2017年04月27日 22:17

静岡県内の元兵士をたずねて

カテゴリ:調査
101歳の元十八聯隊兵士を訪ねてから半年間くらいでしょうか、愛知県内でご健在の可能性があると思い込んでいた元兵士の家はすべて尋ねました。

ほとんど方が亡くなっており、新しい情報を得ることはできませんでした。

次なにをしようか?と考えたとき、思い浮かんだのは静岡県でした。

歩兵第十八連隊の徴兵区は三河と静岡県西部の遠江です。

本来なら両方とも調べるのが筋です。

でも私は静岡県を避けていました。

言い訳にしかなりませんが、私の家からはかなり遠い地のように思えたし、近所の三河地方と違ってある程度時間に余裕を持ってやらなければ日帰りできない、今も続けているのですが私の仕事は3交替制で疲労を残して働きたくない、人手不足が慢性的になっている職場なので連休をとるのが難しい…

でも、諸先輩は体に鞭を打って、栄光をつかんできたのを知っているので、どっちにしても楽な方法は思いつきもしません。

敬遠していた遠江へ潜入調査することにしました。

豊橋から静岡へ入ると、はじめに湖西市という街があります。

失礼ながら湖西市出身の元兵士は知らないのでそのままスルーし、ホンダ・スズキ・ウナギパイで有名なあの街の図書館に行ってみました。

愛知県内では入手の難しい静岡県出身の元兵士の名簿(約4万円)をみつけました。

その中から歩兵第十八連隊の兵士を30名近く見つけました。

それをもとに十八連隊に特化した名簿を作り直し、愛知県図書館にある静岡県の住宅地図で、名簿の住所を頼りに、家を探してみました。

しかし、やはりというか、苗字は同じでも下の名は違うというのがほとんど。

やっぱり74年という壁(この時すでに2012年)は大きいことを思い知らされました。

でも本人の名前で掲載された家を4軒見つけました。

再度静岡県に訪問し家をさがすため、ミカン畑の中を二時間歩いたり、渓谷のような地形の真ん中にある農道を歩いたが知らないうちに逆方向を歩いていたり…

とてもつらい経験をいくつかしました。

愛知県でもそうでしたが都会に慣れ親しんでいる者にとって、この場合奥三河とか北遠江ですが、家が少なく山・谷・川・畑が多く占める光景は不慣れで、方向感覚が何度かくるい、逆を歩くなんてことも珍しくありませんでした。

道は狭く、その狭い道を車体の大きい車も走るから、何度か本当に轢かれそうになりました。

また私は車を運転しません。

移動手段は主にバスか、鉄道です。

でも山間部の村を走る地域バスは、一日3~4便しか運行していないところも見られました。

だから、ちんたら歩いていたらバスに乗り遅れてしまい、結局15キロ先の駅まで歩いたこともあります。

非常に厳しい環境ですが、調査が行き詰っている以上やるしかありませんでした。

さて4名のうち3名の方はすでに亡くなられていたことを、奥様もしくは息子様から確認できました。

でも、気になる話も伺いました。

ミカン畑を管理しているOさん宅を伺ったときのことです。

本人とそっくりな方がみえました。

話を伺ってみると息子様であることがわかりました。

10年ほど前に本人は亡くなっており、戦争の話はほとんど聞いたことが無かったそうですが、怪我を負ったときの話は聞いたことがあるとのことでした。

本人によると、なんでも湖で船から降りたところ、敵の銃弾が心臓近くを貫通する重傷を負ったと話していたとか。

この話を聞いて、家にかえってから再度名簿にあるOさんの軍歴を調べたところ、昭和12年3月太湖付近で負傷したことが記載されていました。

具体的な場所は不明ですが、十八連隊がこの時期に太湖付近で戦闘をしていたのはあの馬山です。

ただし矛盾があることにも気づきました。

Oさんの所属部隊は歩兵第十八聯隊の第二大隊第二機関銃中隊です。

事件と関わりのあるかもしれない第三大隊ではないのです。

もしかしたら第三大隊以外の兵士も馬山に上陸していたのではないか?

そんな仮説が頭をよぎりました。

でも戦場では、機関銃中隊に限らず、部隊内の中隊間を移動することはよくありました。

でも私はこの時それを知りませんでした。

後にOさんも第二機関銃中隊から事件前に第三機関銃中隊へ移動したことを資料から確かめました。

やはり第三大隊は事件と何らかのつながりを持っていたのですが、そこへ到達するまでさらなる月日を要しました…

三人の方が亡くなっていたことを知り、ああみんな死んじゃっていたかと残念に思っていたところ、またもや奇跡的な出会いがありました。   


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2017年04月27日 22:15

当時の兵役制度

カテゴリ:調査
101歳の元兵士Sさんはわたしが2度訪問した後、体調不良のため、話を聞くことが困難な状態となりました。

今思うと貴重な体験でした…

さて、Sさん宅を訪問後、私はなぜ中国にわたった歩兵第十八連隊の兵士の年齢層がバラバラなのか?に関心を持っていました。

二十年近く前に中学校や高校で、

明治維新後、富国強兵を目指した時の政府は、明治の初めに徴兵制を施行した
20歳以上の男子は徴兵検査を義務付けられた、約二年間の兵営生活を務めて除隊した

こんな感じで習ったのはぼんやり覚えていましたが、それ以上勉強する気もなく、知識はそこで止まっていました。

でも、Sさんの証言どおり、戦場には30歳以上の人が多く送り出されており、徴集される人の基準はいったいどうなっていたのか?

戦場に送られる人の基準とは何だろうか?に関心を持っていました。

今思うと当時の徴兵・兵役制度に則って軍が業務していたためであるとわかるのですが、当時ははずかしいことにそれすら知りませんでした。

さっそく図書館にこもり、当時の徴兵制度を勉強してみました。

日本陸軍がよくわかる事典―その組織、機能から兵器、生活まで (PHP文庫)/PHP研究所




事典 昭和戦前期の日本―制度と実態/吉川弘文館




すると、当時の徴兵制度は、中学校や高校の授業では省略されるだろう、細かい仕組みになっていたことがわかりました。

明治6年に徴兵制成立し、義務兵役制度が成立しました。

成立後、制度は何度も細かい改定を加えられました。

日中戦争において関係するのは昭和二年に公布された兵役法です。

この法律によると

年齢十七歳から四十歳まで、兵役に耐えられない者を除いてすべて兵役に服すること。
兵役は常備兵役・後備兵役・補充兵役・国民兵役と区分される。
常備兵役は現役と予備兵役に、補充兵役と国民兵役は第一と第二に分けられる。

兵役の区分は陸海軍ともおなじですが、兵役の年限は若干違います。

陸軍の場合は

現役 2年 20歳~22歳

予備役 5年4か月 22歳~27歳

後備兵役 10年 27歳~37歳

第一・第二補充兵 ともに12年4か月 20歳~32歳

第一国民兵役 17歳~40歳

第二国民兵役 32歳~40歳


兵役は徴兵検査の結果次第で決まります。

平時は陸海軍とも次のようになっていました。

甲種・第一乙種・第二乙種と判断されたもの→現役に適するもの(現役または補充兵役)

丙種と判断された者→国民兵役に適するが現役に適さない者(国民兵役とし徴集しない)

丁種と判断されたもの→兵役に適しない者(兵役免除)

戊種→判定しがたいもの

甲種は身長が155㎝以上、のちに152㎝と緩和されました。


陸軍では徴兵検査の結果次のように兵役を振り分けられました。

甲種→現役(徴集)

第一乙種→第一補充兵役(召集)

第二乙種→第二補充兵役(召集)

丙種→第二国民兵役(徴集せず)

原則はこのようになっていましたが、昭和10年のデータによると、甲種29.7%、乙種32%となっており、戦争が長引いた場合兵員が不足してしまいます。

戦争が長期化していた昭和15年には丙種も召集の対象となり、結果次のように徴集される規模が大幅に広がりました。

甲種・第一乙種→現役(徴集)

第二乙種→第一補充兵役(徴集)

第三乙種→第二補充兵役(徴集)

丙種→第二国民兵役(召集)


本でわかったことをまとめると

歩兵第十八連隊が上海に上陸したのは昭和12年、つまり1937年だから明治33年生まれの37歳の男性は、ぎりぎり後備兵役になるので徴集されても不思議ではない

戦時になると、現役が不足する。だから予備役・後備兵役の人も徴集される

戦争が長引くと原則兵役に含まれない人まで召集される


当時の兵役法と虐殺事件のあった昭和13年3月における歩兵第十八連隊の内部事情を重ねて説明すると次のようになります。

前年の上海戦で現役のほとんどが戦死・戦傷し、兵員が不足していた

兵役法に定めてある「帰休兵、予備兵、補充兵または国民兵は戦時又は事変に際し応し之を召集す」にあるとおり、予備役・後備兵役・補充兵にも充員の召集がかかった

結果年齢の高めの人が多く召集されたため、歩兵第十八連隊の平均年齢はグっとあがった。

なお他の戦争を調べていると、日中戦争よりはるか昔にあった日露戦争で、年齢が高めの後備兵役の部隊をいくつも複数編制されたことが紹介されていました。

※ウィキペディアにはその詳細があります。

規模が大きいため、予備後備役から充員するという兵員不足の時の習慣はこの時すでに見られます。

なお、歩兵第十八連隊以外の部隊はどうだったかというと、上海に出征にいった部隊はほぼ同様(予備役・後備兵役の兵士がたくさん)だったそうです。

なお日中戦争では、特設師団といって、兵士が予備兵役・後備兵役が中心の部隊がいくつも生まれました。

昭和12年の上海戦に投入された、平均年齢が37歳の第114師団をはじめ、第101師団、第13師団、第18師団、後備兵団などがそれにあたります。

当時陸軍参謀本部の作戦課員だった井本熊男氏は第101師団の兵士たちを見てこのように思ったそうです。

支那事変作戦日誌/芙蓉書房出版





「なるほどこれは年寄りの集まりだというのが第一の印象であった。皆一家の主人で家庭を支えている大黒柱の年輩である。指揮官にも現役はほとんどいない。これでは当分戦力は出まいと思った。」

日本の場合、その経済規模から、戦争を始めると早期に人員不足・資源不足を引き起こす。だから長期の戦争ができるほど体力はないのは当時からわかっていたそうです。

しかし、この問題を一切克服することなく日本は中国と戦争を始めてしまいました。

見通しが甘かったと言われる所以です。   


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2017年04月27日 22:12

現地にいた日本兵の年齢

カテゴリ:調査
2010年の4月ごろ。

私は、池・鯉・鮒が町名の由来というユニークなエピソードをもつ街にいました。

住宅地図にて元兵士のフルネームが書かれた家を確認したのでいってみました。

するとなかから80代くらいの男性が。

実はこの方、私が探していた元兵士のSさんでした。

見た目は80代ですが、私があったときは先週101歳の誕生日をむかえたばかり。

あとで知ったのですが、この街で最高齢の男性でした。

戦後は町議会員(当時)として活動されたそうです。

100歳超えて一人ぐらし、目は白内障で少し見えないそうですが、記憶力は大変良く、陶芸や茶道を趣味とされてました。

私は2回Sさん宅を訪問し、歩兵第十八聯隊だけでなく、当時の軍隊の話も教えて頂けました。

Sさんは、昭和5年に歩兵第十八聯隊に入隊。

1年ほどで除隊し、接客の商売をされていたそうです。

しかし、昭和12年9月頃召集令状が突然やってきたとか。

当時30歳近くになっており、すでに結婚して小さい子供がいました。

自分のような年齢が高めの人間がなぜ召集されるのか?と不思議に思ったそうです。

家族に送迎され、昔兵営生活をおくっていた豊橋の兵舎にむかったところ、そこには親戚筋の男性がいました。

話を伺うとこの方にも召集令状がきたとのことです。

しかし、その方はSさんよりさらに前の大正15年に現役入隊した人でした。

つまり1926年頃現役入隊ということになりますので、31、2歳だったということになります。

この方以外にもSさんより年上と思える人は多く召集されていたそうです。

いったいなぜこうした人ばかり集められたのか、なにがおきているのか?

不思議に思ったそうですが…

昭和12年10月始め中国上海に上陸してすぐにわかりました。

さかのぼること同年9月、歩兵第十八聯隊は上海に上陸しました。

しかしそこで中国軍の激しい攻撃にあい、ほぼ全滅に近い状態に。

Sさんの配属されたのは歩兵第十八聯隊の第八中隊。

以前記事で紹介したあの本の部隊です。

歩兵第十八連隊第八中隊史―日中事変および太平洋戦争における (1978年)/歩一八・八中会隊史刊行委員会


なおSさんはこの本の執筆者メンバーの一人として参加されています。

Sさんの話によると、第八中隊は上陸前の9月200名近くいたのですが、約1ヶ月で約30名ほどにまで減ってしまったということでした。

第八中隊に限らず、歩兵第十八聯隊の兵士は上陸前、20歳過ぎの現役兵と現役を終えたばかりの予備役兵(23~27歳)で編制されていました。

そして第八中隊同様、他の部隊でも現役兵のほとんどが戦死または戦傷を負い、ほぼ全滅に近い損害を歩兵第十八聯隊は被りました。

それを補うべく、現役よりも年長の予備役兵、さらにSさんのような27歳以上の後備役兵(こうびえきへいとよみます)を兵士として召集するはこびとなりました。

後備役兵は27歳以上37歳以下と決められていますが、実際は40歳の人も召集されたという話はいくつか聞いたことがあります。

彼らは現役から長い時間離れていたため、当然即戦力とはなりえませんでした。

当時40歳だった人は、戦後部隊誌に「ほぼ20年ぶりに兵器を触った」と回想しています。

しかし、現役のほとんどが戦闘不能に陥っているため、彼らを活用する以外方策は残されていませんでした。

いっきに平均年齢が上昇した歩兵第十八聯隊。

でも烈しい戦闘が繰り広げられた大場鎮の戦い(昭和12年10月)や蘇州河の戦い(同年11月)に参加し、結果中国軍を撤退させ、上海の占領に貢献しました。

ちなみに前の記事で紹介した、(馬山虐殺と関わりがあるかもしれない)同聯隊第十一中隊も生き残りは16人のみで、足りない兵員は予備役や後備役で補ったそうです。


上海戦〓@63C2江碼頭付近の実戦記―歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) (1984年)/作者不明


上海戦で歩兵第十八聯隊の損害はどれほどだったか明らかにされていませんが、元同聯隊の兵士として勤務していた兵藤さんは、戦死者1200名、戦傷者3000名としています。

この数値はどれだけ正確かわかりませんが、同聯隊を配下部隊としていた第三師団は、上海戦でほぼ全滅に近い損害を被ったといわれており、兄弟聯隊である歩兵第六連隊(名古屋)や歩兵第三十四連隊(静岡)も、戦死者1000名以上、戦傷者3000名以上とほぼ同じ規模の損害を被っています。

よって兵藤さんの示した歩兵第十八聯隊の損害数値は妥当なものと思われます。

同聯隊の第八中隊誌には現役兵よりも、年長の予備役兵と後備役兵の回想が多く掲載されています。

上海戦で多くの現役兵が戦闘不能になったためと思われます。

「同中隊誌」によると、昭和13年6月4日、昭和2年以前の徴集兵士67名の帰還が決まりました。

有事の場合、中隊は最大250名まで膨れ上がります。

当時も250名ほどの編制でしたが、指揮班など上層部を除くと180名ほどになります。

67名というのは、だいたい全体の三分の一程度を占めます。

一番若い昭和2年兵でさえ1927年入隊ですから、全員30歳を超えた人たちということになります。

第八中隊以外の部隊でも同様だったと思われます。

つまり、馬山虐殺事件が起きた当時、歩兵第十八聯隊は若い現役兵の数は全体的に少なく、20代後半以上の人が圧倒的に多かったということになります。

私が訪問調査を始めた2009年当時、事件に関わった人たちの多くは、ご健在であれば、既にSさんと同じく年齢が三ケタ、もしくは90代後半…だったということになります。

でも、この時は勉強不足だったから、こんな知識はまるでなく、元兵士に会って話ができたということでテンションが一日中上がりっぱなしでした。   


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2017年04月27日 22:11

ごつい名簿をもとに兵士宅へ訪問したものの…

カテゴリ:調査
2008年~2010年にかけて、私は古本屋めぐりをして中部地方出身者の元兵士の名簿(軍歴もあり)を5冊手に入れていました。

これらの名簿はどのような経緯で出版されたかわかりませんが、これと似たような本は全国各地でみかけるので、国が何らかの形で関わっているのではないかと思います。

1冊1000ページで約4万円という高価格で売られていたようで、全国規模で元兵士に配本されていたわけですから、担当した方(たぶん厚生省)は相当儲けたと思われます。

以前行ったように名簿にある住所と、住宅地図を照らし合わせて、本人の名前で掲載されている家はないか、お一人お一人地道に確認していきました。

本人の名前で掲載されている家は、愛知県内で9名ありました。

名古屋市に住所のある方もいましたで、早速いってみました。





そこには築50年近い家がありました。

表札には本人の名前が。

勇気を出していざ呼び鈴。

すると、おそらく90歳近い高齢の女性が応対してくれました。

その女性は奥様で、本人は十数年前に亡くなったとのこと。

戦争の話はあまり聞いていないが、病院に受診されたとき、中国で青竜刀に斬られた傷跡を看護士がみて驚いていたことなど、面白い話を聞けました。

奥様は、「こんな若い人が旦那をたずねてきてくれるなんて」といいながら涙を流されました。

…実は私あまり若くないんですけれども、一応ありがとうございますとお礼を言い、その家を後にしました。

赤穂浪士に殺されたあの人の出身地にも、元兵士本人の名前で家が掲載されていたのでいってみました。






うかがってみたところ、娘様が応対してくれました。

本人は20年近く前に亡くなり、遺品も整理したとのことでした。

織田軍と武田軍の合戦のあったあの町にも、Kさんという人の名前を見つけたので行ってみましたが家族様によると、25年前に亡くなられたとのことでした。


7お稲荷様で有名なあの街にもHさんという人の名前の家をみつけたので訪問したのですが、10年以上前に死んだよと、元気でタフそうな奥さん(90歳になったとか…)が教えてくれました。

このかたは入隊当初は歩兵第18聯隊だったが、途中飛行兵に転身し、三回墜落したが生きていたという強運の持ち主だったと話されました。

ちなみにこの街はかつて東洋一と呼ばれた海軍工廠がありました。

昭和20年8月7日この街の海軍工廠が大爆撃された様子をこの奥さんは近くから目撃していたそうです。

たった数分の爆撃で死者2400人以上という大惨事だったと聞いております。

犠牲者のなかに15歳以下の女学生が多くいたそうです。

なんと奥さんの妹さんもそこで勤務しており、大爆撃が終わった後、急いで工場に向かい、妹さんを探したそうです。






工場内はバラバラになった子供や大人の遺体が散らばっており、地獄絵さながらだったとか…

その後奥さんは無事に避難して助かった妹さんと再会できたそうです。


……などなど、こんな具合で、他にも5軒の訪問を続けたのですが、すでに亡くなっていたという場面に何度も出くわしました。

70年以上という月日がいかに大きいか、身をもって感じました。

でも奥さんや娘さんから本人がどのような人だったか、本人の口から出た戦争の話など、他ではあまり聞けない話をいっぱい知ることができたので、気分は充実していました。

事件の真相は相変わらずわからずじまいでしたが…

でも信じていれば、というわけではありませんが奇跡的に本人に出会えたこともありました。   


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2017年04月26日 08:49

調査の落とし穴2

カテゴリ:調査
↓の本にある元兵士の名簿をもとに自宅を訪問し、事件の手掛かりを探る方法に着手したのですが…
上海戦〓@63C2江碼頭付近の実戦記―歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) (1984年)/作者不明


結果から言ってほとんど手掛かりは得られませんでした。

事件から既に70年以上たっており、殆どの方が亡くなられていました。

訪問して応対してくださった家族様の話をうかがったところ、本人は生存中ほとんど戦争の話をしていなかったというケースをよく耳にしました。

亡くなられたのち、本人の遺品を整理したため、戦争中の者はほとんど残っていないという話もよく伺いました。

そして何より、この本の名簿にも問題がありました。

…というよりも、あまり吟味することなく、採用した私に原因がありました。

本の内容は、昭和12年9月に起きた歩兵第十八聯隊第十一中隊の上海虬江碼頭付近の戦闘が中心となっております。

同中隊は、烈しい中国軍の攻撃にあい、上陸前192人だったのが、上海戦が終わるころにはたったの16人にまで減っていたのです。

つまり、名簿にある兵士のほとんどはこの戦いで戦死または戦傷を負ったため、その後の戦闘に参加していない場合が多かったのです。

この名簿は、戦傷のため内地帰還した兵士はだれかまではフォローしていませんでした。

実は、元兵士の遺族にあたる家族様、もしくは奥様より、本人からは上海に上陸してすぐに負傷し内地送還されたと聞いている、という証言をいくつか得ていました。


非常に重要な話であったにもかかわらず、私は信じられないことに流していました…。

おかげで一年以上という、大切な時間を無駄にしてしまったわけです。

この影響は自分の事件に対する認識にも影響を及ぼしました。

前の記事で元看護兵だった人にこの地図↓を見せたところ、昭和12年の戦闘ではないかという話を聞いたのですが…




本をよく読んでみたところ、この方も上陸して数日後には負傷していることがわかりました。

つまり、この後からはじまる中隊の動向を知らない立場の人だったわけです。

だから、この地図を見たとき、わからないと発言したのもうなずけます。

現場にいなかったわけですから当然です。

そして「昭和12年の話ではないか?」というアドバイスも単なる推測にすぎないことになります。

…ただし、昭和12年10月ごろ第9師団の支隊が進軍の途中船を使って太湖を東から西に横断したという事実はあります。

でも、軍の動向は国家の最高機密に分類されるもので、この方がそれを療養中に知った可能性は低いと考えざるを得ません…

よって第十一中隊と事件のかかわりは全くないとは言えなくなりました。

再び調査は振り出しに戻ったわけですが、早い段階でそれに気づけたのでよかったと今では思います。

せっかく事件と関わりのある部隊の名簿を手に入れたのに、途中で断念するのには勇気がいりました。

でも「生き残った」16人が一体この名簿の誰なのかわからない以上、効率的ではない調査を進めて時間を浪費するのにも抵抗がありました。

別の名簿も手に入れていたので、それを基本に訪問した方が、良質な情報を手に入れる可能性は高まるだろう。

断腸の思いではありましたが、一度この本の名簿による調査は中止としました。

ちなみに「生き残った16人」は誰か、並行して行ったところ、4名のみ判明しました。

そのうちの二人は豊橋でご健在だったAさん、もう一人は戦後金鵄勲章をバックルにかえてしまったあのSさんでした…

Sさんを含む16名は、上海に上陸後戦友が次々と倒れてついには隊長まで戦死するというきわめて困難な環境で生き残った人たちであることがわかりました。

この戦闘については、Sさんの奥様であるM様も聞いているようでした。

「なんでも水の中にずっと潜っていたから弾が当たらなかったと言っていたわ」

隊長まで戦死し部隊の指揮・統率はおおいに混乱していたと考えられます。

毎日が死と隣り合わせだった戦場で、Sさんはなんとか無事生き残り、日本に帰還できました。

「戦争の記憶」という見えない傷を背負って…

なおMさんには、先日Sさんは事件と関わりが無いかもという話をしていたので、再度訪問し、調査の方法を間違っていたこと、事件との関係は黒にちかいグレー状態であることをお伝えしました。

「ああそうなの。またなんかあったら教えて」

てっきり怒られるのかなあと思ったら、以外にもあっさりした反応いました。


さて、別の本から新たに名簿表を作成し、心機一転再調査にのぞんだわけですが…

やっぱり、甘くはありませんでした。   


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2017年04月26日 08:47

調査の落とし穴

カテゴリ:調査
さて↓この本にある名簿をもとに元兵士宅を訪ねようと決めた私は、前回のSさんと同じく豊橋に住所のあるAさん宅へいくことにしました。

上海戦ホン江碼頭付近の実戦記―歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) (1984年)/作者不明


Aさんは執筆中心メンバーにもなった人物でもあります。

事前のアポなしで訪問したところ、活発そうな女性が玄関口に出て見えました。

自分の目的を伝えたところ、Aさんはご健在であると。

当時93歳で、自宅で介護を受けて生活をされていました。

応対された女性は娘さんで、本人からも戦争の話はいくつか聞いていたそうです。

軍隊手帳も大切に保管されており、そこからAさんも事件とかかわりがあるかもしれない「広徳周辺の掃蕩」作戦に参加されていることがわかりました。


ちなみに聞きにくかったのですが、事件のことについて娘さんに聞いたことはないか尋ねましたが、まったくないとのことでした。

なお、本人はここ最近体調が悪く、お話を聞ける状態ではありませんでした。

私も遠くからAさんが介護を受けている様子を見かけましたが、顔色が悪く活気がみられないのがよくわかりました。

心臓にも病気を抱えており、家族としては戦争の話をして体調をおかしくすることに抵抗があるようでしたので、無念ではありましたが、ここであきらめざるを得ませんでした。

Aさんはその後しばらくして亡くなられたと聞きました。

次にこの中隊の看護兵だったHさんのご自宅にいってみました。

Hさんの自宅は昔織田軍と武田軍が戦った付近にありました。

アポなしで尋ねたところ、Hさんは当時93歳でご健在であることがわかりました。






私が訪ねたときは不在でしたが、娘さんにこの地図を見せて本人に、この時中隊は何處で何をしていたか私のかわりに尋ねてほしいと頼み、この日は帰りました。

1週間後、再度お尋ねしました。

この時も本人は不在でしたが、娘さんから結果を伺ったところ、予想外の返答が。

「じいちゃんに聞いてみたが、これは昭和13年の話ではなく昭和12年の話ではないか?といっていた」

「これについてはよくわからない、と本人がいっていた」

これを聞いておおいに混乱しました。

第十一中隊は事件に関わりが無いのだろうか?

第三大隊は第十一中隊抜きで掃討作戦に出たということなのか?

これを聞いた私は特に疑うことなく、十一中隊はかかわりが薄いと判断し、それを豊橋のSさんの奥様Mさんに報告しました。

「そうか、じゃあかかわりはなかったのか」

少し安心していたように見受けられました。

でも、Sさんは戦場で口に出したくない経験をしたことは間違いありません。

事件の調査とともに、私はSさんの経験した戦闘も少しずつ調べていこうと思いました。

その後も住宅地図でみつけた3人の方を訪ねてみましたが、20年前に亡くなった、もしくは去年亡くなったとのことでした。

いずれも本人から戦争の話を聞いたことが無いとのことでした。

これが限界と感じたので、せっかく名簿を手に入れたのだから、もう亡くなられた方の家族を尋ねたら何かわかるかもしれないと思い、さっそく着手しました。

…しかし、この時またも大きなミスを犯していたことに私は全く気付いていませんでした。  


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2017年04月26日 08:44

日本兵の経験した戦争の地獄

カテゴリ:調査
初訪問から1週間もたっていない頃、私の携帯電話に見慣れぬ電話番号が着信履歴にありました。

電話をかけてみると先日お世話になったMさんでした。

なんか怒らせたかな?とはじめは恐怖を感じましたが、それはそれで謝罪の電話を入れようと折り返し連絡をしたところ、Sさん(旦那様)の写真や持ち物をいくつか見つけたとのことでした。

Mさんは当時1人暮らしでしたが、既に90歳を超えており、補聴器で聴覚を補い、右腕や膝も調子は悪く、歩くのも困難な状態でした。

でもその足で、私の為に亡くなられた旦那さんの遺品を探されたそうです。

今思うと涙が出そうです…

さて、再度Mさん宅に伺うことにしたわけですが、今回は勉強のため戦時中の話をいろいろ聞きたいと思い、PCで昔の豊橋の資料を作成しました。

昼ごろMさん宅に到着。

初訪問の時は玄関口での会話でしたが、今度は家の中に入れていただきました。

そして旦那さんが保管していた古い写真をたくさん見せて頂きました。

歩兵第十八聯隊が満州に派遣された頃のようで、防寒具を着用して機関銃掃射?、または雪道を行軍をしている様子が撮影されていました。

写真は大学ノートのような紙に貼られており、そのうち何枚かは余白にSさんの注釈書がありました。

Sさんの几帳面な性格がうかがえました。

歩兵第十八聯隊が満州に派遣されたのは1934年なので、Sさん(大正3年生まれ)が初年兵の頃の写真ということになります。

私の探っている事件とは全くかかわりはありませんが、はじめて「生きている」歩兵第十八聯隊を写真を通してみることができたので、感慨無量な気分になりました。


ちなみにSさんは日中戦争がはじまった昭和12年動員されて歩兵第十八連隊の兵士として、中国に出征、昭和15年中国から凱旋帰国しました。

除隊後に日中戦争での功績が認められて、功七級の金鵄勲章を国から授与されています。





引用元 http://smile-antiques.ocnk.net/product/336

↓金鵄勲章についてはこの本でも詳しく勉強できます。
大日本帝国陸海軍―軍装と装備 明治・大正・昭和 (1973年)/サンケイ新聞社出版局


なお金鵄勲章は、約8万人の従軍者に授与されたといわれています。

しかし大東亜戦争が始まると戦死者に授与されるようになったそうなので、実質帰国した従軍者に授与された期間は約4年間ということになります。

日中戦争従軍者は数十万人以上にのぼるので、受賞者は限られることがわかります。

大変「栄誉」であることに間違いないのですが…


写真を一枚一枚じっくり見ていたとき、MさんがSさんについて思い出したことがあると話はじめました。

「なにをやって金鵄勲章をもらえたの」と軽い気持ちで聞いてみたところ、

「戦争で、自分はいっぱい人を斬ったり刺したりしたんだ」

と答えたそうです。

さらにSさんはこうも続けました。

「中国で本当に悪いことをいっぱいした。子供も殺した。だから戦争のことは思い出したくないんだ…」

Mさんは驚いてそれ以上聞くのをやめたようです。

なお、金鵄勲章には本来カラフルな織地が付いているのですが、Sさんのものにはそれがついていません。

それについてMさんに聞いてみたところ、気になる話を聞きました。

「旦那は戦後、自分が戦争犯罪者となるのではないか?、それをすごく恐れていた。

金鵄勲章なんてもっていたら余計怪しまれる。

だから、金鵄勲章をベルトのバックルに加工しちゃったんだ」

「他にもおしきり(稲を切る器具)で人の首を切り落とした写真を豊橋の空襲前(1945年頃?)にみかけた。防空壕に避難する前に旦那に聞いたら、そんなもん見るんじゃないと怒鳴られた」

Mさんの話はかなりショッキングでした。

そして次のことが非常に気になりました。

Sさんを悩ませた「戦争の記憶」とはいったいどのようなものだったのか?

上海戦の記憶か?

…もしかして馬山の経験か!?

本人がもう10年近く前に亡くなっているので、これを確かめるすべは残されていませんでした。

ちなみにこの日、Mさんには失礼ながら夕方6時近くまで滞在させていただきました。

多くの貴重な話を聞かせて頂き、「長時間ありがとうございました」と感謝の言葉をのべたところ、

「事件について何かわかったら教えてほしい」

といわれました。

これ以降、豊橋に訪問したときは必ずMさん宅へ行き、戦時中の話やSさんのことをお尋ねしました。

話の内容は身の上話や家族にも話していないヤバイ話などにも及び楽しい時間を過ごさせていただきました。

でも、Mさんの足の状態が年を経るにつれ悪くなっており、1人暮らしは難しくなっているんじゃないかなあとは思っていました。

そして今から2年前に、ご家族様との相談のうえ、多くの思い出の詰まった家から市内の有料老人ホームに転居されました。

記憶力が低下しているように見受けられますが、不思議なことに最も新しい情報である私の名前は覚えてみえました。

調査の原点にもなった人でもあるので、いつまでも元気でいてほしいと願っていましたが…

昨年12月半ば98歳でお亡くなりになられました。

2か月は経ちましたが、いまでも現実味がありません。

とりあえず、この事件と自分が知りえた事実をまとめた本を出すこと

それが今自分の頭にあるゴールです。


さて初めての訪問にしては非常に良い手応えでした。

今後も期待できると帰りの電車のなかで夢を思い描いたのですが…

…現実はそう甘いものではありませんでした。   


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2017年04月26日 08:41

元兵士の証言を求めて

カテゴリ:調査
2009年本格的な夏が始まるころ。

自分の殻を破るべく、という訳でもありませんが、元兵士の方のご自宅を伺って話を聞くと決心した私は、名簿が付いている部隊史に注目してみました。

すると、この本に名簿があることに築きました。
上海戦〓江碼頭付近の実戦記―歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) (1984年)/作者不明


歩兵第十八連隊第三大隊第十一中隊の戦友会によって刊行されました。

上海戦の戦記しか取り扱っていないのですが、事件と関わりがあるかもしれない第三大隊だったため、大きな期待を持っていました。

そして、うれしいことに同中隊の名簿が巻末にありました。

戦死した兵士の遺族の住所も記載されており、内容は充実しているように見えました。

記載されている住所にその人もしくは関係する方がお住まいかどうか1人1人調べてみました。

そこで役に立ったのが住宅地図です。


しかし1冊1万円を超えるのはざらですので、購入するのはためらいがありました。

なんとかならんかな?と思っていたら、ここ↓に館内のみ閲覧可能図書として所蔵してありました。





愛知県だけでなく、三重県・静岡県・岐阜県のものもすべてそろっています。

一応名簿にある住所と住宅地図を並べて確認してみたところ、半数は家自体を確認できませんでした。

家を確認できたとしても、苗字は同じで本人ではない場合が95%くらい…

やはり、72年という年月がいかに大きいかを感じざるを得ませんでした。

辞めた方がいいかなと思ったとき、名簿にある名前と同姓同名の家を5軒見つけました。

もしかしてご健在なのか?と非常にテンションが高くなったことを覚えております。

見つけたのはいいですが、やはりなかなか体が動かない…

でも時間が限られているのは確かだから行こうと決心するのに1~2ヶ月かかりました。

とりあえず、歩兵第十八聯隊の聯隊本部があった豊橋市にどうもお住まいらしい方がいらっしゃるので、行ってみました。

住宅地図をたよりに歩いていくと、目的の場所に築50年以上の家を発見しました。

表札を見ると元兵士のSさんのフルネームがありました。

ついにきたなぁと深呼吸し、呼び鈴を押したところ、女性の声で「あんただれだ?なんか用事?」と。

予想しなかった展開からはじまりちょっと戸惑いましたが、Sさんを訪ねにきた理由、自分の目的を伝えてみました。

すると、次のような返答が。

「あの人は今メイドにいってここにはおらん」

メイド?

実は、この言葉を始め聞いたとき、当時名古屋で開店したばかりのメイドカフェを思い出しました。

90歳を超えた老人が、メイドカフェで血気盛んに女性と戯れている映像が本当に脳裡に浮かびました…

でもメイドはメイドでも、その女性がいっているのは冥土のことでした。

つまり訪問時、Sさんはすでに亡くなられていました。

この時住宅地図にある人名は現在の家主を表記しているわけではないことをはじめて知りました。

どうも2001年か2002年に病死したらしい。

亡くなられているのなら仕方がない。

気を落としてまさに帰ろうとしたところ、その女性はさらに私に話しかけてきました。

「あんたそんなこと調べているの?へー」

「あの人は特になんにも話すことなく死んじゃったなー」

この会話でどうもこの女性、Sさんの奥さんであることがわかりました。

奥さんのMさんは今年で90歳になられたそうですが、話しぶりからとても若い印象を受けました。

「私はあの人が何をしたか知らんけど、豊橋の空襲は知っているし、岡崎や豊川海軍工廠の空襲も遠くから見たよ」

と、過去にご自分が身を以て経験した戦争体験を話し始めました。

本来の目的とだいぶ異なるのですが、次から次へと大変貴重な話が口からマシンガンの如く発せられたため、時間を忘れて3時間近く聞き入ってました。

何度も頭を下げ、お礼を言って帰ろうとしたところMさんは

「もし何か見つけたら連絡する」

といわれました。

ただ旦那の遺品は整理したと聞いていたので、失礼ながらあまり期待はできないだろうな…とおもいました。

でも戦時中の話を聞かせていただいたので、何度も頭を下げ帰りました。

それから1週間もたたないうちに、突然Mさんより連絡が入りました。   


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2017年04月26日 08:38

元兵士から何等かの証拠を得られないか?

カテゴリ:調査
図書館での資料捜索に限界を感じ始めた頃、やるべきかどうか迷った調査方法があります。

元兵士の方々を一人一人たずねて証言を得るという伝統的な手法です。

これは南京事件の調査でも時折見かけます。

有名な人としては松岡環さんでしょう。

松岡さんの著作に目を通すと、調査の苦労がうかがえます。

南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士102人の証言/社会評論社





証言を拒まれる人、家族が証言を遮ってしまうなどなど…。

しまいには自宅や勤務先にも脅迫の電話が来たらしいです。

こうした状況に何度も遭遇し、よくも挫折することなく続けれたなあと、感心しました。

なお松岡さんの本に対する批判はいろいろあるようですが、その多くはレベルの低いイチャモンみたいなものですから、参考にもならんです。

私は2011年頃、奇跡的に松岡さんと話をできる機会に恵まれました。

どうやって訪問したか尋ねてみましたが、本にはなかったすごいエピソードをいくつか聞きました。

あまりにもやばい内容だったため、ビビってしまったというのが正直な感想です。

でも、大きな成果を得た松岡さんに倣い、私も積極的に元兵士ひとりひとりを訪ね、証言を集めようとは思いませんでした。

というのも2009年当時、既に事件から71年もたっており、現役だった人でさえご健在であれば最低でも90歳以上になります。

日本人の平均寿命は世界的に見ても高いといわれてますが、男性は確か80歳ぐらいだったはずなので、会える確率はぐんとさがると思われたからです。

…でも文書の資料収集のみでは行き詰りを感じていたので、いやいやながら取り掛かることにしました。

調査を始めた頃、名簿はほとんどみつからなかったのですが、愛知県内の図書館や古本市を何年も訪ね歩いたところ、歩兵第十八聯隊だった人を含む、中部地方出身の元兵士の名簿のような分厚い本(定価40000円ほどの図鑑のような本)を何冊もみつけました。

それを購入もしくは複写していたので、歩兵第十八連隊の元兵士に限定した名簿表を簡単に作ることができました。

私事ですが、コミュニケーション能力は低く、欠如していると自覚しており、正直人と会って話をすることに苦痛を感じてしまいます。

でも、これ以上本を読んでも(たぶん1000冊近く読みましたが、)ほとんど進展もないのでやるしかありませんでした。

2009年から2011年にかけて、私は自分の殻を破るべく、勇気を出して元兵士の方一人一人を尋ね歩く決心をしました。

しかし、ここまで大変だったとは…。

次回その現実をお伝えしようかと思います。   


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2017年04月26日 08:35

歩兵第十八聯隊第三大隊の「史料欠陥」の謎

カテゴリ:調査
歩兵第十八聯隊の第一大隊と第二大隊は、昭和13年3月12日、つまり馬山で大虐殺があった頃、太湖の北部から西部にある街を行軍していた可能性が高いことはわかりました。

残るは第三大隊です。

第三大隊については、調査を始めた頃から、この部隊が実行したのではないか?と考えていました。

というのも、「歩兵第十八聯隊第八中隊誌」を読んで、第三大隊は太湖内の島を掃蕩したとする記述を見つけていたからです。
歩兵第十八連隊第八中隊史―日中事変および太平洋戦争における (1978年)/歩一八・八中会隊史刊行委員会


当時は大隊や中隊等の戦略単位すら知らず、やみくもに戦争という字のつく本を片っ端から読んでいました。

実に効率の悪い「調査」をしていました。

わたしはなんとそれを疑いもなく4年近くもやってしまいました…。

テーマを絞った方が良いと考えたのが2009年頃。

できるだけ第三師団に関係する資料のみに集中しようと決心したのが2010年くらいだったかと思います。


脱線してしまいましたが、本題に戻ります。

第三大隊の動向も知らなければならないと思い、またあそこ↓にいくことにしました。





ちなみに第三大隊は、第九・十・十一・十二中隊の四個小銃中隊と、第三機関銃中隊などで編制されています。

一応その部隊の本らしいものは2冊見つけました。

でも…二冊とも昭和13年3月の動向について全く触れてませんでした。

第十一中隊の部隊史らしきもの↓

上海戦〓@63C2江碼頭付近の実戦記―歩兵第十八聯隊第十一中隊(梅田隊) (1984年)/作者不明


歩兵第十一聯隊が昭和12年9月に上海にて敵前上陸を行い、壮絶な戦闘を繰り広げたことを記述しております。

だから上海戦が事実上終わった昭和12年11月以降の動向には一切触れておりません。

ほかにも第三機関銃中隊の部隊史のようなものも見つけました。

一応事件と関わりがあるかもしれない「広徳周辺の掃蕩」について触れてはいましたが、この掃蕩作戦中どこで、何をしていたか?

なめまわすように見ましたが、全く触れていませんでした。

歩兵第十八聯隊の写真集も途中で見つけたのですがやっぱりありませんでした。
豊橋歩兵第十八聯隊写真集 (1981年) (聯隊写真集シリーズ〈9〉)/国書刊行会


なぜ第三大隊のみ情報収集ができないのか?不思議に思ったものです。

部隊史は創設から解散までを記すのが常識と考えた自分にとって、今まで感じたことのない挫折感とともに違和感を感じました。

約2週間かけて第三大隊に関する資料を愛知県内で探していたのですが、結局動向を追える資料には出会えませんでした。

それからしばらくたって、以前紹介したIさんの日記(第七中隊所属で戦場で書き記した日記を本にした)を思いだし、昭和12年3月12日の記述を確認してみました。

すると次のようなことが書かれていました。

三月十二日
(中略)
午後一時、雪堰橋に到着。相当な部落であるが、住民は避難して不在であった。昨夜三大隊が宿営したようだ。左前の島が燃えている。三大隊の攻撃であろう。

これを目にしたとき寒気がしました。

雪堰橋とは、今でも太湖北部に存在する街、雪堰もしくは雪堰鎮と思われます。


Iさんは事件のあった日、太湖を北から眺められる雪堰鎮にいたところ、左前の島が燃えているのを目撃したことになります。


↓再びこの地図





地図で確認すると、雪堰より見える左前の島とは馬山以外考えられません。

この島を三大隊が攻撃したとIさんは推測したと思われます。

三大隊は第三大隊のことを指すと考えて間違いないでしょう。

なぜIさんは第三大隊の仕業と考えたのでしょうか?

この日記を見つけたときすでに亡くなられているため、確認はできませんでした。

しかし、第三大隊が太湖の島を掃蕩するという話をIさんは聞いていた可能性があると思われます。

先に紹介した第八中隊の部隊誌にも、中隊長から今後の部隊行動に、第三大隊は太湖内を掃蕩すると聞いたとあります。

だから、Iさんも同じく中隊長から今進めている作戦の概要を聞いていた可能性があります。

なお、Iさんの手記には第三大隊も雪堰鎮に駐留していたとあります。

それが正しいとすれば、第三大隊は雪堰鎮に短時間駐留した後、馬山に上陸したのか?

残念ながら微力な私にとって、たった1行の記述からは、拡大解釈してもせいぜいこのくらいしか推測できませんでした。

他に、かつて日本のデンマークと呼ばれた街の図書館にて、街の出身者が馬山にて戦傷を負ったとする資料を見つけました。

後に、この人物は歩兵第十八聯隊であることも確かめましたが、どの中隊の兵士だったか?

いくら調べても見つかりませんでした。

唐突ながら住所をたどって訪問しましたが、随分前に亡くなられており、確認するすべはありませんでした。

なぜ第三大隊だけ、他の大隊と違って資料が「欠損」?しているのか…

あらたな壁がたちはだかりました。   


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