2017年04月29日 22:34
防衛研究所・国会図書館・靖国神社に証拠はないか?
カテゴリ:調査
東京都目黒区中目黒2-2-1。
ここに防衛省防衛研究所という公的施設があります。

同サイトに紹介がありますので一部抜粋します。
「防衛研究所は、防衛省の政策研究の中核として、主に安全保障及び戦史に関し政策指向の調査研究を行うとともに、自衛隊の高級幹部等の育成のための国防大学レベルの教育機関としての機能を果たしています。」
この施設内に戦史研究センターと呼ばれる建物があり、入ると戦史研究センター史料閲覧室があります。
ここでは旧日本陸海軍に関連する様々な資料(第一級資料ばかり)が多く収蔵されています。
閲覧は手続きさえすれば、だれでも利用できます。
※一部遺族の意向など、諸事情により一般閲覧できないものもあります。
ここに馬山虐殺事件に関わる資料がないかと思い始めたのは2009年頃。
でも愛知県から東京は遠く、しかも職にも就いているのでなかなかいけずにいましたが、2012年1週間ほど有給を使って行くことになりました。
都内の大学に卒業して以来、実に十年ぶりの東京でしたが、圧倒的な華やかさは変わっていませんでした。
さて、久しぶりに山手線の満員電車に乗り、吐く寸前に恵比寿駅に到着。
5分ほど南に下ると「防衛研究所」と書かれた物々しい銘板のある門と出合います。
警備員が数人常駐しており、軍服?らしい服を身にまとった人が構内を歩いていました。
他の建物と雰囲気が違うので、目的を伝えると門前払いされるかもと思いましたが、入り口付近で所定の手続きを行うとあっさり入ることができました。
かつて左寄りの人が立入禁止になっていたらしいという噂を聞いていたのですが、最近は中国やアメリカなどかつての「敵国」出身の人も出入りできるまで寛容になったそうです。
資料はパソコンのデータベースから検索する、もしくは索引カードで検索し、希望の資料を書類に書いて受付に提出すると、職員の方が資料室から運んできてくれます。
早速事件のあった昭和13年3月の歩兵第十八連隊の戦闘詳報・陣中日誌を探してみました。
しかしいくら探しても見つかりませんでした。
そこで歩兵第十八連隊に関連するすべての資料を検索すると、戦前に作成された支那事変に於ける歩兵第十八連隊の行軍概要図のようなものをみつけました。
昭和12年上海に上陸から昭和13年武漢戦までの聯隊の行動が、地図上で示したものでした。
これは期待できると思い、太湖馬山を見ると、そこで敵軍と交戦したのを示す記号(刀と刀が相対して交えているような図)がありました。
やはり歩兵第十八聯隊はこの島に上陸していた…
同聯隊と馬山をつなぐ貴重な証拠を調査を始めて6年目になってようやく見つけましたが、後日、この資料は「アジア歴史資料センター」のサイトでダウンロードできることを知り、わざわざいかなくてもよかったこともわかりました。
ちなみに歩兵第十八連隊を配下聯隊とする第三師団関係の部隊資料である下記のものも検索したところ、戦闘詳報や陣中日誌が多く収蔵されていました。
歩兵第六連隊(名古屋)
歩兵第三十四連隊(静岡)
歩兵第六十八連隊(岐阜)
野砲兵第三聯隊(名古屋)
なぜ歩兵第十八連隊だけがないのだろうか?
納得いかなかったのですが、どうも同聯隊の複雑な事情が関係しているのではないかと思われます。
昭和17年同聯隊は第三師団から第二十九師団に移籍し、聯隊本部も豊橋から満州の海城に移動しました。
そして2年後グアム・サイパンで玉砕します。
その間同聯隊に関する資料はどうなったのか?
豊橋の兵営に保管されていたが終戦後焼却処分されたか?
海城に搬送された後、終戦に伴い焼却処分されたか?
実はいまも中国国内に残されているのか?
せっかく念願の防衛研究所に来たのに、これ以上調べるすべは残されていないので、ここで調査をあきらめざるを得ませんでした。
ここに防衛省防衛研究所という公的施設があります。
同サイトに紹介がありますので一部抜粋します。
「防衛研究所は、防衛省の政策研究の中核として、主に安全保障及び戦史に関し政策指向の調査研究を行うとともに、自衛隊の高級幹部等の育成のための国防大学レベルの教育機関としての機能を果たしています。」
この施設内に戦史研究センターと呼ばれる建物があり、入ると戦史研究センター史料閲覧室があります。
ここでは旧日本陸海軍に関連する様々な資料(第一級資料ばかり)が多く収蔵されています。
閲覧は手続きさえすれば、だれでも利用できます。
※一部遺族の意向など、諸事情により一般閲覧できないものもあります。
ここに馬山虐殺事件に関わる資料がないかと思い始めたのは2009年頃。
でも愛知県から東京は遠く、しかも職にも就いているのでなかなかいけずにいましたが、2012年1週間ほど有給を使って行くことになりました。
都内の大学に卒業して以来、実に十年ぶりの東京でしたが、圧倒的な華やかさは変わっていませんでした。
さて、久しぶりに山手線の満員電車に乗り、吐く寸前に恵比寿駅に到着。
5分ほど南に下ると「防衛研究所」と書かれた物々しい銘板のある門と出合います。
警備員が数人常駐しており、軍服?らしい服を身にまとった人が構内を歩いていました。
他の建物と雰囲気が違うので、目的を伝えると門前払いされるかもと思いましたが、入り口付近で所定の手続きを行うとあっさり入ることができました。
かつて左寄りの人が立入禁止になっていたらしいという噂を聞いていたのですが、最近は中国やアメリカなどかつての「敵国」出身の人も出入りできるまで寛容になったそうです。
資料はパソコンのデータベースから検索する、もしくは索引カードで検索し、希望の資料を書類に書いて受付に提出すると、職員の方が資料室から運んできてくれます。
早速事件のあった昭和13年3月の歩兵第十八連隊の戦闘詳報・陣中日誌を探してみました。
しかしいくら探しても見つかりませんでした。
そこで歩兵第十八連隊に関連するすべての資料を検索すると、戦前に作成された支那事変に於ける歩兵第十八連隊の行軍概要図のようなものをみつけました。
昭和12年上海に上陸から昭和13年武漢戦までの聯隊の行動が、地図上で示したものでした。
これは期待できると思い、太湖馬山を見ると、そこで敵軍と交戦したのを示す記号(刀と刀が相対して交えているような図)がありました。
やはり歩兵第十八聯隊はこの島に上陸していた…
同聯隊と馬山をつなぐ貴重な証拠を調査を始めて6年目になってようやく見つけましたが、後日、この資料は「アジア歴史資料センター」のサイトでダウンロードできることを知り、わざわざいかなくてもよかったこともわかりました。
ちなみに歩兵第十八連隊を配下聯隊とする第三師団関係の部隊資料である下記のものも検索したところ、戦闘詳報や陣中日誌が多く収蔵されていました。
歩兵第六連隊(名古屋)
歩兵第三十四連隊(静岡)
歩兵第六十八連隊(岐阜)
野砲兵第三聯隊(名古屋)
なぜ歩兵第十八連隊だけがないのだろうか?
納得いかなかったのですが、どうも同聯隊の複雑な事情が関係しているのではないかと思われます。
昭和17年同聯隊は第三師団から第二十九師団に移籍し、聯隊本部も豊橋から満州の海城に移動しました。
そして2年後グアム・サイパンで玉砕します。
その間同聯隊に関する資料はどうなったのか?
豊橋の兵営に保管されていたが終戦後焼却処分されたか?
海城に搬送された後、終戦に伴い焼却処分されたか?
実はいまも中国国内に残されているのか?
せっかく念願の防衛研究所に来たのに、これ以上調べるすべは残されていないので、ここで調査をあきらめざるを得ませんでした。
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2017年04月29日 22:30
新事実発覚!日本の予算委員会で馬山虐殺事件が取り上げられた。
カテゴリ:調査
2011年頃のある日、なんとなくヤフーで太湖、無錫、日本軍と入力し検索をかけたところ、なぜか第103回国会予算委員会第四号の記事が上位に来ていました。
どうしてだろう?と思い、中身を確認すると馬山虐殺事件についての発言がありました。
発言者はあの田英夫元海軍中尉であり元参議院議員。
田英夫さんは海軍将校として終戦を迎えた後、共同通信社に入社。テレビにも出演し、日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けとされる人物です。
1971年には日本社民党から参議院選の全国区に立候補し当選。
後に党を除名され社会民主連合を結成し初代代表就任。
幾多のごたごた(詳しくはウィキペディア参照)を経て、元いた社民党に再び入党し、常に与党の法案に反対する立場をとった人、というのが私の印象でした。
そんな田さんが予算委員会で事件を取り上げたのが昭和60年11月6日。
11月6日は特に戦争と関係のある日でもありません。
田さんの発言を長文ですが引用します。
○田英夫君 (中略)私も総理(当時は中曽根さん)と同じ海軍に身を投じた一人でありまして、震洋特別攻撃隊の生き残りの一人であります。
航海学校で訓練を受けたときには、階段ベッドの上に寝ていた男は「大和」で死んだわけです。隣の階段ベッドの二人は私と同じ震洋隊で沖縄で死んだのであります。
特に特攻隊を志願するかどうかということで募集をされたときには、夜も寝られないでみんな考え抜いたことを覚えておりますが、結局そのときに志願したおよそ四十人は全員死んでいるのであります。
したがって、私も総理と同じにあるいは総理以上に、戦死者の霊を慰めたいという気持ちが強いと思います。むしろ総理以上に強いと思います。
また、十四年前になりますか、七一年に中国を訪問しましたときに、ちょうど南京と上海の間に無錫というところがありますが、その傍らの太湖という大きな湖の中の馬山という農村を訪ねました。
私のそのときの旅は一カ月半ほどですが、かつての日本軍のつめ跡を見たいと、こう言ったところが中国側がそこへ連れていった。
時間がありませんから簡単に言いますが、村の広場の真ん中に木が一本立って、そこに黒い板に白い字で「怨恨の場」と書いてある。
何年何月日本軍が攻めてきて全員が殺された。また、村外れの洞窟には「血涙のふち」と同じように書いてある。
○委員長(安田隆明君) 田君、時間が超過いたしました。
○田英夫君 はい。そこに逃げ込んだ婦女子を日本軍が上から機銃掃射をした、そうしたことを生き残った人は語ってくれたわけであります。
そういう経緯の中での中国の人たちの気持ちということを総理はぜひお考えをいただきたい。同時に我々戦争体験者のことも、この気持ちもお考えをいただきたい。このことを最後に申し上げて、お気持ちはよくわかりますから、御答弁は要りません。終わります。
内容を読むと、田さんは事件現場に行き、生存者から話を聞いたと想われます。
田さんが訪中したのは1971年。
当時日中間は国交を結んでいません。
どういうコネクションでいったのかわかりませんが、ほぼ同じ時期に↓この本の著者も中国に行っているので、不可能だったという訳ではなさそうです。
南京への道 (朝日文庫)/本多 勝一

田さんの発言を中国側で公表されている事件概要を比較するといくつか共通点が見られます。
「怨恨の場」とは26人が虐殺された鈕琦村の「仇恨场」の可能性があります。
また、村外れの洞窟にある「血涙のふち」とは、洞穴に隠れていた中国人が日本軍に見つかって機関銃掃射を受け、10人殺された檀渓村の「血泪潭」を指すと思われます。
この議事録を見つけた後、図書館で社民党の資料を集めて他に事件に関わりのある記述はないかと確認してみましたが、ありませんでした。
ちなみに、社民党本部にも手紙を贈ってみましたが、あれから4年以上たっても返事はきておりません。
…まあ、日本の野党なんてそんなもんでしょう。
田さんはすでに亡くなり、同期の人もほとんど亡くなっていたため、一緒に中国に行った人も誰かいくら調べてもわかりませんでした。
私はこの線での調査を早々に中止しました。
どうしてだろう?と思い、中身を確認すると馬山虐殺事件についての発言がありました。
発言者はあの田英夫元海軍中尉であり元参議院議員。
田英夫さんは海軍将校として終戦を迎えた後、共同通信社に入社。テレビにも出演し、日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けとされる人物です。
1971年には日本社民党から参議院選の全国区に立候補し当選。
後に党を除名され社会民主連合を結成し初代代表就任。
幾多のごたごた(詳しくはウィキペディア参照)を経て、元いた社民党に再び入党し、常に与党の法案に反対する立場をとった人、というのが私の印象でした。
そんな田さんが予算委員会で事件を取り上げたのが昭和60年11月6日。
11月6日は特に戦争と関係のある日でもありません。
田さんの発言を長文ですが引用します。
○田英夫君 (中略)私も総理(当時は中曽根さん)と同じ海軍に身を投じた一人でありまして、震洋特別攻撃隊の生き残りの一人であります。
航海学校で訓練を受けたときには、階段ベッドの上に寝ていた男は「大和」で死んだわけです。隣の階段ベッドの二人は私と同じ震洋隊で沖縄で死んだのであります。
特に特攻隊を志願するかどうかということで募集をされたときには、夜も寝られないでみんな考え抜いたことを覚えておりますが、結局そのときに志願したおよそ四十人は全員死んでいるのであります。
したがって、私も総理と同じにあるいは総理以上に、戦死者の霊を慰めたいという気持ちが強いと思います。むしろ総理以上に強いと思います。
また、十四年前になりますか、七一年に中国を訪問しましたときに、ちょうど南京と上海の間に無錫というところがありますが、その傍らの太湖という大きな湖の中の馬山という農村を訪ねました。
私のそのときの旅は一カ月半ほどですが、かつての日本軍のつめ跡を見たいと、こう言ったところが中国側がそこへ連れていった。
時間がありませんから簡単に言いますが、村の広場の真ん中に木が一本立って、そこに黒い板に白い字で「怨恨の場」と書いてある。
何年何月日本軍が攻めてきて全員が殺された。また、村外れの洞窟には「血涙のふち」と同じように書いてある。
○委員長(安田隆明君) 田君、時間が超過いたしました。
○田英夫君 はい。そこに逃げ込んだ婦女子を日本軍が上から機銃掃射をした、そうしたことを生き残った人は語ってくれたわけであります。
そういう経緯の中での中国の人たちの気持ちということを総理はぜひお考えをいただきたい。同時に我々戦争体験者のことも、この気持ちもお考えをいただきたい。このことを最後に申し上げて、お気持ちはよくわかりますから、御答弁は要りません。終わります。
内容を読むと、田さんは事件現場に行き、生存者から話を聞いたと想われます。
田さんが訪中したのは1971年。
当時日中間は国交を結んでいません。
どういうコネクションでいったのかわかりませんが、ほぼ同じ時期に↓この本の著者も中国に行っているので、不可能だったという訳ではなさそうです。
南京への道 (朝日文庫)/本多 勝一
田さんの発言を中国側で公表されている事件概要を比較するといくつか共通点が見られます。
「怨恨の場」とは26人が虐殺された鈕琦村の「仇恨场」の可能性があります。
また、村外れの洞窟にある「血涙のふち」とは、洞穴に隠れていた中国人が日本軍に見つかって機関銃掃射を受け、10人殺された檀渓村の「血泪潭」を指すと思われます。
この議事録を見つけた後、図書館で社民党の資料を集めて他に事件に関わりのある記述はないかと確認してみましたが、ありませんでした。
ちなみに、社民党本部にも手紙を贈ってみましたが、あれから4年以上たっても返事はきておりません。
…まあ、日本の野党なんてそんなもんでしょう。
田さんはすでに亡くなり、同期の人もほとんど亡くなっていたため、一緒に中国に行った人も誰かいくら調べてもわかりませんでした。
私はこの線での調査を早々に中止しました。
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2017年04月29日 22:28
事件概要 3
カテゴリ:調査
昭和13年3月12日、中国太湖の馬山に上陸した日本軍は、東側の村を破壊し、翌日になると西側の村を次々と襲撃しました。
現地の人から見れば、無差別殺人以外何ものなかったようです。
以下中国で公表されている事件概要の続きです。
彼らは悪事の限りを尽くした。
2,3歳の幼児は突き殺され、ある者は子供を木の上や民家の戸に引っ掻けた。
こうした横暴な行為は数えきれないほど見られた。
日本軍の女性に対する強姦の犯罪はさらに激しい怒りを覚えるものであった。
最高60歳から70歳、最小12、3歳の女性が汚された。
さらに、抵抗する臨月の女性は日本軍に腹を裂かれ、胎児がだされた。
新城村の南にある山林で殷素英一家および村人30名が身を隠していた。
日本軍が発見し、突進して村人一人一人を突き殺した。
五歳の殷素英は五か所刀で突かれたが、三日間昏迷後奇跡的にも蘇生した。
馬山の中央付近にある祥符寺は馬山島にある千年以上の歴史を持つ古刹である。
仏陀の家といっても、日本軍から逃れることはできなかった。
彼らは寺院に突撃して、和尚を一人一人銃殺するという罪の重い行為を働いた。
日本軍は西村に突撃し、魯兄弟を捕まえた後、村の西にある水車の梁に吊るした。
日本軍の一部は彼らを標的に、刃物でついて楽しんで殺し、たいまつの火で水車を燃やした。
内門の村人は山頂に向かって逃げた。
避難する村人を追いかけ日本軍は西へ移動した。
でも太湖には船舶はひとつもなく、村人は広大な太湖にたいして激しく泣き叫んだ。
追いついた日本軍は、この山で200人余りを殺害した。
二日間で、日本軍は馬山で1500余人を殺害した。
そのうち、馬山出身者は999人、当時の馬山の人口の四分の一を占めていた。
残りは江蘇省無錫・常州からの難民と漁民300数名と、国民党田文竜武官の将兵百数人だった。
家屋3600戸余り、漁船40隻余りが焼却された。
二十日余り後、多くの死体は依然として残されており、受取人はおらず、腐敗した死体で野原は荒廃し、野犬は死肉を目的に食を競った。
以上が中国で公表されている事件の概要です。
非常に凄惨な内容であったため、数日間仕事に取り組めなくなりました。
でも、改めて読んでみると違和感のある個所をいくつかみつけました。
中国側によると日本軍に殺害された人は1500人。
でもここに紹介されている事例のみあわせても400名。
仮に国民党軍100数名あわせても500人以上600人未満。
1000人近い人数の差はいったい何なのか?
馬山出身者とそうではない避難民とではどこでどう区別できたのか?
私は無学なのでこの程度しか突っ込めないのですが、疑問はいくつかでてきそうな概要ではあります。
他にも矛盾点らしいところを発見した人がいたら教えてほしいです。
でもこの概要は、事件当時島に国民党軍の兵士が存在していたことを記述しており、彼らと日本軍のあいだで戦闘が行われていた可能性を高めるものです。
ただし、このころは日本側の資料は何一つ発見しておらず、真実を明らかにしたとはいえない状況でした。
現地の人から見れば、無差別殺人以外何ものなかったようです。
以下中国で公表されている事件概要の続きです。
彼らは悪事の限りを尽くした。
2,3歳の幼児は突き殺され、ある者は子供を木の上や民家の戸に引っ掻けた。
こうした横暴な行為は数えきれないほど見られた。
日本軍の女性に対する強姦の犯罪はさらに激しい怒りを覚えるものであった。
最高60歳から70歳、最小12、3歳の女性が汚された。
さらに、抵抗する臨月の女性は日本軍に腹を裂かれ、胎児がだされた。
新城村の南にある山林で殷素英一家および村人30名が身を隠していた。
日本軍が発見し、突進して村人一人一人を突き殺した。
五歳の殷素英は五か所刀で突かれたが、三日間昏迷後奇跡的にも蘇生した。
馬山の中央付近にある祥符寺は馬山島にある千年以上の歴史を持つ古刹である。
仏陀の家といっても、日本軍から逃れることはできなかった。
彼らは寺院に突撃して、和尚を一人一人銃殺するという罪の重い行為を働いた。
日本軍は西村に突撃し、魯兄弟を捕まえた後、村の西にある水車の梁に吊るした。
日本軍の一部は彼らを標的に、刃物でついて楽しんで殺し、たいまつの火で水車を燃やした。
内門の村人は山頂に向かって逃げた。
避難する村人を追いかけ日本軍は西へ移動した。
でも太湖には船舶はひとつもなく、村人は広大な太湖にたいして激しく泣き叫んだ。
追いついた日本軍は、この山で200人余りを殺害した。
二日間で、日本軍は馬山で1500余人を殺害した。
そのうち、馬山出身者は999人、当時の馬山の人口の四分の一を占めていた。
残りは江蘇省無錫・常州からの難民と漁民300数名と、国民党田文竜武官の将兵百数人だった。
家屋3600戸余り、漁船40隻余りが焼却された。
二十日余り後、多くの死体は依然として残されており、受取人はおらず、腐敗した死体で野原は荒廃し、野犬は死肉を目的に食を競った。
以上が中国で公表されている事件の概要です。
非常に凄惨な内容であったため、数日間仕事に取り組めなくなりました。
でも、改めて読んでみると違和感のある個所をいくつかみつけました。
中国側によると日本軍に殺害された人は1500人。
でもここに紹介されている事例のみあわせても400名。
仮に国民党軍100数名あわせても500人以上600人未満。
1000人近い人数の差はいったい何なのか?
馬山出身者とそうではない避難民とではどこでどう区別できたのか?
私は無学なのでこの程度しか突っ込めないのですが、疑問はいくつかでてきそうな概要ではあります。
他にも矛盾点らしいところを発見した人がいたら教えてほしいです。
でもこの概要は、事件当時島に国民党軍の兵士が存在していたことを記述しており、彼らと日本軍のあいだで戦闘が行われていた可能性を高めるものです。
ただし、このころは日本側の資料は何一つ発見しておらず、真実を明らかにしたとはいえない状況でした。
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2017年04月29日 22:26
事件概要 2
カテゴリ:調査
鈕埼村を壊滅させた後、日本軍は近くにある檀渓村を襲撃しました。
中国側で公表されている檀渓村の惨状は以下の通りです。
檀溪村は53戸、人口278人、305戸の家屋があった。
村民は钮琦村での日本軍の蛮行をしり、次から次へと山上へ逃げ、大部分は木の生い茂った場所に身を隠した。
日本軍は村に入ると、誰もいないのを確認して、家屋に火をつけ燃やした。
杨月海、杨增大ら三家族(全員で18人)は、昔村近くに掘られた洞穴に隠れた。
日本軍の捜索隊はこの洞穴を発見し、ここを目標に機関銃を掃射し、10人死亡した。
それ以後、人々はこの洞を“血泪潭”と呼んだ。
その後日本軍は山野に分け入り徹底的に捜索した。
機関銃の音、飛行機の爆撃音と射撃、負傷者の泣き叫ぶ声。
子供は耐えきれず怖がって、声をあげて泣いていた。
日本軍はそれを聞いて殺害しようと追跡していた。
日本軍に発見されないよう、多くの若い母親は赤ん坊の口に、雪の塊や乳房を押し込み、それを1時間続けたため、数名が死亡した。
山は樹木が非常に密ではあるけれども、日本軍には多くの者がみつった。
山の北斜面には、日本軍に捕まった70数名の青壮年が集められ、彼らは銃器によって集団虐殺された。
この日檀溪村は9戸が断絶し、97名死亡。
186戸の家屋が焼却、村には青壮年の男性が5人だけとなり、有名な“寡妇村”になった。
檀溪村の報告からわかること
日本軍の襲撃は陸からだけではなく、戦闘機を使って空からも爆撃があったらしい
犠牲者は日本軍に殺害された者だけではない。
男性のみの集団虐殺が行われた。
なお“寡妇村”とは女性だけの村という意味です。
鈕埼村は無差別に村民が殺害された印象を受けますが、檀渓村の事例は主に男性が殺害対象になっていた可能性を示しています。
島の東側に位置する鈕埼村と檀溪村を破壊した日本軍は、その日は山で一夜を過ごし、翌日西側の村を襲撃しました。
中国側で公表されている檀渓村の惨状は以下の通りです。
檀溪村は53戸、人口278人、305戸の家屋があった。
村民は钮琦村での日本軍の蛮行をしり、次から次へと山上へ逃げ、大部分は木の生い茂った場所に身を隠した。
日本軍は村に入ると、誰もいないのを確認して、家屋に火をつけ燃やした。
杨月海、杨增大ら三家族(全員で18人)は、昔村近くに掘られた洞穴に隠れた。
日本軍の捜索隊はこの洞穴を発見し、ここを目標に機関銃を掃射し、10人死亡した。
それ以後、人々はこの洞を“血泪潭”と呼んだ。
その後日本軍は山野に分け入り徹底的に捜索した。
機関銃の音、飛行機の爆撃音と射撃、負傷者の泣き叫ぶ声。
子供は耐えきれず怖がって、声をあげて泣いていた。
日本軍はそれを聞いて殺害しようと追跡していた。
日本軍に発見されないよう、多くの若い母親は赤ん坊の口に、雪の塊や乳房を押し込み、それを1時間続けたため、数名が死亡した。
山は樹木が非常に密ではあるけれども、日本軍には多くの者がみつった。
山の北斜面には、日本軍に捕まった70数名の青壮年が集められ、彼らは銃器によって集団虐殺された。
この日檀溪村は9戸が断絶し、97名死亡。
186戸の家屋が焼却、村には青壮年の男性が5人だけとなり、有名な“寡妇村”になった。
檀溪村の報告からわかること
日本軍の襲撃は陸からだけではなく、戦闘機を使って空からも爆撃があったらしい
犠牲者は日本軍に殺害された者だけではない。
男性のみの集団虐殺が行われた。
なお“寡妇村”とは女性だけの村という意味です。
鈕埼村は無差別に村民が殺害された印象を受けますが、檀渓村の事例は主に男性が殺害対象になっていた可能性を示しています。
島の東側に位置する鈕埼村と檀溪村を破壊した日本軍は、その日は山で一夜を過ごし、翌日西側の村を襲撃しました。
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2017年04月27日 22:33
事件概要 その1
カテゴリ:調査
中国側で公表されている馬山虐殺事件の概要は次の通りです。
馬迹山は通称馬山という。
太湖北西部に位置する島で、戦争初期の人口は四千人余りであった。
1938年旧暦2月11日、上海-南京間に駐留していた日本軍司令部の1400余名を動員し、馬山に対して残忍非道な大虐殺を開始した。
日本軍は馬山の東側に上陸後、鈕埼村を包囲した。
村は10戸の民家、人口48人、建物50軒でなっていた。
日本軍を見た村民は一部山林に逃げ身を隠し、残りは家屋に身を隠した。
日本軍は村に入ると、家に入って25人を探し出し、銃剣で人々を北の空き地に移動させた。
2月初旬としては珍しく大雪で、約30センチほどの厚さまで一面に降り積もっていた。
日本軍はその付近に機関銃を二挺設置し、人々に対して、強引に雪の降り積もる地面に跪かせようとした。
日本軍の非人道的な横暴ぶりを見た村人は、騒ぎだし、夫人と子供は泣きわめいていた。
そして機関銃が人々に向けて掃射され、その場にいた24人は叫び声と同時に倒れ、彼らの血によって地面の雪が赤く染まった。
さらに日本軍は倒れている人々に呼びかけた。「死ななかった人、殺さないよ」と。
しかしそれを信じて体を動かした63歳の女性は突き殺された。
日本兵は手分けして、生きている人死んでいる人拘らず、銃剣で何度も刺した。
この村では合計26人が殺され、48戸の家屋が焼却された。
さらに日本軍は死体とともに腰掛や戸板なども積み上げて、ガソリンで燃やした。
やがて村には、山林に身を隠した村民が戻ってきた。
黒焦げの死体、血で染まった広場、ほとんど焼かれてしまった集落。
これらを見た村民は深く悲しんだ。
村では日本軍の大罪を永久に忘れないようこの場を“仇恨场”(憎しみの場)と命名した。
まだ続きはありますが、ここでいったん区切ります。
さて冒頭で、事件のあった3月12日とは異なる日付があります。
旧暦2月11日とは旧正月から数えたもので、西暦になおすと3月12日になります。
だから特に問題にはなりません。
私がはじめて目を通して、気になったのはその次に登場する「上海-南京間に駐留していた日本軍司令部の1400余名を動員」という部分です。
事件と関わりのある部隊は歩兵第十八連隊の第三大隊ではないか?とする考えを示しましたが、「1400名」という兵員は1個大隊規模に匹敵します。
この事件概要を執筆した中国人(たぶん)は日本陸軍の組織編制に詳しい人物か、はたまた大まかにいってみたら偶然近い数字になったか?
事件とは本質的に関係のないことですが、ちょっと気になってしまいました。
覚悟していたとはいえ、この虐殺の話を聞くと胸が痛くなってきました。
子供女性老人かかわらず標的になっていたようで、私にはどこからどう見ても住民に対する無差別殺人にしか感じられませんでした。
機関銃掃射後、倒れている人を片っ端から銃剣で突いて歩くといった光景は、地獄そのものです。
この村を破壊し尽くした日本軍は、さらに近くの村へ移動し、そこでも同じようなことをしたそうです。
馬迹山は通称馬山という。
太湖北西部に位置する島で、戦争初期の人口は四千人余りであった。
1938年旧暦2月11日、上海-南京間に駐留していた日本軍司令部の1400余名を動員し、馬山に対して残忍非道な大虐殺を開始した。
日本軍は馬山の東側に上陸後、鈕埼村を包囲した。
村は10戸の民家、人口48人、建物50軒でなっていた。
日本軍を見た村民は一部山林に逃げ身を隠し、残りは家屋に身を隠した。
日本軍は村に入ると、家に入って25人を探し出し、銃剣で人々を北の空き地に移動させた。
2月初旬としては珍しく大雪で、約30センチほどの厚さまで一面に降り積もっていた。
日本軍はその付近に機関銃を二挺設置し、人々に対して、強引に雪の降り積もる地面に跪かせようとした。
日本軍の非人道的な横暴ぶりを見た村人は、騒ぎだし、夫人と子供は泣きわめいていた。
そして機関銃が人々に向けて掃射され、その場にいた24人は叫び声と同時に倒れ、彼らの血によって地面の雪が赤く染まった。
さらに日本軍は倒れている人々に呼びかけた。「死ななかった人、殺さないよ」と。
しかしそれを信じて体を動かした63歳の女性は突き殺された。
日本兵は手分けして、生きている人死んでいる人拘らず、銃剣で何度も刺した。
この村では合計26人が殺され、48戸の家屋が焼却された。
さらに日本軍は死体とともに腰掛や戸板なども積み上げて、ガソリンで燃やした。
やがて村には、山林に身を隠した村民が戻ってきた。
黒焦げの死体、血で染まった広場、ほとんど焼かれてしまった集落。
これらを見た村民は深く悲しんだ。
村では日本軍の大罪を永久に忘れないようこの場を“仇恨场”(憎しみの場)と命名した。
まだ続きはありますが、ここでいったん区切ります。
さて冒頭で、事件のあった3月12日とは異なる日付があります。
旧暦2月11日とは旧正月から数えたもので、西暦になおすと3月12日になります。
だから特に問題にはなりません。
私がはじめて目を通して、気になったのはその次に登場する「上海-南京間に駐留していた日本軍司令部の1400余名を動員」という部分です。
事件と関わりのある部隊は歩兵第十八連隊の第三大隊ではないか?とする考えを示しましたが、「1400名」という兵員は1個大隊規模に匹敵します。
この事件概要を執筆した中国人(たぶん)は日本陸軍の組織編制に詳しい人物か、はたまた大まかにいってみたら偶然近い数字になったか?
事件とは本質的に関係のないことですが、ちょっと気になってしまいました。
覚悟していたとはいえ、この虐殺の話を聞くと胸が痛くなってきました。
子供女性老人かかわらず標的になっていたようで、私にはどこからどう見ても住民に対する無差別殺人にしか感じられませんでした。
機関銃掃射後、倒れている人を片っ端から銃剣で突いて歩くといった光景は、地獄そのものです。
この村を破壊し尽くした日本軍は、さらに近くの村へ移動し、そこでも同じようなことをしたそうです。
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2017年04月27日 22:31
馬山虐殺事件の概要を入手!!
カテゴリ:調査
馬山虐殺事件を初めて日本に紹介したものは?
と聞かれて私が思い浮かぶのはこの本ぐらいです。
南京への道 (朝日文庫)/朝日新聞社
ただし、たかだか十行程度しかとりあげられていません。
いずれ機会があれば取り上げるとありましたが…
この本が出て30年近く経ちましたが、それらしいものは出していないようです。
恐らく今後も出す気は無かろうかと想われます。
少々無責任な印象を受けましたが、本人の問題でしょうから、これ以上言及しても時間の無駄だと思いますので、この辺でやめておきます。
さて中国国内では事件についてどのように伝えているのでしょうか?
中国でもっとも普及しているインターネット検索サイトは「百度」です。

確か2009年頃、これで「馬山事件」と調べても、事件をつたえるサイトにはつながりませんでした。
そこでいつも頼りにしている鶴舞図書館に行って調べてみました。
ここにはあの南京市からおくられた図書が多く収蔵されています。
蛇足ですが、名古屋と南京は姉妹友好都市協定を結んでおり、その活動の一環として、両都市間で20年以上にわたって図書の贈呈を続けています。
しかし河村市長の南京事件はなかったんじゃないの発言により、関係は冷え込んだことはよく知られていることかと思います。
さて、鶴舞図書館にも中国語による南京事件の本は収蔵されています。
それをみてわかったこと。
中国では戦争によって引き起こされた虐殺事件など、惨状を極めた案件を「惨案」と呼ぶそうです。
再度2010年頃、「百度」にて馬山、惨案と入力し検索したところ、「馬山惨案」というタイトルのサイトが上位にきました。
文章は中国語で40行以上にのぼります。
1938年、太湖、日軍、屠殺などのワードがでてくるので、私が探し求めていた馬山虐殺事件の記事であることに間違いありませんでした。
大学では中国語を専攻していましたが、授業で習ったことない文法ばかりだったので、検索サイト、辞書を使って翻訳を試みました。
どうしても日本語に訳せない箇所がいくつかありましたが、数時間かけてなんとか全体の99%近く翻訳できました。
しかし、そこには目を背けたくなるほど残虐な内容が延々と書かれていました…
と聞かれて私が思い浮かぶのはこの本ぐらいです。
南京への道 (朝日文庫)/朝日新聞社
ただし、たかだか十行程度しかとりあげられていません。
いずれ機会があれば取り上げるとありましたが…
この本が出て30年近く経ちましたが、それらしいものは出していないようです。
恐らく今後も出す気は無かろうかと想われます。
少々無責任な印象を受けましたが、本人の問題でしょうから、これ以上言及しても時間の無駄だと思いますので、この辺でやめておきます。
さて中国国内では事件についてどのように伝えているのでしょうか?
中国でもっとも普及しているインターネット検索サイトは「百度」です。
確か2009年頃、これで「馬山事件」と調べても、事件をつたえるサイトにはつながりませんでした。
そこでいつも頼りにしている鶴舞図書館に行って調べてみました。
ここにはあの南京市からおくられた図書が多く収蔵されています。
蛇足ですが、名古屋と南京は姉妹友好都市協定を結んでおり、その活動の一環として、両都市間で20年以上にわたって図書の贈呈を続けています。
しかし河村市長の南京事件はなかったんじゃないの発言により、関係は冷え込んだことはよく知られていることかと思います。
さて、鶴舞図書館にも中国語による南京事件の本は収蔵されています。
それをみてわかったこと。
中国では戦争によって引き起こされた虐殺事件など、惨状を極めた案件を「惨案」と呼ぶそうです。
再度2010年頃、「百度」にて馬山、惨案と入力し検索したところ、「馬山惨案」というタイトルのサイトが上位にきました。
文章は中国語で40行以上にのぼります。
1938年、太湖、日軍、屠殺などのワードがでてくるので、私が探し求めていた馬山虐殺事件の記事であることに間違いありませんでした。
大学では中国語を専攻していましたが、授業で習ったことない文法ばかりだったので、検索サイト、辞書を使って翻訳を試みました。
どうしても日本語に訳せない箇所がいくつかありましたが、数時間かけてなんとか全体の99%近く翻訳できました。
しかし、そこには目を背けたくなるほど残虐な内容が延々と書かれていました…
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2017年04月27日 22:29
当時の新聞には何が報道されていたか?
カテゴリ:調査
名古屋市の鶴舞図書館には朝日新聞の縮刷版が所蔵されています。
朝日新聞は、他紙よりも早い時期に縮刷版がまとめてられており、愛知県にはじめてきたころはよく閲覧したものです。
確か南京陥落時の記事を見つけたときは、感激(?)のあまり何枚もコピーした記憶があります。
2008年頃、朝日新聞の縮刷版に、事件の報道はないだろうか?
と考えた私は昭和13年3月を図書館司書の人に引っ張り出してもらいました。
でも事件のあった翌日にあたる3月13日版には、それらしい記事は全くありませんでした。
やはり都合の悪いことは掲載できなかったのか?
はじめは本当にそう考えていました。
でもここで私はあることをすっかり忘れていました。
戦時中の報道は、軍からの発表があって新聞に掲載するという、ちょっと時間のかかることをやっていました。
でも軍の行動はトップシークレットにあたるため、一般市民に詳細な情報が伝わることはありませんでした。
情報統制は徹底されており、当時の首相である近衛文麿でさえ、新聞に目を通して始めて軍の動向を知ったといわれています。

さて、2012年頃再び朝日新聞の昭和12年3月版を取り寄せて調べてみました。
すると、3月15日の記事に日本軍が太湖周辺の掃蕩作戦を実施したとする記事がありました。
てっきりないものと思っていたので驚きましたが、よくよく考えると当時の新聞報道のしくみを知っていれば、すぐに発見することができたはずでした。
記事によると、掃討作戦に参加したのは田上部隊、石井部隊、鷹森部隊、川並部隊。
当時は報道規制により、正式な部隊名を明かすことは禁じられていたので、部隊長の苗字で表現されています。
この当時、太湖付近に駐留していたのは名古屋第三師団。
第三師団の配下にある歩兵聯隊と聯隊長は次の通りです。
歩兵第六連隊(名古屋)川並密
歩兵第六十八聯隊(岐阜)鷹森孝
歩兵第十八聯隊(豊橋)石井嘉穂
歩兵第三十四連隊(静岡)田上八郎
よって新聞にあった部隊は次のようなります。
川並部隊→歩兵第六連隊
鷹森部隊→歩兵第六十八連隊
石井部隊→歩兵第十八連隊
田上部隊→歩兵第三十四連隊
事件との関わりが考えられるのは歩兵第十八連隊です。
新聞の影響でしょうか、豊橋にお住まいで90歳以上の人になると、歩兵第十八連隊と石井部隊(もしくは石井聯隊)の両方を知っている人がいました。
記事によると石井部隊は無錫を出発し、その一部は3月12日太湖馬蹟山島の掃蕩を海軍と協力して実施したとあります。
ほんの一行だけなので、掃討作戦の具体的な内容まではわかりません。
でも今になって、やっと事件のあった馬蹟山島と歩兵第十八連隊とのかかわりを確かめることができる資料に出会い、感無量になりました。
しかし馬蹟山島に関連する記事はこれ以降登場しません。
ちなみに戦後防衛庁によって編纂された戦史叢書という本が102巻敢行されました。
そのうち68巻が陸軍をあつかっており、事件のあった昭和13年における日本陸軍の動向は「支那事変陸軍作戦2」にあります。
支那事変陸軍作戦〈1〉昭和十三年一月まで (1975年) (戦史叢書)/朝雲新聞社
でも華中方面については、南京戦後の部隊配置が数ページあるだけで、事件と関わりがありそうな「広徳周辺の掃蕩」には全く触れず、徐州会戦の記述が始まります。
南京事件に関わった兵員は10万人以上。
参加した部隊も多いためか、処刑された中国兵の人数を記録した戦闘詳報や陣中日誌、虐殺行為を記録した元兵士の日記などが数多く発見されます。
対する馬山虐殺事件は一個大隊約1300人程。
南京戦とは比較にもならないほど小規模です。
新聞や陸軍の関連本を見ても、事件の核心に迫る資料がなかなか見つからない背景にはこうした制約も一因にあったといまでは思います。
でも当時はそうしたことを考えるほど余裕もなく、やみくもに調べまくってました。
朝日新聞は、他紙よりも早い時期に縮刷版がまとめてられており、愛知県にはじめてきたころはよく閲覧したものです。
確か南京陥落時の記事を見つけたときは、感激(?)のあまり何枚もコピーした記憶があります。
2008年頃、朝日新聞の縮刷版に、事件の報道はないだろうか?
と考えた私は昭和13年3月を図書館司書の人に引っ張り出してもらいました。
でも事件のあった翌日にあたる3月13日版には、それらしい記事は全くありませんでした。
やはり都合の悪いことは掲載できなかったのか?
はじめは本当にそう考えていました。
でもここで私はあることをすっかり忘れていました。
戦時中の報道は、軍からの発表があって新聞に掲載するという、ちょっと時間のかかることをやっていました。
でも軍の行動はトップシークレットにあたるため、一般市民に詳細な情報が伝わることはありませんでした。
情報統制は徹底されており、当時の首相である近衛文麿でさえ、新聞に目を通して始めて軍の動向を知ったといわれています。
さて、2012年頃再び朝日新聞の昭和12年3月版を取り寄せて調べてみました。
すると、3月15日の記事に日本軍が太湖周辺の掃蕩作戦を実施したとする記事がありました。
てっきりないものと思っていたので驚きましたが、よくよく考えると当時の新聞報道のしくみを知っていれば、すぐに発見することができたはずでした。
記事によると、掃討作戦に参加したのは田上部隊、石井部隊、鷹森部隊、川並部隊。
当時は報道規制により、正式な部隊名を明かすことは禁じられていたので、部隊長の苗字で表現されています。
この当時、太湖付近に駐留していたのは名古屋第三師団。
第三師団の配下にある歩兵聯隊と聯隊長は次の通りです。
歩兵第六連隊(名古屋)川並密
歩兵第六十八聯隊(岐阜)鷹森孝
歩兵第十八聯隊(豊橋)石井嘉穂
歩兵第三十四連隊(静岡)田上八郎
よって新聞にあった部隊は次のようなります。
川並部隊→歩兵第六連隊
鷹森部隊→歩兵第六十八連隊
石井部隊→歩兵第十八連隊
田上部隊→歩兵第三十四連隊
事件との関わりが考えられるのは歩兵第十八連隊です。
新聞の影響でしょうか、豊橋にお住まいで90歳以上の人になると、歩兵第十八連隊と石井部隊(もしくは石井聯隊)の両方を知っている人がいました。
記事によると石井部隊は無錫を出発し、その一部は3月12日太湖馬蹟山島の掃蕩を海軍と協力して実施したとあります。
ほんの一行だけなので、掃討作戦の具体的な内容まではわかりません。
でも今になって、やっと事件のあった馬蹟山島と歩兵第十八連隊とのかかわりを確かめることができる資料に出会い、感無量になりました。
しかし馬蹟山島に関連する記事はこれ以降登場しません。
ちなみに戦後防衛庁によって編纂された戦史叢書という本が102巻敢行されました。
そのうち68巻が陸軍をあつかっており、事件のあった昭和13年における日本陸軍の動向は「支那事変陸軍作戦2」にあります。
支那事変陸軍作戦〈1〉昭和十三年一月まで (1975年) (戦史叢書)/朝雲新聞社
でも華中方面については、南京戦後の部隊配置が数ページあるだけで、事件と関わりがありそうな「広徳周辺の掃蕩」には全く触れず、徐州会戦の記述が始まります。
南京事件に関わった兵員は10万人以上。
参加した部隊も多いためか、処刑された中国兵の人数を記録した戦闘詳報や陣中日誌、虐殺行為を記録した元兵士の日記などが数多く発見されます。
対する馬山虐殺事件は一個大隊約1300人程。
南京戦とは比較にもならないほど小規模です。
新聞や陸軍の関連本を見ても、事件の核心に迫る資料がなかなか見つからない背景にはこうした制約も一因にあったといまでは思います。
でも当時はそうしたことを考えるほど余裕もなく、やみくもに調べまくってました。
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2017年04月27日 22:26
元兵士に手紙を送ってみたものの…
カテゴリ:調査
元兵士から証言を得るのが難しい時代になったのは仕方ありません。
話は前後するのですが、1960年代以降戦友会によって多くの部隊誌が刊行されています。
その一部には、日中戦争よりもはるか30年ほど前にあった日露戦争に参戦した兵士の手記が掲載されていることがあります。
でも年齢を見ると90歳を超えた人たちばかり…
当時日露戦争が終了して70年近く経っていましたが、証言者は一人か二人に限られており、参戦者を探すのは非常に困難だった背景がうかがえます。
ちなみに、日露戦争の最後の参戦者は今から30年ほど前に亡くなられたそうです。
さらに前の日清戦争ではどうでしょうか?
名古屋の「歩兵第六連隊史」は執筆作業は昭和30年代から始めていたようで、日露戦争の参戦者にはあえたようですが、日清戦争の参戦者とはあえなかったようです。
1970年頃に出版された歩兵第22連隊の部隊誌に、当時100歳で日清戦争に従軍された人の証言はありました。
しかしこの人はその年に亡くなられたそうです。
「証言」は、いつの時代も時間との勝負といえるかもしれません。
私は4年間の間に元兵士の名簿(戦歿者を含む)を多く入手していました。
でも実際家に訪問し本人と会って話を聞けたのはせいぜい2名。
どんどん資金が減っていくだけでした。
これでは続けられないと思い、兵士のご家族様(戦歿者のご遺族様にも)に、手紙を出してみようと考えました。
内容は、
①生前本人様から戦争の話を聞いたことはないか
②戦争に関わる手紙や日記は残されていないか
この二点に絞って、約500名の方に返信用の封筒も入れて郵送しました。
返信して頂けたのは100通ほどでしたが、内容はなかなか厳しいものでした。
90%近くの方が本人から戦争の話は聞いたことが無いというものでした。
なお心当たりがない場合は、「処分して頂いても大丈夫です」と書き添えていたので、返信されなかった約400通は、おそらく本人から戦争の話は聞いたことが無いというものだったと考えられます。
よくよく考えたら戦争とは、人と人が殺し合いをするのですから、普通の会話で自分からすすんで話すこと自体あまりないだろうと思います。
…でも中には、興味深い内容のお手紙もいただきました。
豊橋市のS様の息子様は、昔父からショッキングな話を聞いたそうです。
父は中国兵の捕虜三人を処刑するよう命令を受けた。
父は彼らに自分の墓穴を掘らせて首をはねた。
父は「戦争とはいえ残酷なことをやってしまった」と涙を流しながら語った。
…手紙を読んだとき、震えが止まりませんでした。
日本軍が残虐な行為をやっていたという話はなんとなく聞いたことはありましたが、その一例が十八聯隊でもあったという事実…
おそらく同じような命令を受けたのはSさんだけではないと思われます。
覚悟していたとはいえ私もショックで夢に出てきました。
他にも同じく豊橋市のK様のお孫様から返信をいただきました。
お爺ちゃんからは小さいころ戦争の話を随分きいていたこと。
戦後は心の安寧をもとめて仏教を信仰するようになり、戦死した仲間と自らが殺めた中国兵の為に祈ったそうです。
蒲郡にお住まいの方から再び召集令状を受けた兵士のエピソードを教えて頂きました。
彼は、日中戦争に従軍し、奇跡的にも生還して故郷に帰られました。
でも終戦近くになると再び自分に召集令状がきた。
これを見た彼はトイレにとじこもってしまい、「絶対に行きたくない」と叫んでいたそうです。
でも結局彼は兵営におもむき、東南アジアの戦地で戦死したそうです。
彼は戦争で、再び生きて日本に帰るのが難しい事をよくわかっていたと思います。
自分の納得できる一生を終えることができず、戦争という不条理の中で無念と恨みを抱いて亡くなったと思うと、辛くなってきました。
他にも戦死された兵士の息子様もしくは娘様からも返信のお手紙をいただきました。
便箋の他に、従軍した土地から手紙を同封していただいた方もみえました。
手紙には今の自分の状況と、奥様や小さなわが子の健康を気遣う内容が多く、この後に亡くなられたことを知っているので、目頭が熱くなりました…
なお、元兵士の奥様(未亡人?)が100歳近くでご健在であるというケースにいくつも会いました。
もしかしたら元兵士よりもあえる確率は非常に高いかもしれません。
本当に女性はつよいです。
元兵士宅に伺ったときも奥様が90歳を越えて1人暮らしというケースに何度も会いました。
夫の死後、空襲を生き抜き、戦後の混乱期を耐えて、女手ひとつで子供を育てあげたわけですから、強いに決まってますね…
なお遺品については残っていないという返信を多くいただきました。
理由は
昭和19年と20年の大地震で、家の家財道具とともに津波で流されてしまった。
昭和20年の空襲で全焼したため何も残っていない。
昭和34年の伊勢湾台風の時、洪水に会い他のものと一緒になくなってしまった
と、いろいろな事情をお聞きしましたが、一番多かったのは本人の死後、遺品整理のときに他のものとともに処分したというものでした。
さて手紙作戦でわかったことをまとめると
①兵士は家族に戦争を語らず亡くなるケースが多い。
②戦争体験を自費出版というかたちで遺す人はいるが、非常にまれなケースである。
③本人の死後、遺品は全て処分したため、何一つ残っていない場合が多い。元兵士がほとんど死亡している今となっては、新しい資料の発見は期待できない。
結局事件に近づく話は得られませんでしたが、兵士が戦地で何を経験したのか、どのような心情だったのか知る良いきっかけになりました。
ご多忙の中、手紙を返信していただいたご家族様、この場を借りてお礼を申し上げます。
この恩を無駄にすることなく、今後の研究に生かせたらと思います。
ありがとうございました。
話は前後するのですが、1960年代以降戦友会によって多くの部隊誌が刊行されています。
その一部には、日中戦争よりもはるか30年ほど前にあった日露戦争に参戦した兵士の手記が掲載されていることがあります。
でも年齢を見ると90歳を超えた人たちばかり…
当時日露戦争が終了して70年近く経っていましたが、証言者は一人か二人に限られており、参戦者を探すのは非常に困難だった背景がうかがえます。
ちなみに、日露戦争の最後の参戦者は今から30年ほど前に亡くなられたそうです。
さらに前の日清戦争ではどうでしょうか?
名古屋の「歩兵第六連隊史」は執筆作業は昭和30年代から始めていたようで、日露戦争の参戦者にはあえたようですが、日清戦争の参戦者とはあえなかったようです。
1970年頃に出版された歩兵第22連隊の部隊誌に、当時100歳で日清戦争に従軍された人の証言はありました。
しかしこの人はその年に亡くなられたそうです。
「証言」は、いつの時代も時間との勝負といえるかもしれません。
私は4年間の間に元兵士の名簿(戦歿者を含む)を多く入手していました。
でも実際家に訪問し本人と会って話を聞けたのはせいぜい2名。
どんどん資金が減っていくだけでした。
これでは続けられないと思い、兵士のご家族様(戦歿者のご遺族様にも)に、手紙を出してみようと考えました。
内容は、
①生前本人様から戦争の話を聞いたことはないか
②戦争に関わる手紙や日記は残されていないか
この二点に絞って、約500名の方に返信用の封筒も入れて郵送しました。
返信して頂けたのは100通ほどでしたが、内容はなかなか厳しいものでした。
90%近くの方が本人から戦争の話は聞いたことが無いというものでした。
なお心当たりがない場合は、「処分して頂いても大丈夫です」と書き添えていたので、返信されなかった約400通は、おそらく本人から戦争の話は聞いたことが無いというものだったと考えられます。
よくよく考えたら戦争とは、人と人が殺し合いをするのですから、普通の会話で自分からすすんで話すこと自体あまりないだろうと思います。
…でも中には、興味深い内容のお手紙もいただきました。
豊橋市のS様の息子様は、昔父からショッキングな話を聞いたそうです。
父は中国兵の捕虜三人を処刑するよう命令を受けた。
父は彼らに自分の墓穴を掘らせて首をはねた。
父は「戦争とはいえ残酷なことをやってしまった」と涙を流しながら語った。
…手紙を読んだとき、震えが止まりませんでした。
日本軍が残虐な行為をやっていたという話はなんとなく聞いたことはありましたが、その一例が十八聯隊でもあったという事実…
おそらく同じような命令を受けたのはSさんだけではないと思われます。
覚悟していたとはいえ私もショックで夢に出てきました。
他にも同じく豊橋市のK様のお孫様から返信をいただきました。
お爺ちゃんからは小さいころ戦争の話を随分きいていたこと。
戦後は心の安寧をもとめて仏教を信仰するようになり、戦死した仲間と自らが殺めた中国兵の為に祈ったそうです。
蒲郡にお住まいの方から再び召集令状を受けた兵士のエピソードを教えて頂きました。
彼は、日中戦争に従軍し、奇跡的にも生還して故郷に帰られました。
でも終戦近くになると再び自分に召集令状がきた。
これを見た彼はトイレにとじこもってしまい、「絶対に行きたくない」と叫んでいたそうです。
でも結局彼は兵営におもむき、東南アジアの戦地で戦死したそうです。
彼は戦争で、再び生きて日本に帰るのが難しい事をよくわかっていたと思います。
自分の納得できる一生を終えることができず、戦争という不条理の中で無念と恨みを抱いて亡くなったと思うと、辛くなってきました。
他にも戦死された兵士の息子様もしくは娘様からも返信のお手紙をいただきました。
便箋の他に、従軍した土地から手紙を同封していただいた方もみえました。
手紙には今の自分の状況と、奥様や小さなわが子の健康を気遣う内容が多く、この後に亡くなられたことを知っているので、目頭が熱くなりました…
なお、元兵士の奥様(未亡人?)が100歳近くでご健在であるというケースにいくつも会いました。
もしかしたら元兵士よりもあえる確率は非常に高いかもしれません。
本当に女性はつよいです。
元兵士宅に伺ったときも奥様が90歳を越えて1人暮らしというケースに何度も会いました。
夫の死後、空襲を生き抜き、戦後の混乱期を耐えて、女手ひとつで子供を育てあげたわけですから、強いに決まってますね…
なお遺品については残っていないという返信を多くいただきました。
理由は
昭和19年と20年の大地震で、家の家財道具とともに津波で流されてしまった。
昭和20年の空襲で全焼したため何も残っていない。
昭和34年の伊勢湾台風の時、洪水に会い他のものと一緒になくなってしまった
と、いろいろな事情をお聞きしましたが、一番多かったのは本人の死後、遺品整理のときに他のものとともに処分したというものでした。
さて手紙作戦でわかったことをまとめると
①兵士は家族に戦争を語らず亡くなるケースが多い。
②戦争体験を自費出版というかたちで遺す人はいるが、非常にまれなケースである。
③本人の死後、遺品は全て処分したため、何一つ残っていない場合が多い。元兵士がほとんど死亡している今となっては、新しい資料の発見は期待できない。
結局事件に近づく話は得られませんでしたが、兵士が戦地で何を経験したのか、どのような心情だったのか知る良いきっかけになりました。
ご多忙の中、手紙を返信していただいたご家族様、この場を借りてお礼を申し上げます。
この恩を無駄にすることなく、今後の研究に生かせたらと思います。
ありがとうございました。
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2017年04月27日 22:22
訪問調査の問題
カテゴリ:調査
2012年まで私は、元兵士宅を訪問し続けていましたが、結果は2名の方からしかお話が聞けませんでした…。
やはり74年もたつと、殆どの方が亡くなっているという厳しい現実に何度も出会いました。
当時の兵役制度は最低17歳で入隊できます。
でもすぐに戦場に行くわけではなく、一定の教育を受け、戦場へ向かいます。
私の知っている限りでは、支那事変の初期において兵士として戦場にいった者の最低年齢は19歳。
この方がご健在でも93歳(2012年で)。
日本人の平均寿命は世界的にみても高いといわれていますが、男性は79歳(当時)といわれており、90歳を超えて元気な方は限られていたと思われます。
事実元十八聯隊の兵士で、70代で亡くなった人は半分近くいました。
また80歳を超えても、90歳近くで集中して亡くなられていました。
90歳を過ぎてご健在だった方は一割にも満たない人数でした。
元兵士の方を訪ね、証言を得ることのできた最後のチャンスは、2006年以前だったと今更ながら思います。
私は諸先輩に習って元兵士の方から証言を得ようと努力したわけですが、74年という時間の壁を壊すことはついにできませんでした。
よくよく考えたら諸先輩が調査を始めた頃と私が始めた頃とでは時代背景がだいぶ違っていました。
平頂山事件の研究者田辺敏雄さんは、事件後約50年目から調査を始め事件と関わった元兵士と対面、文通を行い、事件の全体像にせまっています。
追跡平頂山事件/図書出版社

南京事件で幕府山虐殺事件を中心に調べた小野賢二さんも事件発生から約50年近くたってから調査を始め、多くの日記や証言を入手しています。
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記/大月書店

お二人に共通しているのは元兵士の方がご健在であれば、70代から80代ぐらいで、会って話を聞けるチャンスが十分ありました。
対する私は事件から既に68年もたっていたからすでに多くの兵士の方が亡くなっており、チャンスは諸先輩と比べ1%にも満たなかったと思います。
2015年現在では、戦争を知る人口は1割にも満たないといわれています。
もはや78年もたった日中戦争初期を経験した人を探すのはかなり至難な時代であり、ダイヤの原石を探すことよりも難しい状況になったといえるでしょう。
こうなってしまった以上、元兵士から証言を得る作業は、中止を考えざるを得ませんでした。
次に何をすればよいか。
手元には多くの名簿と戦没者名簿がありました。
これをうまく活用する方法はないか考えてみました。
やはり74年もたつと、殆どの方が亡くなっているという厳しい現実に何度も出会いました。
当時の兵役制度は最低17歳で入隊できます。
でもすぐに戦場に行くわけではなく、一定の教育を受け、戦場へ向かいます。
私の知っている限りでは、支那事変の初期において兵士として戦場にいった者の最低年齢は19歳。
この方がご健在でも93歳(2012年で)。
日本人の平均寿命は世界的にみても高いといわれていますが、男性は79歳(当時)といわれており、90歳を超えて元気な方は限られていたと思われます。
事実元十八聯隊の兵士で、70代で亡くなった人は半分近くいました。
また80歳を超えても、90歳近くで集中して亡くなられていました。
90歳を過ぎてご健在だった方は一割にも満たない人数でした。
元兵士の方を訪ね、証言を得ることのできた最後のチャンスは、2006年以前だったと今更ながら思います。
私は諸先輩に習って元兵士の方から証言を得ようと努力したわけですが、74年という時間の壁を壊すことはついにできませんでした。
よくよく考えたら諸先輩が調査を始めた頃と私が始めた頃とでは時代背景がだいぶ違っていました。
平頂山事件の研究者田辺敏雄さんは、事件後約50年目から調査を始め事件と関わった元兵士と対面、文通を行い、事件の全体像にせまっています。
追跡平頂山事件/図書出版社
南京事件で幕府山虐殺事件を中心に調べた小野賢二さんも事件発生から約50年近くたってから調査を始め、多くの日記や証言を入手しています。
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記/大月書店
お二人に共通しているのは元兵士の方がご健在であれば、70代から80代ぐらいで、会って話を聞けるチャンスが十分ありました。
対する私は事件から既に68年もたっていたからすでに多くの兵士の方が亡くなっており、チャンスは諸先輩と比べ1%にも満たなかったと思います。
2015年現在では、戦争を知る人口は1割にも満たないといわれています。
もはや78年もたった日中戦争初期を経験した人を探すのはかなり至難な時代であり、ダイヤの原石を探すことよりも難しい状況になったといえるでしょう。
こうなってしまった以上、元兵士から証言を得る作業は、中止を考えざるを得ませんでした。
次に何をすればよいか。
手元には多くの名簿と戦没者名簿がありました。
これをうまく活用する方法はないか考えてみました。
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2017年04月27日 22:20
玉砕の戦地から生還した元兵士と南京事件?
カテゴリ:調査
静岡県内で3名の元兵士宅へうかがったあと、既に夕方の4時ごろでしたが、もう一人市内にいらっしゃるようなのでいってみました。
たぶんこの人も…、と思ってうかがってみるとご健在でした。
Mさんは当時98歳。
目も耳も良く、記憶力も明晰でした。
Mさんの軍歴は以下の通りです。
昭和9年に歩兵第十八連隊に入隊
昭和12年8月支那事変勃発のため召集され翌月上海上陸
昭和15年除隊
昭和18年歩兵第三十四連隊入隊
昭和19年歩兵第百十八連隊に転属しサイパンに派遣
部隊が玉砕したあともサイパン島の密林で米軍に挑み続けるが捕虜となる
昭和21年実家に帰る
日中戦争から大東亜戦争まですべて参加されていました。
昭和19年歩兵第百十八連隊がサイパンで玉砕した後、家族の下に戦死報告が届き、葬式も済ませたのですが、戦後になって帰宅してきたので家族はみんな驚いたとか。
なおMさんは馬山虐殺事件があった頃は、歩兵第十八連隊の第二大隊第二機関銃中隊に所属していました。
だからなのか、事件のことはわからないとのことでした。
事件と関わりがあるかもしれないのは第三大隊だから、当然かと思いました。
でも、せっかく会えたのだからいろいろとお話を聞かせて頂きました。
有事の機関銃中隊の兵員は? 250人
中隊の構成は? 戦銃小隊と爆弾小隊あと駄馬を扱う分隊
機関銃中隊は戦場でどのように戦う? 小銃中隊の攻撃を側面から掩護射撃する
…などなど次から次へとこちらの質問に対して即答していただきました。
これは気が抜けないと思い、玄関先でその後1時間近く話していました。
するとMさんはどうも体調が悪いのかせき込み始め、そこにタイミングよく息子さんがそろそろいいかなといわれ、聞き取りを終了しました。
Mさんは心臓が悪いそうで、戦争の話などは体によろしくないと息子さんからうかがいました。
そりゃそうだと思い、Mさんとはこれを最後に会うことはありませんでした。
今思うと非常に貴重なお話でした。
なお、ひとによっては歴史を伝えるには多少の強引さも仕方がないと、本人の体調も気遣うことなく、ズケズケと何度も聞きに行く人がいるようです。
でも正直私はそういうのはあまり好きではありません。
長生きできた背景には、本人の生活を支えてきた家族様の存在もあります。
家族様との信頼関係を損なうことをしてまで調査を続けるのは単なるエゴでしかないと思います。
ありがとうございましたと何度も頭を下げ、Mさん宅を後にしました。
ちなみにMさんの話で少し気になることを聞きました。
Mさんは上海戦がほぼ終了した昭和12年11月、部隊の功績の書類をまとめる作業をされていたのですが、その後に海軍の軍艦にのり、南京へとむかったとのことです。
南京には捕虜となった中国兵が何万人もいたそうです
Mさんはその後のはなしをしようとしたとき、タイミングよく息子様がみえ、話は中断となりました。
当時の私は南京事件に対して関心を持っていなかったのですが、今思うと南京事件をMさんは目撃したか、失礼ながらもしかしたら想像をたくましくすると捕虜の虐殺に参加していたのではないか…
饒舌に話されていたMさんが南京の話を始めた途端静かな口調になったのは今でも覚えています。
あれから数年たっており、Mさんも亡くなられたと聞いているので確かめようがないのですが、歩兵第十八聯隊と南京事件のかかわりを考えさせる出会いでもありました。
たぶんこの人も…、と思ってうかがってみるとご健在でした。
Mさんは当時98歳。
目も耳も良く、記憶力も明晰でした。
Mさんの軍歴は以下の通りです。
昭和9年に歩兵第十八連隊に入隊
昭和12年8月支那事変勃発のため召集され翌月上海上陸
昭和15年除隊
昭和18年歩兵第三十四連隊入隊
昭和19年歩兵第百十八連隊に転属しサイパンに派遣
部隊が玉砕したあともサイパン島の密林で米軍に挑み続けるが捕虜となる
昭和21年実家に帰る
日中戦争から大東亜戦争まですべて参加されていました。
昭和19年歩兵第百十八連隊がサイパンで玉砕した後、家族の下に戦死報告が届き、葬式も済ませたのですが、戦後になって帰宅してきたので家族はみんな驚いたとか。
なおMさんは馬山虐殺事件があった頃は、歩兵第十八連隊の第二大隊第二機関銃中隊に所属していました。
だからなのか、事件のことはわからないとのことでした。
事件と関わりがあるかもしれないのは第三大隊だから、当然かと思いました。
でも、せっかく会えたのだからいろいろとお話を聞かせて頂きました。
有事の機関銃中隊の兵員は? 250人
中隊の構成は? 戦銃小隊と爆弾小隊あと駄馬を扱う分隊
機関銃中隊は戦場でどのように戦う? 小銃中隊の攻撃を側面から掩護射撃する
…などなど次から次へとこちらの質問に対して即答していただきました。
これは気が抜けないと思い、玄関先でその後1時間近く話していました。
するとMさんはどうも体調が悪いのかせき込み始め、そこにタイミングよく息子さんがそろそろいいかなといわれ、聞き取りを終了しました。
Mさんは心臓が悪いそうで、戦争の話などは体によろしくないと息子さんからうかがいました。
そりゃそうだと思い、Mさんとはこれを最後に会うことはありませんでした。
今思うと非常に貴重なお話でした。
なお、ひとによっては歴史を伝えるには多少の強引さも仕方がないと、本人の体調も気遣うことなく、ズケズケと何度も聞きに行く人がいるようです。
でも正直私はそういうのはあまり好きではありません。
長生きできた背景には、本人の生活を支えてきた家族様の存在もあります。
家族様との信頼関係を損なうことをしてまで調査を続けるのは単なるエゴでしかないと思います。
ありがとうございましたと何度も頭を下げ、Mさん宅を後にしました。
ちなみにMさんの話で少し気になることを聞きました。
Mさんは上海戦がほぼ終了した昭和12年11月、部隊の功績の書類をまとめる作業をされていたのですが、その後に海軍の軍艦にのり、南京へとむかったとのことです。
南京には捕虜となった中国兵が何万人もいたそうです
Mさんはその後のはなしをしようとしたとき、タイミングよく息子様がみえ、話は中断となりました。
当時の私は南京事件に対して関心を持っていなかったのですが、今思うと南京事件をMさんは目撃したか、失礼ながらもしかしたら想像をたくましくすると捕虜の虐殺に参加していたのではないか…
饒舌に話されていたMさんが南京の話を始めた途端静かな口調になったのは今でも覚えています。
あれから数年たっており、Mさんも亡くなられたと聞いているので確かめようがないのですが、歩兵第十八聯隊と南京事件のかかわりを考えさせる出会いでもありました。
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