2017年05月01日 23:14

第三師団警備地での治安戦

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
昭和12年12月末、第三師団は軍から広大な地を警備するよう命じられました。








翌年3月初めまで警備を担当していましたが、このあたりの治安はどうだったのでしょうか?

警備地の西部に駐屯していた歩兵第五旅団(歩兵第六連隊・歩兵第六十八連隊)からみていきましょう。

歩兵第六連隊の「部隊誌」には次の話が掲載されています。
歩兵第六聯隊歴史 (1968年)/歩六史刊行会事務局


昭和13年1月13日より4月20日まで警備地において各部隊毎に時期作戦のための教育・訓練を実施した。

この間第一大隊の警備地区である邵伯鎮においては時々夜襲を受けたが、よくこれを撃退した。

そのほか各大隊とも偵察部隊が敵と衝突したり、敵を討伐するなどのことがあったが一段には平穏であった。


たびたび襲撃を受けたなか、最も規模の大きい戦闘が起きたのはは2月27日です。

午前六時に警戒中の下士哨に対し襲撃してきたため、同聯隊は直ちに緊急集合し戦闘を開始しました。

しばらくすると中国軍は退却しました。

この戦闘で中国軍兵士24名の遺体を残して逃走し、同聯隊は下士官1名負傷しました。

一方歩兵第六十八聯隊はどうだったのでしょうか?
歩兵第六十八聯隊史/帝国聯隊史刊行会


同聯隊の第一大隊は金壇付近を警備しており、付近住民から中国軍の情報収集をしていたようです。

それによると
遊撃隊司令は謝昇標という人物
兵力五千
広徳付近の大凹部地帯から潜入し、凓陽付近に根拠地を置き、同聯隊内で頻出していた

上記の情報に基づき同聯隊は、昭和13年1月から2月にかけて五度も付近を掃蕩しています。
金壇付近 1月31日~2月3日
社頭鎮付近 2月4日~2月6日
指前標付近 2月5日~2月18日
珠淋鎮付近 2月19日~3月1日

ほぼ毎日掃討作戦を実施していた様子がうかがえます。

聯隊史には掃討作戦以外に、3月8日警備地内の架橋掩護中に襲撃を受けており、安心できる環境ではなかったことがうかがえます。

同聯隊は満足に休暇をとることなく、3月12日から「広徳周辺の掃蕩」に出向します。

以上のことから、両聯隊とも警備地内は、中国軍の襲撃を受ける危険性の高い地域であったと思われます。   


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2017年05月01日 23:10

なぜ歩兵十八聯隊は馬山近くにいたか?

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
南京占領後、日本軍は広大な土地を占領し、警備しなければならなくなりました。

昭和12年12月末、軍は各兵団の配置を次のように決めました。

第十六師団 南京
第十三師団 来安 滁県、六合、全椒
天谷支隊 揚州
第三師団 鎮江 金壇 常州 江陰 無錫
第九師団 常熟 太倉
百一師団 上海
第六師団 蕪湖 太平 寧国
第百十四師団 湖州
第十八師団 杭州
第一後備兵団 松江
第二後備兵団 長安とその北部

地図上で示すと次の通りになります。






翌年になると南京の警備はころころ変化します。

1月末
第十六師団 南京から華北に転用

天谷支隊 南京の警備を引き継ぐ

第三師団 揚州の警備を引き継ぐ

2月下旬
天谷支隊の復員が決まり、南京の警備は第三師団が担当する


さらにこのでは聯隊毎に警備地が決まっていました。

歩兵第六連隊 鎮江
歩兵第六十八連隊 金壇 丹陽
歩兵第十八連隊 江陰 靖江
歩兵第三十四連隊 無錫 曹橋
騎兵第三聯隊 常州

歩兵聯隊のみ警備地を図示すると次の通りになります。




歩兵第十八連隊の動向をたどると
昭和12年12月1日 南京攻撃正式決定にともない、南京へ連日行軍
12月上旬 南京に到着し、一部南京入城式参加
12月28日 軍命により江陰付近の警備のため移動

同聯隊は団隊別に警備地を担当していました。
江陰→聯隊本部・第二大隊・第三大隊
靖江→第一大隊

第三師団が事件直前まで太湖北部の警備をしていました。

軍は、馬山掃蕩は付近にいる第三師団が適当と判断したと考えられます。

第三師団の警備地は、華中の北部を広範囲に広がっています。

ここから南へ攻略を行うと、広徳付近の中国軍を北からも南からも挟み撃ちにできます。

第三師団は、事件の引き金となる「広徳周辺の掃蕩作戦」に参加する運命から逃れられなかったと思われます。   


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2017年05月01日 23:07

そもそもなぜ事件は起きたか?

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
馬山事件は事実であった。

それを実施したのは以前から疑っていた歩兵第十八聯隊第三大隊だった。

これを7年目にして確認したわけですが、そもそもなぜこの事件は起きたのか?

なぜ歩兵第十八聯隊が実施することになったのか?

その手掛かりは、事件と深くかかわる「広徳周辺の掃蕩」がどのようなものだったかを知る必要があります。




↑私はこれをきっかけに、第三師団歩兵第十八聯隊を調べ始めました。

この掃蕩を実施した理由は何か?

数年ぶりにこの本を開いたところ次のような記述がありました。

長文ですが引用します。




中国軍は新たに徐州方面に作戦を開始するに当たり、なるべく多くの日本軍を江東地区に牽制すべく企図し、江南において我に対峙する敵即ち顧祝同の指揮する3コ師を我が第6、第18師団の警備地区の間隙に深く楔入し、広徳を根拠として活発な遊撃活動を繰り返させていた。

2月中旬天谷支隊に復員が内示せられ2月22日台湾軍に属する波田支隊(中将波田重一指揮する歩兵2コ聯隊、山砲2コ中隊基幹)が中支軍の戦斗序列に入り、3月上旬頃、杭州付近に向かうことになっていた。

ここにおいて軍は天谷支隊を第三師団長の指揮に入れ、同支隊の担任する南京付近の警備を歩兵第29旅団(師団の警備地区の東半分)に移乗させ、その跡に波田支隊を配置することとせられていた。

軍は上記交代の時期を利用して広徳付近の掃蕩を企図し、波田支隊を杭州付近より、第18師団討伐隊を湖州付近より、第6師団討伐隊を寧国付近より、第三師団討伐隊を宜興、金壇付近より、それぞれ所在の敵を掃蕩しつつ広徳付近に急進的に前進し、広徳を中心とする凹角地帯の敵の掃蕩を命じた。


わかりにくい文章だったかもしれませんが、当時の時代背景(昭和13年頃)と重ねて説明すると、日本軍の占領地であった華中の南側(第6師団と第18師団が警備を担当)において、中国軍が隙間を縫うように、頻繁に襲撃してきた。

前年日本軍が占領した南京は、当時第11師団の天谷支隊が警備していました。

2月中旬天谷支隊は復員して日本に帰ること、歩兵第29旅団(歩兵第18連隊と歩兵第34連隊)がかわりに南京の警備を担当すると決まっていました。

軍はこの交代時期を利用し、広徳(太湖南西側)付近の掃蕩を第3師団・第6師団・第18師団に指示したと記述してあります。

それを示したのがこの図です。





※なおこの掃討作戦は、日中戦争の研究でよく引用される戦史叢書には書かれていません。

支那事変陸軍作戦〈3〉昭和十六年十二月まで (1975年) (戦史叢書)/朝雲新聞社


当時の資料ではどのように伝えているでしょうか。

旧陸海軍の動向を一年毎に事細かく記録した軍事年鑑という本があります。

陸海軍軍事年鑑 (1)/日本図書センター


旧字体ですが、有益な知識や情報が豊富に詰まっているので、いまでもこの本を読むためだけに図書館にいくことがあります。

昭和14年版の「支那事変経過」に「中支方面掃討期間(自一月至六月)」という節に興味深い記述があります。

三月初旬中支方面の敵は徐州方面に兵力転用の爲江南皇軍の牽制を企図し、三月十七日以降その行動活発となり、蕪湖、溧陽、杭州方面及鳳台、廬州間の遊撃頗る頻繁を極む。

依て軍は三月十五日行動開始杭州、閭江、金壇方向より兵を進め、二十五日遊撃根拠地広徳を掃蕩し三州山系に圧迫し、又三月十七日陸海相協力して井鎮撫を通州南方地区に上陸せしめてこれを攻略し、東台を占領し別に一部を以て崇明島を収む。

この記述は上述の「第三師団」の「広徳周辺の掃蕩」の記述と類似しています。

おそらく新旧関係から考えて、「第三師団」の執筆者は「軍事年鑑」も参考に執筆したと考えられます。

二つの資料からわかることは、
現地の日本軍が占領地において中国軍から頻繁に襲撃を受けていたらしいということ。
当時華中には20万人ほどの兵員が警備していたが、中国軍は網を縫うように襲撃を繰り返し、日本軍は悩まされていたこと。

次に駐留していた部隊別にみていきたいと思います。   


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2017年05月01日 23:02

犠牲者の数が違う理由

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
Aさんの手記を発見したことにより、馬山虐殺事件は事実であり、内容にも共通点が見られることは確認できました。

でも私はどうしても納得のできない点がありました。

以前も指摘しましたが、犠牲者数が日中間で大きく異なります。

初期の日中戦争の概要および「戦争美談」を記述している「支那事変実記」によると、中国軍の遺棄死体は700人としています。




一方中国側では、虐殺数1500人余りとしています。

約2倍近いこの差はいったい何を示すのか?

まず中国側の概要で犠牲者数が具体的に発表されている例をあげると下記の通りになります。

鈕埼村 26人
檀渓村 97人
新城村 30人余り
西村 2人
板残山 200人
国民党軍兵士 100人余り

ここにあげた事例のみで計算すると450人から500人が犠牲になったと捕えられます。

これ以外にも、公表されていない事例も存在する可能性はあるかと思います。

ただし、事件の概要を伝えるため、あえて代表的な事例(規模の大きな事例)をあげたと思われるので、これらを除いた規模の大きい事例は少ないと思われます。

仮に漏れがあったとしてもその誤差は100人から200人ほどではないかと考えます。

以上のことから私は650人から700人が日本軍の犠牲になったと考えます。

この数値は「支那事変実記」にある700人に近い数字になります。

では中国側の1500人はどうとらえればよいか?

この事件に限らず被害者の人数は日中間で異なる場合がよくみられます。

有名なところでは「南京事件」でしょう。

日本の研究者の中では、中国の主張する被害者数三十万人は政治戦略による数字だとまで考えている人がいるようです。

馬山虐殺事件の被害者1500人も政治戦略の一環なのでしょうか?

私は、南京事件の場合とは異なると考えます。

中国では直接日本軍によって殺害された人以外に、それが遠因となって死亡した人も被害者と認定するケースが見られます。

一事例として、三灶島事件とよばれる事件があります。

NHKの「日本海軍400時間の証言」で取り上げられたのをご存知の方もいらっしゃるかと思います。

大井元大佐の「三灶島事件というのがありましてね、私はそのあとでいったんですけど、臭くて、死臭が……。あの三灶島に海軍の飛行場をつくったんです。飛行場をつくるのに住民がいるもんだから、全部殺しちゃったんですよ。何百人か殺した」という録音テープは少なからず反響を呼びました。

1938年2月、ここに海軍陸戦隊が上陸し、中国本土爆撃用の秘密飛行場の建設しました。

その過程で島民は2891人殺害され、マカオに避難し餓死した人3500人、さらに空港建設などで死亡した3000人としています。


私は、日本軍に直接殺害された700名を除いた800名の死者は、二次的、三次的な要因で死亡した人がではないかと考えます。

中国側の概要では、赤ん坊が大きな声をあげないよう、母親が口に雪を詰めたり乳房を押し付けたため数人亡くなった、という事故死にちかい事例も報告しています。

報告者(中国側)は直接的な被害者と間接的な被害者を、同列に見ていると思わせる記述が見られます。

他に考えられる要因は何か?

①凍死者の存在

事件のあった昭和13年の3月の天気は、日中双方の資料とも大雪であったと伝えています。

立春を超えているとはいえ、寒冷な気候であったことはまちがいありません。

同じ時期上海でも、冬から春にかけて毎日数百人の凍死者がでたという話が伝わっています。

Aさんの手記にもみられますが、事件当時島民の多くは、雪の降り積もる山間部に避難していました。

しかし、彼らの家は日本軍にすべて焼かれていたため、事件以前の生活を続けるのは、ほぼ不可能になってしまった人も多かったと思われます。

また、ひどいケースでは食肉を焼くため、家に火を附けた兵士もいたそうです。

よって上記の理由が遠因となって凍死した人もいたと考えられます。

②餓死者

これも、Aさんの手記からの引用ですが、島民が食糧を日本軍に献上しにきたとあります。

Aさんは日本軍による島民の恐怖心がこうした行動を起こさせたと考えているようですが、これ以外に日本兵が島民の食糧を取り上げるということもあったようです。

さらに多く船も焼かれたため、島民の食を支えた漁業もほぼ壊滅的な影響を受けました。

それが遠因で餓死した人も出たと考えられます。

③疫病の流行による病死者

背景は異なりますが、1945年に豊橋市が空襲された後、衛生管理の不備が原因か、疫病が流行し、戦後数百人が病死しました。

馬山でも事件後二十数日ほどたっても、なお死体が現場に残されたままであったと伝えられているので、衛生面は劣悪な環境にあったと考えられます。

よって衛生状態がきわめて悪かった馬山では病死者も発生した可能性は高いと思われます。

以上から、私は虐殺された人の他に、日本軍の襲撃が遠因となって餓死・凍死・病死・事故死した人なども含めた数字が、残りの800人に相当するのでは、と推測しています。

いずれ機会があれば現地で細かく調べてみたいと思っています。   


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2017年04月29日 22:47

手記の内容は信用できるか?

カテゴリ:調査カテゴリ:考察
Aさんの手記は衝撃的な内容でしたが、果たして信用ができるのでしょうか?

はじめに基本的なところから検討し整理しようと思います。

Aさんは馬蹟山島を「馬蹄島」と表記しています。

なぜ「馬蹄」になったか。

考えられる理由として、この手記は入院中に書いていたメモをもとに作成したが、本人も冒頭で語っているように、地名の誤記をしている可能性があります。

よってこの違いは、単純な誤記であると判断されます。

次に中国側の事件概要と比較します。

掃蕩は両方とも、昭和13年3月12日から翌日にかけて行われたという点で一致しています。

では相当の内容に関してはどうでしょうか?

手記によると島の北東付近から上陸し、家は皆一軒残さず焼払う、大人の男子は皆殺しという恐怖の命令が下ります。

上陸した日本軍は命令通りの行動をとりました。

一方、中国側の資料では、日本軍は島の東側から上陸し、東側の集落2か所の家屋を焼却し、檀渓村では男性が多く殺されたため、女性だけの村になったとあります。

住居を焼き尽くす、男性を集中的に殺害されたという点で両者とも一致しています。

上陸ポイントは東北か東か、若干の違いはありますが、東の方から上陸したという点でも一致しています。

断定するには資料は乏しいですが、Aさんの経験した「山の上に五十人近い人を並べて置いて、機関銃で射殺した」件と、檀渓村付近にある冠嶂峰の北斜面でおきた70名虐殺事件は、話が類似しており、両者は同じ事件である可能性があります。

Aさんは、殺されたのは男性だけでなく子供や女性もだったとも認めており、これも中国側と一致します。

掃蕩中島民は島の山に身を隠していたと手記にありますが、これと同じ内容は中国側の資料にも記載されています。

よって、Aさんの手記の「馬蹄山島の掃蕩」作戦における虐殺事件と馬山虐殺事件は、同一の事件であると認めることができそうです。

ただどうしても大きく異なる点があります。

日本の資料で記載されている「遺棄死体数」と中国側の資料とでは倍以上の差があります。

なぜこのような違いがでてしまったのか?   


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2017年04月29日 22:45

日本兵の経験した虐殺事件とは?

カテゴリ:調査
手記の著者であるAさんの軍歴は以下の通りです。

昭和9年 歩兵第十八連隊入隊 満州へ派遣

昭和12年 日中戦争勃発のため応召

昭和19年 大東亜戦争のため応召

手記によると、昭和15年2月陸軍病院を退院し召集解除に至る間に、暇にまかせて記憶をたどり、断片的ながら書き綴ったものを、退院時に家に持ち帰り、しばらく物置の下積みになっていたものを、整理してこの本をまとめたとのことです。

事件当時は予備役兵で、歩兵第十八連隊第三大隊第三機関銃中隊に配属されました。

昭和13年Aさんの所属する第三大隊は江蘇省無錫の北にある江陰という都市を警備していました。

同年3月以降の第三大隊の動向を時系列で示すと次のようになります。

3月始め 太湖西方の討伐の命令が部隊に下達される

3月10日 江陰を出発

3月11日 無錫梅園に到着 Aさんの所属する第三機関銃中隊第一小隊は第十中隊に配属される

3月12日
午前4時半 整列

午前6時頃 海軍の砲艇が到着(7~8隻) 第十中隊とともに船にのる

午前8時頃 砲艇は6船つなげて太湖内を走る。こうした船団を5~6みかける

午前11時頃
馬蹄山島の近くを走り、東北からこの島に近づく

突然、バンバンと敵軍が撃ってきたため、船と島の間1500mくらいの地点で止まる。

大隊全部が敵前上陸を命令される。

第十中隊とともに敵軍のいる山に登り30分ほど交戦し、退却させる。

全島討伐する大隊命令が下る
家は皆一軒残さず焼払う
大人の男子は皆殺し

3月13日 午後3時頃掃蕩終了

3月14日 しばらく滞在しもう一つの島を掃蕩するため午後6時頃出発する


Aさんはこの掃蕩作戦によって被った島内の様子を次のように記述しています。


島の家の大部分は焼けてしまった。(中略)火を附けられて、天井裏に居た婦人が焼死体で落ちてきたのも見た。

父にすがっている子供が、父の殺されるその様子をじっと見守っているのを見た。

子供は涙一つ流さず、唯ぶるぶる震えているのみである。

子供を負い、もう一人抱えた婦人が弾にあたって、草の中に葬られている。

二人の子供は唯大泣きに泣いている。

大人はみんな殺された。

子供も殺された。

大部分は悲しい運命に、こんな惨状が目の当たりにみられる。


そしてAさんは自分自身で行ったことも記述しています。


私もあえてした。

私も婦人を殺した。

私は拳銃でやった。

誰も良い気持ちではない。

私は手を合わせたい気持ちで一パイだった。

(中略)

山の上に五十人近い人を並べて置いて、機関銃で射殺した。

決して気持ちよくない。

唯祈る気持ちだ。

悲しむべきは島民であった。


Aさんはこの節を次のように結んで終えています。


私はこの討伐に於いて真に悲しむべき何者かを知った。

そして覚悟をした。

私は内地の人々が国民の皆がこうしたことを真に思ってくれての戦争への認識や自覚がほしいと願った。

許せ罪なき生命よとつぶやいた。

私は三月十二日、十三日の討伐にて戦争のすべてを知った。

そして人間の生命、そして生きることの真の意味と貴さを考えさせられた。

戦争はいけないことだ。

決してやってはならない。

私は戦死してもこのことだけは何とか国民に知ってもらいたい、と願った。   


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2017年04月29日 22:42

ついに発見!虐殺事件に参加した元兵士の手記

カテゴリ:調査
調査を始めて7年目に入った2013年。

正直にいうと事件の証拠を見つけようという思いはほとんどなくなっていました。

いくら調べても見つからないということがずっと続いていたし、できること、やれること、全て調べ尽くした感がありました。

豊橋のMさんや他にも協力していただいた人には申し訳ないのですが、もう希望を失っていました。

もうやめよう。

しかしやめると決めてから数日も経たないうちに、あれもやっていない、これもやっていないと、やっていないことが、仕事中にいくつも頭に思い浮かんで困りました。

その一つに静岡県内の図書館めぐりがあります。

歩兵第十八連隊の徴兵区は三河と静岡西部の遠江であることは知っていました。

やってこなかった理由として、
1.3年ほど前静岡県立図書館に訪れており、それで静岡県の資料はすべて見たつもりでいた。
2.愛知県から離れているし、地方の図書館は優れた資料はないだろうと考えていた

結局自分の憶測から行く必要はないだろうと決めつけていたのが原因でした。

事件の資料は見つからなくても、この7年間で日本陸軍に関する興味深い資料はいくつか見つけてました。

日本軍の毒ガス使用を認める手記
南京事件を目撃した兵士の手記
平頂山事件の現場にいた兵士の手記

など本来の目的とは異なりますが、こうした発見もあったため長く続けてこれたとも思えます。

なにかしら面白い資料の発見はあるだろうし、いって損もないだろう。

調査中止をたったの2週間でやめ、静岡県大井川西方の図書館(主に市(町)立図書館)全ていってみることにしました。

やっぱり無いと思うところに面白いものは隠れていました。

元兵士の手記、静岡に拠点を置いた歩兵第三十四連隊関係の部隊誌、地元出身者の名簿など、今まで見たことのない資料を多くみつけました。

最後に行ったとある図書館で図書館司書?の人に、

「郷土資料で陸軍とか元兵士の本はありますかね」

と尋ねると、

「それならこの人の本が一番いいですよ」

と一冊の本を紹介されました。

著者は元歩兵十八連隊の元兵士だった人で、戦後教育委員会の教育長として子供たちの教育に人生をかけた方でした。

目次をみると「太湖西方地区の掃蕩」という章があり、そこに「馬蹄島討伐」なる節が。

直感的にもしや…、と思いました。

太湖の馬といったら馬山しかない、それ以外絶対ありえない…。

前半部分を飛ばして、その部分から読むと、この人物が昭和13年3月12日、船で太湖を移動して、「馬蹄山島」に上陸したこと、島内にいた中国軍と交戦したこと、そして島民を機関銃で殺害したことなどが書かれていました…

まったく予期せぬ発見をしました。

でもやっとみつかったからやったぁとか、うれしいとかそういう感情はありませんでした。

逆に気分がむなしくなりました。

実は、今まで見つからない理由に、事件自体が虚構ではないか?と何度も思いました。

7年間資料の捜索とともに、元兵士の自宅を多く尋ねてきました。

遺族から、生前の様子を多く聞くと、人を殺せるような人ではないとの話をいくつも聞きました。

事件自体虚構であってほしい…と考えたこともありました。

でも中国側の事件概要と一致する点がいくつもあり、「事件」は事実であったと考えざるを得ない…

しばらく仕事にも身が入らない日が続きました。

でもこのまま手を止めると、今まで協力していただいた方々の誠実さに反すると思い、事実を直視しようと決めました。

次回は日本兵が見た事件概要を報告します。   


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2017年04月29日 22:39

戦前の資料に手掛かりはないか?

カテゴリ:調査
戦前、「偕行社記事」とよばれる機関誌が刊行されてました。


ウィキペディアなどで「偕行社」と調べると

1877年、戦前に帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された。

戦後は旧陸軍の元将校・将校生徒(陸軍将校養成過程にあった者、すなわち士官候補生(主に士官学校本科・航空士官学校生徒)・予科士官学校生徒・各幼年学校生徒など)・軍属高等官(将校待遇の陸軍軍属たる文官)および、陸上自衛隊の元幹部自衛官といったOB・OGの親睦・互助・学術研究組織として、会名をそのままに「偕行社」として運用され、現在に至る。

とあります。

「偕行社記事」は偕行社の機関誌であり「学術(世界戦史/軍事史・戦術・戦略・兵器等)研究や論文発表とそれらを掲載した」とあります。




執筆者は殆ど軍人さんが担当してます。

支那事変が始まると、戦果を報告する記事も掲載されるようになりました。

馬山虐殺事件があったのは昭和13年3月。

同時期に刊行された偕行社記事に事件と関連のある記事はないかと思い、2012年頃ネットショップで購入しました。

早速読んでみたところ、ありました。

でも記事は3月12日に石井部隊、つまり歩兵第十八連隊が馬山に上陸し戦闘を行ったという内容で、既に入手済みの新聞とあまり変わりませんでした。

他にもないか古本サイトを凝視していると、支那事変実記という本の存在を知りました。





読売新聞が出版元です。

同社は支那事変勃発以降毎月刊行していたようです。

内容も月単位の戦果を記載しています。

これの「昭和13年3月」を購入し、3月12日の箇所を読んでみたところ、今まで知らなかった新しい情報がいくつかありました。

1.事件当時、李春茂なる人物率いる中国軍が島内にいた
2.彼らと戦闘を行い敵遺棄死体700餘という戦果を得た
3.敵軍の機密文書を入手したとした

とする内容でした。

中国側で公表されている事件概要によると、国民党軍の首領の名は「田文竜」という人物です。

なぜ違うのか理由は判りませんが、歩兵第十八連隊と彼らとの間で戦闘があったことは確かのようです。

そしてその戦闘で負傷したのが以前取り上げた安城市出身の人。

では日本側資料にある敵遺棄死体700人の数はどう考えたらよいか?

中国側によると島内にいて戦死した中国軍兵士は100名ほど。

残りの600名はいったいどのような階級の人たちか?と考えたとき、中国側の情報を信じるとすれば民間人だった可能性が高いと考えるのが自然…

やはり無差別虐殺に近いことが行われていたのではないか?

でも、肝心の日本側の資料が見つからない…

事件を知ってもうすぐ7年目。

いろいろ試みても結局は事件の証拠を見つけられないという繰り返し。

全然報われないことが続いていたため、精神的にくたびれていました。

ちょうどその頃務めていた会社も少し大変な状況だったので、止めることには抵抗があったのですが、2ヶ月ほど調査の中止を決めました。   


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2017年04月29日 22:37

海軍も事件に関係?

カテゴリ:調査
海軍が事件の引き金となる、広徳周辺の掃蕩に何らかの形で協力していたのは「第三師団戦史」や当時の新聞などで、何となく知っていました。

でも海軍が協力したというたった1行程度の記述で終わっていたため、詳細は全くわかりませんでした。

頼りにしている図書館にていくら調べても全くわかりませんでした。

そこで当時の大手新聞である朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、地方紙である名古屋新聞、新愛知などを徹底的に見ていたところ、島へ移動するために船舶を貸していたようなことが記載されていました。

海軍の協力はせいぜいこれくらいか?

とおもっていたら、どうも攻撃面でも協力していたらしい可能性のある資料を発見しました。

それが↓コチラ

支那事変に於ける帝国海軍の行動/鵬和出版


昭和13年3月の攻撃概要を見たところ、12日陸軍とともに馬蹟山島を航空部隊が攻撃したとあります。

航空部隊はいったい何をしたのか?

詳細はわかりませんが、読売新聞市内版にはそれをうかがわす重要な記述がありました。

それによると、3月12日の襲撃には陸からの攻撃だけではなく、戦闘機による空からの攻撃も実施していたとありました。

たしか中国で公表されている事件概要にも、檀渓村が戦闘機によって襲撃されたと記されていました。

航空部隊は陸軍にもありますが、いまのところこの近辺を飛来していたという資料はみつけておりません。

したがって、檀渓村の空襲は海軍の航空部隊が実施した可能性が高いと考えています。

ところで上陸するための船舶を準備してくれた海軍の部隊はどこなのか?

正直海軍の知識はほとんどないため、まったくわからないのですが、馬山虐殺事件の前後の時期に、上海海軍特別陸戦隊が江蘇省付近を警備していたようなので、彼らと関わりのある海軍系の部隊が協力したのかもしれないと考えています。

今のところ憶測でしかないのですが、「支那事変に於ける帝国海軍の行動」によると、太湖では次のような戦闘が起きたと記録されています。

馬山虐殺事件の3日後に当たる3月15日太湖に不審船数隻を発見し、海軍の部隊が撃沈したとの記録を「支那事変に於ける帝国海軍の行動」にて発見しました。

この部隊の詳細は書かれていませんが、戦時中読売新聞にて発刊された「支那事変実記」という本に「加藤少佐」なる人物の率いる部隊が交戦した、とありました。

この当時、中国戦線において、加藤という姓の海軍軍人には心当たりがありました。

加藤栄吉氏 1897-1946

終戦直後は海軍大佐だったひとです。

戦後住民虐殺命令を行ったとの罪状で処刑されました。

死後数十年を経て、遺族と海軍関係者によって加藤大佐の人物伝が上梓されました。

この本によると、加藤氏は事件のあった昭和13年3月、上海海軍特別陸戦隊にて勤務されていることがわかりました。

具体的な戦果などは不明ですが、「加藤少佐」とは軍歴等と比較して加藤栄吉氏の可能性が高いと思われます。

私は、いまのところ海軍で馬山攻撃に関わったのは、上海特別陸戦隊と航空部隊ではないかと考えています。

まだまだ補強する必要があるかと思いますが、いずれ時間のある時に再度防衛研究所にて調査してみたいと思っています。   


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2017年04月29日 22:36

国会図書館と靖国神社には?

カテゴリ:調査
防衛研究所に行っても想ったような資料や手掛かりを発見できず、途方に暮れていた時、地下鉄丸の内線に国会議事堂前駅を発見しました。

確か近くに国会図書館とかいう収蔵量日本一の図書館があったはず…

ここに歩兵第十八連隊や第三師団の資料が収蔵されていないか?と思い、行ってみることにしました。

確か学生時代に一、二回いったような記憶はありますが、中がどうだったか全然覚えておりません。

複写料金が一枚20円近くとられて、むかむかして帰ったことは覚えています。





入館して検索PCに「歩兵第十八連隊」と入力してみました。

すると、愛知県内では見たことのない資料を発見しました。

執筆者は東京出身者で同聯隊元幹部の方々による従軍経験・勤務経験などを記した回想記みたいなものでした。

馬山に関わる記述はゼロでした。

やっぱりか…と思って肩を落として帰る途中、靖国神社の敷地内に、旧陸海軍の偕行文庫という貴重な文書を保管している図書館があることを思い出しました。




翌日行ってみたのですが、いくら探してもありせんでした…。

この1週間の東京遠征で得られた成果は、せいぜい歩兵第十八連隊が馬山に上陸していたという確実な資料を発見したくらいで、それ以上の発見は皆無でした。

やっぱり南京事件とはスケールが違うから、見つけるのが難しいのか?

何度も何度も同じような結果が続いていたため、次第に調査自体あきらめた方が良いのではないか、という気持ちになり始めてました。   


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