどうかということで募集をされたときには、夜も寝られないでみんな考え抜いたことを覚えておりますが、結局そのときに志願したおよそ四十人は全員死んでいるのであります。
したがって、私も総理と同じにあるいは総理以上に、戦死者の霊を慰めたいという気持ちが強いと思います。
むしろ総理以上に強いと思います。
また、十四年前になりますか、七一年に中国を訪問しましたときに、ちょうど南京と上海の間に無錫というところがありますが、その傍らの太湖という大きな湖の中の馬山という農村を訪ねました。
私のそのときの旅は一カ月半ほどですが、かつての日本軍のつめ跡を見たいと、こう言ったところが中国側がそこへ連れていった。
時間がありませんから簡単に言いますが、村の広場の真ん中に木が一本立って、そこに黒い板に白い字で「怨恨の場」と書いてある。
何年何月日本軍が攻めてきて全員が殺された。
また、村外れの洞窟には「血涙のふち」と同じように書いてある。
○委員長(安田隆明君) 田君、時間が超過いたしました。
○田英夫君 はい。そこに逃げ込んだ婦女子を日本軍が上から機銃掃射をした、そうしたことを生き残った人は語ってくれたわけであります。
そういう経緯の中での中国の人たちの気持ちということを総理はぜひお考えをいただきたい。
同時に我々戦争体験者のことも、この気持ちもお考えをいただきたい。
このことを最後に申し上げて、お気持ちはよくわかりますから、御答弁は要りません。終わります。」
ちなみに、中曽根さんは特に何も発言されなかったようです。
中国最大の検索エンジン「百度」の「百度百科」で「馬山惨案」と検索すると、事件の詳細を紹介したページに移動します。
それによると、2006年4月から6月にかけて、無錫市の職員が事件の内容を把握するため生存者へ聞き取りを行うなどの調査をしたようです。
執筆者は馬山鎮政府の職員のようなので、中国側の公式な見解ととらえてよいかと思われます。
頑張って私なりに邦訳を試みたのですが、できなかったところも多々ありました。
下記では邦訳できた部分のみ掲載します。
馬迹山は通称馬山という。
太湖北西部に位置する島で、戦争初期の人口は四千人余りであった。
1938年旧暦2月11日(西暦3月12日)、上海-南京間に駐留していた日本軍司令部の1400余名を動員し、馬山に対して残忍非道な大虐殺を開始した。
日本軍は馬山の東側に上陸後、鈕埼村を包囲した。
村は10戸の民家、人口48人、建物50軒で構成されていた。
日本軍を見た村民の一部は山林に逃げ身を隠し、残りは家屋に身を隠した。
日本軍は村に侵入すると、家に入って25人を探し出し、銃剣をちらつかせて人々を北の空き地に移動させた。
2月初旬としては珍しく大雪で、約30センチほどの厚さまで一面に降り積もっていた。
日本軍はその付近に機関銃を二挺設置し、人々に対して強引に雪の降り積もる地面に跪かせようとした。
日本軍の非人道的な横暴ぶりに、村人は騒ぎだし、女性と子供は泣きわめいていた。
そして人々に機関銃掃射が向けられた。
その場にいた24人は叫び声と同時に倒れ、彼らの血によって地面の雪は赤く染まった。
さらに日本軍は倒れている人々に呼びかけた。「死ななかった人、殺さないよ」と。
しかしそれを信じて体を動かした63歳の女性は突き殺された。
日本兵は手分けして、生きている人死んでいる人拘らず、銃剣で何度も刺した 。
この村では合計26人が殺され、48戸の家屋が焼却された。
さらに日本軍は死体の上に腰掛や戸板などを積み上げて、ガソリンで燃やした。
やがて村には、山林に身を隠していた村民が戻ってきた。
黒焦げの死体、血で染まった広場、全てを焼却された集落を見た村民は深く悲しんだ。
村では日本軍の大罪を永久に忘れないようこの場を“仇恨場”(憎しみの場)と命名した。
檀溪村は53戸、人口278人、305戸の家屋があった。
村民は鈕琦村における日本軍の蛮行を知り、次から次へと山上へ逃げ、その多くは木の生い茂った場所に身を隠した。
村に侵入した日本軍は、誰もいないのを確認して、家屋を放火した。
楊月海、楊增大ら三家族(全員で18人)は、昔村の近くに掘られた洞穴に隠れた。
日本軍の捜索隊はこの洞穴を発見し、ここを目標に機関銃を掃射し、10人死亡した。
それ以後、人々はこの洞を“血泪潭”と呼んだ。
血涙潭(上)と碑(下) 出典 江蘇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失 2014
※現在は破壊されて残っていない。
その後日本軍は山野に分け入り徹底した捜索を実施した。
機関銃の音、飛行機の爆撃音、射撃の音、負傷者の泣き叫ぶ声があちこちから聞こえてきた。
子供は耐えきれず怖がって、声をあげて泣いていた。
日本軍はそれを聞いて殺害しようと追跡した。
日本軍に発見されないよう、多くの若い母親は赤ん坊の口に、雪の塊や乳房を押し込み、それを1時間続けたため、数名が死亡した。
樹木の密集した山に多くの者が隠れていた。
しかしその多くが日本軍にみつかった。
山の北斜面には、日本軍に捕まった70数名の青壮年が集められ、彼らは銃器によって集団虐殺された。
この日檀溪村は9戸が断絶し、97名死亡。
186戸の家屋が焼却、村には青壮年の男性が5人だけとなり、有名な“寡婦村”(女性だけの村)になった。
翌日日本軍は島の西側の村を次々と襲撃した。
2,3歳の幼児は突き殺され、ある者は子供を木の上や民家の戸に引っ掻けられた。
こうした横暴な行為は数えきれないほど見られた。
日本軍の女性に対する強姦の犯罪はさらに激しい怒りを覚えるものであった。
最高60歳から70歳、最年少で12、3歳の女性が汚された。
抵抗した臨月の女性は日本軍に腹を裂かれ、胎児がだされた。
新城村の南にある山林で殷素英一家および村人30名が身を隠していた。
日本軍が発見し、突進して村人一人一人を突き殺した。
五歳の殷素英は五か所刀で突かれたが、三日間昏迷した後、奇跡的に蘇生した。
馬山の中央付近にある祥符寺は、千年以上の歴史を持つ古刹である。
仏陀の家といっても、日本軍から逃れることはできなかった。
彼らは寺院に突撃して、和尚を一人一人銃殺するという罪の重い行為を働いた。
日本軍は西村に突撃し、魯兄弟を捕まえた後、村の西にある水車の梁に吊るした。
日本軍の一部は彼らを、刃物で突いて楽しんで殺し、たいまつの火で水車とともに燃やした。
内門の村人は板取山頂に向かって逃げた。
避難する村人を追いかけ日本軍は西へと移動した。
龍頭渚附近の浜辺についたものの、船舶はひとつもなく、村人は広大な太湖にむかって激しく泣き叫んだ。
追いついた日本軍は、この浜辺で200人余りを殺害した。
二日間で、日本軍は馬山で1500余人を殺害した。
そのうち、馬山出身者は999人、当時の馬山の人口の四分の一を占めていた。
残りは江蘇省無錫・常州からの難民と漁民300数名と、国民党田文竜武官の将兵百数人だった。
家屋3600戸余り、漁船40隻余りが焼却された。
二十日余り後、多くの死体は依然として残されており、受取人はいなかったため、野犬は死肉を食い争っていた。
事件に関する戦闘詳報や陣中日誌はいまのところ発見できていません。
参加した歩兵第十八聯隊元兵士の手記が唯一の資料です。
この資料から日本兵から見た事件の内容を紹介します。
このホームページを開設するにあたり、氏のご遺族様に本名と書名を公開してよいか連絡しました。
しかし、公開は避けてほしいとのご依頼がありました。
詳細を知りたいという方には申し訳ございませんが、ご遺族様のご希望により、氏名・本のタイトルは伏せさせていただきます。
事件当時は予備役兵で、歩兵第十八連隊第三大隊第三機関銃中隊に配属されました。
昭和13年第三大隊は江蘇省無錫の北にある江陰を警備していました。
手記によると、同年3月以降の第三大隊の動向は時系列で示すと次のとおりです。
3月始め 太湖西方の討伐の命令が部隊に下達される
3月10日 江陰を出発
3月11日 無錫梅園に到着 A氏の所属する第三機関銃中隊第一小隊は第十中隊に配属される
※その前は第二機関銃中隊所属
3月12日
午前4時半 整列
午前6時頃 海軍の砲艇が到着(7~8隻) 第十中隊とともに船にのる
午前8時頃 砲艇は6隻つなげて太湖内を走行。こうした船団を5~6みかける
午前11時頃 馬蹄山島へ、東北から島に近づく
突然、バンバンと敵軍が撃ってきたため、島から1500m程離れた地点で止まる。
大隊全部が敵前上陸を命令される。
第十中隊とともに敵軍のいる山に登り30分ほど交戦し、退却させる。
全島討伐する大隊命令が下る
・家は皆一軒残さず焼払う
・大人の男子は皆殺し
3月13日 午後3時頃掃蕩終了
3月14日 しばらく滞在しもう一つの島を掃蕩するため午後6時頃出発する
島の家の大部分は焼けてしまった。(中略)火を附けられて、天井裏に居た婦人が焼死体で落ちてきたのも見た。
父にすがっている子供が、父の殺されるその様子をじっと見守っているのを見た。
子供は涙一つ流さず、唯ぶるぶる震えているのみである。
子供を負い、もう一人抱えた婦人が弾にあたって、草の中に葬られている。
二人の子供は唯大泣きに泣いている。
大人はみんな殺された。子供も殺された。
大部分は悲しい運命に、こんな惨状が目の当たりにみられる。
私もあえてした。私も婦人を殺した。私は拳銃でやった。誰も良い気持ちではない。
私は手を合わせたい気持ちで一パイだった。
(中略)山の上に五十人近い人を並べて置いて、機関銃で射殺した。決して気持ちよくない。
唯祈る気持ちだ。悲しむべきは島民であった。
私はこの討伐に於いて真に悲しむべき何者かを知った。そして覚悟をした。
私は内地の人々が国民の皆がこうしたことを真に思ってくれての戦争への認識や自覚がほしいと願った。
許せ罪なき生命よとつぶやいた。
私は三月十二日、十三日の討伐にて戦争のすべてを知った。
そして人間の生命、そして生きることの真の意味と貴さを考えさせられた。
戦争はいけないことだ。決してやってはならない。
私は戦死してもこのことだけは何とか国民に知ってもらいたい、と願った。
1938年旧正月の2月11日朝、その日の天気は曇っていた。8時か9時頃、山で木を伐採していたら、太湖に日本の船を見つけた。
でもその時私はその船が何者か、わからなかった。
大勢の中国軍部隊が、山から下りて逃げていくのを見かけた。
私たちは何をしたらよいかわからず、それぞれ分かれて逃げた。
山の入り口についたときに、日本人が上陸し村人に対して機関銃を撃ってきた。
私はかくれていたが、自分の家が燃えているのを見て慌てて、みんなと共に家に帰り、使うものだけ持っていった。
私たちは日本人がすぐに人を殺すなんてことは予想できなかった。
父が姿勢を低くして逃げている途中、日本人に撃たれたのを見た。そのあと、急いで駆けつけてきた日本人により、
私たちは男女に分けられた。
日本人は肩や腰を触り、男は地面に座るように命令してきた。
その中には宜興出身の労働者がいた。彼は30歳以上で、あばた顔で、黒いシャツを着ており、足には布の靴を履いていた。
日本人は彼を中国兵と疑い、しばらく拘束した。
彼は説明した。「洋先生、私は百姓だ。私は百姓だ」。
日本人は全く取り合わず、3つの銃剣が同時に彼の胸に突き刺さり、彼は一声うなって死亡した。日本人の銃剣は血が滴っていた。
そして、突然機関銃を撃ってきた。私は倒れたが撃たれていなかった。
倒れた人たちが死んでいく中、動こうという勇気はなかった。
1時間、2時間過ぎた頃、日本人がベッドなど木材を倒れた人々の上に積み上げているのをみた。
わたしは「これはまずい、火を放ち、人を焼くつもりだ。」と思った。
少し体を動かすと、体の下に同郷の銭阿度がいるのに気づいた。彼は腰部を被弾し呻いていた。
銭阿度の下には私の弟がいた。まだ死んでいなかった。
私は彼が「どうやったら移動できるだろうか」と言っているのを聞いた。
すると人山に、火が付けられた。
彼らは生きたままでは焼死させることは難しいと思ったか、力いっぱい突いた。
人山をはい出たところ、正面にいた一人の日本兵が死体を引きずっているのを見た。
私は体の向きを変えて東北の方向に逃げた。日本人が追いかけてきて、私に射撃してきた。銃弾が首の後ろから入り、顔の左から抜け出た。私は下の水たまりに倒れた。
それから私は目が覚め、自分が水たまりに浸かっているのに気づき、寝返りを打った。口や鼻から血が湧き出ていた。 左目は開くことができない。手で目の下の穴を触った。
私は叫んだ「おじさん、助けてください。」おじさんは助けにやって来た。
おじさんは、山の斜面の下にある林の茂みに私を置いて、枝の束2つを使って私の身をおおい隠し、それで命をつないだ。
そして私は、叔父の家にいた人も全員殺されたことを知った。この虐殺で私の家は父親、母親、兄、弟と私は生き残ったが、他は皆殺された。
この村では全員で23名が死んだ。2戸の家族はすべて殺された。最高62歳、一番小さいのは乳飲み子で、名前すらなかった。
1938年、田文竜の部隊が馬山にいた頃、私たち家族は父親の故郷である雪堰橋に避難していた。私の父は婿として馬山にやってきた。
馬山に帰った後父と楊正大の祖父は、手で3日、4日かけて穴を掘っていたら、日本人がやってきた。
1938年旧正月2月11日8時もしくは9時だった。父と私は山へ避難した。
10時過ぎ、父は家に帰り、私を家から移動させた。
途中何か食べて再び走った。
食事をしていた時、我が家には10人以上いた。
外出していた父は私たちに早く食べるように促した。
埼の家屋はすでに火事が起きいることを説明し、急いでここを離れるよう言った。
私たちはあわただしくものを持って外出した。覚えているのは、布団をおおう布、脚炉、衣服など。これらを持って山中へ移動した。私たちは洞につき、野原に身を隠した。そこには、すでに楊正大一家7人がいた。除善根もいたから私たちは18人になった。
私たちは持っていたものを穴の外に置いた。
正大のおじさんは付近を観察し、急いで走って帰って来た。誰かの家が火で燃えていることを説明した。「阿祥(父)まずいよ、日本人をみかけた」
私の兄月潮と除善根の二人は洞を出て、山上に向かって走った。
一人の日本人が彼らを見つけ銃を撃った後、洞の外に私たちが置いたものを発見し、洞に人がいることにも気づいた。
父はまずいと感じ取って、表に立ち彼らに話しかけた。「洋先生、私たちは皆農民です。」
そう言い終わらないうちに日本兵は撃ち、父は即死した。
日本兵はまた父の身に着けていた脚炉に触れた。するとそれに火が付き煙が出てきたため、私たちはむせ続けた。
ある人は泣いた。姉は早口で言った。「泣いたらだめ。死んだふりをしよう。」
間を置くことなく、再び2人の日本兵が来て、洞に向かって両側から猛射してきた。たちまち、穴から音は消え、あるのは意識が薄くなった人だけだった。
しばらくした後、私は目を開けた。弟が母の足の上で泣いていた。母は壁に寄りかかっており、頭に銃が当たり、すでに死んでいた。私のおばは、右手の指が断ち切れており、皮1枚でつながっていた。彼女の11歳の子供も死んでしまった。
私は手に一発当たっていたので、彼女に助けをお願いしたが、自分の子供が死んでしまったため深い悲しみに陥り、私の声が聞こえていなかったようだった。
ふと見ると、彼女は洞を出て自殺しようとしていた。
でも彼女は片手しか動かず、紐をもって木を登ることもできないため、首を吊ることはできなかった。
私の兄は事情を聞いたのち、泣きながらみんな生き延びようと説明した。
夕方5時を過ぎ、私たちは山頂に着いたところ銃声が聞こえた。兄は日本兵に撃たれて死んだ。
この件で、穴にいた者10人が一斉に死亡し、私の家族は死亡したのは父である楊祥明40歳未満だった。母は父より2歳ほど下。兄嫁の許仙度、姉の楊杏宝15歳。いとこの徐尔忠は確か11歳。
1938年私は6歳だった。
旧正月2月12日、私の一家は清明節の準備をしていた。
私の家は祖母、母、おじさん、お姉さん、弟の5人だった。
その日の午後、日本鬼子が檀渓方面から山を回ってやってきた。
村民は皆逃げるつもりだった。
私の母は纏足で走るのは遅かった。
彼女は、私は逃げることができない。
家で死ぬと言っていたが、一緒に逃げてきた。
私は山の斜面にある墓からそう遠くない家に隠れた。
そこにはすでに多くの人が集まっていた。
およそ35、36人。多くは漁船から引き揚げて上陸した漁民であった。
日本鬼子は多くの家に火を放った。
私の隣にいた老女は自分の家が燃えるのを見て突然叫んだ。
それが原因で、私たちの存在が相手にわかってしまった。
ふと見ると日本人将校の一人が私たちの方へ旗をふり、日本鬼子の一群が突進して来て、銃剣で私たちを刺そうとしてきた。
たちまち悲惨な状況になった。
叫び声が上がった。私の母は頭を刺されて、死亡した。
弟は首を落とされて、それ以来みつからない。
私は5回刺されて、気が遠くなった。
翌日、私はゆっくり意識が戻ってきた。
綿製の上着は薄ねずみ色から赤色に変わっていた。
私は痛み、寒さ、空腹で動けず、泣くことしかできなかった。
でも力がないので、泣いても泣いても響かなかった。
3日目父が私を発見した。彼は私をわからず「お前は誰だ」私は「素英」と答えた。
父は慌てて私に聞いた、「弟やほかのみんなは?」私は「みんな死んだ」といった。
すると彼は気が遠くなり倒れて山から転げ落ちた。村人は走って担いだ。後で意識が戻った。
私は家に帰った後、医師に治療してもらう金がないため、畑を8分目ほど売って、何とか生き延びた。
次に、両国の資料を比較し、共通点と相違点を探っていきます。
日付は中国側では旧暦2月11日とありますが、西暦になおすと3月12日になります。
また両方とも、二日続けて行われたという点で一致します。
「馬山」をA氏の資料では「馬蹄」としています。
戦前日本で作成された地図の多くは「馬蹟山島」と表記しています。
「馬山」「馬蹟山」「馬蹄」は同じ島のことをさしているのでしょうか?
私の短い経験から考察すると、日本の資料に登場する中国の地名は、本国と異なる字を使用している場合が多く見られます。
特に部隊誌や従軍記に登場する小規模な村落や「鎮」になると、その傾向をよく見られます。
よってA氏も誤った字で記した可能性が高いと考えるのが自然かと思われます。
ちなみに「馬山」の正式名称は「馬跡山」ですが、戦前の日本の地図では「馬蹟山島」と表記されている場合がほとんどです。
「迹」と「蹟」は両方とも「あと」という意味であり、発音も「ji」と一致します。
両方とも同一の島をさしているのですが、なぜそのように違いができたのかはわかりません。
中国軍は島の東半山(東側)とし、A氏の資料では島の北東から近づき山へ登ったとあります。
両者とも東という点、山に上陸している点で合致します。
支那事変実記第八輯の3月15日に次のような記述があります。
「馬蹟山島の敵を殲滅
これより先、去る(筆者註―3月)十二日、無錫南方約二十キロ、太湖上の馬蹟山島の敵を掃蕩すべく、海軍と協力して東海岸から逐次上陸した石井部隊の一部は、 李春の率いる七百の敵を殲滅、昨十三日、全島の清掃を終わったが、石井部隊は田上部隊と協力の下に、けふ正午頃より、常州南方八里の和橋鎮付近の敵に對し勇躍攻撃を開始した。」
これによると、馬山にたてこもっていたのは李春率いる700人であったということになります。
しかし現在のところ、李春に相当する人物を中国側の資料からは発見できていません。
日本軍はいい加減な情報をマスコミに発表するとも思えず、なんらかの根拠(例えば回収した文書等)からこの人物の名前が浮かび上がったと思われます。
一方、中国側の説明では田文竜なる人物が率いた部隊の100名が戦死したとあります。
中国側の別の資料では、田文竜について次のように説明しています。
「从淞沪战场溃退下来的国民党军队某部600余人在田文龙的率领下退守太湖,欲以马山等地为依托,抗击日军。」
田文竜は、第二次上海事変で敗走してきた国民党軍隊某部600人を統率し、太湖・馬山を本拠地とした軍人だったようです。
600人は、日本陸軍の2個~3個中隊に相当します。
李春(もしくは李春茂)か、それとも田文竜か。
日本側の資料である李春については、新聞によっては「李春茂」となっている以外はまったく情報はありません。
田文竜の名は被害者の証言からも登場するため、李春茂よりも実在性は高そうです。
どちらが司令官か明確にできませんが、中国側の方が具体性があり、馬山で国民党軍を率いていた司令官は田文竜である可能性は高いと見ています。
中国側の資料では約1500人としています。
日本側の資料は、「戦果」として約700人としています。
700人は日本軍の攻撃による「敵軍」の「遺棄死体」ととらえれそうですが、中国側の資料に立脚して考察すると、死亡した約100名が兵士であり、残りの約600名は兵士以外の者となります。
この倍以上の違いはいったい何を示しているのでしょうか。
犠牲者数が具体的に発表されている例は次の通りです。
鈕埼村 26人
檀渓村 97人
祥符寺 5人
新城村 30人余り
西村 2人
龍頭渚附近の浜辺 200人
国民党軍兵士 100人余り(3月12日の戦闘?)
事件のあった村と犠牲者数
ここにあげた事例のみで計算すると 450人から500人が犠牲になったと捕えられます。
これ以外にも、公表されていない事例も存在する可能性も捨てきれませんが、あえて代表的な事例(規模の大きな事例)をあげているようなので、もれてしまった事例の中に規模の大きな事例は期待できないとみられます。
仮にあったとしてもその誤差は100人から200人ほどではないかと考えます。
以上の考察から私は650人から700人が日本軍による直接的な犠牲になったと考えます。
この数値は「支那事変実記」にある700人に近い数字になります。
では中国側の1500人はどうとらえればよいか?
この事件に限らず被害者の人数は日中間で異なる場合がよくみられます。
有名なところでは「南京事件」でしょう。
日本の研究者の中では、中国の主張する被害者数三十万人は政治戦略による数字だとまで考えている人がいるようです。
馬山虐殺事件の被害者1500人も政治戦略の一環なのでしょうか?
私は、そうした事情が影響してできた数字ではないと考えています。
中国では直接日本軍によって殺害された人以外に、それが遠因となって死亡した人も犠牲者と認定するケースが見られます。
一例として、三ソウ(火へん+土)島事件とよばれる事件があります。
NHKの「日本海軍400時間の証言」で取り上げられたのをご存知の方もいらっしゃるかと思います。
大井元大佐の「三ソウ(火へん+土)島事件というのがありましてね、私はそのあとでいったんですけど、臭くて、死臭が……。あの三ソウ(火へん+土)島に海軍の飛行場をつくったんです。飛行場をつくるのに住民がいるもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人か殺した」という録音テープは少なからず反響を呼びました。
1938年2月、ここに海軍陸戦隊が上陸し、中国本土爆撃用の秘密飛行場の建設しました。
中国側の見解によると、滑走路建設前に実施された日本海軍の掃蕩戦により島民の2891人が殺害され、マカオに避難し餓死した人3500人、さらに空港建設などで死亡した3000人としており、直接的な犠牲者とその延長で亡くなった間接的な犠牲者も同様にみていることがわかります。
最近出版された本にもそのような記述をされた文章を見つけました。
2014年出版された「江蘇省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失」は、省内における戦前・戦後の人口を比較しています。
例えば、鎮江県は1937年216803人だったが、1945年には153613人と63190人減少したと報告しています。
馬山のある無錫市でも、同様に人口減少は見られるそうで、この背景に爆撃砲撃、放火、虐殺などの日本軍の侵略が生活条件悪化の直接的な原因と、疫病、飢餓、強制労働など間接的な原因があったと説明しています。
これを前提に計算すると、犠牲者の範囲は広がり、その数は直接的な犠牲者数を大きく上回る結果になってもおかしくありません。
私は馬山虐殺事件の犠牲者「1500人」も、日本軍に殺害された700名を除いた800名は、二次的、三次的な要因で死亡した人に相当するのではと解釈しています。
再び中国側の見解を確認すると、赤ん坊が大きな声をあげないよう、母親が口に雪を詰めたり乳房を押し付けたため数人亡くなったという記述や、国民党系の兵士約100人の戦死者の記載がみられるので、虐殺された犠牲者の範囲を幅広くとらえているのがわかります。
では、馬山で考えられる間接的犠牲者の死因は何か、検討してみます。
仮説1 凍死者の存在
事件のあった昭和13年3月の天気は、日中双方の資料とも大雪であったと伝えています。
立春を超えているとはいえ、寒冷な気候であったことはまちがいありません。
日本軍占領時の上海でも、冬から春にかけて毎日数百人の凍死者がでたという話を伝わっています(日吉廣治「漢奸」文芸者2001)。
陥落後の南京でも、毎日数百人の凍死者がでていたという元兵士の手紙も残されています(浅羽町史資料編3近現代 1997)。
事件当時島民の多くは、雪の降り積もる山間部に避難していました。
彼らの家は日本軍にすべて焼かれていたため、事件以前の生活を続けるのは、ほぼ不可能になってしまった人も多かったはずです。
ひどいケースでは日本兵が食肉を焼くため、家に火を附けた例もあったようです(A氏手記)。
暖をとることができず、寒さに耐えなければならない生活へと急激に変化をしたため、日本軍が去った後多くの凍死者が発生した可能性はあるとみられます。
仮説2 餓死者の存在
日本軍は、食糧を備蓄していた家屋を片っ端から放火した様子は、双方の資料から確認できます。
A氏手記によると、日本兵が島民の食糧を取り上げるということもあったようです。
さらに多くの船が焼かれたため、島民の食の一部を支えた漁業もほぼ壊滅的な影響を受けます。
そうしたことが遠因で、餓死した人が発生した可能性も考えられます。
仮説3 伝染病の流行による病死者の存在
背景は異なりますが、1945年に豊橋市が空襲された後、衛生管理の不備が原因か伝染病が流行し、戦後数百人が病死しました。
馬山でも事件後二十数日ほどたっても、死体が現場に残されたままであったと伝えられているので、衛生的はかなり劣悪な環境にあったと推測されます。
よって衛生状態がきわめて悪かった馬山では病死者も発生した可能性は高いと見られます。
以上から、日本軍の襲撃が遠因となって餓死・凍死・病死・事故死した人なども含めた数字が、残りの800人に相当するのでは、と考えています。
しかし、いずれも想像の域を出ないので、いずれ現地で細かく調べてみたいと思っています。
馬山虐殺事件は、別のページでもふれますが広徳周辺の掃蕩戦の途中に発生しました。
A氏の手記を読み返すと、新作戦開始後の翌日に馬山に上陸しているので、当初から掃蕩する土地として決まっていたようです。
しかし、なぜ中国軍の一部が馬山に潜伏していたことを知っていたのでしょうか?
そもそも日本軍は中国軍の情報をどこから得ていたのでしょうか。
複数の部隊誌に目を通すと、日本軍は現地で複数の情報網を確保し、それに基づいて掃蕩戦を実施していたらしいことがわかります。
事例1 歩兵第十八聯隊第八中隊誌
江蔭を警備していた昭和13年2月から3月、部隊内に様々な情報や噂がもたらされていたことを記しています。 次の記述があります。
「二月二十二日 (中略)
《情報》(衛兵所前に停車した運転手の情報)
夜中近くに城外の砲兵後の衛兵所前に、一台の貨物自動車が停車し、その運転手が語ったところによると、敵の第一線はホーセイ(さだかでないが太湖の西岸地区)附近にあり、トーチカや掩蓋陣地を構築し、頑強に抵抗している。
我軍も何回かにわたり攻撃、白兵戦も実施した由。敵も暖かさと共に、いよいよ蠢動し始めたものと思われる。」
「三月二日 (中略)
《情報》(上司の噂)
敵の敗残兵の集団が、太湖の南方及び西方地区に残存し、暖かくなるに従って蠢動し、かつ頑強に抵抗している。
この敵に対し聯隊主力は討伐しながら、特に太湖の西方地区の敵を討伐して、南京方面に進出を企図している由。」
事例2 歩兵第六十八聯隊第一大隊史
同大隊は昭和12年12月末から翌年3月初めまで金壇周辺の掃蕩を繰り返しています。この掃蕩について次の記述があります。
「付近住民は我軍を信頼し、情報蒐集は比較的容易であった。
▶敵情=遊撃隊司令は謝昇標で兵力約五千。南方地区のいわゆる広徳付近の大凹角地帯より潜入し、溧陽付近に根拠を置き、長蕩湖西側地区に於て最も跳梁していた。」
事例3 騎兵第三聯隊史
同聯隊は昭和12年12月24日から翌年4月4日までの間、常州付近を警備していました。その間周辺地域の「治安回復」のため、何度も掃蕩を繰り返しました。同聯隊史には次の記述があります。
「森川中尉(通信班長)を情報班長として地区内の警備情報の収集に努め、情報に基づき小部隊による討伐が繰返し行われ、特に青幣を使った情報は的確で、夜間奇襲包囲して夜明けとともにこれを撃滅する戦闘が繰返し行われ、地区内の治安は急速に回復していった」
こうした事情から、現地の日本軍は担当地域内の住民、青幣、他部隊の関係者など複数の情報網を得ていたことがわかります。
馬山に中国軍がいることもそうした情報源によるものであるとみられます。
おそらく馬山に中国軍がいるという情報は、早い段階で日本軍にもたらされて、土地の情報から攻略方法を検討したと見られます。
・3月12日まで掃蕩が先延ばしされた謎
他のページで詳細に触れていますが、南京戦後、広大な地域を占領することになった日本軍は、各部隊に担当地域を割り当て、「治安安定」のため、その周辺をたびたび掃蕩しています。
なぜ3月12日まで馬山への掃蕩は先延ばしになっていたのでしょうか。
掃蕩を実施した部隊の規模と行動範囲に注目してみます。
掃蕩で移動する範囲は、警備地から半径10キロもしくは15キロ圏内に収まっており、地続きで1日から2日で終えるものが多く見られます。
昭和13年1月24日から2月4日までの動向
2月4日から2月18日までの動向 ―戦闘あり …戦闘なし
2月20日から2月26日までの動向 ―戦闘あり …戦闘なし
3月5日から3月8日までの動向
掃蕩に出発する部隊の規模は、1個中隊もしくは3個中隊で行動している場合が多くみられます。
日本軍の占領はあくまで、都市とその道路に限定されており、全軍で行動すると警備が手薄になり襲撃されるリスクは大きくなるため、小規模で行動せざるを得なかった事情が浮かんできます。
では馬山の特徴に注目してみます。
馬山は、第三師団の警備範囲から遠いわけではないのですが、湖上の島であるため陸上と違い、移動に船舶を確保する必要があります。
通常実施する掃蕩する場所と異なり地続きであるわけでもないため、部隊が危険な状態になっても、警備地への撤退は容易ではありません。
他にも食糧の確保、負傷者の搬送など、陸軍の部隊が単体で行動するにはクリアしなければならない問題はいくつもあります。
また複数の情報網から、島内に数百人以上の中国兵が潜伏しているという情報も得ていたとみられるので、中隊1個から3個で島に上陸し相当する決断はできなかったのかもしれません。
馬山虐殺事件の内容を見てもわかるように、1個大隊でも2日かかるわけですから、1~3個中隊で馬山に上陸することに不安を覚えた将校がいてもおかしくはないとみられます。
以上、馬山の掃蕩は通常の地上戦とは異なるため、クリアしなければならないことがいくつか考えられます。
ちなみに、馬山上陸時にあった戦闘では、A氏手記によると第三機関銃中隊の兵士2名が負傷(ご遺族にも確認しています)したと伝えています。
静岡民友新聞の戦死者欄には戦死者1名、負傷者2名(3人とも静岡県出身、うち一人はA氏手記の2名のうち1人と同姓同名)が掲載されています。
私の確認した史料からは、少なくとも戦死者1名負傷者3名はでているようです。
当時の新聞記事によると、「海軍と協力して」馬山を掃蕩したとあります。
わずかですが、それを証明する資料があるので、検討してみます。
A氏の手記によると、馬山への移動は海軍の砲艦を使用したとあります。
さてその砲艦はどの部隊に所属した部隊でしょうか?
「支那事変実記第八輯」3月15日によると、「連日太湖付近の警戒に当たってゐた」のは加藤大佐の率いる砲艇隊であったとあります。
「加藤大佐」とは、経歴から考えて戦後戦犯容疑で処刑された加藤栄吉中佐である可能性が高いと考えています。
「殉国 加藤栄吉海軍大佐」によると、加藤中佐は昭和13年1月30日 補上海海軍特別陸戦隊附兼分隊長第三艦隊司令部附とあります。
他に加藤姓である将校は、有名な人で加藤建夫氏、加藤良之助氏、他の加藤さんも調べてみましたが当時中国にいたのは、加藤栄吉氏のほかは確認できませんでした。
しかし、今のところ加藤栄吉中佐が、砲艇隊を率いたことを証明する記録は発見していません。
今後の課題です。
海軍省が発行した「支那事変に於ける帝国海軍の行動」の附表「支那事変海軍作戦経過一覧表(自昭和十二年十二月十八日 南京攻略後より至昭和十三年十月三十一日 漢口攻略まで)に次のような記述を見つけました。
「三.一二 航空部隊は馬蹟山島の敵を陸軍と協力して掃蕩す」
この資料によると、馬山虐殺事件があった日に海軍の航空部隊が掃討作戦に参加したことになります。
当時の新聞記事と中国の事件の概要のにも、空襲があったことを伝えています。
陸軍の航空部隊が参加している記録を見つけていないので、この空襲は海軍によるものと考えるのが自然かと思います。
昭和12年8月13日、華中方面を対象とした海軍航空部隊の展開は次の通りです。
第二連合航空隊
第一航空戦隊
第二航空戦隊
第十二航空隊など
この一部が馬山を空襲した可能性はありますが、どこの航空部隊か特定に至ってません。
これも今後の課題です。